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- ナノ -


  3

夏休みが明けた。身体に染み付いていたルーティンはすっかり忘れ去られ、荷物や家を出る時間を気に掛けながら登校する。歩き慣れたはずの通学路の景色は薄い膜を一枚剥がしたような鮮明さで、どこか真新しく映った。
九月に入っても暑さは変わらず、早朝だというのに汗がにじむ。蝉がわんわんと鳴いているのを聞きながら、校門を抜ける。
校庭では運動部が朝練をしており、声出しをしながら列になってグラウンドを走っていた。夏休みも部活があったため、新学期初日でも朝練をするのは特別なことではないのだろう。自分もボーダーに通っていたせいか、同い年くらいの人間が集まる様子には違和感がない。ただ、制服に袖を通すのが久しぶりで、スラックスの通気性の悪さを改めて思い知らされた。
下駄箱のマス目を上から数え、置きっ放しにしていた上履きを取り出して履く。昇降口にたむろする女子を通り抜け、階段を上がる。三年の階に着くと、クラスメイトが他クラスの友人と廊下で話し込んでいた。床に靴底のゴムが引っ掛かる音を聞きながらそれを通り過ぎ、B組の中を覗く。
「加賀美ちゃん、ちょっとええか?」
「水上くんじゃん。どうしたの?」
教室で友人と話していた加賀美ちゃんを呼び寄せると、加賀美ちゃんは珍しいと言って目を丸くした。念のため教室の中を確認したが、なまえの姿はない。まだ職員室にいるようだ。
「今日そっちのクラスに転校生来るんやけど、俺のツレやねん。もし浮いとったら声掛けたってくれへん?」
「へえ、ボーダーの子?」
「ボーダーちゃうねん。色々あってこっち引っ越して来ることになってな」
「そうなんだ。オッケー」
「頼んだで」
二つ返事をした加賀美ちゃんは、じゃあねと手を上げて友人の元に戻って行った。細かいことを訊いてこないあたり、やはり加賀美ちゃんに頼んで正解だった。なまえも加賀美ちゃん相手なら上手く対話出来るだろう。なまえは何もしなくていいと言っていたが、これくらいの手助けならば本人に知られずに済む。
目的を終えて自分のクラスに入ろうと振り返ると、真後ろに王子が立っていた。俺の話を聞いていたらしく、ふぅん、と顎に手を当てている。壁についていた手に体重を掛け、片足に重心を置いて王子と目を合わせる。
「自分忍者の末裔なん?」
「うーん、多分農民の出じゃないかな。ところで織姫が転校生ならそうと言ってくれたらよかったのに」
「おまえそのあだ名本人の前で言わん方がええぞ」
「そう? ぴったりだと思うけど」
夏祭りの数日後、ボーダーでばったり出くわした王子は、一緒にいたあの子の名前は何だ、どんな関係性だ、祭りは楽しんだのか、といったことを質問攻めしてきた。根掘り葉掘り知りたがる王子に、なまえの名前と、幼馴染で彼女であることだけを伝えたのだが、そこから想像力を働かせて、俺たちは遠距離恋愛で、なまえが夏休みに三門市まで会いに来たと思い込んだらしい。それを七夕伝説に準えて、「織姫」と呼び始めたのだった。
「なんせ、いらんことせんでええから」
「余計なことかどうかは織姫が決めるんじゃないかな。実際にクラスで困っていても、みずかみんぐが手助けするわけにはいかないだろう?」
言い負かされる俺が面白いのか、王子が目を細める。苛つきを顔に出さないよう、しらっとした表情を作る。
「物好きやなあ」
「みずかみんぐの彼女だったら、きっと面白い子だと思ってね」
そう言うと、王子は歯をきらりと輝かせて笑った。王子のこういう考え方は少し俺と似ているが、正直今は鬱陶しい。
王子は面白さ、くだらなさを好み、食指が動かされたものに対して臆することなく首を突っ込む。もし王子に彼女が出来たとしたら俺もどんな子か気になるだろうが、ここまで積極的に関わろうとはしない。
「あいつ別におもろい奴ちゃうで」
「本当かどうかはこの目で確かめてみるよ」
俺のくだらない牽制もさらりとかわされる。勘が良い王子であれば俺の真意に気が付いているはずだ。それなのにここまで食い下がってくる理由など一つしかない。
「……王子、おまえもしかして俺のこといじっとるんか?」
「どうかな」
ふふ、と口角を上げた王子は、俺の肩をぽんと叩くと教室に入って行った。
「(タチ悪……)」
王子のしゃんとした背中をじろりと睨み付けるが、いつまでも他クラスの前で突っ立っているわけにもいかず、踵を返す。
王子がなまえそのものに興味があるわけではなく、俺の彼女に興味があるのはわかった。だからといって俺の気が休まるわけではない。
「(これも全部カゲのせいやぞ)」
椅子に行儀悪く座るウニのような頭に視線をやると、「ああ?」と思い切り顔を顰めたカゲが振り返った。遅かれ早かれ自分が嫉妬深いと気付くことになっただろうが、カゲにあんなことを言われなければ情けない自分を知るのはもう少し先だった。
「すまんカゲ、八つ当たりしてもうた」
「はあ?」
ぎろりと睨まれたが、俺はそれ以上何も言わずに自分の席についた。

やれることは全てやったつもりだが、やはり隣のクラスの様子が気になる。廊下の方に意識を向けていたものの、なまえらしい姿は見掛けず、隣のクラスからどよめきが聞こえてくることもなかった。ボーダーと提携している学校のため、転校生は比較的多い。そのため生徒も転校生が来ることに慣れているのかもしれない。
ショートホームルームの後は始業式が体育館で行われるため、全校生徒の移動が始まる。体育館に移動する前に隣の様子でも覗くかと席を立つと、教室の外に王子が来ていた。脱力してだらだらと王子の方に向かう。
「何や?」
「織姫のことだけど」
まさかこの一瞬で何かあったのかと身構えていると、王子は予想だにしていなかったことを言い放った。
「ぼくのクラスには来なかったよ」
「は?」
「クラス間違えてない?」
「いや、あいつ確かにBやって……」
はたと言葉を止める。まさか、と思った瞬間、俺は教室を飛び出していた。廊下に集まる生徒を縫うように通り過ぎ、小走りで階段を下りる。そして俺は一つ下の階にある二年のフロアに下り立った。
人の波に逆らうようにして二年B組を目指す途中、教室から出てくる金髪と黒髪カチューシャの二人組を発見した。出水と米屋は確かB組だったはずだ。
「あれ水上先輩。どうしたんすか?」
「ちょうどええとこにおったわ。おまえらのクラス転校生来んかったか?」
「お、情報早えー」
あそこに、と米屋が振り返った先に、少し緊張した面持ちのなまえが女生徒数人の輪の中にいた。制服を着たなまえが過去の記憶と重なる。
「かわいいって話聞きつけて見に来たんすか?」
「いや……」
形容し難い何かが込み上げる。この感情は、なまえが出た将棋イベントに足を運んだ時と似ている。
学生ということもあり、なまえがイベントに出る回数は多くなかった。それ故に本人と接触出来る機会が作られると、少ない枠になまえのファンが群がった。
女流棋士はアイドルでもコンパニオンでもない。しかし「愛される女流棋士」になるには容姿端麗といった要素も一つの武器なのは間違いない。男性棋士と互角に戦える女流棋士であれば将棋そのものを見てもらえたのかもしれないが、なまえにはそれに見合う将棋の腕はなかった。将棋が弱くても顔がかわいいからいい、といった評価は飽きるほど見た。
今思えば、あの時の俺は奢っていた。過ちを犯して自ら離れたくせに、自分がまだ特別な存在であると信じて、のうのうと会いに行こうとしたのだ。しかし会場に到着し、開場を待つ列を見て、自分が有象無象の集団の一人に過ぎなかったことを知った。ぞっとして来た道をそのまま引き返したが、その選択は間違っていなかった。知らない男たちに写真を撮られ、手を握られ、視姦されて消費されるなまえなど見たいわけがない。それでもその仕事をやると選んだなまえを否定したくもなかった。
足が止まる。遠目から見たところ上手くやっているようだし、このまま引き返そうかと悩む。だが今の俺はあの頃とは違う。今の俺は、なまえに群がる有象無象ではない。彼氏として、俺はなまえの前に立つ資格がある。
「なまえー」
 声を掛けると、なまえの瞳が一瞬で俺を捉えた。
「わっ、敏志くん」
まさか俺がいるとは思っていなかったのだろう。なまえは狼狽して数歩後退りしてから、誤魔化すようにへらりと笑った。ずんずんと距離を詰める。
「ダブってるんやったら先言え」
「ご、ごめん……」
ばつが悪そうに謝るなまえに、今世紀最大のため息を吐く。
なまえと俺が再会したあの日、なまえは高校生活を「あと半分」と表現した。俺はてっきり一年の半分だと思っていたが、まさか本当の意味で残り半分だと誰が思うだろうか。
留年したということは、東京の学校にはほとんど通えなかったのだろう。それくらい体調を崩していたことを知らされなかったことに憤りを覚える。そして、それを悟らせない程に回復してみせたなまえを素直に尊敬する。
「まあええわ。後でちょっと喋ろか」
「うん……」
居た堪れない空気の中、沈黙していると、それら全てを吹き飛ばすように米屋が俺たちの間に割り込んできた。
「何だ何だ? 水上先輩と転校生って知り合いなカンジ?」
「おい槍バカ、シリアスシーンに首突っ込むなって」
傍から見ると上級生が下級生に絡んでいるように見えたのか、若干注目を浴びていた。完全に悪者扱いの視線にやや怯んでいると、なまえはその気配を感じ取ったのか、庇うように俺の前に立った。
「敏志くんはわたしの彼氏です」
その一言でなまえの周りにいたクラスメイトがおおっと声を上げた。出水と米屋は俺を知っているため、さらに盛り上がっている。
「マジ? 転校初日からとか水上先輩手ぇ早えーな」
「ちゃうわ」
「え、彼氏じゃないんですか?」
「……それは合うてるけど」
なまえは満更でもなさそうな顔をしているが、状況が段々と面倒になってきた。これでは下級生にマウントを取りに来たように見られてもおかしくない。
「とりあえず後でな」
そう言い残して逃げるようにその場を後にする。こんなことで俺の平穏な学園生活が崩れるのは本意ではないし、彼女を大事にしているキャラとして見られたくない。そんなものは俺ではない。
はあ、と何度目かわからないため息を吐き、目線を廊下の先に向ける。その先にいた見知った人物に、顔を顰める。
「やっぱり織姫は面白いね」
廊下の壁に寄り掛かってなり行きを見ていたらしい王子は、軽やかな歩調で俺の隣を歩き出した。踊り場に置いて行こうと思い早足で歩くが、軽々と追い付かれる。
「ついて来んなて」
「目的地は同じだろ。織姫が見付かってよかったじゃないか。後輩ならぼくが出る幕はなさそうだ。安心したかい?」
「うっさいわ」
王子は俺の数歩前を歩き、リズム良く階段を下りる。追い越せないなら遅れてやろうと、階段をたらたら下りていると、ふいに王子が振り返った。
「そうだ、みずかみんぐ。前にぼくが織姫をどこかで見たことがあるって言っただろう。思い出したよ」
自然と足が止まった。階段の途中で立ち止まる俺たちを、生徒が邪魔そうに追い抜いて行く。複数の足音がバラバラに散って、時折重なるのが耳に入ってきた。喧騒がやけに澄んで聞こえる。
階段の窓から射す光が王子の足元を照らした。王子の影が俺の爪先まで伸びる。
「みずかみんぐの部屋の本棚に入ってた雑誌だ」
逆光のせいで王子の顔が陰っていたが、その唇が弧を描いたのを俺は見逃さなかった。

  ●

グラスの中の液体をストローで吸い付くす。ソファーに寄り掛かったまま腕を伸ばして、机の上にグラスを置く。結露で濡れた指先をスラックスで軽く拭き、目線だけを正面に向ける。

面倒な始業式が終わり、帰りのホームルームが終わった後、俺はまず加賀美ちゃんに事情を説明しに行った。加賀美ちゃんは「王子くんから聞いたけど転校生って水上くんの彼女なんでしょ? 見たかったー」とけろりとした顔で言い、大して気にしていない様子だった。
朝のことがあったため、なまえをクラスまで迎えに行くのは憚られ、俺たちは校門で落ち合った。一人で現れたなまえは借りてきた猫のようで、口数も少なかった。俺もあまり言葉が出て来ず、最低限のことだけを話しながら、学校から少し離れたファミレスに入った。
メニューを選ぶ時のぎこちない会話は、なまえが引っ越して来た時のことを彷彿とさせた。これまで積み上げて来たものがリセットされたようで、自分の選択が悪手だったことに今更気付く。
直接教室に行かず、連絡を入れるだけでよかったのではないか。何故人前で詰問まがいなことをしてしまったのか。あれだけ慎重に関係の修繕をしようとしていたのに、想定外のことが起こって対処しきれなかった自分の未熟さを痛感する。

向かいでパスタを食べようとしているなまえは、先程からずっとスプーンの上で麺をくるくる回している。一向に纏まらないパスタがフォークから抜け落ち、最終的に数本だけ残ったのを見て、俺はようやく口を開いた。
「何で言わんかったん?」
「ごめんなさい……」
「ちゃうねん、理由訊いてんねん」
「怒んないでよ」
「怒ってへんて」
「怒ってるみたいに見える」
なまえの瞳の光が揺らめいた。フォークとスプーンを握る手に力が入っていることに気付き、肩の力を抜く。
「別に責めてるわけやないんやけどなぁ」
「顔怖かったもん……」
「……すまん」
昔は俺にあまり非がない場合、謝るという行為を嫌っていたが、今の状況で自尊心を優先するとろくなことにならない。なまえも俺が謝ったことで多少気が済んだらしく、涙はいつの間にか引っ込んでいた。
提供されてから手を付けていなかった箸に手を伸ばし、味噌汁を啜りながら「で?」と視線を送る。
「言わなくちゃとは思ってたんだけど、情けなくて言い出せなかったの……。悪いとは思ってる」
「あんなぁ、情けないも何もないやろ。こっちは普通に心配してんねんぞ」
「心配……。そっか、ありがとう」
「他は? まだ何か隠してることあるか?」
「……最近自炊サボってる」
「それはどうでもええな」
サバの味噌煮をほぐしながら言うと、なまえは小さく笑った。緊張が解けたのか、上手くパスタをフォークに巻き取って食べ始めたので、俺も箸を進める。
「クラス上手いことやっていけそうか? 一個上やし気ぃ遣われるやろ」
「うーん、わりと大丈夫そうだった。元気な子が多いみたい。雰囲気は良かったし、話し掛けてくれた子もいたよ」
「朝一緒におった子らか」
「そう。困ったらすぐ頼ってねって言ってくれたから、お言葉に甘えることにする」
昔は極力自力で何とかしたがっていたのに、やはり少し変わったな、と思いながら咀嚼していると、なまえがぽつりと呟いた。
「敏志くんと卒業出来なくてごめんね」
どこか素っ気なさのある言い方だったが、なまえが一番気にしているのはこれなのだと瞬時にわかった。
物理的距離の次は、一年の差が生まれた。しかしそんなものは、お互いの近況を知らないまま過ごした数年に比べれば大したことはない。
「そんなん別に気にすることないやろ。これから先も一緒におるわけやし」
「敏志くん……」
「麺伸びてまうで」
気恥ずかしいことを言った自覚はあったが、なまえの表情が輝くのを見て、たまには悪くないかと自分に言い聞かせた。
食欲を取り戻したなまえは、巻き取り過ぎたパスタを大口で頬張りながら、机に貼られた季節のデザートメニューを注視していた。どうせ一番デカいパフェでも食べるつもりなのだろう。甘いものに目がなく、俺よりも食欲があるのは相変わらずのようだった。


  4


新学期最初の席替えで前から四番目の窓際を引き当ててしまった。九月下旬に差し掛かったが、まだ日差しが強く、直射日光が当たる身体の半分がじりじりと焼かれる。
実際、先日隠岐に「水上先輩、顔の半分日焼けしてません?」と指摘された。その時はオセロ人間と言っておどけていたが、このまま日焼けし続けたら本当にそうなってしまいそうだ。
俺の席はカーテンが丁度重なる場所に位置しているため、前後両方のカーテンを引っ張ってこないと中途半端にしか隠れられない。そのため、授業前に前と後ろの席の奴にカーテンを伸ばしてもらうように言う必要があるのだが、任務の関係で遅刻をするとこの手は使えない。
カーテンを閉めることにはデメリットがある。うちの学校は教室にエアコンがないため、窓を開けて風を通すのだが、窓際の人間は風で膨らむカーテンが授業の邪魔をするのだ。視界が遮られるのはもちろん、筆箱を落とされたり、開いていた教科書のページを勝手に変えられたりする。そういった煩わしさを取るか、直射日光を取るかの選択が、今の時期の窓際にはつきものだった。

数学の授業中、練習問題を早々に解き終わって暇を持て余していると、グラウンドになまえの姿を見つけた。
女子はハンドボール、男子はサッカーをしているようで、校庭にボールが飛び交っている。
ハンドボールの授業は現在シュート練習をしているのか、無人のゴールの前に女子が並んでいた。なまえの順番が回ってきたのでぼんやり眺めていると、なまえのへなちょこ球はゴールから逸れて、サッカーグラウンドの方へと転がっていった。
「(へたくそやなぁ)」
転がるボールを止めようとして、手が届かずさらに転がる様子があまりにも間抜けで、思わず笑いそうになってしまう。失速したボールをなんとか拾い上げて列に戻ろうとしたなまえは、ふいに俺の方を見上げた。ばちりと目が合う。
なまえはどこかむっとした表情をすると、不服そうに小さく手を振ってきた。振り返さずに頬杖をつく。すると、サッカーをしていた出水と米屋がなまえに近付いて行った。俺に気付いた二人が大きく手を振ってくるが、それにも返さずにいると、ふいに二人がなまえに何かを言った。なまえは思い切り顔を顰めていたが、少し逡巡すると、辺りをきょろきょろと見回した。そして、ボールを持っていない方の手のひらを真っ直ぐにして口を覆うと、ちゃんと見ていないとわからないくらいの小さな動作でキスを飛ばしてきたのだった。
「っ!?」
あまりの突飛な行動に椅子からずり落ちる。
「どうしたー水上」
派手な音を立ててよろけたため、教師に注意されてしまった。クラスメイトの視線も痛い程に刺さっている。
「居眠りっす」
「解けたからって寝るなー」
どっと笑いが起こる中、俺は薄ら笑いを浮かべて椅子に座り直した。机に突っ伏して頭を抱える。混乱のせいか、全身が脈打っていた。

  ●

なまえの異様な行動が尾を引いているのか、その後の授業は上の空で、ボーダーでの個人ランク戦の結果は散々だった。これ以上無駄に点を失うのは得策ではないと思い、自隊の作戦室に逃げ込む。いつもは大体のメンバーが集まっているのだが、今日は珍しく誰もおらず、一人座布団に座る。
それにしても昼間のあれは何だったのだろう。
なまえは冗談でもあんなことをする奴ではない。唆されたとしても、実行するなどあり得ない。だがあれは白昼夢などではなく、紛れもない現実だった。
俺の中のなまえが、なまえでなくなっていく。本人にとっては良い影響なのかもしれないが、焦燥感が募る。
離れている間もなまえのことが常に心のどこかにあった。なまえは負けず嫌いで努力家で、俺にだけ我が儘で、すぐに泣く。堅牢に見えて実はひどく脆い、そんな奴だった。それなのに今のなまえは、俺を見付けると嬉しそうに微笑み、手を繋ぎたいと顔を赤くし、突拍子のない行動までするようになってしまった。
「そんなん……」
「かわいい」
耳元で低音が響いた。反射的に振り返る。
「イコさんいたんすか?」
「おったで。ベイルアウトマットでお昼寝しとった」
突如背後に現れたイコさんは、よっこいせと俺の隣の座布団に座った。ばくばくしている心臓をなんとか鎮める。
「ところでその子めちゃかわいいな」
「その子?」
「ん? 水上の携帯の」
指差された先を目で追うと、携帯の画面に浴衣姿のなまえの写真が表示されていた。無意識のうちに見ていたらしい。ぱっと画面を伏せる。
「あ、いや、これはちゃいます」
「しっかし水上もアイドルとか興味あるんやな。意外やわ」
「アイドル? アイドルて何すか?」
「アイドルちゃうんか? グラドル?」
「いやそれ同じやろ」
「そうか? ちなみに何て名前なん? 俺も調べよ」
どうやらイコさんはなまえを芸能人だと勘違いしているらしい。確かに何も知らない人間が見たらそう思うかもしれない。名前を検索すると未だに大量の写真が出てくる点に於いては似たようなものだ。
「芸能人やのうて、彼女です」
そう言うと、イコさんは五秒程固まった後、「今何て?」と訊き返した。イコさん相手に彼女がいると二度言うのが恥ずかしくなり、「や、まあ、彼女す」と言葉を濁しながら言う。するとイコさんは表情はいつも通りに、だが確実にテンションが上がっていた。
「まじか。めっちゃかわいいやん。普通にアイドルやと思ったわ」
「っす……」
「それでか。最近水上ちょっと変やったもんな」
「何です?」
一人で盛り上がっているイコさんが続ける。
「めっちゃ不機嫌やったり機嫌良かったり、忙しないなーて思っててん。せやけど水上がそんなんなるの珍しいやん。やばいことでもあったんか思て、イコさんこれでも静かに見守ってたんやで。なんや彼女出来たんか。おめでとうな」
イコさんの言葉を咀嚼する暇もなく、矢継ぎ早に質問をされる。
「で、いつから付き合ってるん?」
「な、夏前です」
「ええなあ。青春やん」
「……そんなんちゃいます」
俺となまえの青春は、将棋と共に消失した。いや、あの頃のことを青春と呼んでいいのかすらわからない。空気の薄い山頂のように孤独で、泥に溺れているかのように身動きが取れず、鈍い夕焼けが照らす部屋の中で過ごしたあの日々のことを、青春と呼ぶには仄暗過ぎる。
「いや青春やろ。夏に彼女やで。海行ったり祭り行ったりイベント盛り沢山やろ。青春以外の何者でもないやん」
しかしイコさんは、俺の陰気を吹き飛ばすようにあっけらかんとそう言った。それは早朝にカーテンを開け放った時のように、一瞬で室内に行き渡る陽光のようだった。湿り気を帯びた空気が浄化され、目の前に過ぎ去ったはずの眩しい夏が舞い込んでくる。
なまえのカーテンを買いに行った日の、心臓の音が低く響く昼下がりも、咽せ返すような熱気にのぼせた夏祭りも、思い返せばそこに薄暗さなどなかった。記憶の中のなまえは輪郭がはっきりする程鮮やかに、俺の目に映っていた。
「ちなみになんやけど、やっぱり彼女とはパピコ分け合うもんなん?」
部屋には俺とイコさんの二人しかいないというのに、イコさんは内緒話でもするかのように声を潜めた。その真顔に吹き出しそうになる。
「どうすかね」
「ええなー彼女。俺も彼女欲しいわ。シミュレーションだけは完璧なんやけどなあ。参考までに俺のデートプラン聞く?」
「間に合うてます」
「最初はやっぱお散歩デートやな」
「いや聞いてへんわ」
イコさんの年間デートプランを延々と聞かされている間に、うちの隊員が集まって来た。しまいには彼女を楽しませるデートプランコンテストが開催され、マリオが無理矢理審査員にされていた。
俺が挙げた寄席に行くという案は、自分の趣味を押し付けるなという理由で評価されなかったが、隠岐の猫カフェという生き物を利用したせこい案や、海のカラオケというありきたりな案は何故か高評価を得ていた。イコさんは「やっぱカップルはイルミやろ」といもしない彼女と見るイルミネーションの魅力について力説しており、マリオもイルミネーション自体には興味があったようだが、気恥ずかしかったのか「ないわ」とバッサリ切り捨てていた。そのやり取りを一歩引いて眺めながら、俺はなまえのことを考えていた。

  ●

日直の仕事があるため、なまえに教室で時間を潰してもらうように連絡を入れる。
日誌を開き、時間割を確認しながら欄を埋めていく。今日は特別変わったことはなかった。当たり障りのないことを記入しながらふと廊下を見ると、栗色の跳ねた髪がドアの小窓から見えた。反射的に立ち上がり、廊下に出る。
その後ろ姿は案の定王子で、その対面にはなまえがいた。教室で待っていろと言ったのに、こっちまで来てしまったらしい。
「うちのなまえさんに何か用か?」
教室のドアの上枠に両手を引っ掛けて、わざとらしく身を乗り出す。
「お、噂をすればだ」
肩越しに振り返った王子の嬉々とした表情を確認してからなまえを見る。すると、俺と目が合ったなまえは何故か頬を赤らめ、ぼんやりとした表情をした。不審に思い、廊下に出る。
「何やその顔は」
「……言ってくれたらあげたのに」
その一言で全てを理解した。
なまえが転校して来た日、なまえの写真が掲載された雑誌を俺の部屋で見たと言った王子は、俺が絶句しているのをいいことに一人で話を続けた。
数ヶ月前、同級生数人がボーダーの寮に遊びに来たのだが、その時珍しく王子もいた。寮は関係者しか入れないため、たまたま俺の部屋で遊ぶという話を聞きつけた王子が、面白そうだからと言ってついて来たのだ。
俺の部屋に初めて訪れた王子は、俺がキッチンで文句を言いながら茶の準備をしている隙に、本棚を物色したらしかった。誰も興味を持たなそうな本を収納した裏側にわざわざ隠していたというのに、王子は「あそこだけ不自然なくらいみずかみんぐらしくなかったから、逆に気になってね」と名探偵よろしく人差し指を立てた。
これまで誰にも見つからず、俺自身誰にもバレていないと思っていたため、王子の発言はまさに青天の霹靂だった。正直、あの時自分がどんな反応をしたのか記憶にない。だが王子は動揺している俺に、「そんなに好きなんだ、織姫のこと」と言った。そういった感情が見てわかるような何かを醸し出していたらしかった。
ばっと王子を見ると、王子は涼しい顔で「言っちゃった」と悪びれる様子もなく笑った。身体の奥底から何かが込み上げてくる。
「おまっ、なっ……!」
目の奥と耳がやけに熱い。きょとんとしたなまえと、にこやかな王子の視線から逃れるため、蹲って膝に額を付ける。珍しい反応をした俺に気を良くしたのか、調子に乗って俺の頭を撫でようとするなまえの手を払いつつ、王子に向かってしっしっと手を振った。
「頼むからもう帰れ」
「やっぱりみずかみんぐは面白いなぁ」
「おちょくりよって。ほんまに最悪やわ」
「さて、ぼくはもう行くとするかな。じゃあね織姫。また面白いことがあったら教えるよ」
「いらんことすな。はよ行けアホ」
王子の軽やかな足音が小さくなっていくのと同時に、俺の前でなまえがしゃがむ音が聞こえた。未だ引かない熱の逃げ場もなく、目だけを上げる。
「まだ持ってるの?」
「いや、もう捨てた」
「いつ?」
「……おまえと会うた日」
なまえは俺の返答を聞き、心底嬉しそうに口角を上げた。
「嬉しい。敏志くんの中にずっとわたしがいたんだ」
「……当たり前やろ」
「やっと素直になってきたね。敏志くん、本当はずっと苦しかったんでしょ。楽しそうにしてた後に、難しい顔してたからわかっちゃった」
「そんなん……。いや、そうかもしれん」
ふふ、と小さく笑ったなまえは、俺を咎めるわけでもなく、ただそこにじっと佇んだ。
「昔のこと、なかったことには出来ないけど、間違えてもやり直せばいいよ。現にやり直せるって証明したし」
なまえの言う通り、二度と会うことはないだろうと思っていた現実は覆された。学年は離れてしまったが、昔のように当たり前に制服を着て学校にいる日常すら舞い戻った。この日々が二度と砕け散らなければいいと心底思う。しかし俺は先に高校を卒業し、なまえは大学へ進学せず就職する。残されたモラトリアムはあまりにも短い。大切にし過ぎていると、脆く崩れ去ってしまいそうだ。
顔を上げると、なまえが微笑みながら僅かに首を傾げた。長年この顔と対面してきたが、今改めて、はっきりと実感する。認めたら負けだと思っていたが、俺はとっくの昔に負けていたのだ。
「敏志くんの情けないところも全部わたしに見せて。わたしも見せるから」
「……すぐ戻る」
なまえの頭に手を置いて、その弾みで立ち上がる。教室に戻った俺は、机の上に散らばるペンを筆箱に戻さずカバンに押し込み、書きかけの日誌を閉じた。
「すまん、これ頼むわ」
「うわっ、おい水上!」
いつだったか、俺に猥談を持ち掛けてきたクラスメイトの胸に日誌を叩き付け、教室を出た。外で待っていたなまえは「いいの?」と教室の中を指差したが、「ええねんええねん」と言う俺に、「嘘ばっかり」と吹き出した。

  ●

駒の持ち方を意識し始めたのは何歳の時だっただろうか。憧れのプロ棋士の見よう見真似で駒を挟んだものの、手が小さかったため途中で落としたり、良い音を鳴らせなかったりして、将棋の勉強よりも先に駒を持つ練習をした覚えがある。しかし気が付けば当たり前のように駒を持てるようになっていた。駒と同じようなサイズの消しゴムなどを取る時も、ふいにその持ち方になってしまうくらい俺の指先に染み付いた癖は、この先も時折現れて、俺を過去に戻すのだろう。
将棋は、八一マスの将棋盤に、各二十枚の駒で戦うゲームだが、素晴らしい偉業を残した棋士も、将棋を初めて間もない小学生も、一番最初に歩兵を進めることから始まる。
俺は、前に一マスずつしか動かせないのろまな駒を進めるように、なまえの衣服を脱がしていった。指先から離れていく布地の感触すらも名残惜しく思う程、恭しく。
なまえが纏う服を取り払い、露わになった体躯の造形はあまりにも美しく、「神の造りしもの」とは、正しくこれのことだと思った。
湿度の高い熱と、どこか俯瞰した冷静さが俺の中にある。まるでサーモクラインだ。身体の輪郭をなぞる度、二分された体内の温度差がゆっくりとかき混ぜられて、全身がぼんやりと火照る。冷房で冷えていた足先も、今では内側から熱を発している。
汗ばんだ生温い手は、なまえの柔らかな肌に埋もれて、今にも内側に侵食していきそうだ。しかしわずかに力を抜くだけで押し返される弾力に、幾度となく弄ばれる。手のひらに吸い付きながら自在に形を変えるそれの中心は、芯を持って俺の手の中で転がる。爪弾くと、なまえは羞恥と不服を綯い交ぜにしたような表情で、俺の顔をじっと見つめた。
コンビニで買ったウーロン茶のペットボトルは全体が結露で濡れており、自重に耐えられなくなった水滴が周りの小さな水滴を吸収して流星のように流れた。室内は冷えているのに、俺の顎から結露と同じように汗が伝う。上体を軽く起こして汗を拭ってから、再び身を倒す。
完全に閉まり切っていない群青色の遮光カーテンの隙間から西日が射し、光と影の境目が床に顕在している。その境目はなまえの肌にも存在していた。農作業中に出来た日焼け跡は、鎖骨の近くで半月を描いている。丸襟のシャツを着ていたのだろう。舌でなぞると、なまえは熱を孕んだ吐息を唇からそっとこぼした。日焼け止めを塗っても汗で流れてしまうから仕方がないのだと言いつつ、なまえはこの日焼けを多少気にしている様子だったが、俺が今なぞったものがそれだとは全く気付いていないようだった。
部屋の中はひどく静かだ。なまえの僅かな機微が、俺の呼吸と鼓動を加速させる。
それぞれが持ち合わせた薄い皮一枚を張り合わせるように、汗でしっとりと濡れた身体を重ねてなまえの唇と交わる。どちらからともなく絡まり合う舌は、ぎこちなくのたくり、互いの舌の表面を撫でる。より深いところへ舌を伸ばすと、なまえの身体がぴくりと動いた。上顎の凹凸を舌先でつつく。すると、なまえは俺の二の腕を外側からやんわりと掴んだ。数回啄むようにキスをして、唇を離す。
薄い呼吸をするなまえの目は潤み、今にも目尻から涙がこぼれ落ちそうだった。うっとりと目を細めてぼうっとしているなまえの髪を梳り、何度目になるかわからない言葉を囁く。すると、なまえはふるふると首を振り、手の甲で顔を隠した。
「もういい、もう言わないで……」
「何でや。ええやろ別に」
「やだ。これまで一回も『かわいい』なんて言ってくれたことなかったくせに……」
一七歳の夏の終わり、ようやく素直に褒め言葉を言えるようになった俺に、なまえは未だに困惑しているようだった。一度言ってしまうと、意外にもすんなり言葉が出てくるもので、俺は先程からうわ言のようになまえに胸の内を伝え続けていた。
「人がせっかく素直になったっちゅうのに、嫌や言われんのはあんまりやなあ」
「敏志くんがそういうこと言うの、全然似合わないからやめて」
こんな時でもなまえの悪癖は健在のようだ。しかしそれすらも愛おしく、身体を愛撫しながらなまえと目を合わせる。
「そんなん言われたら今後言いづらくなるなあ。もう二度と言われへんかもしれん」
するとなまえは、気まずそうに目を逸らすと、ようやく聞き取れるくらいの声で「やだ」と呟いた。むず痒い何かが込み上げて、思わず口角が上がる。それが気に障ったのか、なまえは俺の手首を掴んで払いのけた。
「さっきから敏志くんばっかり。わたしも触りたい」
「おわっ」
俺を押し退けて起き上がろうとしたなまえの足の付け根から水音が鳴った。かっと顔を赤くしたなまえは、照れ隠しなのか俺の顎を下から押し上げて、ベッドに倒そうとしてきた。
「押すな」
「うるさい」
「わかったから、ちょっと膝立ちしてみ」
なまえは眉間にシワを寄せて、意外にも素直に従った。ベッドの上に膝立ちしたなまえを俺の肩に掴まらせ、足の間に手を滑り込ませる。
「っ……」
ふやけてしまうのではないかと心配する程に濡れた割れ目に指を這わせると、なまえの手に力がこもった。ゆっくり往復させて馴染ませる。充血してふっくらしたそこを、小動物を愛でるように撫で回す。
なまえは俺の首筋に擦り寄ると、呼吸すらも押し殺した。しかし時折息を飲む音や、微かなため息が聞こえてきて、俺の指を急かしてくる。誘惑に負けずに、丁寧に、優しく触れていく。
中指のはらで入口を探る。少しずつ押し進め、すぐに抜く。なまえの粘膜は熱く、柔らかい。第一関節まで入るか入らないかくらいの浅い部分を、時間を掛けて抜き差しする。すると、ふいになまえの腰が揺れた。
「痛いか?」
なまえは頭を振り、俺の首筋に顔を埋めた。痛くないのであれば続けようと動きを再開させると、ある時を境に蚊の鳴くような嬌声が聞こえ始めた。予感がして、出来るだけ同じ速度を保つ。するとなまえは俺の肩を掴む手に力を込めて、ぶるりと身体を震わせると、とても静かに絶頂した。なまえの身体を抱き締めて、濡れていない方の手で頭を撫でてやる。なまえは俺の背中に腕を回すと、俺の胸に熱い吐息を吹き掛けた。
おもむろに顔を上げたなまえの表情に、身体の芯から興奮が迫り上がる。なまえは恥ずかしそうに下唇を噛むと、俺の下着に手を伸ばしたが、どう触れたらいいのか迷っている様子だった。その手を取って、自身の性器に誘導する。触り方を教えるように、なまえの手を動かしていく。なまえの手のひらが控え目に陰茎を撫で始めたところで手を離した。なまえは戸惑いながらも手を止めず、上目遣いで俺を見上げた。
「痛くない……?」
「全然痛ない。もっと強くてもええよ」
「直接触ってもいい?」
下着のゴムを両手で摘みながら言うなまえに、言葉が出ずただ頷いた。下着のゴムをそっと持ち上げ、勃起した先端を露出させると、なまえはそのまま俺の下着を丁寧にずり下げた。へその近くまで反り上がったものを至近距離でまじまじと見つめられ、居た堪れずなまえの目を手で覆ったが、軽く払われてしまった。
下着の中で蒸れたそれを、なまえが両手で包み込んだ。親指だけを動かして裏筋を撫でたり、皮の動きを利用して上下に摩ったりと、ぎこちない動きがもどかしい。
「どうすればいい?」
本当はどうするべきなのかわかっているようだったが、あえて俺に訊いた。生唾を飲み込みながら、なまえの後頭部に手を添えて手前に引き寄せると、なまえの唇が俺の性器に触れた。目を瞑りながら舌で奉仕し始めたなまえの姿に、呼吸が荒くなっていく。
なまえの舌は俺の手とは比べ物にならない程たどたどしく、希望通りの場所へはいかない。しかし視覚から入る情報、実際の感触が、どうしようもなく俺を煽った。少しでも理性を保つためになまえの頭を撫でる。なまえは薄目を開けて俺の陰茎を咥えると、頭を撫でられたのが嬉しかったのか、ふわりと微笑んだ。
体内の全ての脈が暴れ出す。熱がじわじわと広がり、汗が流れ落ちる。なまえの髪を耳に掛けて、表情をじっと見つめる。夢にまで見た光景だ。このまま貪り尽くされたいが、気を抜いたら挿入する前に終わってしまいそうで、俺はなまえが口を離したタイミングで、もういいと言いながら肩をそっと押した。
「敏志くん……」
ここに来る前にコンビニで買ったコンドームに手を伸ばし、箱から取り出す。連なったそれを一つ千切って装着している間、なまえはベッドの上で寝転び、居心地が悪そうにそわそわしていた。
「なまえ」
なまえの膝に手を置き、足の間に割って入る。緊張した面持ちのなまえはこくりと頷くと、自ずと足を開いた。
陰部はまだ濡れている。指を一本、二本と増やしてほぐす。初めての時は二本目の挿入に手こずったが、今回はすんなりと入った。本人には絶対に言及出来ないが、おそらくなまえも自慰を覚えているのだろう。指に纏わり付いた粘着質な体液を拭き、体勢を整える。
先端をなまえの熱に擦り付ける。柔らかい肉を掻き分け、正真正銘、体内に侵入していく。
目を瞑りながら俺の性器が全て挿入されるのを待っているなまえは、無意識なのか唇で自分の指を食んでいた。癖が出るくらい夢中になっているのだろうか。たまらなくなって、なまえの手をそっと退かし、俺の指先をなまえの唇に引っ掛ける。柔らかな唇が捲れて歯が見えた。うっすらと目を開いたなまえは、不思議そうな顔をしたものの、俺の行為を黙って受け入れた。
過去どれだけの男がこの唇に触れたいと思ったことだろう。目の前で集中力を掻き乱すそれに、見慣れていた俺ですら時々劣情を覚えたくらいだ。今思えば、幼い頃なまえが俺に「棋士になりたい」と耳打ちをした時から、俺はこの唇に憧憬していたのかもしれない。
「全部俺のモンにしたいわ」
奥まで到達し、なまえの身体に折り重なった俺は、嘲笑しながらそう呟いた。本心ではあったが、叶わないことはわかっているし、物扱いするなと怒られるに決まっている。
なまえの身体を労わり、感覚に慣れるまで動かないようにしていると、なまえの手が俺の頬に添えられた。
「わたしの全部、敏志くんのものだよ。わたし、出会った時から敏志くんのことが好きだったもん」
初めて聞いた告白に俺は呆気に取られた。俺がなまえのことをいつから好きだったかなど、正直思い出すのは難しいが、なまえからいつから想われていたかを想像したことがなかった。
俺の容姿は人並みかそれ以下で、女子から持て囃された記憶もない。表情も乏しく、背はそれなりにあるが姿勢は悪い。そんな俺のどこに惹かれたというのだろう。
「わたし、初めてをあげるなら絶対敏志くんがいいって思ってた。だから本当はね、あの時嬉しかった。素直に言えなくて、傷付けてごめんね」
「……今そんなん言われるとやばいんやけど」
「うん、知ってる」
挑発的な笑みを浮かべたなまえは、俺の首に腕を回すと、耳元で「動いて」と囁いた。唇が俺の耳に触れる。ぞわぞわと腰元から何か得体の知れないものが込み上げ、なまえをきつく抱き締める。緩く動いたつもりだったが、なまえの声を聞いた瞬間、自分を抑えられなくなった。
「敏志くんっ、あの時言ってくれなかった言葉、言って」
「なまえ、好きや、ほんまに」
「うんっ、わたしも敏志くんのこと好き、大好き」
正気ではとても言えない言葉を、恥も外聞も、自尊心すら捨てて音にする。ベッドのスプリングが激しく軋むのも構わずに、唇を貪りながら腰を打ち付ける。
随分と長い間、広大な海を漂っていたが、ついに視界の先に安住の陸地が見えてきたような気がした。俺は大きく息を吸い、最後の力を振り絞り、その地に足を踏み入れたのだった。

  ●

これまでに経験したことがない激しい虚脱感に襲われ、俺は未だ下着姿のまま、ベッドの上で壁にもたれて虚空を見つめていた。
興奮の反動なのか抜け殻のようになった俺に対し、なまえは「脳の仕組みが違うから仕方ないよ」と異様なくらい寛大で、一人で先にシャワーを浴びに行ってしまった。今甘えられたり拗ねられたりしたら面倒だと思っていたため、そっとしておいてもらえて安堵している。
「(めっちゃいらんこと言ってしもたなー……)」
俺が言った小っ恥ずかしい言葉の羅列が走馬灯のように呼び起こされ、うわぁ、と自己嫌悪する。いっそこのまま勝手に帰ってしまいたい。しかし服を着るのも面倒くさい。
空白の時を過ごしていると、洗面所からなまえが出てきた。廊下にある冷凍庫を開けてアイスを取り出したなまえは、袋を破きながら部屋に戻って来た。
「敏志くん、アイス食べる?」
コンビニで買ったパピコを半分にしたなまえは、切り取った一つを俺に差し出した。しかし何かを食べる気分ではない。
「今はええわ」
「敏志くんが珍しく食べたいって言って買ったんじゃん。そしたら、はい。これあげる」
なまえはパピコの蓋を取ると、一口分のアイスが入ったそれを俺に渡してきた。ゴミを押し付けられたようなものだが、仕方なく受け取り、プラスチックの容器を噛んでアイスを口に含む。
俺の分のアイスを冷凍庫にしまったなまえは、ラグの上に座ると、Tシャツの襟をぱたぱたと動かしながらアイスを頬張った。
イコさんの言う輝かしい夏はどこへ行ってしまったのか、気怠げな杪夏がこの部屋に充満している。
「そういや、体育の時のあれ何やったん?」
「体育?」
「変なことしたやろ」
「……ああ、敏志くんが転んだやつね」
「転んだんちゃうわ」
「あれは米屋くんと出水くんが『水上先輩って彼女の前でもあんな感じなんだな』って言うから。ちょっと悔しくてあんなことを……」
自分がした行為を思い出したのか、なまえは「ううー」と唸りながら膝に顎を乗せた。なまえの突飛な行動はやはり反発心からなのだな、とぼんやり思う。将棋も負けず嫌いが高じて強くなっていったし、棋風にも気の強さが現れていた。勝負の世界から離れた今、あの荒々しさはそのうち落ち着くのだろうか。しおらしいなまえを想像する。
「何笑ってるの?」
「いや、何もない」
「というかいつまで腑抜けてるの? せめて服着たら?」
「腑抜けてるて……」
振り返ったなまえはじろりと俺を睨むと、床に落ちていた服を寄越してきた。おそらく照れ隠しで睨んだだけで、嫌悪しているわけではない。受け取ったシャツをのっそりと着て、ボタンを掛ける。
「敏志くんこそ、あれ何だったの?」
「あれ?」
「さっき、その、わたしの唇、なんか触ってたやつ」
「後からセックスの内容について言及するんはナシやろ」
「セックス」という単語に、なまえは動揺して頬を紅潮させた。前回も今回も自分から誘ったくせに、初心な反応をされても困る。スラックスを履いていると、わなわなと震えていたなまえがくるりと振り返り、ベッドの上をどんと叩いた。
「そっちが言葉足らずなんやからしゃあないやん。顔もあんま変わらんし、わかりづらいねん、いつもいつも……!」
「なまえ、おもっくそ方言出てるで」
むぐ、と口を噤んだなまえは、悔しそうに眉を顰めた。
なまえは成長期を大阪で過ごしたため、とっくの昔に大阪弁が染み付いているはずだが、エセっぽい気がすると言って頑なに方言を話そうとしない。昂った時に無意識に出る言葉が方言な時点でエセではないと思うが、言うとまた面倒なことになりそうで、言葉は飲み込んだ。
なまえはふんと鼻を鳴らすと、そっぽを向いて無言でアイスを食べ始めた。これは確実に拗ねた。ベルトを締めて、どうしたものかと思考を巡らせる。
「なまえさん」
「…………」
「あらら、拗ねてもうた」
ベッドの縁に腰掛けてなまえの顔を覗き込もうとしたが、さらにそっぽを向かれた。だがこれも想定の範囲内だ。なまえの乾かしたばかりの髪を一房掬い、指に絡ませる。滑りの良い髪が、するりと指先をすり抜けた。
「そういうとこもかわいいな」
半分以下になったアイスの容器が鈍い音を立てて床に転がった。なまえは俺から距離を取って振り返ると、真っ赤な顔で俺を見た。俺はそんななまえを見て、内側から渾々と湧き上がる感情を抑え込むように頬杖をつく。
「まあ嘘やけど」
そして、また一つくだらない嘘を吐いたのだった。

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