「こゆびにいと?」
紅い目を大きく瞬かせて少年は聞き返した。すっと背筋をのばして母に続きを促す。
「そうよ。誰もが運命の糸をこゆびに繋いでいるの。大切なひととね」
黒鋼に語りかける記憶の母はいつだって、優しく微笑んでいた。
「母上にとっては父上か?」
「そうね、」
無垢な様子で尋ねる少年に、彼女はふぁりと優しく答える。
「それから」
「それから・・・あなた」
母はそっと膝を折り屈んで、黒鋼の小指に細く温かな小指を巻きつけた。照れた黒鋼の頬がうっすら染まる。
母はにこりと微笑んだ。
「それでも大きくなれば、きっとあなたも出逢うでしょう。たったひとりの大切なひとに」
真っ直ぐな紅い眼を愛しげに見つめて、優しく母は続ける。そうしてそっと耳打ちする。
「そのときにはね――…」
あの頃、守りたかった大切なひとは甘く淡い香の香りがした。
繋がれた小指が嬉しかった。
それがつい最近まで黒鋼が心の奥に閉じ込めていた遠い日の、優しい記憶――
「うわーん!黒わんがつれないよぅ〜」
ファイは先ほどから泣き真似を続けていた。
よっぽど構ってもらいたかったらしく、長い遠征から帰って来てひと休みしたばかりの黒鋼に、先ほどから散々ちょっかいを掛けていた。
その方法はやはりファイがファイであるためか、なかなか変わったアプローチだった。
例えば、今日はなかなか暑い日であるのに、「手編みだよぅ〜」と、ふわもこの首巻きで黒鋼をぐるぐる巻きにしてみる。かと思えば、いつもよりもさらに変なあだ名で黒鋼のことを連呼したりした。
そうして遂には、いそいそと照れた様子で何かを差し出してくる。
受け取ってみると、それは文だった。
何気なく黒鋼は中を開いてみる。
すると、黒鋼が読むには難解すぎる異国の言葉がみごとに和紙の上でおどっていた。
・・しかも長い。本ができそうだ。
黒鋼はそんな紙面を見ながらいつもどおりの調子で無感動に一言。
「口で言え、口で」
それを聞いてひくりと身を震わせたファイが、とたんに黒い空気を纏う。
「黒たんのバカ――!!」
こうしてファイのアッパーが炸裂し、今に至るのである。
ガードしたものの、的確に急所をとらえた一撃に顎をひりひりとさせて、黒鋼は不機嫌そうに膝で頬杖をつく。
相変わらずファイは部屋の反対側でちょこんと座りこんだまま拗ねている。
ああ、あの白く丸い仲間がいれば、ファイをうまく宥めてやるのだろうが。
殴られた黒鋼はムスっとしていたが、いつまでもグズグズしているファイにとうとう嘆息して言った。
「なにが気に食わねんだ」
だいぶ間の開いたあと、ファイがぽそりと答える。
「・・・手紙」
「あ?」
ファイは後ろを向いたまま続ける。
「黒たんがいない間に書いたんだ―・・素直な気持ち。いっぱい込めて。でもこの国の言葉じゃ書ききれなくて・・」
「・・・」
溢れる気持ちが止まらなかったのだと、ぽそぽそと答えるファイに、黒鋼は少し目を見開く。
確かにかなり長く家を空けていた。
その時間の長さを思い返す。
そうだ、その間ファイはひとりだったのだ。
いつもふたりで住んでいる家にひとり。ふたりで住み始めたこの家ではもう、ふたりで暮らすことが自然なことだったのに。
いくら城に行けばみんな居るといっても、やはりそれは少し違う。
妙に納得した黒鋼はファイに声をかける。
「こっち来い」
「やだよぅ。黒様来てよ」
「いいから来い」
頑な黒鋼にファイはウソ泣きを解いてくるりと振り返った。
「・・・」
しばらくそのまま反抗的な目線でじとりと紅を見るが、それでも黒く大きいその男には、まったく効果がない。
「もう〜」と、ようやく観念したファイが、ため息とともに腰をあげた。
そうしてゆっくりと歩いていき、紅を前に覗き込むようにしゃがみこむ。
「なにー?」
不機嫌を隠さずにファイが尋ねる。そんなことなんて全く意に介さない様子で、黒鋼が言う。
「小指出せ」
「え、こゆび?」
「…早くしろ」
ほわんとおおきな疑問符を頭の上に浮かべながら、ファイはおずおずと黒鋼に小指を差し出す。
すると黒鋼はそれに自分の小指をぴとりと巻きつけた。
「くろ・・さま?」
蒼い瞳を見開き、どうしたのとキョトンとするファイ。
繋いだ小指はそのままに、黒鋼は頬を少し染めてそっぽを向く。
しばらく呆けていたファイであるが、やがてそんな黒鋼の様子に可笑しくなってプッと笑う。
「もー黒ぷーったら、可愛いんだから〜♪」
「うるせえ」
訳もわからないまま、ファイは笑った。
笑ってしまったせいか、結局その意味は教えてもらえなかった。
けれど小指という身体の一番先から伝わるぬくもりに、確かに、感じた。
幸せだと。
ぶっきらぼうにあっちを見ていても、黒鋼はファイをちゃんと見ていることが伝わってきて。
そんな風に素直じゃない黒鋼を見たらようやくホッとして、笑顔でくしゃくしゃになった目じりに露が光る。
本当に、帰ってきたんだ。
黒鋼もまた、繋いだ指先にファイの体温を感じていて。
あの日、母が言ったことばが蘇る。
『もし大切なひとが見つかったら――』
その小指を繋いであげなさい
ぬくもりを伝えてあげなさい
教えてあげるの、その糸が切れてしまわないように
ちゃんと、繋がってること
今黒鋼が瞼を落とせば、綺麗に微笑む母。
そして衛るように寄り添う父。
旅を終えてようやくそんな二人の姿が、はっきりと目に浮かぶようになった。
たいせつな糸だから
今度はもう 離さない。
結局、あれから小指を繋いだ理由をファイには教えてくれなかった。
「なんの意味があったんだろー」
畳に仰向けに寝ころがってファイは考える。
温かな余韻の残る小指を天井にかざしてふふ、と思わず笑みがこぼれる。
その頃、黒鋼は剣の手入れをしながら、翌日からのことを考えてドキドキしていた。
知世、天照、蘇摩、・・・
このそうそうたる面子に、一体どうやったらファイに知れたら恥ずかし過ぎる曰くを、口どめできるだろう。
いやその前に彼女たちに冷やかされる様子が目に浮かぶ。
しかし意外なことに一日…二日…と過ぎても、誰も小指の糸について聞いてくるようすが一向にない。
いったい何故だ。
夜勤にあたっていた黒鋼が、その日もそのことを不思議に思いながらも朝方玄関を開けると――
ぴとり
帰った早々、黒鋼の小指に絡みつく白い小指があった。
見おろせば、あごの下の金髪が動いて純真な蒼い目が見上げてくる。
黒鋼が帰ってきたことを心から喜んで嬉しそうに目をきらめかせる様子は、パタパタ振るしっぽが生えているかのようだ。
可愛すぎる。
ぎゅうう…
彼はこの度、絶対なる寂しさの表現方法を見つけたらしかった。