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柔らかなひかりが黒鋼のまぶたに落ちる。
『癒しのまほう』
あったけえ。
深く暗いところから漸く意識を浮上させる。底の見えない暗闇から、浅く微睡んだ世界へと身体が浮くようだ。
そこで黒鋼はふと気が付いた。
何だろう、何か温かななにかが左手にふれている。
誰かに握られている、そんな感触。
少し低い体温が心地いい。
ひ・・だり・・手?
黒鋼ははっとした。
あり得ないはずの確かな触覚に、黒鋼は微睡んだ場所から意識を急浮上させた。
紅い目を漸く開いたその先には。
「おはよう、黒様」
向けられた凛とした声に視線を預けた。太陽のひかりを背に受けてきらきらと零れてくる陽射し。嬉しそうにさらりと金が揺れる。
眩しさに、まだ半分くらいしか目が開けられないのが焦れったい。
それでも負けん気の強い黒鋼は目だけはしっかりと開いた。
ようやくひかりに慣れてきたその目に映ったのは、もっともっと眩しいもの。
愛しい彼の笑顔。
だけど、いつかの彼が黒鋼に向けたあの言葉を再び聞いた。
『おはよう、黒鋼』
あの時は全ては永遠に元には戻らない、喪失の始まりの合図だと思ってた。
なのに、幸せの始まりのような優しい響き。これは夢なのだろうか。・・・ああやっぱり夢だ。彼に、左目がある。
遠い異世界での闘いは終わった。
二人、手を取り合う少年と少女は互いを見つめあって。そんな彼らを見送る金髪の彼は、自分の隣でそれはいとおしそうに微笑んでいた。
そして微笑む彼のその片目には、魔力の蒼が戻っていた。
吸血鬼ではない彼はもう、黒鋼の側にいる必要はない。
いまや強大な魔力を取り戻した彼は、最後にと黒鋼を日本国へと送ってきた。
しかし黒鋼が覚えているのはここまで。
日本国に到着した途端、黒鋼の体力はついに限界を迎えた。
彼は合わない義手の痛みに精神力で耐え、脇腹の傷の上からは戦いのさなかに再び傷を負っていた。
彼だからこそ、今の今まで何とか意識を保って堪えていられたのだろう。
ファイは目の前で倒れた愛しい人の顔をそぉっとひと撫でしてそして両腕で静かに頭を包むように抱いた。
去れないな、とポツリ一言、切なそうに微笑んだ。
*
そうしてファイの看病の日々は続いた。
痛みを与えるだけならばともう必要のない義手を外し、身を清め、床に寄り添った。
しかし黒鋼は目覚めない。
身体の傷が黒鋼の生命を蝕んでいることは間違いなかった。
この傷を癒したい。
何に変えてでも。どんな対価を払っても。
けれどただ、命を差し出すことだけはできれば遠慮したいな、と遠慮がちに思った自分が可笑しかった。
どうしてだろうか。
心配で堪らないのに、彼はきっと目覚めると信じている自分がいる。
目覚めを待つのは、二度目。
そして待つこの強さは彼に教えられたもの。
だって、ただ静かに目蓋を落としている彼を目の前にしてこんなにも穏やかにいられる。
倒れた彼の頭を胸に抱いた時からファイのこころは決まっていた。
命が尽きるまで、この人を想いたい。
これからは彼を想うために生きよう。
それが何の意味もなさない不毛なことだとしても。
たとえ遠くの世界で生きなければならない運命が待ち受けていようとも。
何にも変えられない、今のファイの望みだった。
**
そうして目を覚ました黒鋼が見たのは。
両目の揃った彼。
無くなったはずの自分の利き腕。
目を覚ました自分を見守る彼の表情はこれでもかというくらいに優しく穏やかで。つきものが落ちたみたいに柔らかだった。
そんな彼の眼には優しい蒼が灯っていて。幻みてえな色だ、と思った。
沈黙する黒鋼にファイは柔らかく問いかける。
「気分は?」
翳りのない蒼い両の瞳の視線を受けて、改めて黒鋼は自分の左腕に視線を落とす。
「・・・」
黒鋼の目に映るのは、ファイが払った対価によって癒された自分の身体だ。
黒鋼はファイの過去にはこだわらない。
けれどファイ自身はこだわらずにはいられなかったということなのだろう。
今まで誰の身体も癒すことのできなかったファイ。
きっとそんな自分の過去を終わりにしたかった。
だが、と無意識に黒鋼の利き手にぐっと力が籠る。
本当によかったのか。
これで。
考えている黒鋼の左手に、ほわりとファイが手を重ねた。
もしも癒しの魔法というものがあるのならば。
黒鋼にとって、それは間違いなく、このぬくもりだ。
重ねてきた手の心地よい感触に、黒鋼は彼の気持ちだけを思うことにした。
今のファイにとっての一番の薬があるとするならば。
彼のこの心遣いを甘んじて受け入れることだろうか。
そうすればまだ癒えることのない彼のこころの深い傷に、少しでも、効くんじゃないだろうか。
そしてそれは今の黒鋼にとって、精一杯の優しさだった。
まだ長い眠りから覚めたばかりでぼんやりと考える黒鋼の頬に、ファイがすっと白い指先を差しのべる。
そしてゆっくりと黒鋼に身を近づける。
突然与えられたひやりとした口づけに黒鋼は目を見開いた。
近すぎる金の睫毛は微塵も動かない。
甘い香りと柔らかい唇に、寝惚けていた意識が一瞬にして覚めた。
長いようで短いそれは、誘うように掠めるだけのキス。
離れていく唇に反応して、黒鋼は左手でファイの手をしっかり掴んで引き寄せた。
白い身体を胸に優しく抱き留める。
懐から見上げてくる両のひかりに吸い寄せられる。
久しぶりに交わる紅と蒼は、互いを求めて近づいた。
再びふれ合う唇と唇。
今はただ、互いの存在の重みを伝え合うように。囁き合うように。
彼は黒鋼の目の前に腕の中に、ちゃんと生きてくれている。
それがわかっているから黒鋼は唇を重ねながら、仕方ないから一度くらい流されてやるかと更に深く口づけた。
暫くしてからようやく唇が放れた後、再びふたりは視線を絡め合う。
仄かに淡い不思議な色を瞳に浮かべて、白い天使はもう一度柔らかく問いかける。
日だまりみたいな微笑みを浮かべながら黒鋼の耳元で囁いた。
「ねえ、気分は?」
「――ああ、悪くねえ」