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その日、一人の女が文化を手放した。十字にも満たない文字の羅列で俺はそのことを知った。自室に一人でいる時のことだった。
山崩しのような人生だった。少しずつ、だが確実に削られて、とうとう崩れた。いずれそうなるとわかっていたはずだったが、俺は少しだけ驚いて、しばらく放心していた。
カラーボックスの奥に隠すようにしまっていた二年前の将棋専門誌を引っ張り出す。実家に残しておくことも捨てることも出来ず、ここまで持って来てしまったが、買ったその日に一度開いたきりで中身はまともに見ていない。
表紙にはピンク色の字で「若手女流棋士浴衣アルバム」といかにも通俗的なコピーが書かれていて、これをレジに持って行った時の居た堪れなさを今でも思い出せる。
雑誌を開くと、色とりどりの浴衣に身を包んだ女流棋士がカメラ目線で微笑んでいた。女流棋士の名前と、編集部が勝手に付けたアイドルのようなキャッチコピー、独断と偏見による紹介文。そんなものを流し見しながらページを繰る。そして、これまで目を逸らし続けた女のページに辿り着いた。
紺地に白椿の生地、臙脂色の帯といった古典的な浴衣に身を包んだ女は、振り返るようにして曖昧に笑っている。誰が見ても撮影に乗り気でないとわかるはずなのに、そのアンニュイな表情すら写真映えしていて、贔屓目なしに他のどの写真よりも惹き付けられた。
雑誌のカラーページ特有の、薄くてつるつるした紙の縁を指のはらでなぞりながら、無防備に晒されたうなじと、光が当たって淡くぼやけている輪郭を眺めて、視線を記事へ移す。キャッチコピーは『触れたら溶ける、白雪姫』らしい。
「アホか」
当時も言ったセリフが、そっくりそのまま口からこぼれた。紹介文を読む気になれず、雑誌を閉じて床に放り投げる。床を滑っていった雑誌はゆっくりと失速して、中途半端な位置で止まった。ずっとそこに置いておくわけにもいかず、立ち上がって雑誌を拾い上げる。
「溶けやんかったわ」
そしてまた誰にも見付からないように、雑誌をカラーボックスの奥にしまい込む。

プロ将棋の世界に引退規定というものがある。簡単に言えば降級により引退を余儀なくされる制度だ。自らの意思で引退する棋士もいるが、大半はこの規定による在籍期限切れで現役から退く。
永世称号の資格をいくつも所持していたり、最年少でプロ入りを果たし、数々の偉業を成し遂げた棋士の引退は全国放送のニュースで取り上げられるくらいの出来事だ。質素な会議室で記者会見が開かれて、幾多のフラッシュを浴びながら心境を語り、それが文字に起こされ、歴史となる。
名字なまえ女流一級は、一身上の都合という典型的な理由により将棋連盟からの退会を表明した。女流棋士になって三年という短さだった。引退ではなく退会だったことで、少なからず将棋界はざわついた。
引退と退会では大きな違いがある。引退とは公式戦への出場資格を失うことで、引退後もプロ棋士を名乗ることが出来る。対して退会とは、棋士という身分を失うことを意味する。記者会見は開かれず、詳細も多くは語られなかった。そのせいで匿名掲示板の一角ではファンによる憶測が飛び交った。文字列はおぞましく蠢いて、落胆や悪意で埋め尽くされた。
退会を惜しむコメントと、盤面を見つめる凛とした表情のなまえの写真が載ったのを皮切りに、スレッドは見る見るうちに伸びていった。イベントで撮られたのであろう澄ました表情の写真や、慣れない聞き手をおろおろしながら務める様子のスクショ、将棋雑誌に載った浴衣姿の転載。それから、なまえの癖≠フ写真。
ヒートアップしていくスレッドの中に挟まれた「なまえは俺が幸せにするから安心してくれ」という文字に、俺は形容し難い感情を燻らせた。そこからは見るに耐えない醜悪と卑猥な言葉で溢れ返り、俺は静かにページを閉じた。
何か新しい情報が出ていないかと検索してみたが、元々積極的に更新があったわけでもないSNSも削除されていたため、それ以上のことは何もわからなかった。
休み時間になる度に携帯で情報を探してみたものの、一般人にわかることなど限られている。手段を問わなければ本当に欲しい情報は入手出来るが、どの面を下げて連絡を取ればいいかわからず、無駄な時間を消費している。
「水上みたいな奴に限って童貞じゃないんだよなー」
「実際どうなんだよ。おーい水上」
突然名前を呼ばれて、反射的に顔を上げた。仄暗い視界に滲むように光が射す。
昼休み、人がまばらな教室の窓際。窓枠に腰掛けて性懲りもなく携帯をいじっていた俺に、クラスメイトの視線が向けられていた。
教室の隅とはいえ、女子もいる場所で猥談に花を咲かせていたため会話から離脱していたのだが、腕を掴まれて強制的に引きずり込まれる。俺は窓枠から下りて、背中に張り付いたシャツを手ではためかせた。近くにあった椅子を引き寄せ、背もたれを前にして座り頬杖をつく。
「せやから彼女おったことないって前言うたやん」
俺は十七年間、彼女がいない。高校最後の夏が始まろうとしている現在も、候補に上がるような女子はいなかった。しかし友人たちは何に対する期待なのか、にやにやと見つめてくる。
「いやガチで実際どうなん?」
「正真正銘の童貞やって。言わすな」
「んだよつまんねー」
「そういうおまえはどうなんだよ。彼女ともうヤッた?」
「聞く? 聞いちゃう?」
「ヤッてんなぁ」
「ヤッてんねぇ」
「そろそろ休み時間終わりやぞー」
俺は椅子から立ち上がり、自分の席に戻った。机の中から教科書類を引っ張り出して、机に並べる。
彼女とのセックスの内容を暴露したり、経験人数が多いことを自慢する男はアホみたいにいる。中学の時からそうだった。
生物としての目的は、良い遺伝子を持つ子孫を多く残すことであるから、その名残なのかもしれない。これについては否定するつもりもなければ肯定するつもりもない。だが生殖を目的としない行為をしている人間が、生物学を言い訳にするのはあまりにも都合が良い。
こういう人間は、生涯大切にしたいと思う相手に、過去の経験を理由に別れを切り出されたら一体どうするのだろう。少なからず後ろめたい内容ならば、例え嘘を吐くことになっても初めから黙っていればいい。あとはその嘘を貫き通す覚悟があるかどうかだ。
俺にはあった。だからずっと、嘘を吐いている。

  ●

自分の昔の記憶を何故か俯瞰して覚えている。その時点で脚色された記憶なのは間違いない。
小学校低学年の時、なまえは親の仕事の都合で東京から大阪に引っ越して来た。
俺は生まれも育ちも大阪なので、大阪の人間しか知らない。しかし東京生まれ東京育ちのなまえは、文化の違いに戸惑っていた。特に声が大きい大人や、言い回しがキツい上級生を怖がっていた。おそらく東京の人間は大阪の人間よりも物静かなのだろう。引っ越しの挨拶をしに来たなまえは萎縮していたのか、無口で大人しい子という第一印象だった。しかし実際はよく喋り、穏やかだがさっぱりとした性格だった。
近所に住んでいた俺は比較的静かだったせいか、なまえは事あるごとに俺を頼り、常に俺の周りをちょろちょろしていた。俺が通っていた将棋教室にまでついて来る程だった。
将棋教室の大盤を使った講義ではわいわいと喧しいが、対局になるとそれが嘘みたいに静まり返る。なまえはそれが気に入ったようで、俺と一緒に将棋を学び始めた。
なまえはこの頃からすでに容姿が秀でていた。外見にさほど興味がない俺ですら、なまえをかわいいと思っていたし、テレビや雑誌に出ていてもおかしくないと思っていた。もちろん将棋教室でもその姿は目立っており、他校の生徒はなまえをじろじろ見るし、保護者の間ではかわいい子がいると話題になっていた。
出会った頃、なまえは見た目に言及されると謙虚に「そんなことないよ」と首を振っていたが、次第に「ありがとう」へ変わり、最終的には曖昧に笑うだけになった。生まれた頃から言われ続けて疲れたのだろう。自分に好意を持っていそうな異性を無視することを覚えてからは、愛想というものは枯れ果てていた。
なまえは大人しそうな見た目のわりにかなりの負けず嫌いだ。中学生との対局でこてんぱんに負けた時は、廊下の隅で隠れて泣いていた。俺はそれに気が付かないフリをして、目が赤いなまえと共に帰路についた。

将棋を始めて一年と少しでなまえの棋力はどんどん上がっていき、その辺の小学生では太刀打ち出来ない程になっていた。子どもの大会にも出るようになり、上位入賞も決して偶然ではなかった。俺はこの頃にはもうプロ棋士になりたいと考えていたため、奨励会を目指して勉強の毎日だった。
「敏志くんわたしね、夢あるんだよ。笑わないなら教えてあげる」
そんな頃、何故その流れになったのかは覚えていないが、なまえは俺に夢を打ち明けようと耳打ちをしてきた。「笑わないなら教えてあげる」と言っておきながら、すでに教える気満々ななまえは、俺が笑わないと信じていたに違いない。
なまえの吐息が耳に掛かった。こそばゆくて俺は少し身体を離したが、なまえはその距離と同じだけ俺に近付いて、口を開いた。その時、なまえの上唇が俺の耳に触れた。硬直する身体を、心臓が内側から激しく叩いた。この鼓動がなまえにまで聞こえるのではないかと焦ったが、なまえは唇が耳に触れたことに気が付かなかったのか、または気が付かないフリをしたのか、吐息混じりの声で囁いた。
「わたしね、女流棋士じゃなくて、棋士になりたいんだ」
それは俺と同じ夢だったが、遥かに遠い夢だった。
例えば俺の夢が地球から太陽までの距離だとしたら、なまえの夢までの距離は、地球からまだ観測されたことがない未知の惑星を探し当てるところから始まる。
女のプロ棋士は、過去一度も現れたことがない。

中学に上がる頃には、俺は奨励会、なまえは研修会で研鑽を積んでいた。生涯忘れられない出来事があったのは、中二の時だ。
俺は奨励会の四級、なまえは研修会のC一クラスにいた。棋力では俺の方が遥かに上だったが、プロになる見込みが薄い俺に対し、なまえが女流棋士になるのは目前で、界隈から注目されていた。
俺は夢の距離までの目測を誤っていたらしい。地球と太陽の距離とは、おこがましいにも程があった。必死の思いで噛り付いている場所が下から数えた方が早い俺に、プロ棋士など夢のまた夢だった。
化け物だらけの部屋の中で、俺だけが人間なのではないかと錯覚する度、ふと我に返って、何故こんなことをしているのだろうと思う時もあった。そんな自分を自覚する回数が増えてきた時には、先の見えない階段を上る気力は薄れて、下って行った方がどこかに辿り着けるような気がしていた。
そんな俺のやる気を全て吸収して、なまえは階段を上っていった。止まったら死ぬ回遊魚のように、決死の一手を探して指し続けた。
研修会にいる人間がプロ棋士になるためには、十五歳までにA二クラスに上がり、そこから上位組織の奨励会六級に編入し、四段まで勝ち上がる必要がある。それに対して女流棋士になるには、研修会B二クラスに昇進し、協会に申請が通れば晴れて女流棋士になれる。なまえの夢はあくまで「棋士」だったが、女流棋士と奨励会の掛け持ちは認められているため、一旦女流棋士にはなるつもりだったのだろう。だがなまえが奨励会に入れるかどうかは別問題だった。そのくらい、「棋士」と「女流棋士」には格差がある。

今はとにかく将棋に専念したいと思っていたなまえには別の懸念があった。
中学生大会の女子の部で常に上位入賞していたなまえにはすでにファンがついていた。大会に地方局の取材が入ったことで、偶然映り込んだ姿がネットで話題になったのだ。テレビ局に問い合わせが殺到したとかで、今度は研修会を通してなまえに直接取材の申し込みが入った。中学生、もうすぐ女流棋士、美しい容姿。メディアが放っておかなかった。
おそらくなまえは取材を断りたかったのだろうが、周りに言いくるめられて出演の段取りが組まれ、五分程度の映像がテレビに流れた。俺はその放送を見なかった。
それからなまえのファンを自称する人間に街で声を掛けられたり、時には出待ちされることもあった。直接何かされたわけではないため、警察に相談は出来ない。しかしなまえの精神は確実に削られていた。
「敏志くん、わたし怖い……」
俺は一人で出歩くことを怖がるなまえの隣をいつも歩いていた。家が近いからだと、自分に言い聞かせていた。
その日、なまえは俺の家で将棋の研究をしていた。一緒に研究することは珍しくなく、棋譜を読んだり、詰将棋をどちらが先に解くかを競ったり、片方が駒落ちというハンデを負って指したりと、とにかく様々なことをやっていた。
小さい頃からずっと一緒にいたため、相手の手の内は知り尽くしている。だからこそ、新しいことに挑戦しようという向上心があった。
対局中、なまえの携帯にメールが入った。視界にちらちらと映るランプの点滅が目障りで、無意識に舌打ちをしたのが悪かったのか、なまえが携帯に手を伸ばした。
「なまえ、やめとき」
「でも……」
「泣くんがオチやで」
なまえは俺の忠告を無視して携帯を開いた。そして顔を歪めて、縮こまって泣き出した。ほら見たことかと、俺は足を崩してすすり泣く声を聞いていた。
以前から差出人不明のメールが頻繁に届いていたのは知っていた。どこから流出したのか知らないがアドレスを変えても届くので、無駄だと思って放っておいたのだ。俺はなまえの手から携帯を取り上げ、ディスプレイを見た。そこには隠し撮りされた対局中のなまえの癖の写真が映っていた。
集中していると無意識に癖が出る。活躍している棋士にも様々な癖があり、長考中に前後にゆらゆら揺れたり、扇子を開閉させたり、中には「ダンゴムシ」と揶揄されるくらい蹲る名人もいる。
俺も完全に無意識だが、集中している時に右手をこめかみに当てる癖がある。そしてなまえの癖というのがまた厄介で、なまえは集中し始めると、唇で人差し指を食む。昔からなので俺は見慣れていたが、初めてそれを見た同級生はその癖をエロいと言った。そう思うのは個人の自由なのでやめろとは言えない。だが問題は、そのことを直接なまえに伝える人間がいることだった。
携帯の画面をスクロールさせて、メールの本文を読む。その下劣な文面に、俺はため息を吐いた。メールを削除して折りたたみ携帯を閉じ、蹲るなまえに「いけるか?」と声を掛ける。頷いたものの一向に顔を上げないなまえに静かに寄り添う。背中をさすってやろうと思ったが、ただ隣にいるだけにした。すると、なまえがぽつりと呟いた。
「顔がかわいいとか、将棋に関係ある……?」
「は?」
突然の言葉に間抜けな声が出た。
「処女かどうかって、将棋に関係ある?」
「……あるわけないやん」
俺は言わないでおいた。「女流棋士」とネットで検索すると、サジェストに「かわいい」や「美人」が出ることを。なまえも知っているはずだが、お互いに口を噤んだ。
「この前知らないおじさんに彼氏いるのかって訊かれたの。いたことないって言ったら、『ほんならこれからも応援するわ』って……」
「…………」
「でもね、みんなわたしといやらしいことしたいんだって。お金出すからって。わたしが処女だとよろこぶくせに……っ!」
なまえが勢い良く顔を上げたのを見て、俺は何も言えなかった。なまえの濡れて煌く目が、真っ直ぐに俺を捉えていたからだ。なまえが何を考えているのか、俺に何を望んでいるのか、手に取るようにわかってしまった。
「敏志くん、わたしとエッチしてって言ったら、出来る……?」
受け入れても拒んでも、おそらく傷付けることに変わりない。それならばと、俺はなまえから目を逸らしたまま、本心を吐露した。
「出来る。正直おまえで抜いたこともある。俺も所詮そんな奴やで」
「…………」
「せやけど出来るんと実際やるんは別モンや。俺は別にしたないしな」
縁が切れたらそれまでだと思い、赤裸々に打ち明けた。出来ることならなまえとセックスをしてみたいと思うことは確かにあった。しかしそれは淡くぼやけた現実味のない願望で、重力が何倍にもなったような息苦しさを伴う空気の中での話ではなかった。
俺の答えを聞いたなまえは顔を赤くして俯き、スカートを握り締めた。その顔に嫌悪はなく、むしろ決心がついたような顔だったため、俺はどこか諦めた気持ちで、先輩から「なまえと使え」と言われてもらって、財布に入れたままのコンドームの存在を思い出していた。
「こんなこと頼めるの、敏志くんしかいない」
「そう言うたら俺が折れると思ってるんやったら大間違いやぞ」
「本気で嫌なわけじゃないなら、お願い……」
将棋以外でここまで食い下がるなまえは久しぶりだった。しかし俺もまだ引き下がれずに、なんとか思い止まるよう説得に努める。するとなまえは、無理に挑発的な笑みを浮かべ、口を開いた。
「敏志くんがしてくれないなら、お兄ちゃんにお願いする」
それは一番の悪手だった。お兄ちゃんとは、俺の兄のことだ。内心その言葉に憤りを感じていたが、顔には出すまいと無表情を貫く。なまえは判決待ちの被告人みたいな顔で俺を見つめていた。
「……わかった。途中でタンマはなしやで」
「わかってる」
「痛い言うてもやめへんし、泣いても知らんからな。あと俺も童貞やし、色々求められても困るで」
「うん……」
不安を滲ませるなまえにダメ押しで、財布からコンドームを取り出してスカートの上に放り投げた。初めて見たそれになまえは動揺して目を背けたが、この場から立ち去りはしなかった。
心の準備など全く出来ていない。性行為については保健の教科書と又聞きとアダルトビデオの知識しかない。行為をする前によく「優しくする」という言葉を掛けると言うが、「優しくする」というのがどういう行為なのかも正直よくわからない。
座布団の上に正座をするなまえに近付き、コンドームを拾おうと手を伸ばした。びくりと震えたなまえが足を少し開いたため、太ももの間にスカートごとコンドームが沈み込む。俺は指先で足の輪郭をなぞるようにして、ゴムを拾い上げた。虚空を見つめたままのなまえの息は上がっていた。
ベッドに並んで座り、しばらく沈黙した後に、横目でなまえを盗み見る。緊張して瞳を潤ませたなまえが、俯いて震えながら俺に手を出されるのを待っていた。
居た堪れなさに頬を掻いてから、その手をなまえの肩に置いた。おそるおそる顔を上げたなまえにゆっくりと近付く。不安げに目を閉じたなまえのまつ毛の震えを眺めたまま、そっと唇を押し付けた。
以前から指を食むなまえの唇を柔らかそうだとぼんやり思っていたが、想像以上に柔らかく温かい唇の気持ち良さに、じりじりと理性が削られていく。
「さ、敏志くん……」
唇が触れ合ったまま、なまえが切なげに俺の名を呼んだ。じわりと汗が滲む。俺の胸に添えられていた冷え切った手を握って、不格好なキスをし続けた。呼吸の仕方がわからず、一度離れて息を吸い込む。苦しそうに肩で息をするなまえの濡れた唇が扇情的で、俺の方は痛い程に準備が整ってしまっていた。
引かれるかもしれないと思いつつ、再びなまえにキスをして舌をねじ込む。ディープキスのやり方など知らないが、なまえの舌や唇を舐めたり、それによって小さく反応するのを、心の底から愛おしいと感じた。
舌に驚いて怖気付くのではないかと思っていたが、なまえは俺にされるがままで、抵抗など一切しない。むしろ、今なら俺がすることを全て受け入れるのではないかと勘違いしそうになるくらい従順で、加虐心すら擽る程だった。普段の勝ち気ななまえはそこに存在していなかった。
キスばかりしていても仕方ないと思い、手始めにベッドに押し倒してみる。いつも俺に対して悪態を吐いたり我儘を言うなまえに馬乗りになると、自分がどれだけ優位な立場にいるのかがより際立って、どうしようもなく興奮した。だがそれをなるべく悟られないように、行き場のないなまえの手のひらに、己の汗でべたついた手のひらを重ねる。すると、すがるようにきつく握られたので、出来るだけ優しく握り返した。
押し潰さないよう身体を浮かせながら、なまえの吐息ごと飲み込む。頭がぼんやりして、時間の感覚が狂っていく。ただ唇を触れ合わせて舌を動かすだけの行為だが、永遠にしていられるのではないかと感じた。唾液が混じり合い、粘着質な音を立てる。鼻に掛かった吐息すら自分のものにしたくて、蓋をするようにのし掛かると、ベッドのスプリングが軋んだ。
はっとして、俺に組み敷かれたなまえの顔を至近距離で見つめた。息を荒げ、唇を俺の唾液でテカらせ、目を細めて溶けたような表情をするなまえに頭がぐらぐらした。
身体に触る許可を取ろうとしたが、やめた。初めから労わるつもりがないと言っているのだから、わざわざそんなことをする意味などない。
服の上から胸の膨らみに触れる。恥ずかしそうにそっぽを向いたなまえは俺の行動全てを受け入れて、時折吃音的な声をもらした。手の形に合わせて服が歪んでいく様に、俺の息はますます上がっていた。
服を脱がせて下着姿にさせる。胸元は皮膚が薄く、いくつもの青い血管がうっすらと走っているのが確認出来た。身体は想像していたよりも肉付きがよく、服の締め付け跡が付いている。そういった一つ一つの生々しさを、汗ばんだ指と舌先で辿っていく。
対局に勝てなくなり自分の限界を知った俺は、一人盤面に向かうなまえを見て、まだ、もう少し頑張ろうと奮起した。しかしそろそろ終わりだ。俺は自らの手で、将棋に明け暮れた十三年間に見切りを付ける決心をした。
なまえは俺がいなくなってもあの世界に残るだろう。八一マスの不自由な空間の中を、たった一人でもがき続ける。
羞恥と痛みに震えるなまえを掻き抱く。俺にしがみ付くなまえの爪が肩に食い込んでずきずきと痛んだが、なまえの姿を見ていると指摘など出来ず、戒めとしてそのままにしておいた。
「敏志くん」
俺を完全に受け入れたなまえが、大きく息を吐きながら切羽詰まった声色で言う。
「嘘でいいから、今だけ好きって言って……」
そう言ったなまえの形容し難い表情が、俺の都合の良い言葉全てに当て嵌まりそうで、思わず「好き」と口走りそうになった。だが俺はその言葉を口に出したら嘘ではなくなると思い、代わりにキスをするだけにした。
なまえとは何年も、毎日のように顔を合わせ、お互いの心を読み、時に砕き合いながら対話をしていたつもりだったが、俺に抱かれるなまえの表情や上擦ったうめき声を上げる姿に、初めて名字なまえという人間のことを知ったような気がした。そして目の前の女を手に入れようともがいた俺は、呆気なく射精してしまった。

卒業というよりは中退という言葉に近い行為が終わり、俺たちはしばらく部屋でぼんやりしていた。オレンジ色の西日が差して、暑く、眩しい。
将棋盤は、俺が優勢のまま放置されている。
「思ったより普通だった」
「……悪かったな、へたくそで」
「あっ、違くて。世界が開けて見えるとか、何か心境の変化があるのかなって思ってたから。でも正直言ってあんまりない、かも。わかんない」
「……そおか」
無神経な言葉に俺は少なからず傷付いていたが、それを伝えたところで意味がないため黙っていた。まだ手になまえの柔らかな気配が残っている気がして、その辺に置いてあった携帯を強く掴んで、感触を上書きする。
「まあなんや、今度処女かって訊かれたら、笑って嘘吐いたらええんとちゃう?」
「え……?」
「処女ってことによろこんでる奴らを、心の中でざまぁみろってバカにしたったらええねん」
口に出してから、自分が今怒っていることに気付いた。射精後の倦怠感のせいで色々とどうでも良くなっているが、冷たく吐き出した言葉とは裏腹に、血が沸騰しそうな程、俺は腹が立っているらしい。
なまえはきょとんとした顔をした後に、まごつきながら膝を抱えた。
「違う。あのね、敏志くん、わたし……」
「水飲むか? 持って来たるわ」
「……ありがとう」
俺は逃げるように部屋を去った。その言葉の先をちゃんと聞いていたら、俺となまえの仲が拗れることはなかったのかもしれないが、この時の俺には勇気も自信も全くなかった。

  ●

隠岐は律儀だ。事あるごとにイコさんに「イケメン」と言われ、その全てに否定の言葉を返す。柔らかい皮一枚隔てたような物言いは、誰も傷付けずに会話を終わらせる。
隠岐が内心何を思っているのか知らないが、言われ慣れているからこそあの態度なのだろう。そこに若干諦めを感じるのは俺の思い過ごしかもしれない。
隠岐を見て時々なまえを思い出すのを、未練と呼ぶには全てが手遅れだった。

中間試験の初日を終え、俺とカゲ、穂刈、鋼は明日のテスト勉強をするため駅前のファミレスに向かっていた。
平日の街中は人通りが少なく、制服姿の俺たちを横目で見る大人の目が生温かい。高校生がこの時期に早帰りするのはテストくらいなので、郷愁に駆られているだろう。
この中で成績が芳しくないのはカゲだが、一番やる気がない。しかし面倒と言いつつこうしてついて来るので、赤点を回避出来るくらいには手助けをしている。
「知ってるか? あの噂」
「噂? 何のことだ?」
脈絡なく口を開いた穂刈に視線が集まる。あの噂と言われても一体どの噂なのかわからず、鋼が微笑みながら首を傾げた。
「駅前に立ってるらしいぞ、女が。一週間くらい前から」
「なんや、オカルト話か?」
「あーなんか聞いたな。興味ねーから忘れちまったけどよ」
「カゲ、それ聞いたうちに入らんやろ」
「俺もその話は聞いたな。毎日長時間その場所にいるから、誰か探してるんじゃないかって話だろ?」
鋼の言葉に穂刈は頷いて、「確認してみるか。丁度通るからな」と言った。顔に似合わずミーハーだ。
「美人らしい、その女は」
「美人がそんなとこにおったら変な奴に絡まれるんちゃう?」
「飛んで来るだろ、警察。目の前に交番があるからな」
「そういやあるな」
偶然なのか計算なのか、随分と都合が良い場所にいるらしい。そこまで美人に興味はないが、何の目的でそこにいるのかは多少気になる。見掛けたところで判明するわけではないが。
初夏とはいえ日差しが強く、学ランを着ているせいで熱が集まり背中に汗が滲む。空気はまだ涼しいので早く日陰に入りたい。腹も減った。そんなことを考えていると、鋼が「あれじゃないか?」と小声で言った。
「絡まれてんじゃねーか」
「誰もいねぇな、交番。巡回中か?」
駅の券売機の横で、大学生くらいの男二人が女を挟むようにして声を掛けていた。男たちは加害しそうな雰囲気ではなく、女の気を引くため必死に話し掛けている様子だった。だが女はその男二人を無視しているらしく、遠目から見ても手応えはない。
穂刈の言う通りお巡りは巡回中のようで、交番はもぬけの空だった。対近界民以外の人助けは専門外だが、仮にも街の平和を守っているのだから、場合によっては助けた方がいいか。そう思って女の方に目を向けて、俺は「んっ?」と目を細めた。見間違いか。目頭を掴んで、再び女を見る。
「うっわ」
「あ? んだよ水上」
「うわ、最悪や……」
「あれ、助けた方がいいか?」
「せやなぁ……」
「どうかしたか、水上?」
「いや……」
「おい、あの女こっち見てんぞ」
カゲの言葉に観念して視線を向けると、見事に目が合った。間違いない。
「やっぱなまえやん……」
「知り合いか? 行ったらどうだ、助けに」
穂刈が親指を向けた先で、なまえが俺のことをじっと見つめながら待っている。
「はあ……。ちょっと行ってくるわ」
俺は猫背だが、今の背中は普段以上に丸まっているに違いない。首の後ろを掻きながらだらだら歩いて、なまえの元へ向かう。
様々な疑問が頭の中を巡ったが、理由はともかく俺に会いに来たのだろう。それくらいしかこの街に近付く理由がない。
距離が縮まり、表情がはっきりしてくる。泥の中を歩いているような感覚がするが、不思議と足は止まらなかった。
――来るんやったら連絡せぇ。
――いつからおんねん。
――相変わらず勝手やな。
――つか絡まれてんねやったら逃げろや。
言いたいことが山程ある。
「なまえ、わるい。遅なった」
それなのに、俺の口から出た言葉はこれだった。これまでなまえとの待ち合わせに遅れたことはない。何故なら大抵の場合、俺が迎えに行っていたからだ。
なまえに話し掛けていた二人組の男は振り返って俺を見た。名前を呼んだことで待ち合わせだと思い込んだらしく、気まずそうにそそくさと散って行く。二人だけになると、今まで何の表情もなかったなまえの顔が、むっと膨れた。う、と一瞬怯んでしまう。
「やっと来た」
「やっと来たちゃうわ。こっち来るんやったらせめて連絡せぇ」
いつ振りの会話だろうか。なまえとは高校が別だったし、俺が大阪を離れる日となまえの仕事が重なったため、見送りには来なかった。そうなると、二年以上になる。
しばらく見ないうちに随分痩せた。なまえのワンピースから伸びる手足があまりにも白く、直視出来ない。なまえが体調を崩したことは親伝いに知らされていたが、連絡一つしなかった。一人で戦うなまえに気休めの言葉を掛けていいのか、わからなかった。
「連絡しようと思ったけど、何て送ったらいいか悩んじゃって。会えたらいいな、くらいに思って待ってたの」
「自分ほんま勝手やな……」
「あそこにいるの友達? もしゃもしゃの人、わたしをすごく睨んでる」
離れた場所で待機しているみんなの方を見ると、なまえの言う通り目をすがめたカゲがこちらを見ていた。大方なまえの感情が刺さったのだろう。今は表に出さないが、こいつは男に対する敵意をずっと抱えたまま生きている。
「悪い奴ちゃうねん。ただの人見知りみたいなもんや」
「大丈夫。わたし、あの人に好感を持ちました」
「はあ?」
「初対面でわたしのことを嫌いな人は好きです」
なまえがカゲに向かってわざとらしく微笑む。カゲは刺さってくる感情が急変したことに驚いたのか、さっと穂刈の影に隠れた。猫か。
「友達と約束あるなら出直しますが……」
「さっきから何なんその敬語。大した用事ちゃうし、ちょっと待っといて」
「ご挨拶した方がいい?」
「ええからここで大人しくしとき」
なまえを手で追い払い、三人の元に一度戻る。俺もまだ混乱しているというのに何と説明するべきか。頼むから何も訊くな、とオーラを出しておく。
「すまん。用事出来たわ」
「おまえだったな、待ち人は」
「俺たちのことは気にしないでくれ。……あ、こんにちは」
「どわっ」
鋼の視線の先を追うと、俺のすぐ後ろになまえがいた。なまえは俺の背中から顔だけを横に出して、ぺこりと頭を下げた。
「敏志くんがお世話になっております。突然で申し訳ありませんがお借りします」
「借りてくれ、好きなだけ。気にすんなよ、オレたちのことは」
「どうも」
「んだこいつマジで……」
カゲが小声でそう呟いたため、さり気なく傍に寄って声を潜める。
「カゲ、ほんまにすまん」
「……水上、ちょっと来い」
カゲに襟ぐりを掴まれ、街路樹の下まで連行される。なまえは初対面の男の中に置き去りにされ、死んだ魚のような目をして何かを喋っていた。鋼と穂刈のためにもさっさと戻ってやりたい。襟を直しながらカゲに謝る。
「あいつ色々あって男苦手やねん。大目に見たってくれ」
「ちげーよ。てめーだ水上」
「は?」
「んで俺にそんな感情向けてんだよ」
困惑の表情でカゲは俺を見ていた。俺はカゲに指摘されて初めて、自分が何を思っていたのかを理解し、ぎょっとした。自己嫌悪で思わずしゃがみ込む。
「嘘やんほんまに? うわすまん、ちゃうねん」
「無自覚か?」
「なっさけな……」
頭を抱える俺を、カゲは鼻で笑った。カゲは口が堅い方だが、念の為口止めをする。俺は立ち上がったものの、あまりの恥ずかしさに項垂れた。カゲはケッと愉快そうに笑って、俺に「さっさと行け」と足で促した。
げんなりした様子で戻って来る俺を不審に思ったなまえが首を傾げる。余計に目を合わせられなくなり、視線を逸らした。
「はあー。なまえ、行くで」
「うん。じゃあさようなら」
なまえは会釈して俺の横に並ぶと、行き先も決めずに歩き出した。
少し前をゆったりと歩く姿はあの頃から変わっていない。しかし記憶よりも低い位置にあるなまえの頭や、合わない歩調に、俺だけが変わってしまったような気がした。
俺となまえは当時将棋のことばかり話していたため、それ以外に何を喋っていたのか思い出せない。この数年で、随分と環境の変化があった。俺もなまえも将棋を辞めた。俺はボーダーで楽しくやっているものの、今のなまえには何もない。
「昼食ったんか? 俺腹減ってんねんけど」
「まだ。この辺公園とかないの? そういう場所で話したいかな」
振り返らずなまえは言った。俺はそれに同意して、ここから少し離れているが、広いグラウンドがあるだけの公園を提案した。なまえは頷いて俺の言う方向に爪先を向けた。
へたに踏み込まないよう、当たり障りのない会話を広げる。想像より元気な姿に安堵しつつ、俺はこちらでの生活やボーダーのことを順番に話した。なまえはそれを楽しそうに聞きながら、「こんなに穏やかな街なのに、戦場なんて嘘みたい」と微笑んだように見えた。確かに近い地域で戦闘が行われているのに、呑気に犬の散歩をしている老夫婦や、買い物袋を自転車のカゴに入れて走る主婦を見たらそう思うのも頷ける。
しかし生活の形を残したまま人の気配だけが消えた地区をなまえは知らない。有刺鉄線で囲われているだけで空間そのものが隔てられたわけではないのに、どこか暗く淀んだ空気の市街地など、生涯知らないままでいい。
「コンビニ入るか。しゃーないから奢ったるわ」
「やった。わたしお手洗い行きたいから先に選んでて」
コンビニの自動ドアをくぐると、なまえは真っ先にトイレに向かった。俺はカゴを一つ持ち、迷わずウーロン茶を二本選ぶ。
昼時を少し過ぎたせいか、惣菜類の棚はすかすかで種類が少ない。なまえはどうせチョコチップメロンパンだろうと、最後の一つだったそれをカゴに入れた。少ない選択肢の中で麺類か弁当にするか悩んでいたところに、なまえが何かを手にして戻って来た。
「敏志くん、これも買って」
甘えるような声で見せてきたのは、コンビニのおもちゃコーナーに売っているポケット将棋だった。たまにオセロと並んで売られているのを見るが、実際に買う人間は見たことがない。
「久しぶりに指したいな、敏志くんと」
挑発的な笑みに、苦味を覚えながら俺の口角も上がっていた。ポケット将棋をカゴに入れ、次にタピオカミルクティーとフルーツサンドを両手に持ってにこにこしているなまえに呆れながら、カゴを前に出す。
「遠慮とかないんか?」
「大阪に置いてきちゃったみたい」
「まあ別にええけど……」
俺は弁当を買うのをやめ、おにぎりを数個と水、レジ横の春巻きを二つ買い、コンビニを出た。
太陽を覆っていた雲がちょうど途切れ、五月にしては強い日差しに目をすがめる。これからどんどん暑くなっていく予感がする空気と、揺れるワンピースの裾に、ようやく地に足が付いたような心地がした。
少し歩いて公園に入ると、グラウンドでは高齢者の団体がゲートボールをしていた。よく見掛ける光景だが、将来自分もあの集団の一員になるかもしれないと想像し、意外にもしっくりきてしまったことに多少傷心する。しかしゲートボールと出会うのは当分先になりそうだ。
俺が将棋と出会ったのは兄の影響だったが、なまえはそんな俺に影響されて将棋を始めた。そのせいで余計な視線に晒され、傷付き、それでも一番長く将棋の世界にいた。俺と出会っていなければ、もっと穏やかな暮らしをしていたかもしれないのにと、何度思ったことだろう。
俺も、なまえも、将棋という文化に身を置いていなければ、手放す辛さを知らずに済んだ。それでもこの文化があったからこそ、こうしてまた別の場所で息をしている。
「ここにしようか」
なまえが指差したのは、広場の中心にある見頃を少し過ぎた藤棚の下のベンチだった。背もたれがない正方形のベンチで、一辺に三人程度座れる。
なまえはベンチの角に腰掛けると、俺が持っていたビニール袋を物色しようとした。その手を払い、ベンチの真ん中に袋を置く。結露して張り付いたウーロン茶とタピオカ、パンを渡すと、なまえは「ありがとう」と笑った。
中身を全てベンチの上に広げ、水を一口飲む。ポケット将棋の箱を開けていたなまえは水を飲む俺を見て、顔付きを変えた。対局前に水を飲むのは、俺のルーティンだった。折りたたみ式の将棋盤を開き、風が吹いたら飛んでいきそうな小さい駒を取り出す。
「えらいちゃっちい駒やな」
「本当だね。でもコンビニでも買えるんだから、将棋をマイナー競技なんて言ってほしくないよね」
将棋を広めるために浴衣になった女の言葉の重みに、俺は「せやなぁ」と頷いて駒を並べた。マグネットで張り付いたため、これなら風が吹いても問題なさそうだ。
駒を配置し終わり、俺はおにぎりを一つ口に入れた。空腹ではまともに頭が働かない。温かいうちに春巻きも平らげる。
「敏志くん、じゃんけん」
パンに齧り付いているなまえが手を出した。この駒では振り駒が出来ないからだろうが、初心者のようにじゃんけんをするのは初めてだった。
なまえがじゃんけんに勝ったため、先手になる。なまえはメロンパンを袋に戻してベンチに置くと、タピオカのストローを突き刺した。
「初手、タピオカ」
「おまえのルーティンはウーロン茶やろ」
タピオカがぽこぽこと吸い上げられて、なまえの口内に入っていく。なまえは昔からグミなどの弾力があるものが好きだった。タピオカを噛み砕きながら、なまえが第一手を指す。
ついこの間までツゲで出来た水無瀬駒を好んで使っていたなまえが、プラスチックの安物で対局する姿を見る日が来るとは。虚しさと気楽さを感じながら駒を持つ。

食事が終わってからは本腰を入れて対局が始まった。感情を沈めて集中する。なまえは涼しい顔をして、自分の得意な形を作り出していく。
途中、公園で将棋を指す学生を珍しがってゲートボールをしていた老人に声を掛けられたり、寄り道していた小学生に茶化されたりした。俺はそれをほとんど無視していたが、なまえはそれに丁寧に受け答えしながら俺の相手をした。将棋のイベントに出演したり、指導対局をしていたお陰なのか、よそ行きのコミュニケーション技術が上がっている。そんな風に振る舞えるのなら、俺の同級生にも同じように振る舞えただろうと内心思ったが、無視しなかったあたり努力はしたようだ。
俺の腕は意外にも衰えておらず、なまえが長考に入った。もう周りの音も聴こえなくなっている。すると、やはりなまえの癖が出た。数日前に見た掲示板を思い出し、奥歯を噛む。俺はペットボトルのキャップ部分を掴み、それでなまえの手首を軽く小突いた。ぱっと深い集中から戻って来たなまえは、自分の癖に気が付くと、困ったように笑った。俺はそれを見なかったことにして、ひたすら将棋盤を凝視していた。

「負けました」
「ありがとうございました」
対局の結果はなまえの勝利だった。しばらく見ないうちになまえの実力は奨励会に入れるレベルに近付いていた。なまえはタイトルこそ取れなかったものの、将棋の世界で揉まれていたし、これまで勉強を怠らなかったのだから当然の結果だ。
「勉強不足だね」
「ぐうの音も出んわ」
なまえは感想戦までするつもりなのか、駒を配置し直している。その形からどこまで巻き戻したいのかがわかり、俺も駒を並べていく。感想戦は共同作業だ。
「やっぱりここから悪くなったと思う」
「キツいなぁ」
俺となまえの感想戦に配慮は無用で、言いたいことをそのまま伝える。その時の狙いや、相手の心情などを少しずつ紐解き、今後の対局に生かしていく。
感想戦はなまえの言う通りで、俺はそれにただ頷いていた。するとなまえは盤面を眺めたまま、ぽつりと呟いた。
「わたしたちはいつから悪かったかな?」
俺たちが、いつから悪かったか。今日出会ってからお互いに触れまいとしていたことをようやく口に出されて、俺は誰もいなくなったグラウンドを眺めた。隣で息を飲む気配がしたが、あくまで俺は呑気に言う。
「まあ、俺のせいやろなぁ」
「敏志くんのせいじゃないよ」
「わかりやすく避けたしな」
「わたしも、声掛けられなかったし」
不毛な責任の押し付け合いに、俺たちは押し黙った。居心地の悪い沈黙の中、藤の隙間を抜けた木漏れ日が将棋盤の上で揺れていた。
「あのね、わたし、敏志くんが会いに来てくれたら、ずっと言おうと思ってたことがあったの。でも敏志くん、一回も来てくれなかったね。当たり前だけど」
これは誰にも打ち明けていないが、過去一度だけ、なまえが出る将棋イベントの会場の前まで行ったことがある。だがそこで結局俺もなまえ目当ての男の中の一人であることに気付き、会場には入らず踵を返した。そのイベントでは、なまえの指導対局が受けられるチケットは即完売、トークショーの他にサイン会や写真撮影が行われたという。
「全部終わったから。だからわたしから来たの。この数年間つらいことがたくさんあったけど、わたしずっと『ざまぁみろ』って思って頑張ったよ。でも、もう頑張るのに疲れちゃった。将棋好きだったけど、仕事にするのは向いてなかったね」
「……後悔してへんか?」
「してない。辞めようって決意したらすごく気が楽になって苦しくなくなったから。こんなに楽に生きていいなら、自分のやりたいことやろうって思って」
なまえはウーロン茶を一口飲むと、深呼吸した。俺はとうとうなまえの口からあの日告げられるはずだった言葉を聞くことになるのかと身構えた。
「敏志くん、あのね……。わたし夏休みにこっちに引っ越して来るから」
「…………は?」
「こっちで働くことにしたの」
「……ちょい待ち、話が見えへんのやけど」
頭をフル回転させてなまえの言葉を噛み砕く。
なまえは俺が引っ越した後、母親と東京に戻ったはずだ。将棋連盟のホームページにも移籍したと書いてあった。わざわざ三門市に越して来て働くということは、つまり。
「まさか、おまえボーダー入るつもりなんか?」
「違うよ。もう誰かと戦ったり目立ちたくないし」
「ほんなら何すんねん」
「みかん」
「み、みかん……?」
「うん。みかん農家に就職して、今度は自然と戦うつもり」
たこ焼き屋の前で「もちチーズ焼にするつもり」と言うのと同じテンションで言うなまえに、頭がくらりとした。なまえはいつも俺の想像を軽く超えてくる。
「な、なんでやねん……」
「ツッコミのキレ悪くなったね」
「突拍子のなさに呆れとんねん」
「あ、就職って言っても高校卒業してからだよ。本当は中退して働くつもりだったんだけど、あと半分なんだから高校は出ておいた方がいいって言ってもらえたんだ。だから在学中はアルバイトで雇ってもらうの。敏志くんと同じ学校に通うんだよ」
「あかん。完全置いてきぼりやわ」
なまえが自分勝手なのは今に始まったことではないが、ここまでくると手に負えない。こちらの状況を確認せず、よくここまで行動に移せるものだ。
「もう手遅れかもしれないけど、わたし、敏志くんにあの時言ってもらえなかった言葉を言ってもらえるように頑張るね」
それはあまりにも柔らかい微笑みだった。こんなに穏やかな表情など記憶の隅の方にしかなかったので、思わず引き寄せたくなった。しかし俺はその手をきつく握り、地面を見つめた。
「もう気張らんでええ。正直悔しいけどずっとおまえのこと好きやった。カゲに嫉妬するくらいや、かなわんわ」
「敏志くん……」
「なまえ、遅くなってわるかった」
想いには気が付いていたのに、逃げ続けてここまで来てしまった。だがもうここより遠い場所など近界くらいしかない。そして俺は、当分ここから離れない。
顔を上げると、日が傾いてなまえの足元まで光が射し込んでいた。白く輝く輪郭を辿りながら、ワンピースの裾、腕、そしてなまえの顔を見つめる。なまえは俺の告白に緊張の糸を緩めたのか、堰を切ったように泣き出した。
高校生活が終わるまで、あと約一年。これから夏が始まる。
俺は帰宅したら一番にあの雑誌をゴミに出すことを決めて、なまえの肩をそっと引き寄せた。


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