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俺の歩行に少し遅れて、売り場に林立しているレースカーテンが微かに揺れる。半透明な布の良し悪しを全く理解出来ないまま、この通路を何往復したかわからない。
これだけ悩んでおきながら思うことではないが、量販店の商品など大した違いもなく、特出しているものがない。だからこそ選択に時間をかけてしまっている。
自分用であれば一番安いものを選ぶし、気心の知れた相手に渡すものなら最初に目に入ったものを選ぶ。だが今回は少なからず気負っている。そんな自分に呆れる程に。

あれからあっという間に夏休みに入り、なまえは本当に三門市に引っ越して来た。てっきり親と一緒に来るものだと思っていたが、一人暮らしをするという。
あの時なまえがこちらに来ていたのは、学校や物件の手続きをするためで、母親とホテルに一週間半滞在していた。その空き時間に、俺が偶然通りかからないかと駅前に立っていたらしい。
俺となまえが付き合うことになったその日の夕方、滞在しているホテルまで送るついでになまえの母親に挨拶をしに行くと、記憶よりも白髪が増えたおばちゃんは俺を見るなり「敏志くん、本当にごめんなさいね」と謝った。
なまえに席を外してもらい、語られたのは女流棋士時代のなまえのことだった。想像していたが、やはり悪意に晒されることが人よりも多くあったようで、一時期塞ぎ込みながらも仕事をこなしていたという。関東に移籍したのは心機一転の意味もあったそうだが、そのまま崩れてしまったらしい。
そんななまえが自ら廃業することを選び、やりたいことを見つけたからには親として応援しなければならない。しかし、だからといって同情でなまえに接する必要はないと語るおばちゃんに、俺はなまえにも話していないこれまでの想いを簡単に伝えた。そして交際するに至ったと話すと、おばちゃんは少し驚き、安堵したように微笑んだ。
所詮高校生の俺に大した力はない。「任せてください」とも「守ります」とも言えず、俺は「よろしくお願いします」と頭を下げた。
なまえが幼い頃から気苦労が多かっただろう。それなのに謎の侵略者との戦いの舞台である三門市に娘を一人で送り出すのは気が気でないはずだ。だからこそ、軽率に責任を取るという意味が含まれる言葉を口に出してはならないと思った。

なまえがこちらに引っ越して来るまでの間、俺たちはぽつりぽつりと電話やメールのやり取りを行なった。空白の期間が長すぎて、何から話せばいいか、どんな風に接したらいいかわからず、ぎこちない空気に悩んだりもしたが、それは向こうも同じだったようだ。しかしお互いに気付いていないフリをして、簡素な連絡を取り続けた。
引っ越しまで数日に迫った頃、電話で引っ越し祝いに何か買ってやると言うと、なまえはわずかに悩んだ末、レースカーテンがほしいと言った。前々からずっと狙っていた海外製のカーテンを買ったことに浮かれて、レースカーテンを買い忘れたのだという。
食器や家電を想定してある程度調べていたため、「レースカーテン」という言葉に俺の思考は数秒停止した。通話を切って腕を組みながら数分して、俺はようやく「なんでやねん……」と呟いて、どうしたものかと頭を悩ませたのだった。
カーテンは頻繁に買い換えるようなものではない。加えて向こうの性格を察するに、貰い物は長く使う。俺が小学生の時に渡した土産物のペンを中学に上がっても使っていたような奴だ。たとえ次に住む部屋のカーテンのサイズが違っていても、どうにか使えないかと試行錯誤する姿が目に浮かぶ。
手近にあったカーテンのタグを手に取る。遮熱、採光、UVカット率、洗濯の可否。いっそのこと機能で選ぼうと思ったが、何を優先したらいいのかわからず、ただ選択肢が増えただけだった。
明らかに好みではなさそうな子どもっぽい柄が入ったものや、色が付いているもの、極端に安いものは除外する。
趣のない普通のレースカーテンがいいのか、遊びのあるデザインがいいのかだけでも事前に訊くべきだったのかもしれないが、こんなに選択肢があるとはその時の俺は知らなかった。ボーダーの寮は必要最低限の家具が揃っていたし、実家の自室のカーテンは幼少期に親が選んだものだったからだ。そもそも興味がない。
時間を確認すると、約束まで一時間を切っていた。今日は組み立て式の棚が届くらしく、それが到着する前に向こうに着く必要がある。売り場をもう半周するまでに決めようと、さらに注意深く布地を観察する。
白の彩度、透け具合。刺繍の柄。
たった一人で三門市まで来た人間に贈るに相応しいものを選んでやりたい。ガラではないがそう思っている。本当はもっと上等なものを買ってやれたらよかったが、ボーダーの給料を貯めていると知らないせいか、あまり高すぎても困ると向こうが言うので、仕方なく量販店に来た。
「(…………これでええか)」
散々迷ったが、この中で一番なまえの好みに近いと思ったものを選び、サイズを確認してから一セットカゴに入れた。
会計をして外に出ると、強い日差しとコンクリートの熱が顔面に広がった。不快な空気に身を包まれ、外に出ただけにも拘らず一気に体力が削られていく。だらだら歩いても疲れるだけなので、足早に歩道を進む。
まだ午前中だというのに、遠くのアスファルトの上で陽炎が揺れている。夏の路面温度は六十度を超えるらしい。そのため犬の散歩をする時は早朝か夕方にしないと肉球を火傷して危ないのだと、以前嵐山さんが語っていた。
脇を通った大型トラックのマフラーから出た熱が吹き付ける。カーテンが入ったビニール袋が汗をかいた足に張り付き、持ち手が指に食い込む。
夏は苦手だ。インドアな人間にはこの気温は堪える。それでも足が進むのは、その先にあいつがいるからなのだろう。
過去に戻らないと会えないと思っていたなまえが、自分の未来に存在するという事実は妙な感覚で、未だに現実味がない。都合の良い夢ならどれだけよかったかと思うが、腕にかかる荷物の重みが夢ではないということを知らしめていた。
数十分バスに揺られ、なまえの住むマンションの最寄りのバス停で降りる。俺が住む寮からなまえのマンションへは徒歩で行けない。今後、なまえを迎えに行ったり送ったりするのは以前のようにいかないだろう。だが逆に、簡単に行ける距離ではないことに安堵している自分もいた。
付き合っているとはいえ、俺たちの間にある感情が正真正銘の恋愛感情かどうかはわからない。例え正しい想いではなかったとしても俺から離れるつもりはないし、おそらく向こうもそれなりの覚悟を持ってこちらに来たはずだ。お互いどこにも逃げ場がないので、関係の再構築は慎重にしなければならない。だからこそ、向こうの出方を出来る限り予想して、対策を考え続ける必要がある。
マンションの自動ドアをくぐり、エントランスの窓口に座る管理人に軽く頭を下げる。オートロックに部屋番号を打ち込んで応答が来るまでの間、カメラに自分の顔が映っていると思うと居た堪れない。そわそわしていることを悟られないよう真顔で佇んでいると、「はい」となまえが応えた。
「俺やけど」
「今開けます」
「素っ気な」
俺の声は届かなかったのか、ぶつりと通話が途切れて自動ドアが開いた。実家にいた頃はインターホン一つで済んだが、なまえに会うのも大変になったものだ。
幽霊が出そうな程ひんやりとしたエレベーターホールで、点滅する階数表示ランプを見上げながら汗を拭う。汗くさいと嫌な顔をされるだろうが、この際仕方ないと開き直る。
これまで無縁だった配慮に「しょうもな……」と呟いたところでエレベーターのドアが開いた。中に乗り込み、五階のボタンを押してドアを閉める。
なまえと顔を合わせるのは初夏以来になる。藤棚の下で将棋を指したあの日、肩を引き寄せたのはいいものの、それ以上近付くことが出来ず、結局すぐに手を離した。言葉で相手をコントロールするのは得意な方だと自負していたが、俺はなまえを泣き止ませる言葉一つ思い付かず、落ち着くまで待つしか出来ない無力さを感じながら藤の揺らぎを見上げていた。ハンカチもティッシュも入っていない学生服のポケットには、トリガーホルダーだけが入っていた。
五階に着き、角部屋の前まで進む。ドア横のインターホンを鳴らすと、応答がない代わりに、部屋の中から足音が聞こえてきた。
「本当に敏志くんだ……」
「敏志くんですけども」
ドアガードを掛けたままドアを開けたなまえは、隙間から顔を覗かせると開口一番にそう言った。
「開けてくれへん? このままやと不審者になってまうわ」
外側からドアガードをこつこつ叩くと、なまえは「はい」と言って一度ドアを完全に閉めた。ドアガードが解除される音がしたかと思えば、勢いよく開いたため「どわっ」と仰け反る。
「あぶなっ!」
「ご、ごめん」
玄関先に立つなまえは、気まずそうに俺から目を逸らしながら右手で左肘を撫でた。オーバーサイズのシャツに短パンといった無防備な姿に、勝手にまずいものを見たような気になり、俺も目を逸らしながら舌を回す。
「おばちゃん中いてはるん?」
「今買い物行ってくれてる。お昼食べていってね」
「おん。せやこれ、引っ越し祝い」
カーテンが入っている袋を渡すと、想像以上に重かったのか、なまえの腕がずんと下がった。明らかに非力な腕でこれから農家をやっていけるのかと一抹の不安が過ぎる。
「カーテンとかようわからんから適当やけどええよな」
「いただけるなら何でも。ありがとう」
「外えらい暑くてかなわんわ。飲み物くれへん?」
「麦茶あるよ」
「お、夏やなぁ」
部屋は一Kで、ぎりぎり二人通れる廊下にキッチンがある。なまえは俺を部屋の中に入れると、冷蔵庫の中から麦茶のボトルを取り出した。
一昨日引っ越して来たばかりだが、これから届く棚に収納する荷物以外は大方片付いていた。レースカーテンがないため、剥き出しになった掃き出し窓の両サイドには、群青色の布地に光沢のあるパターン柄の刺繍が入った遮光カーテンが纏められている。部屋に入って左手に置かれたベッドには限りなく白に近いグレーのシンプルなカバーが掛けられていた。色の好みは相変わらずらしい。
なまえは木製のローテーブルに麦茶を置くと、ラグの上に座って俺を見上げた。見る角度を変えても整っている顔立ちに改めて感心する。
「どうして睨むの?」
「人聞き悪いな。睨んでへんわ」
「じゃあ目付きが悪い」
「しゃあないやろ、遺伝や遺伝」
そう言いながら腰を下ろし、すでに結露して水滴が伝い落ちるグラスを持った。冷えた麦茶が内臓に浸透していく。口の中の温度が格段に下がったのがわかった。
「はー、生き返るわ」
「おじさんみたい」
「おまえも外出てから飲んでみ。オバハンなるで」
不服そうに目を細めたなまえは、膝を抱えて「荷物まだ来ないのかなぁ」と話を逸らした。
昔からそうだが、なまえは俺にだけ憎まれ口を叩く。思ったことをそのまま口に出すため、何度俺の心臓を抉ったかわからない。
これはなまえの甘えだ。自惚れでもなんでもなく、なまえにとって俺は唯一気を許せる相手だった。俺を傷付けるつもりはないようだが、儘ならない感情があるのだろう。
黙って座っているだけで極端な好意と悪意をぶつけられていたなまえは、たった一つの言動、行動にも批判がついて回った。幼馴染の俺と共にいることすら非難されることもあった。仲が良い女子もいたが、本当の意味で心を許していた友人は俺以外に存在しなかったのかもしれない。
ストレスを溜め込むタイプの人間であることは長い付き合いの中で理解していたし、その要因もわかっていたため、俺はなまえの口をついて出る棘のある言葉や我儘をかなり許容していた。そう出来たのも、色々なことを差し引いてもなまえの良いところを知っていたからだ。それでも苛つきはするので、わざとらしく態度に出すと、なまえは顔を青くして素直に謝った。まるで俺に嫌われたら生きていけないという態度なので、哀れに思えて簡単に許してしまう。今になって考えると、それがなまえの甘えを加速させたのだろう。
息をついて後ろに手をつく。もう話すこともあまりない。しかし沈黙すると気まずくなると思い、どうするかと視線を動かした先に、家具量販店のビニール袋が見えた。
「今のうちにカーテン付けたろか?」
「あ、うん。ありがとう」
袋を引き寄せ、折り畳まれたレースカーテンをパッケージから出して広げる。縦方向に細く縫い込まれた銀の糸のラインと、白い糸のラインが等間隔に入ったそれは、遠目から見ればほとんどわからない程度のあしらいだ。こんなものを選ぶのにえらい時間をかけてしまった自分がアホらしい。
「フック付けなあかんのか。なまえ、そっち付けといてくれ」
小袋に入っていたフックを半分渡し、二人で取り付けていく。横目でなまえを見ると、カーテンを抱えるようにして、静かな表情でフックを取り付けていた。気に入ったかどうかは表情だけではわからなかった。
先に付け終わった俺は立ち上がり、腕を伸ばして端から順番にフックをランナーにかけていく。一番端のランナーにかけようとしたところで滑ってしまい、指先から逃げていくものを追いかけようとした時、背後になまえが立つ気配がした。逃げたランナーを固定させ、狙いを定めていると、なまえが消え入りそうな声で俺の名前を呼んだ。
「敏志くん」
「うん?」
「わたし変かも」
「何がや?」
「敏志くんと二人きりなんて慣れてるはずなのに。当たり前だったのに。わたし今、敏志くんと二人でいることにすごく緊張してる……」
窓ガラスにうっすらと目を見開いた自分の顔が映っていた。思わず俯く。伸ばしたままの腕の倦怠感が、ゆっくりと肩の方に下りてくる。全身が空気の流れに敏感になり、なまえの気配を探っている。
「それはほんまに変やな」
俺は振り返ることなく、そう答えた。止まっていた手を動かし、カーテンを取り付ける。残るはなまえが持つ反対側のカーテンだが、俺はそれを渡すよう催促する言葉を上手く口にすることが出来ず、「ん」と右手を後方に差し出した。手に載せられたものに人体の温もりはなく、俺はそのことにどこか安堵していた。
もし今背後から抱き付かれたら、俺はきっとなまえを拒む。そのことを知られたくなかった。


 2


引っ越しもある程度落ち着き、なまえはみかん農家でアルバイトを始めた。
農家はどこも人手不足だというが、なまえのバイト先も例に漏れずそうなのだろう。ただでさえ三門市は人口が減るばかりだ。いくら家族経営だろうが、働き手がいなくなればいずれ途絶える。
お互いにあと何年この地に居続けるのかすら不明だが、考えることを放棄しても季節は勝手に移り変わる。そういうものだと、俺は身を持って知っている。

三門みかんというブランド品種があるくらい三門市ではみかん栽培が盛んで、市の創造的復興の足掛かりとしてインターネット販売にも力を入れているらしい。街中では土産物としてみかんを加工した商品をよく見掛ける。俺も実家に帰る時の手土産に、みかんを使用したポン酢を買って帰った。
冬に収穫を迎えるみかんだが、なまえが世話になっている帯島農園では、ハウス栽培やその他数種類の品種を栽培しており、どの季節でも何かしらの出荷があるという。
入ったばかりのなまえの仕事は草むしりだったり、摘果という不要な実を取る作業だという。みかん畑が傾斜地にあることから大型の機械が導入出来ないため、この摘果という間引き作業は人力で行われる。これには人数を要するらしく、なまえの他に数名のアルバイト、経営者の息子たちも手伝っているとなまえが話していた。
最近のなまえは電話口でも疲労の色が濃いのがわかる。慣れない環境に加え、空調のない場所での作業に体力が削られているのだろう。温暖化のせいか、毎年最高気温を更新している。そんな夏に突然放り込まれて、疲弊しないはずがない。
女流棋士と全く関係ない仕事を選んだ理由をまだ訊いていないが、俺自身もボーダーという組織に身を置いているため、人の仕事にとやかく言う資格はない。
俺がなまえの体調を心配するように、なまえも俺の仕事のことが少なからず気掛かりなようだ。機密事項も多くあるため、はぐらかしながらではあるがボーダーという組織で行われていることを説明すると、不服そうではあったが納得したようだった。正直今更ボーダーに入隊したことを非難される筋合いはないが、逆の立場であれば俺も口を出すだろうと思ったため、素直になまえの心配を受け入れた。
俺は出来るだけなまえとボーダーは遠いところにあってほしいと思っている。ボーダーに興味を持たなくていいし、なるべく関わってほしくない。なまえが三門市に引っ越して来たことも心の底ではあまり良く思っていない。だがこうなったのも全て俺が逃げ続けた結果だ。なまえが何事もなくこの地で暮らしていけるよう、気を引き締めなくてはならない。それなのに俺は、なまえが手の届く範囲にいることに浮かれているらしかった。

  ●

そういえば夏祭りがあるんだって、となまえが呟いた。何気なく言ったつもりだろうが、真意が透けて見えて思わず笑いそうになってしまう。
携帯を持ち直し、ボーダーで配布された卓上カレンダーを手に取る。夏祭りの日程は把握していないが、週末だろうと目星をつけ、簡単なメモで記された防衛任務のスケジュールと照らし合わせていく。
「そういやあるな、夏祭り。結構賑わうってボーダーの奴が言っとったわ」
「うん。農園の奥さんが教えてくれたの。ご家族で行くみたいで、もし予定がないなら一緒にどうかって。わたし、こっちに敏志くんしか知ってる人いないでしょ。気を遣ってくれたみたい」
「ええ人たちやな」
「うん。敏志くんは誰かと行く予定ある?」
「今んとこ予定はないな。まあ行くとしたら隊の奴とちゃう?」
そう言うと、なまえは押し黙ってしまった。あらら、と思いながら、さすがにからかい過ぎたかと反省する。
「祭りの日程わかるか?」
「再来週の土日。でも土曜日はバイトある」
「ほんなら日曜やな。あー、日曜は夕方まで任務や。その後でもええ?」
「ボーダーの人と行くんでしょ」
つんとした声色。どうやら拗ねたらしい。本気で拗ねているのかポーズなのかわからない絶妙なラインだが、これ以上からかうとろくなことにならない。
「冗談やって。一緒に行こや」
「ん……」
「なんや、まだご不満か?」
「ううん。楽しみ」
普段滅多に使わない表情筋に力を入れる。それでも真顔が崩れそうで、誰が見ているわけでもないのに口元を押さえた。
大阪にいた頃、なまえはこんなに素直な奴ではなかった。負けず嫌いなせいか、一度損ねた機嫌を取るのは骨が折れたものだ。俺がからかった時は特にそうだった。それなのにこんなにあっさりと機嫌を直したことに驚く。
「敏志くん?」
「ああ、わるい。電波悪なった。この部屋常にアンテナ二本やねんな」
「へえ……」
事実ではあるがさすがに苦しい言い訳だったか。取り繕う必要はないはずだが、何故か意味のない軽薄な嘘が地層のように積み重なってしまう。誤魔化すように、矢継ぎ早に話を進める。
「当日迎え行こか?」
「任務あるんでしょ? 現地集合の方が早いよ」
「せやけど、いけるん?」
刹那、なまえは小さなため息をこぼした。緩んでいた身体の輪郭が引き締まる。すっと感情が凪いで、続く言葉に神経を研ぎ澄ませる。
「敏志くんの中のわたしって、まだ中学生の時のままなの?」
「いや、別にせやないけど。慣れへん土地歩くんもしんどいんちゃうの」
「わたしは迎えに来てもらうより、少しでも長く敏志くんとお祭りにいたい……」
電話口からの衝撃に頭が吹き飛んだような気がして、確かめるように首に触れてみた。当たり前だがしっかりと繋がっている。なまじ頭を吹き飛ばされる感覚を知っているため、生身であってもひやりとする。
「わかった。ほな現地集合しよ。携帯ちゃんと持ってきぃや」
「うるさ。わかっとるし」
ぼそっとなまえが呟いた。なまえの口から関西弁が出る時は苛ついている証拠だ。これ以上いらないことを言う前に通話を切るのが賢明な判断だろう。
夜も更けていたため、適当な理由をこじつけて通話を終わらせる。途端にどっと疲労が肩にのし掛かってきて、崩れるようにベッドに倒れ込んだ。
「疲れるわ……」
接触冷感素材の枕カバーに顔の熱が吸い取られて、徐々に生温かくなってくる。寝返りを打つと、再び冷たさが頬に触れた。そのまま目を閉じて、大きく息を吐く。
なまえと二人で出掛けたことは数え切れない程あるが、今回の約束は紛れもなくデートというやつに違いない。自分とは無縁だと思っていた甘ったるい単語に、何故か胃の不快感が迫り上がってきていた。

  ●

三門市は四六時中トリオン兵に攻められているわけではない。もちろんトリオン兵がいつ襲撃してくるかわからないため、持ち場を離れるわけにはいかないが、暇な時は大抵どうでもいいことを話しながら警戒区域をぶらぶら歩いたり、瓦礫に座り込んだりしている。
「今日祭りやってるやん? これ終わったらみんなで行かへん?」
もぬけの殻となった住宅街を歩きながら、先頭にいたイコさんが振り返った。この話題は絶対に出ると思っていたが、彼女と行くと言ったら地の果てまで問い詰められそうで、出来れば避けたかった。
「はいはい! オレ行きます!」
「うちはええわ。昨日行ったし」
「お祭りええなあ。水上先輩はどうです?」
殿で気配を消していたが、隠岐の朗らかな声が俺に視線を集中させた。
「すまん、先約あるねん」
「あらら、それは残念やなあ」
「そしたら水上先輩の友達連れて来たらいいじゃないですか! 一緒に回りましょうよ」
「お、海それナイスアイデア」
「いやいや、それお友達かわいそうやろ」
心の中で「ええぞ隠岐」と呟く。隠岐の言葉に海は不思議そうな顔をしていたが、イコさんは「確かに、一理あるなぁ」と納得したようで、話を切り替えて祭りと言えば何を食べるかという談義をし始めた。
『水上先輩』
すっと寄って来た隠岐が、内部通話で話し掛けてきた。その柔和な笑みに、嫌な予感がする。
『もしかして彼女さんですか?』
『……いらんこと訊かんでええねん』
『すんません。最近よく携帯見てはるから』
『うっさいねん。ええから向こう行っとき』
『あはは、了解』
隠岐はサンバイザーの先を摘んで軽く会釈すると、先頭でわちゃわちゃしているイコさんと海に混ざりに行った。はあー、とデカいため息を吐く。
隠岐は相変わらず整った顔立ちをしている。見た目だけでなく、雰囲気の一切から角を感じさせない朗らかな男だ。自己主張がないわけではないのに、人の懐に自然に入り込むのも上手い。自分がどうしたら生きやすいかを無意識にわかっている。
なまえはそれが出来なかった。身を守ろうと棘を纏ったが、その棘を外から強く押されて自身が傷付き、今でも刺さったままでいる。
隠岐を見てなまえを思い出すことがあったが、今思えば二人は真逆の人間だ。だからこそ案外隠岐の方がなまえに相応しいのかもしれない。俺にはない大らかさと包容力があり、並んでもお似合いだろう。
俺がなまえに選ばれたのは、俺があまり外に感情を出さない人間だったからではないか。子どもの頃から落ち着いていると言われることが多かったが、落ち着いているのではなく、自分の感情を処理する能力が同年代よりも早く備わっていただけで、今の歳くらいになれば大抵の人間には出来ることだ。
俺はあの頃、この手に掴んでいたものが人より優れていると強く信じていた。しかし手を開くとそこには食い込んだ爪の跡だけが付いていた。その瞬間、自分がとっくに燃え尽きていたことに気付いた。そんな俺の隣でなまえは漁火のように燃え続けていた。
なまえの容姿に対して何の感情も湧かなかったわけではないが、俺は一度もその容姿を褒めたことがない。それどころか、将棋に関しても直接褒めたことがない。どれだけ努力してもなまえがプロ棋士になれないのは歴史を勉強すれば明らかで、俺は心のどこかでそんななまえを憐れんでいた。
しかし今はどうだ。俺は華やかさとはかけ離れた人間で、なりたいものになれず、好きな女に嘘を吐いて己を取り繕っている。等身大の俺が暴かれ、落胆されることを恐れている。
年々、嘘が得意になっていく。

道標のように朱色の提灯がぶら下げられている道を歩いていると、録音の祭囃子が聴こえ始めた。光に群がる羽虫のように、人を掻き分けながら風のない夜を肌に張り付けて、重い足を前へと進める。
かき氷を落として泣く子どもや、缶ビールを片手に大声で笑いながら花壇のへりに座る大人たちを通り過ぎると、待ち合わせ場所にしていた鳥居が頭上に見えてきた。
なまえはすでに到着しているらしい。面倒ごとに巻き込まれていないことを祈りながら境内へと続く階段を上る。階段付近には『座り込み禁止』と書かれたポスターが貼られているが、当たり前のように食事の席と化しており、ぽんと置かれた焼きそばのパックを蹴飛ばしそうになってしまった。薄暗い足元に注意しながら階段を上りきり、なまえを探す。いや、探さなくてもすぐにわかった。
紺地に白椿の生地、臙脂色の帯といった古典的な浴衣に身を包んだ女は、朱色の光にぼんやりと照らされて、そこに佇んでいた。
衝動的に来た道を引き返そうと思ったが、なまえはすぐ俺に気が付いて、安堵したように表情を緩めた。なまえの周りだけ薄闇が取り払われたのかと錯覚する程、姿がはっきりと浮かび上がって見える。地面が小刻みに揺れている感覚がしたが、誰も感知していない揺れは、俺の中だけで起きていた。
「敏志くん」
下駄を鳴らして駆け寄って来る歩幅はあまりにも小さく、今にも躓きそうで、俺も引き寄せられるようになまえの元へ向かう。
動く度に形を変える浴衣のシワが上品で、生地が身体にゆったりと沿っているのが薄暗さの中でもわかった。ゆらゆらと揺れる袂に咲く白椿の残像と、そこからすっと伸びる手に握られた地味な色の巾着袋。ゴム一本で括られた髪には、何の飾りも付いていない。そんななまえを見つめながら、俺は何故か『無辺際を飛ぶ天の金属』という一節がある高村光太郎の詩を思い出していた。
「すぐに会えてよかった。結構人がいるんだね」
暗闇の中のわずかな光を全て集めたような瞳が俺を見上げる。俺が捨てた雑誌の中にいた女と、目の前で微笑む女は本当に同一人物なのだろうか。瞬きすら惜しくなる程、毎秒変わるなまえの微かな動きに敏感になる。
「敏志くん? お仕事終わりで疲れてる?」
「……いや」
視線を外すと、こちらを見ている男と目が合った。それも一人だけではない。男二人組もいれば、カップルもいる。そいつらは俺を見ると、すっと雑踏の中に紛れて散った。おそらく合流相手が女子だったら声を掛けるつもりだったのだろう。女の方は、どんな奴が彼氏なのかを見たかったのかもしれない。
「何かいた?」
なまえは振り返り、俺の視線の先を追った。すっと抜かれた衣紋から覗くうなじの後毛が、汗で首に張り付いていた。
「タチ悪いのおらんかったか?」
「さあ、わたしには何も見えなかった。行こっか。お腹空いちゃった」
くるりと踵を返し、なまえは屋台が並ぶ道の方へ俺を促した。はぐれないよう、後を追う。
「浴衣着てみた」
ぎくりとしてなまえを見ると、埃を払うように袖を撫でながら、なまえはどこか弾んだ口調で言った。
「いいでしょ。前に撮影で着たやつなんだけど、気に入ったから買い取ったの。呉服屋のやつだから結構良いお値段した」
「へえ」
「撮影は大嫌いだったけど、浴衣も袴も着るのは好きだったな」
「暑そうやな」
「……興味なさそう」
「いや別に。ええんちゃう」
なまえのまつ毛がわずかに下がる。横顔の輪郭が電飾の黄色い光に縁取られ、人が通る度に遮られては、再び照らされる。通行客は誰も、俺たちの沈黙に気付かない。
「何食べよっか? たこ焼き?」
「たこ焼きなぁ」
「あっ、チョコバナナ食べる」
「メシちゃうやん」
「いいの」
巾着から小さな財布を出したなまえは、茶色やピンク色のものがある中で、毒々しい水色のチョコバナナを選んだ。
「何でよりによってその色やねん」
「この中で水色が一番好きだから」
「食欲なくすわ」
「敏志くんが食べるわけじゃないじゃん」
テキ屋のおっちゃんに金を渡し、チョコバナナを受け取ったなまえは、カラースプレーをぽろぽろとこぼしながら不気味な色のチョコバナナを頬張った。帯の隙間に引っかかったカラースプレーが、ゆっくりと地面に落下する。それを見届けてから、再び人の流れに身を任せる。
なまえの気の向くまま食べ物を購入してから、屋台の並びから外れて落ち着ける場所を探す。ベンチは当たり前のように占領されており、至る所の段差に人が座り込んでいた。
「混んでんなー。立ち食いでもええ?」
「うん。あそこにしようか」
本殿を囲う玉垣の隙間に荷物を置いて、袋から焼きそばのパックを二つ取り出す。
「なまえ、箸割ってくれ」
箸を二膳割ってもらい、焼きそばのパックと箸を一つずつ交換する。作り置きされていたせいか、焼きそばは温くなっていた。それをもそもそと食べていると、ふいになまえが口を開いた。
「敏志くんとお祭り来るの、小学生以来かもしれない」
「せやなぁ。おまえが人混み嫌や言うて行かんようなったな。翌年から土産にあんず飴買うて来いってパシらされたけど」
「そう。でも家に着く頃には水飴が溶けちゃってて、モナカがふにゃふにゃなの」
「手ぇベタベタなるしほんまに嫌やったわ」
「でもちゃんと買って来てくれたよね」
その時のことを思い出したのか、なまえが小さく微笑む。俺は何も答えず、大口で焼きそばを頬張った。
空になったパックを片付けている際に、ふと母親からの連絡を思い出してしまった。逡巡したが、意を決して尻ポケットに入れていた携帯を掴む。
「なまえ」
名前を呼ばれて振り向いたなまえに携帯のカメラを向ける。すると突然のことに驚いたのか、なまえは口元を押さえてごくりと焼きそばを飲み込んだ。
「え、なっ、何?」
「何って、写真やろ」
「何で突然」
「おかんがどっかから話聞きつけたみたいでな、おまえの写真送れってうっさいねん。一枚でええから」
「待ってやだ、口に青のり付いてるかも」
「お茶目でええやん」
「よくない!」
嫌がって割り箸を持つ手で顔を遮るなまえの写真を一枚撮る。本当に撮ると思っていなかったのか、「ちょっと」と焦ったように言ったなまえは、次の瞬間にはくすくす笑っていた。
「ひどい、敏志くん」
口元を親指のはらで拭おうとするなまえを連写すると、「ねえ!」と怒られてしまった。俺に背中を向けて残りの焼きそばをかき込むなまえの後ろ姿も撮影する。
なまえは焼きそばを食べ終えると、巾着に入っていたポケットティッシュで口を拭いた。そして仕返しのつもりなのか、なまえも俺に向けて携帯を構えた。
「俺なんか撮ってもしゃーないやろ」
そう言いつつ真顔でピースサインを作ってやると、なまえは声を出して笑いながら俺の写真を撮った。ディスプレイの中の俺が一体どんな顔をしているかわからないが、昔から写真写りは悪い方だ。
「敏志くんの写真なんて初めて撮ったかも」
「普段撮らんしな」
将棋大会の記念に撮影した集合写真は実家の引き出しの中に眠っているが、スナップ写真のようなものは所持していない。あの頃は毎日のように顔を合わせていたため、写真がほしいと思ったことは一度もなかった。
そんなことを考えていると、携帯を巾着の中にしまったなまえが、上目遣いで俺を見上げた。甘える時の予兆とはまた少し違う、どこか恥じらいを孕む表情に息が止まりかける。
「わたしの写真、撮るなら後でちゃんと撮って」
その意外な言葉に俺は少なからず驚いていた。先程撮影は大嫌いだったと言っていたはずだ。その言葉の通り、雑誌やイベントレポートブログなどに掲載されていた写真のなまえは、不意打ち以外は大抵微妙な顔をしていた。ファンにも気付かれるくらいの写真嫌いにも拘らず、ネットの海には大量の写真が今も漂っている。写真どころか、女流棋士になった際に市長と対談した映像や、地方のテレビ番組に出演したものも動画サイトに違法アップロードされている。
「撮られんの嫌なんちゃうの?」
問うと、なまえは紙コップに入ったからあげに爪楊枝を刺しながら、今にも消え入りそうな声で言った。
「敏志くんならいい」
「……さいですか」
お互いに目を合わせられないまま、黙々とからあげやお好み焼きを食べ進める。あまりの居た堪れなさに帰りたい気持ちが強まってきた。しかしまだ買い食いをしただけだ。しかもこれを食べたら、あんず飴を買いに行くと約束してしまった。
沈黙していたせいか、俺が食べていたお好み焼きはあっという間になくなった。パックの溝に挟まったかつおぶしを箸でかき集めながら、なまえが食べ終わるのを待つ。なまえが食べているからあげはまだ熱いようで、一口齧っては口内に空気を送り込んでいる。油なのか口紅なのか知らないが、つやつやした唇を無意識に見ていた自分に引いて俯く。
「なあ。もしかしたら知り合いおるかもしれんのやけど、誤魔化すのも面倒いしおまえのこと彼女やって言ってええよな?」
「うん」
「即答やな」
「だって事実だし」
「まあ、せやな」
「……敏志くん。さっきから思ってたんだけど、ちょっと照れ過ぎだと思う」
「は?」
からあげを食べ終えたなまえが、ゴミを片付けながら呆れたように言った。
「今も自分から仕掛けたくせに照れたでしょ」
「アホなこと言うてると置いてくで」
「照れてないなら、手、繋いで。人多いからはぐれる……」
「そんなんどう考えても俺のキャラちゃうやろ。食い終わったんやったらさっさと行くで」
地面に置いていたゴミ袋を手首に掛け、ジーパンのポケットに両手を入れて歩き出す。断固として繋がないという意志を感じたのか、なまえが無理矢理俺の手を取ることはなかった。
今にも溢れ返りそうなゴミ箱にゴミを突っ込む。振り返ると、不服そうに唇を尖らせたなまえがいた。
「いやいやいや、何やねんその顔は」
するとなまえは、俺の腰の辺りまで片手を上げた。
「……手、昨日草むしりしてたらかぶれた」
「おお、帰りしな薬買いや」
「見て」
強制的に患部を見るように言われ、腕を組んでどれどれと身を屈める。確かに親指の付け根辺りに赤い発疹があるが、よく見ないとわからないくらいで、ほぼ治りかけている。
「こんくらいやったら明日には綺麗さっぱり……」
顔を上げると、暗闇でもはっきりわかるくらいなまえの頬が色付いていた。わずかに潤んだ目は、斜め下をじっと見つめたまま動かない。やばい、と思った瞬間には、絶対に触れまいと組んでいた腕を解いていた。
なまえの爪が薄い桃色に色付いている。少なくとも前回会った時には塗られていなかったが、今日のために塗ったのだろうか。あまり好きではないはずの、女子らしい色を。
まじまじと見て気付いたが、何の苦労も感じさせない白魚のようだった手は少し荒れており、日に焼けて以前よりも逞しく見えた。その手を労われたら、と手を伸ばす。触れるまでの距離がやけに長く感じる。
「みずかみんぐ」
「おわっ!」
指先が触れそうになった瞬間、背後からぽんと肩を叩かれた。突然のことにさっと手を引っ込める。
俺を「みずかみんぐ」というけったいなあだ名で呼ぶ人間はこの世でたった一人しかいない。振り返ると、そこには口元に微笑みを湛えた線の細い男が立っていた。
「王子か。ビビらすな」
「やあ、こんなところで逢うなんて奇遇だね。生駒隊のみんなもいるのかい?」
襟のあるシャツを動かして首元に風を送り込みながら辺りを見回した王子は、俺の影にいたなまえを見付けると「あれ」と笑みを絶やした。俺の方に一度視線をやり、もう一度なまえを見る。
「どうやらお邪魔だったみたいだ」
「……いや、ある意味助かったわ」
「そう? 初めまして、ぼくは王子一彰。みずかみんぐとはボーダーで仲良くしてもらってるよ」
「うわ、グイグイ行くやん」
俺が女子と祭りに来ていたことが興味深かったのだろう。真夏の夜だということを忘れさせるくらい爽やかに微笑する王子は、なまえと話したくて仕方がないらしい。しかしなまえは男に親しげに接せられると警戒する。王子も例に漏れず突っぱねられるだろう。
「ふふ、みずかみんぐ?」
「いいあだ名だろう? でも残念なことに、あんまり浸透してないんだ。きみの名前は?」
「変なあだ名付けられたら嫌だから秘密です」
「ふぅん、随分手厳しいね」
「後でみずかみんぐに訊いてください」
「そうするよ」
そのあまりにもスムーズな会話に、一瞬何が起きているのかわからなかった。なまえが初対面の男と楽しそうに会話する姿を見るのは初めてで、頭の中が困惑している。先日穂刈や鋼と話していた時はなんとか取り繕いながら会話をしていたようだったが、今回はそれとは全く違う。むしろ俺と話している時よりも自然だ。喉の奥の不快感を胃に押し込めるように、ごくりと唾を飲み込む。
「色々詮索したい気持ちはあるけど、向こうでクラウチが待ってるからそろそろ行かないとかな」
「敏志くん、わたしたちも戻ろうか」
「おん」
衝動に身を任せてなまえの腕を掴もうとした時、王子が「そういえば」と俺たちを引き止めた。
「きみのことをどこかで見た気がするんだけど、気のせいかな?」
一瞬沈黙して、なまえは柔らかく、静かに「気のせいですよ」と呟いた。それを聞いた王子は納得した様子で「そうだよね。それじゃあ」と手を挙げると、蔵っちが待っているという方向へ戻って行った。
俺の歩き方が悪いのか、靴の中に砂が入り込む。ざらざらした足の裏をどうすることも出来ないまま、俺は明るい方へと爪先を向けた。
「みずかみんぐって呼ばれてるの?」
下駄を鳴らして俺に追い付いたなまえが、からかうように言う。
「おまえもさっきどさくさに紛れて呼んだやろ」
「だって、初めて聞いたあだ名だったから面白くて」
「ようわからんツボやなぁ」
俺の薄ら笑いは人混みの中に紛れてなまえには届かなかった。気を抜くと言葉に毒を忍ばせそうで、口を閉ざす。血液がヘドロになったのかと錯覚するくらい、血流が滞っている感覚がした。
「敏志くん」
名前を呼ばれてはっとする。出店が並ぶ石畳の中心に佇むなまえは、頭上に並んだ提灯の薄ぼんやりとした光に照らされて、俺のことを見据えていた。
立ち止まる俺たちの横を人が通り過ぎる。波が押し寄せる砂浜に埋もれた貝殻のように、俺たちは人の流れを遮って数秒見つめ合った。
お互いに言葉はなかったが、俺はごく自然な流れでポケットに入れていた携帯を取り出して、その画面の中になまえを収めた。大した確認もせず、携帯をしまう。そしてなまえを連れて細長く続く石畳を歩いて行った。

祭りと言ってもやることはほぼ食べ歩きで、なまえはかき氷を食べた後、最後に待望のあんず飴を購入した。氷の上で冷やされていたあんず飴を食べたなまえは、水飴が溶けていないものは久しぶりだと言って満足そうに笑っていた。
なまえが再びこうして笑えるようになるまで、一体どれ程かかっただろうか。少なくとも女流棋士時代はこうして屈託のない笑みを浮かべる余裕などなかった。中三の中頃に女流棋士になった後は、周りの雑音を遮断し、遊びもせず盤上没我していた。そうすることで自分を守っていたのだろう。
当時、あの見た目と、現役中学生が女流棋士になったということもあり、各社からインタビュー記事が出たが、ページの最下部には通っていた学校の名前が当たり前のように記載されていた。大きな事件にはならなかったが、学校の近くに不審者が出たという話もあった。そういう時にこそ俺が隣を歩くべきだったが、自分も将棋に見切りをつけたことで余裕がなく、あまり情報を入れないようにしていたため、なまえがどのように苦しんだのかは知らない。せめてその苦しみの一因が自分でないことを祈りながら、俺は高校に上がった後、ボーダーのスカウトを受けて三門市に来た。
将棋をやめて苦しくなくなったと言った通り、憑き物が取れたように自由に動き回るなまえは、このまま一人でどこへでも行けるだろう。王子や隠岐のような男とだって上手くやっていけるに違いない。それなのに再び俺の隣を選ぶなど、物好きにも程がある。
祭りも閉会が近付き、俺となまえは帰路につく一般客で混み始めた道を並んで歩いた。人が多いとはいえ、何が起こるかわからない。遠回りになるが、家まで送った方がいいか。しかし前日にそういうことはしなくていいと念を押されている。
帰りの方向のバス停には長蛇の列が出来ていた。次のバスに乗れるか微妙なラインで、乗れたとしても満員だ。せめてバスに乗るまでは一緒にいてやるかと列の最後尾に向かおうとしたところ、羽織っていたシャツの裾を引っ張られた。
「どないしたん?」
「やっぱり家まで送ってほしい」
「送りいらんて言うてたやん」
「気が変わったの」
お得意の我儘が出た。しかし送った方がいらない心配をせずに済む。
「ま、別にええけど」
「じゃあ行こ」
「おい、どこ行くねん」
なまえはバス停の列を通り過ぎて、歩道をすたすたと歩き出した。車で来ている祭り客が多いせいか、大通りは渋滞している。なまえは一本隣の二車線道路に入ると、きょろきょろと辺りを見回した。そしてタイミングよく走っていた空車のタクシーを捕まえると、慣れた様子で乗り込んだ。
「敏志くん、乗って」
招かれるように開いたドアの前に立ち尽くしていると、車内からなまえが顔を出した。タクシーで帰るなら送る必要がないと言いそうになったが、なんとなく言い出せずに俺も車内に乗り込む。自動でドアが閉まると、なまえは運転手に行き先を告げた。車が動き出して、街の景色に溶け込む。
タクシーなど乗り慣れていないため、無意識に車内の情報を目で追ってしまう。普通の車にはまずない運転席の後ろに付いたアクリル板や、運転手の名刺、メーター。助手席の後ろのポケットに入っていた何かのリーフレットを一枚抜き取って眺める。
「リッチやなあ」
「普通にアルバイトしてる高校生よりはね。でもずっとタクシー使うわけにはいかないから、早く免許取りたいな」
窓の外を眺めるなまえの前髪が、音もなく目に掛かる。それをそっと払って、なまえは背もたれに寄り掛かった。リーフレットを元に戻し、俺も背もたれに体重を預ける。
「そういやそろそろ学校始まるな。クラスとかもうわかったんか? 俺はC組やけど」
「ん、うん」
「なんや、煮え切らんな」
「あ、えっと、B組だった」
「隣か」
顰めた顔が窓に映った。B組には王子がいる。わずかな嫌悪すら悟られないよう、表情筋から力を抜く。
「ボーダーの女子おるし声掛けといたる」
「ううん、いい」
「おまえただでさえ人間関係へたくそなんやから、最初くらいは助けてもらっとき」
「本当に大丈夫だから」
どこか力の入った語句に、俺は呆気にとられた。車内が静まり返る。何故だかわからないが、なまえはあまりこの話をしたくないらしい。
外を見たまま黙り込んでしまったなまえを横目で一瞥し、頬杖をつく。先程のなまえと王子の姿が脳裏に過って、再び不快感が込み上げる。転校生だと知ったら王子はなまえを放っておかないだろう。クラスで世話を焼くのはあいつの役目になるかもしれない。
タクシーが赤信号で停車する。ウインカーの音がやけに耳について離れない。

運賃はなまえが出した。半分出すと言ったが、勝手にやったことだからと言って聞かないので素直に引くことにした。
到着と共に目的が達成されてしまい、このまま少し立ち話をするかすぐに帰るか悩んでいると、俯いていたなまえが顔を上げた。
「麦茶飲む……?」
遠くから何かの虫の音がした。喉仏が上下する。こめかみから汗が流れ、顎を伝ってTシャツに落ちた。夏の夜の、生温い風が吹く。
何も言わない俺に痺れを切らしたのか、なまえは「じゃあね」と言ってくるりと背中を向けると、からからと下駄を鳴らしてエントランスへ入った。リボンのように結ばれた帯の、片方だけ長い裾がふわふわと揺れて、まるで俺を誘っているかのようだった。
開きかけた口を閉じ、心を沈める。そして熱帯夜をエントランスの外に置き去りにするように、早足でなまえの背中を追った。

部屋の玄関を開けると、ひやりとした空気が足元に流れ込んできた。どうやらクーラーを付けっぱなしにしていたらしい。廊下のドアを開けるとさらに冷たい空気で満たされており、全身の汗が瞬時に冷やされる。
遮光カーテンは開いたままで、俺が買ったレースカーテンの銀の糸が光の加減でちらちら光った。おろしたてのせいか、まだ部屋に馴染切れていないカーテンを眺めていると、なまえが麦茶を机の上に置いた。
「おおきに」
コップを取ろうと手を伸ばすと、机の上に小さな青みかんが数個置かれているのを発見した。おそらく摘果されたみかんだろう。育ち切る前に間引かれた出来損ないだが、何かに再利用するために持ち帰って来たらしい。
座って麦茶を口に含む。冷えていて一瞬味がわからなかったが、飲み下す頃には口内に麦の風味が広がった。
未だ座ろうとしないなまえに目を向けると、なまえは部屋の隅に置いていた足付きの将棋盤を持ち上げ、俺と自分との間に置いた。
なまえの将棋盤は女流棋士になったお祝いに師匠がプレゼントした本カヤ製で、木目が美しく微かに香木の良い香りがする。それの前に正座をしたなまえは、麦茶を一口飲むと背筋を伸ばした。
「浴衣着てそうしとると指導対局イベントみたいやな」
「直筆色紙と写真撮影、ブロマイドにお土産諸々付いて一万円です」
「アホ。今から一局指すのは無理やな。バスなくなってまう」
するとなまえは駒箱の蓋を外すと、素早くひっくり返して盤面に置いた。それを静かに引き上げ、駒の山を作る。
「将棋崩しか。何気にあんまやったことないな」
将棋崩しは山になっている駒を指一本で音を立てずに盤の外に運ぶゲームだ。将棋のルールがわからない程幼い時に一度やったような気がするが、それ以降やった記憶はない。もちろんなまえとしたことなどない。
「先手どうぞ」
「ほな遠慮なく」
山を観察し、外側の駒を人差し指で引く。ほとんど重なっていない駒だったため簡単に取れた。音が鳴らなければ手番が変わらないため、連続で駒を取る。簡単に取れる駒がなくなり、重なりが小さい駒を引こうとしたが、力加減を間違えて音が鳴ってしまった。その音を聞き、なまえが佇まいを直す。浴衣の袖を軽く抑え、俺が失敗して崩した駒を取られる。続いて下に積まれた駒を細かく動かし、隙間に立っていた駒を引いた。
「(相変わらず手先器用やな)」
五枚取られて手番が変わる。なまえの動きを見てコツを理解し、俺も邪魔な駒を動かしながら、二枚取りする。
数回手番を交替した頃には、簡単に取れる駒が少なくなっていた。そうなると山をどう崩していくかが肝になってくるが、派手に崩すと相手に取られてしまうため、自分の手番でいい塩梅になるように計算しながら駒を崩していく。俺は少し前から狙いを付けていた駒をそっと動かし、自分の方へ引こうとした、その時だった。
なまえの手が、俺の手の甲に重ねられた。手のひらの中で、駒の山が崩れて音を立てる。突然のことに驚いて顔を上げると、盤上に視線を落としたままのなまえの目から涙がこぼれていた。思わず手に力が入るが、上から押さえ付けられているため動かすことが出来ない。なまえの熱を帯びた手の温もりが、じんわりと広がる。
「何で泣いてるん?」
「怖いの?」
震える声が、ざらりと俺の胸を逆撫でする。
「わかってるよ、敏志くんがわたしに触らないようにしてるの。敏志くんが、わたしとああいうことしたの失敗だったって思ってるのも知ってる」
「なまえ……」
「それでも近付きたいとか、触ってほしいって思うのはダメなの? わたし、敏志くんに手、繋いでほしかったよ……」
涙がぽろぽろと落ちて、浴衣にシミを作る。ぎり、と奥歯を噛む。
掴まれていない手を伸ばして、生温かい涙を指で拭うと、なまえが顔を上げた。濡れたまつ毛が束になっている。若干の期待が混じる眼差しに、俺はとうとう覚悟をした。
腰を浮かせ、涙を拭った手でなまえのうなじに触れる。引き寄せなくてもこちら側に倒れてきたなまえは、俺の手に体重を掛けながら目を閉じた。最後まで薄目のまま、なまえに口付ける。唇をわずかに開いてもう一度触れ合わせると、なまえの唇から薄く吐息がもれた。抱き寄せようと思ったが、駒の角が手のひらに食い込む感覚が俺を正気に戻した。
俺となまえの間の将棋盤は、二人分の体重を預けられ、定位置からわずかにずれていたが、未だ俺たちの間に立ちはだかっていた。

  ●

なまえの家から帰宅した俺は、風呂にも入らず部屋の床に座ってぼんやりしていた。
過去のことがあったため、なまえに触れないことが誠意だと思っていたはずだが、一ヶ月も持たなかった。俺なりに大切にしたいと思ってのことだったが、なまえは却って距離を感じていたようだ。まさか泣くとは思っていなかった。祭りを笑顔で過ごしていた分、涙は正直だいぶ堪えた。
ベッドに寄り掛かり、脱力しながら携帯を操作する。今日撮ったなまえの写真でも確認するかとフォルダを開き、最新の写真を表示した。最後に撮った写真を今初めて見たが、手ブレもなく綺麗に撮れている。画像を拡大してみると、雑踏の中ではにかんだなまえと目が合った。
「あの雑誌のカメラマン、無能やな」
同じ浴衣を着て、髪はむしろ今日の方が地味に纏められている。それなのに俺が撮影した写真の方が何倍も良く撮れている。ブロマイドか何かにされていてもおかしくない。なまえのファンはこういう写真が見たかったに違いないが、この写真を持っているのはこの世に唯一俺だけだ。初めから母親に送る気などさらさらなかった。

目を瞑る。ここにいるはずのないなまえが目の前に現れる。浴衣姿のなまえは俺に身を委ねて、羞恥と困惑、期待を混ぜた表情で俺を待つ。
半勃ちになった性器を服の上からさする。そうしていると血液が下半身に集まり、頭が回らなくなってくる。硬くなった性器を服から出し、上下に震えるそれを手のひらで捉えて握り込む。
ここ最近自慰の回数が増えた。以前は暇を理由にすることが多かったが、今は任務終わりで疲れていてもすることがある。行為中考える内容はほとんどなまえだ。アダルトビデオを見ていても途中から脳内でなまえの姿に置き換わってしまう。映像の中の出来事は全て虚構だとわかっているのに、喘ぎ声や連続で絶頂する姿を重ね合わせて興奮し、吐精する。そして自己嫌悪するまでが一連の流れだ。
俺は妄想の中でなまえをめちゃくちゃにした次の日に何食わぬ顔で会い、聞いたこともない激しい喘ぎ声を想像した後に電話をし、そんなことをする自分などあたかも存在しないかのように嘘を吐く口でなまえの唇に触れたのだった。
粘液を親指のはらで先端に塗り付け、滑りをよくする。緩く手を動かし始めると、妄想の中のなまえの姿が変化していく。
前屈みになり、大きく開いた浴衣の襟からまろび出た乳房が揺れる。俺の性器を咥えるなまえの頭に軽く手を添えて、誘導するように前後に動かす。口いっぱいに性器を頬張ったなまえは根本を手で扱き、竿全体を舌で愛撫する。緩急を付けながら俺の反応を見て、唾液で濡れた舌で根本から先端までを舐め上げる。陰毛に鼻先を埋めるのも、唾液で頬が濡れるのも全く気にしない様子で、ただ俺を気持ち良くするためだけに奉仕する。しかし目を開けると性器を扱いているのは自分の手で、なまえはそこにいない。手を動かしながら携帯の画面をつける。表示されたままの写真をスライドさせ、ふざけて撮ったなまえの写真を見る。
後ろ姿の写真。唇を拭おうとしている写真。撮られることを嫌がる写真。それらが妄想の中のなまえを鮮明にしていく。
なまえを押し倒し、足を開かせた。胸は浴衣から放り出され、足の隙間から覗く下着は濡れ、内股に垂れている。肩口までずり下がった浴衣は帯で止められているだけで、もはや一枚の布だ。
興奮した様子のなまえは下着を自分でずらし、我慢出来ないといった表情で俺を誘った。急かされるまま性器を挿入すると、なまえの腰がびくりと跳ねた。遠慮せず抽送してなまえの身体を揺らす。
『あんっ、あ、あっ』
俺の動きに合わせて揺れる胸を揉みしだき、つんと上を向いた乳首を押し潰す。乳首を触られて恍惚の表情で喘ぐなまえが俺の名を呼ぶ。
『敏志くんっ、いや、イっちゃう、あっ!』
嫌だと言うわりに俺の首に腕を回すなまえを攻め立てると、背中を仰け反らせて絶頂した。しかし俺は動きを止めずになまえを犯し続ける。
『敏志くんだめ、イってるから、ああっ、気持ちいい、あっ、やあっ』
蕩けた膣の中を突き上げる。絶えず絶頂するなまえは涙目になりながら悶絶して、唇をぐにぐにといじりながら何度も俺の名を呼ぶ。
『敏志くん、敏志くん好きっ、敏志くん!』
「はあ、はあ、っ、あ」
興奮で息が荒くなる。奥から込み上げてくるものがあり、携帯を離してティッシュを雑に数枚取って先端に当てがった。精液が尿道を駆け上がり、脈打ちながら一気に放出される。ぞわぞわした感覚に震えながら身を屈める。
射精が終わると、茹っていた頭がすっと冴えて一気に正気に戻された。なまえの姿はもう見えない。息を整えて先端を拭いていると、ティッシュから溢れた精子が二滴床に落ちていた。性器を拭いてから追加でティッシュを取り、それを拭く。濡れて精液の輪郭をうっすらと残したままの床が、少しずつ乾いていく。
勃起が治まり、脈打ちながら徐々に下を向いていく様を他人事のように眺める。自分から何もしていないのに、都合良く愛される妄想をしている自分を軽蔑しながら、穢らわしい手をティッシュで拭った。



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