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左瞼に唇を落とした

仄かに色づく薄膜と


ハラリハラリと舞う桜の花弁




その剰りに柔らかな感触に黒鋼は思わず唇を離した
するとその薄膜を持ち上げて再び現れる不可思議な配色の瞳に吸い込まれる


深い深い色が二つ
淡く拙い慕情を込めて忍者の紅を見つめてくる



七色の水面にその色を潤ませながら





「・・気持ちいいよ。産まれたての此所が一番君を感じられる」



そう言ってフンワリ微笑む彼の柔らかさを
その生ある身に刻むために

今ひと度
薄い皮膜に唇を寄せた




壊してしまわぬように
離してしまわぬように



その姿は黎明を思わせ、今にも空に溶けてしまいそうな彼を
この世の漆喰を打ち込み手元に留めるために

また一つ

黒鋼は彼の左瞼へ口づける


その応えにと、綺麗に綺麗に彼は微笑んだ



そこは永い長い苦しみと悲しみに満ちた生を歩んできた彼にとって

今唯一、黒鋼の存在だけで染め上げることの出来る――
そんな 初い場所だ

産まれたばかりの蒼はあまりにも柔らかい光を放っていて

本当に侵してしまっても良いものかと幽かに黒鋼を躊躇させた


今や頬を紅潮させ瞳を潤ませた彼は
それ以上触れてこない黒い人へとその白き衣をはためかせて

すっと
失っていた 左腕に手のひらを寄せる

辿々しくも形を指でなぞり再び戻ってきたその存在の感触に
思わず目蓋を閉じ
泪という透明な蜜を潤ませた




そんな彼の雫を拭おうと
忍者は右手の指を目元に添える

いつもよりも思いの外に優しいその仕草にファイは視線を上げて紅に絡ませながら
彼の左手に己の薄い唇をそっと這わせた。


彼が忍者に抱かれ思い出すのはセレスの国に在る頃の自分。ファイを髪と共に水底に沈めてからまだ羽根も降って来なかったころ。


――『連れて行って』

雪の国にいたあの頃、叶ったはずの望みが虚しく心をうちつけていた。















薄く寝台を照らす月が浸食し、
外にはほのめく雪が光を乱す

沈黙という名も無き協奏曲が無限に広がっている


蒼白き光の下に晒されるのは、異世界の魔術の国の小さな皇子だ



暖炉の灯火は燻り落ちてもう久しい。

凍てつく程に重い空気の中、身を掛け物にくるむこともなく、
小さなその背を丸めている。



その塔から連れ帰られた金髪の異国の皇子は
身体の奥底から浅瀬にまで這いあがってきた餓えに
目を覚ましていた。


感覚など既に麻痺していた。


つきの露が滴に変わるまでのその間
刻が脈打ちその飢餓が過ぎ去るのを
ただ息を潜ませ待っていた。


しかし待てども瞼の奥に闇は訪れない。


替えたばかりの新品の敷物は堅く、幾度となく白い彼の頬を擦る。

そうして幾つもの時を刻むが
それでも呼吸を繰り返すだけのこの世界から翔びたてない。

そんな自分に見切りをつけ、とうとうまとわりつく大気を巻き込み地に足を着けた。



そろりと滑らせた冷たい異世界の光沢は交わることなく白い身を浮かべ
小さく着いた足裏を迎える冷たさにも彼は無関心にその歩を進めた。



あてはない


ただその行き先を探るように、息の吐くことを許される場を捜し求めるように
ひとつひとつの波紋の木魂す孕みのある荘重な空間を闊歩する。


生ある流麗なその異世界の大気に
その城を構える規律正しい美に
慣れること敵わず戸惑いだけが膨張していく。





彼はもう長い間、魂の残骸に囲まれ彼らを引き千切っては雑然と積み上げて生きてきた。


塔の上の手の届かぬ命、唯ひとつを目指して――



その命ももう、ここにいる今となってはとっくに失ってしまっていた。
これから何を見て、何に夢を視、何に向かって進んでいけば生きていけるというのだろう。

失われたものを追うには、自らを失わせるしか他に道はないというのに。




薄汚い倉庫部屋をようやく見つけ、その樽の上に小さく膝を抱えて居場所を繕う。
一層乾いて冷やかな空気が彼の身を迎え入れた。