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ユゥイの眼前には、砂漠の海が広がっていた。
砂地の夜は急激に冷え込む。暗くなっていくその場所で、大きな風に呑まれそうになる。
陽が沈んでしまえば其処には深い闇が広がるのみ。響くのは砂塵を巻き上げる昂りの音だけだ。どこまでも無限のように錯覚してしまう荒野に竦んでしまうその二本の軸が、そのちっぽけな重量を支えていた。
――その存在は在っても無くとも。
悠久の刻を流れてゆくこの大地のほんの一部に、たった二本の足をついて立っている過ぎないのだ。
真昼には黄金の耀きを放っていた細かな砂は、今はうってかわって熱を昇華し見送りながら闇を無表情で迎えようとしている。
見上げれば、どこまでも高く続く格子状の鉄柵。遥か上空には脱走を阻む高圧電流が流れているらしい。けれどこのバリアの先には、地平線のその更に向こうには、見果てぬ平面が広がっているのだ。
……触れたい。近くて遠い、この暗闇に溶けこんでしまえたら。そして遥か遠くに居るはずの、彼の元まで。
白く、しかし一日の作業で擦りきれてしまって無感覚になった指が、静かに柵の向こうを目指す。
「分かっとるとは思うけど…、それに、触れたらあかんで」
突然背後から声がかけられた。それに驚いた様子もなく、ゆっくりと振り返る。案の定、朝方彼の背後をとった男が立っていた。あの一件から周囲の気配に注意を張り巡らせることを怠らないよう、ユゥイは自身の肝に銘じていた。
その男は遠慮なく話しかけてくる。
「なんや、こんなトコで何してんねん。まさか自覚してないわけちゃうやろ」
「…連中なら、撒いてきたよ」
「……へえ」
夕食の後、一定間隔を置いてしつこく纏わりついてくる数人の囚人たちにユゥイは気が付いていた。朝の面子も入っておりその意図は容易に想像することができたから、連中の虚を突き、此処まで脱してきたのだ。
今は、房内に居る方が危険であると判断した。
「そりゃあ、…或いは賢明かもしれんな…」
少し考える素振りを見せるが、ま、俺に関係あらへんがな、と言いながら近づいてくる男に、僅かに身じろぐ。ずかずかとすぐ隣にまで歩を進めてきた空汰の表情を読み取ろうと、現れ始めた星灯の下、眼を凝らす。
「身体、痛いんちゃうんか」
「……これくらい」
静かに答える。実際、馴れない気候と苛酷な労働、それに投獄による気の疲れから、身体は至るところで軋みを上げていた。それでも触れれば噛みつかんばかりの気色を浮かべるユゥイに、空汰はしばらく真顔でじっと見つめていたが、不意に表情を崩す。
「そんな成りして、ほんまおもろいなあんた」
見ててあきひんわ、と表情をくるりと返して笑いかけてくる空汰に、ユゥイは怪訝そうな顔を向ける。
柵に視線をやり、そのまま蔦のような太い金網に沿って上げてゆき、その先にある空を仰ぎ見ながら、空汰は言葉を続ける。
「どんな屈強な大の男でも、ここでは初日に大概ぶっ倒れる。それはこの劣悪な条件下のせいだけとちゃう。これから始まる途方も無い償いの時間を思ってな…そいでその時、己の犯した罪の深さっちゅうやつを思い知るんんや……」
「…………」
ふと、その呟きには自嘲を含んでいるように感じられた。眉を顰めた笑顔から発せられた声は、静かに風に呑まれてゆく。
「…けど、」
不意に視線を戻した空汰は隣に向かって左手を伸ばし、そこにいる彼の右腕を掴んだ。そのまま強引に痩身を身に引き付け、形の良い顎に手を掛け自分の方へと引き上げる。
「根性があっても、油断したらあかんな?」
吐息のかかる程に顔を近づけ、不敵に笑む。
二つの唇同士が触れ合うほどの至近距離。
しかし、迫ってきた男に、ユゥイは恐れる様子を見せず、その自分とは異なる色の瞳を見つめながら問うた。
「……君は、してるのかな。後悔」
「ん?あ…わい?…………。あー、しとるように、見えるか…?」
返しに困って素っ頓狂な声をあげる。まさか冷静に質問が返ってくるとは思わなかったらしい。ユゥイは視線を反らさないまま相手を見定めるように眼を細め答えた。
「……。…見えないね」
それからユゥイはふっと吐息を洩らし、自分の顎をつかむ手首に手を掛け表情を弛める。
そんなつもりはないんでしょう、――そう無言のうちに穏やかに確認をとる。空汰の剥ぎ取って返された手は仕方なく、己の側頭部をゆっくりと掻いた。
「なんや一本とられた気分やなー」
「君、わかりやすいよ」
ゆるりと煌めく星光に青白く浮かんだ表情を見て、微かに眼を見開く。
それはユゥイが初めて見せる、微笑だった。象られた曲線的な表情は、気温の急激に下がりゆくその風景に緩やかに溶け込んでいく。
それにしばし見とれるが、空汰は苦々しげに笑って返した。
「尋ねてもえーなら、あんさんは?ここに突っ込まれた理由っちゅうやつに」
「………後悔は、してないよ。ただ…、気がかりが、あるだけ」
蒼天の色をした瞳は今は濃く光を放ち、ここには無い、何処か遠くの空を見つめている。投獄の経緯を聞くなど此処では野暮である。そこで空汰は言葉を切った。
「そうか…。………なあ…あいつ…」
「あいつ?」
「あのけったいな厳つい紅い眼の男や」
「ああ…」
言われれば即座に思い出す、今日一日こちらを見据えてきた紅い眼光。全く奇妙な男だった。一日の内にその鮮烈な印象を既に植え付けられている。
あの瞳が、悉くを燃き尽くす様な炎色であるが故に、ここまで心象に残ったのかもしれなかった。無感情である風を装っていて、その実、何かを押し殺したような、抑えつけたような…。生来の彼の素質はこれとは真逆なのだろうと思った。
それほどに、禍々しい気を宿した緋色。
その焔にとろりと内部を溶かされそうで、触れることに少し脅威を感じた。だから、背を向け、逃れようとした。
戸惑うユゥイの様子に、空汰は気が付いていないようだ。
「ある意味、奴には借りがあってな。だから言うんやけど、……珍しいんやで?」
「…?」
「見ず知らずの他人さんを、傍に置く事…」
―――どうして、あんさんなんかは、わからへんけどな。…いや、嘘やな、わかる気はするわ。
そんな台詞を続ける空汰の真意が汲めず、ユゥイはただ首を傾げていた。