日本国永住 | ナノ

 

しゃりしゃり

「くろ、たん…」

…しゃり

「………」

しゃりしゃり

「おこっ・・てるー?」



「………………」

「………………」



しゃりしゃり



暫しの沈黙の後、黒鋼は再び無言で手を動かし始めた。

やがて剥き終わると陶器の器に載せて、丁度八等分に切りそろえられた林檎の突き出した。

黒鋼の表情を窺いながら、ファイはそぉっと、食べやすく整えられた林檎に手を伸ばす。



しゃくり


「……美味しい」


一口食べ、首まで包帯でぐるぐる巻きにされたファイは、ふんわり笑う。

そしてちらりともう一度、黒鋼の顔を見る。

けれどやっぱり黒鋼はむっすりとして、無言のままだった。



明らかに遥かに普段より深い眉間のシワを察知して、ファイは思わず笑顔を貼りつける。


「黒様ってば、すまいるすまいる〜」


「………てめえはいつもそうだな」


「うん?」


ようやくぼそりと呟いた黒鋼に、ファイは笑顔のまま小首を傾げる。


「お前なら、他に方法はあっただろう」


「あの時には、仕方なかったんだよー」


くんにゃりと、ファイは笑った。
あの時、自分が前に立ちはだかって庇っていなければ、間違いなく邑(ムラ)の子供たちは間違いなく大怪我をしていただろう。下手をすれば命だって落としていたかもしれない。

薬草の採取に来ていたファイが通りかかった時、山菜を拾いに山へ繰り出していた子供たちが、一匹の雌猪によって崖まであと一歩のところまで追い詰められていた。興奮した猪は彼らに向かって突進していった。ファイは辛うじて猪よりもいち早く彼らに手が届いた。

そして、三人の子供たちを抱えて崖下へと飛びこんだ。


自らの身を下敷きにして。

落下後、意識を辛うじて繋ぎ止めていたファイは、子供たちに黒鋼を呼びに行かせた。

子供たちの案内により辿り着いた時にはもう、彼の意識はなかった。

ただ息を呑む忍者の瞳には、力なく地に伏す姿。



しかし微かに降り注ぐ陽のひかりは柔らかく彼の面に彩りを添え白き身は深き緑と一体を成し、ほの暗い谷の地にあっても柔らかな陽射しに居場所を示されていた。




「長い間、あいって言葉について考えてたんだ」


ぽつり、とファイは言葉を口にする。


「…………」


無言で黒鋼はファイの言葉の次を待った。それがたとえばいくら突飛な発言だとしても。


「この国に着いてから、キミと、この国に暮らすようになってから、ずっとね」


ほぅわりとファイは笑った。

少なくともファイには日本国のあいは分からなかった。あいするが故に大切な兄弟を眠らせてあげられなかった自分を、ずっと責めていたから。

ファイにとってあいは難しいものだった。とても。


「そのことばは子供も知ってるものだから…だから聞いてみたんだ、そしたらね。黒鋼さまが薄着をしてる薬師さまを叱ること。それなんでしょうって」


よく意味が、分からなかったんだけどねー、と。

そういってファイは笑った。




けれどね、―…

けれど。



「黒りん……あの猪の後ろの木陰にはね、ウリ坊がいたんだよ」



ウリ坊というのは仔猪の愛称である。猪は四から五匹の子を持ち育てる。

殊に猪は食用として人間に眼を付けられやすいため、警戒心が強い動物だ。

だから子育て中の猪が我が子を護らんと、害意がないとはいえ縄張り内に入ってきた人間の匂いに攻撃を加えたのだ。
それが責められるべきことだろうか。



「どちらもね、傷つけたくなかったんだよ―」


瞳に柔い色を宿して蒼を瞬かせる。

子供たちを傷付けさせるわけにはいかなかったし、けれど逆に猪を傷つけて、あの仔供たちにも心細い思いはさせたくなかった。


小さな命を、寂しさに身を震わせる想いになど、曝したくはなかった。




そうたんたんと俯いて胸の内に在る言葉をつむぎ、そして最後は黒鋼の目をしっかりと真正面から見つめてはっきりと言う。

――後悔は、してないよー。




しかし本当に。
どうしてこんなにも自分を無下に扱いやがるのかと、黒鋼は紅い瞳に怒りを込める。

自分を心配するものの気持ちを考えやがれと斬りつけるような、それでいて慈しむかのような視線で黙ったままファイを見つめる。

けれどそんな風に黒鋼に見られてもなお、ファイは視線を逸らすことなく向かい合った。

かわらず微笑を浮かべ、意志の籠った瞳はあの時の彼そのままだ。旅の途中でもう自らの命を引き換えないといったあの時と同じ色。


でも。

自分の味わったような苦しみを欠片でも、誰かが味わうことはもう嫌だから。
もうそんな想いは十分だから。

もう、誰にも。



ねえ、黒様。


ほんとは、わかってくれているんでしょう?


傍に居てくれるのが君だから、オレはこうして生きていける。


オレはキミにオレの骸なんて曝したりなんかしない。
簡単に死んだりなんかしない。
これはオレの誓いだから。


だからキミを恃んだんだ。
子供たちを呼びにやったんだ。



谷底に黒鋼が駆けつけ、全身を強く打ち力なくぐったりとする身を腕に抱えた時、ファイは自らの血で濡れながらそれでもその表情には確かに何かの意思があった。




¨―――信じてる¨



他の何に措いても、キミが死なせたりしないこと。

オレが死んだりしないこと。




静寂が黒鋼の耳腔に孕ませ弾けたコトバがそれだった。黒鋼は眼を閉じ、ひとつだけ、大きく深呼吸をした。

大怪我を負いながらも自分を信じきっていることは、彼の痛みの中にも安心を浮かべた表情を見れば一目瞭然だったから。



それでも、眼を覚ました彼には灸のひとつでも据えてやらねばなるまい。

どうすれば一番効果的か。


そんなことを考えながら彼の目覚めをただ待った。

怪我の手当てを受け包帯で巻かれた彼の手を握り締め、忍者が考え付くのは彼が意識を取り戻したときのことばかり。


金の髪がふわりと黒鋼の鼻先をくすぐる。もう少しで眼が覚めるから、だから待っていて、と。

自分を待つ人間のいることを悟り、穏やかな寝息をたてながら。そんなファイを見て黒鋼は思う。




ああ、全くこれだから

コイツを一人にはしておけないんだ

と。



緑の微風が積みあがり、両の瞳の紅い焔に別の色を添えて新たに巻き上げた。


けれどしばらくは口を利いてやらぬことにしよう。どうせ、コイツのあの凪いだ蒼い瞳には、敵わないのだから。


そんな子供じみた灸を延々と考えながら。








彼が目覚めるまで、きっとあともう少し。