4
23/43
発病の頃には、ユゥイが入獄してから一週間と少しが経過していた。潜伏期間から察するに、病状はおそらく深刻である線が濃厚だ。聞いてみれば此処から近くもないが例の監視の故郷の地でも最近数人の子供が同様の病を患っていると言う。
それから一日待たずして彼は再び熱に苦しみ始めた。そして更に一日間隔を開けず、非周期的な熱に魘される。避けようの無い発作が繰り返された。
疑いだったそれをいよいよ確信に変え、病態が示す事実に黒鋼は忌々しげに顔を顰める――――これは、悪性だ。早期に手を打たなければ命に関わる。只でさえ、彼の身体はこの土地の風土に馴れてはいない。そんな中で薬を投与したとしても、体力の回復を見込めるかどうかは賭けになる。
現に今の症状だけでも身体への負担は大きかった。一度発作が起これば数時間は苦しむことになる。けれど解熱時少しでも動けるならば、常と変わらず過酷な労働が課せられた。何故ならば奴らにとっては囚人の生き死になど関係ない。死すればその遺体を廃棄するだけのことなのだから。
こうして十数日待たぬうち、ユゥイの体力は眼に見えて堕ちていった。灼熱の太陽の下、弱った体でよろよろと作業を進める。全身の筋肉が軋むらしい。作業中震え続ける指先も、誰にも見られぬよう、蔭に身を隠し痛みに耐えている姿も、黒鋼の紅は捕らえていた。
それでも近づくといつもの笑みを浮べるのだ。つなぎを握り締め白むその爪先を見据えて、黒鋼は思う。
このままでは動けなくなるのも時間の問題だろう。ここで給される食事では、体内の造血すらも直に追いつけなくなる。恐ろしい合併症よりも力尽きてしまう方が先か。それとも―――
一刻の猶予も許されなかった。
そして幾度目かの高熱に魘される夜。相変わらず憎らしく思える程に明るく照らしてくる月明り。
食堂で発作に斃れた痩身を抱えて牢へと運んだ黒鋼は、寝台の上にその身を横たえた。辛うじて意識を保っていた彼は、朦朧と揺れるそれのせいで定まらない焦点のまま話し始める。
熱を振り払う為に、言葉を吐き出すように。
「…お…かし、ぃな……こんなはずじゃ、ない、のに…」
「しゃべるな」
「・・・、ごめん…ね…」
「何故謝る」
「きみに、・・面倒かけて、ばっかり、だ…」
「・・・」
苦しげな息を吐きながら、金に縁取られた眼は伏せられる。
「…まだ、、死ねない…、のに・・・」
脱獄不可能とされるこの監獄に収容されても、依然として目的意識を持つ彼に向かって、黒鋼は問う。
「生き延びてどうする」
「確かめたいことが…、あるんだ」
滝の様に汗を滴らせながらユゥイは満面に笑む。
けれど何処かに翳を孕んだ笑みだった。真摯にその表情を見据えながら、問いを重ねる。
「ここから出られると思ってんのか」
「・・・わからない…」
そこで発作の波が来たのか、腕の中で高熱を発する躯が大きく身を揺すり始める。両腕で自身を抱き、声も上げずに震える。
これ以上は限界だろう。彼の体力を考えればもしかすると今回が最後の機会に為るかもしれない。
黒鋼は袂に持っていた薬を汗ばむ彼の口元に持っていく。しかし目蓋は固く閉ざされ蒼はそれを映すことはなく、その身は只管悶えながら熱の収束を待っている。
「薬だ」
暫くして発作の合間に余白が出来たとき、一言告げた。その声に瞼を震わせ、朧気に意識を取り戻した力ない蒼が、不思議そうに見上げてくる。
「どう、して・・・?」
「てめえは、死なせねえ。」
俺のエゴであったとしてもだ、そう心中で付け加えると黒鋼は血の気の無い唇に粉を落とし、携えてきた水を口に含むと彼の唇に押し当てた。
驚きに目を見開いていたユゥイであるが、やがて眼を瞑りゆっくりとそれを受け入れる。そうして入り込んできた舌を拒むことなく奥深くまでの侵入を許す。
施される侭口づけを受けていた彼は唇を離した瞬間、苦しげに眉を寄せこうべを緩く振るった。それから気を失うように意識を手放した。
キニーネと呼ばれる特効薬は、強い副作用を伴う事もある。それに診断はあくまで素人判断であり、病は確定している訳では無い。投薬にまで及んでしまったが、他の疾患である可能性も否めない。
だから、今朝薬を手に入れ発作が始まる迄は、選択を本人の意思に委ねるべきである。黒鋼はそう思っていた。
だが、腕の中で確実に削がれていく生気。大きな虚無に襲われた。大切なものが失われていく喪失感は、何時かの遠き日と重なるデジャヴ。
もう、なくしたくはない。
もし灯火の消えゆく彼に意識がなかったならば、恐らく何も聞かぬまま無理矢理にでも投与に及んでいただろう。
喩えユゥイの心が、己の命の存続を欲していなかったとしても。
―――むざむざ余命を苦しむために生き存えさせると、解っていたとしても。
薬が効き始めたのか、暫く後に漸く落ち着き始めた呼吸に安堵する。上下する肩は儚くも細く、骨ばっていて。逞しい腕の中、鎮静に伴い、どんどん冷えてゆく身体からそれ以上熱が奪われていかないようにと。
ただ、静かに抱きしめた。