日本国永住 | ナノ





陽光の差し込める畳の上で、忍者がなにやらカサコソと弄っている。



障子をそぉっと開け、そこからひょいと顔を覗かせたファイは忍者の脇から柄が伸びていないことからそれが銀の龍の名を持つ得物ではないことに気がつく。

さて何の手入れをしているのだろう。

いつも気配に鋭いはずの忍者がこちらにはつゆ気がついていないようす。

そんな彼に訝しく思い、にんまり笑ったファイは後ろから忍者に抱きつこうと向かっていく、と。


ビクリと背を震わせくるりと振り向いた忍者は、突然立ち上がる。そうして、ファイとは視線も合わさぬまま無言で屏風でかたかたと進路をさえぎった。

ファイの眼の前に現れたのは一匹の見事な虎の絵。
屏風にほどこされた虎の獰猛な瞳がファイを威嚇する。


「・・・・・」


しばしの間にらめっこをするがそれでも虎は一歩もひいてはくれない。それに屏風の向こうにいるはずの忍者も、いつもみたいに何かしら言葉の一つもかけてはくれない。

ぷぅっと頬を膨らませファイはいじけた。


「感じわるーい!」


唐突な忍者の態度に一言悪態をつくと、ファイは部屋を後にした。


そしてその日の晩、忍者のおかずは沢庵一切れであったという。


「・・・・」


冷や汗を垂らして沢庵と向かい合う忍者を尻目に無言でファイは沢庵と白米を口へと運ぶ。昼間の無礼を詫びるならば即席でできるおかずをそれなりに水場に用意して。

何か昼間の弁解のひとつでもあるだろうかと、ファイは視線をずらしつつも忍者の様子をさり気なく窺う。

けれど一言も話さずに忍者は箸を取ると手を合わせ、自分の口へと動かし始めた。


「・・・・」

「・・・・」


かくして、頑固なファイも黒鋼の頑ななな態度に席を立つこともできず。

日本国に来て以来、最高に気まずい夜が更けていった。
そして夜半過ぎには忍者の腹の虫が邸中に轟いたという。








清清しい五月の空気が鳥の謳歌を運んでくる。

蒼い空はどこまでも澄み渡り、コトリは春の風を楽しむかように互いの耳元でさえずりあう。

邸の縁側で近く賑やかな声に耳を傾けながら、ファイは晩春の薫風を邸の縁側で嗅ぎわける。

翌朝、任務に支障がでるといけないので昨日の夕食で出すべきだったおかずも添えて腹を満たした黒鋼を城へと送り出し、朝早く採ってきた薬草を敷物の上に並べ、いつもどおり薬草の本と比べ照合していた。

真剣に薬草と向かい合う彼の横では、はたはたと洗濯して干された白い布が皐月の精とじゃれあい、庭で舞い踊っている。

ぶわ、と一際大きな風が薬草として並べられた菖蒲の芳香を攫い、広い敷き布も高く空へと舞い上げた。

視界の端にかかった大きな影に、ファイは思わず顔を庭へと向ける。


ふわり



草の上に柔らかく舞い降りた敷物は不思議な容を象っていて。

そう、なにか生き物がその下で蠢いているかのような、まるでそんな風に。


引き込まれるようにはだしのままそっと、庭に足を踏み出す。

さり、と小さく刺さる草の感触がなんとかファイを夢ではないと、認識させた。

まるで夢のようだったから。

さて今日はどうした冗談の日であろうか。




そこに現れたのは。



もう逢えないかもしれないと思っていた 愛しい 彼らがいたから。





「お久しぶりです、ファイさん」

萌黄に淡い桃色の衣が浮かび、それがあの、愛しい少女の纏う衣だと認識するには幾ばくか唐突すぎたろう。しかし風に靡いた栗色の髪と翡翠の瞳を、ああどうして見まがえることがあろうか。

凛とした、あの時よりも幾分も逞しさを増した声が、少し低く響く。まず声の主に焦点を合わせれば、照れたように優しく微笑む少年だった彼の姿が。

あの時は見下ろすほど身長差であった彼と、今は殆んど目線を同じくして向き合う。
隣ではさくらという名のとおりの淡い優しい色の似合う彼女がふんわりと微笑んだ。


「お元気ですか、ファイさん」


春の木洩れ日のような笑顔がファイの心を溶かす。



ああ、変わらない。

変わらない、いつまでも。



「いらっしゃい」

ファイはゆっくり微笑んだ。


「黒様、こういうこと?」

悪戯な笑顔を貼り付けて、ファイは少し前から立っていたのだろう、庭に繋がる玄関に立つ邸の主を振り返る。
忍者にあるのはいつもの彼らしからぬ、優しさばかりが溢れた表情で。

陽光に射されて眩しく、瞳に淡い虹彩しか持たないファイにはその顔を長く見ていることが出来ず。

珍しく崩されない彼の笑みを少しでも長く見ていたい。そう思うのに、眩しさのせいだけでなく滲んでぼやけてしまった視界に、もったいないと感じる。


視線を戻して二人にそっと、手を伸ばす。
いまや大きく成長した二人に受け入れられる、魔術師だった彼の両の手。

ファイは、力いっぱい彼らを抱きしめた。


「もうひとり、足りないね」


困ったように眉を下げると、忍者の後ろから弾けるような声が聞こえてくる。

「ここにいるよ、ファイー♪」

ぴょーん、と飛び出た白い愛らしい生き物は三人の頭上に向かって弾みぴとりと張り付く。


「いらっしゃい、モコナ」


笑顔を浮かべた魔術師は、小さな仲間を迎え入れた。
優しくそれでも力いっぱいに、愛しい子供たちをその腕に抱きしめた。





「・・・ばか」

「嬉しそうなツラしてほざく台詞か」


幸せに顔をくしゃくしゃにして笑う魔術師に、忍者はにやりとしたまま憎まれ口を叩く。
そんな二人を見て、相変わらずだと砂漠の国から来た彼らはそっと微笑む。

ただ、穏やかなときばかりが過ぎてゆく。


「でも、オレ、怒ってるんだからねー」

「仕方ねえだろう、使い方わかんなかったんだよ」

「何のお話ですか?」

穏やかに問いを口にする小狼に、ファイは口を尖らせながら昨日の忍者の無礼を訴える。二人はじっと耳を傾けていた。子供じみた大人の言い分に、それでも優しい笑みを湛えながら。
白い生物に冷やかされながらも舌打ちしつつ、忍者が懐から取り出したのは日本国の器械だった。聞けば主に借りたという。


「光として姿を捕らえて紙に焼き付けるもんらしい」


聞いた時の説明そのままに忍者がたどたどしく説明した。


「あーそれモコナ知ってる!」

「うるせえ、白饅頭!」

嬉しそうに使い方を伝授しようと黒鋼の横顔に飛びつくモコナにぶん、と手が届かぬようにと器械を避ける。


「お前ら、そこで茶でもしばいてろ」


またしても唐突におかしなことをいう忍者に魔術師は首を傾げた。
ファイが縁側に茶を用意し、忍者が器械を設置する。そうしてあの日のように漫談の如くにぎやかでそれでいて温かな四人と一匹の午後は過ぎていった。




優しい時間を思い出せるきっかけが、手を伸ばせば届くところに残ればいい。

たとえずっとそばにはいられなくとも、ファイの傍らにはいつもかけがえのない記憶を。



包まれる優しさを彼に。








「黒ぽん、どうしてあんなに隠そうとしたの?」

再会はすぐに刻限を迎えて彼らが去ったあと、紅く色づいた斜光の中、並んで座っていた隣の忍にファイは尋ねてみた。

「うるせえな、使い方わかんなかったんだっつってんだろ」


「ううん、そのことじゃなくて。どうして、これ?」


そう柔らかく微笑むファイの袂には一枚の写真。
その中では彼らが柔らかく微笑む。愛しい時間の一部をそのまま切り取って、収めたような。
先程彼らが帰ってから片時も手から離そうとしない隣人を見て、黒鋼に今回の企ては成功であったと満足させる。



彼には。

延々繰り返された悲しい記憶よりも、それを払拭できるほどの優しい記憶が躯とともにあるべきだと感じたからだ。
いとおしそうに一枚の紙切れを見つめるファイの肩を片手で引き寄せ、金の頭の上で呟いた。


「大切だから、だろ」


「・・・うん」



忍者に肩を抱かれながら、魔術師だった彼は、大切に大切にそれを胸に抱きしめた。


「また、逢えるかな」

「さあな」



けれど、彼らの笑顔はいつもこの胸の中に。
いつまでも変わらず、彼らが幸せにあることを願って。


凪いだ風に静まる風景。抱きしめられる温かさと。

庭に鮮明に浮き立たされた暮春の色とともに、鮮やかな想い出の一日が蒼い瞳にしっかりと焼き付いたのだった。