人もまばらな朝の広場には、静寂という言葉がよく似合っているように思えた。名取は眼鏡を持ち上げる仕草をすると今まで手首にあったはずの痣が袖の中にしゅるりと入り込むのが見えた。我ながら気味が悪い、ともう何度思ったかもわからないことを思いながら歩いた。

「おや、」

ひとりの人影をみつける。見覚えのあるその人の肩に手を置くとおはよう。といつもの胡散臭い笑顔で挨拶をした。その人はにっこりと笑いながらも、実に機械的に言葉を発する。

「オハヨウゴザイマス。」

「おやおや。随分とご機嫌斜めみたいだね。」

「だって・・・。」

その人は名取の方へ向き直ると訝しげな視線を投げた。

「だって、何?」

その視線を名取は軽く受け流す。

「昨日もキスしてた。」

「仕事だからね。嫉妬してくれてるのかい?」

「別に。ねえ、周一、俳優の仕事、すき?」

「さあ?ただ演じる事は、苦ではないよ。」

そう言うと名取はその人の頬に手を添えると。なまえと短く呟いた。そしてそのまま唇を押しあてる。わずかな時の後に静かに唇を離すとなまえは笑いながら、

「これも演技だったら、許さないから。」

少しだけ怒ったように呟いた。名取は怖い、怖い。と肩を竦めると腕時計に目をやる。

「ああ、もうそろそろ行かないと。」

「そっか。行ってらっしゃい。」

きっとこの瞬間を少しだけ名残惜しく感じるのは、きっと何よりもこの、恋人との短い逢瀬の時間をいとおしいと感じているからであろうことに名取は気づいていた。何も演じなくていい場所。昔から演じることには慣れていたつもりだったが、演じなくていいということがこれほどまでに心地のいいものだと知ってしまったから、きっとこんなにもせつないのだ。




(せつなさが積もる)


夏目御題より





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