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この時期になると、スーパーの青果売り場にはりんごやみかんが並び始める。ぶどうの種類も随分減り、売り場の隅に追いやられているのを見て、季節が移り変わるのは案外早いということに気が付く。
いつもなら素通りするところだが、今日は足が赴いた。あれが売っているかどうか確認しようと思ったのだ。通路をゆっくりと、縫うように歩き回る。
一通り青果売り場を見回ってみたが、やはり目的のものは見付からない。あれが出回り始めるのは夏頃から秋口にかけてなので当然か。もちろんその時期にこの店で売っていたのを俺は見ている。だが青すぎる外見に購買意欲が唆られなかった。もう少し熟したものが売られるようになったら買おう。そう思っていたが、今年も見事に買い逃した。
また来年、機会があれば、という気持ちで青果売り場を去る。だが俺は、本来の目的だった飲み物と菓子を買っている間、ずっと緑の丸い果物と、眉間にシワを寄せながらそれを食べていた後輩のことを思い出していた。
手が届く時にはほしいと思わなかったのに、もう手に入らないとわかってから頭の中を支配される現象には、すでに名前が付いている。

名字と初めて出会ったのは、当時師匠の紹介で時々顔を出していた将棋道場だった。将棋人口の女性比率は一、二割程度。同年代の女子が道場にいるのは珍しく、すぐに顔を覚えた。
名字は俺の一つ下で、同じ中学に通っていたが、マンモス校だったため学内で見掛けることはほとんどなかった。そのため学校でのあいつがどんな奴だったのかは知らない。特別嫌われているとか、虐められているという噂はなかったため、普通に学園生活を送っていたのだろう。
道場での名字は、女子が少ないこともあり対局中以外は一人でいることが多かったように思う。将棋の腕はまずまずといったところだが、プロは目指しておらず、研修会にもあまり興味がないようだった。己にそこまでの棋力がないことを理解していたものの、よく勉強していて毎度真剣に対局に臨んでいた。その頃の俺は将棋と向き合うことに息苦しさを感じていた時期だったため、勝っても負けてもどこか楽しそうな名字を、純粋に羨ましいと感じていた。
将棋に関しては記憶に残らないタイプの名字だったが、廊下で果物を食べている奴と言えば、おそらくあの道場に通っていたほとんどの人間があいつを思い出す。それほど印象的な光景だった。
名字と対局以外で話すようになったのは中一の秋の終わり頃だ。その頃にはあの果物は季節でなくなったのか、食べている姿を見掛けることはなかった。
話してみると名字は案外明るく人見知りをしないタイプで、一人でいることはそれなりに寂しいようだった。そのせいか、俺を見掛けると嬉しそうに寄って来るようになってしまった。何もあげていないのに、餌付けに成功したような気分だった。
俺が初めて名字に果物についての話を振ったのは、夏の暑さが厳しくなり始めた中二の時だ。なんとなく将棋の終わりが見え始めていた時期だった。
青いプラムのような果物を丸噛りしている姿を遠目に見て、名字と話すようになってから半年経つのかと月日の早さに驚きつつ、虚しさが少しずつ募った。こうしている間にも、俺の残りの将棋人生は少しずつ終わろうとしていた。
「お疲れさん」
「あ、水上先輩。どうもです」
「なあ、昔っから思っとったんやけど、それなんなん?」
「これですか? ソルダムです」
ソルダム。聞き慣れない名前だが、やはりプラムの一種だという。
将棋道場の廊下に設置されているベンチに座っていた名字は、パックに入ったソルダムを一つ取ると、「食べます?」と俺に差し出してきた。「ええわ」と言うと、素直にパックの中に戻して、元々手に持っていたソルダムに齧り付いた。ぱり、と皮が切れる音を聞きながら、俺は断りもせず名字の隣に座った。ソルダムという果物は皮の色味に対して随分と鮮やかな赤い果肉なのだなと思いながら眺めていると、名字の眉間にシワが寄った。それは俺に食べる姿を見られている嫌悪ではなく、酸っぱい、といった表情だった。
「自分それほんまに好きなん?」
「いうほどですね」
「なんやねん」
こういうところが、変な女認定に拍車をかけていたに違いない。性格は決して悪くはないが、名字には可愛げのない天然さがある。俺は逆に、そういうところを気に入っていた。
「普通に美味しいですよ。果肉は見掛けによらずまあまあ甘いし。でも皮がとにかく酸っぱいんです。噛めば噛むほどキツくて。ほら、水上先輩も食べてみてくださいよ」
「いらんて」
すると、食い止しのソルダムを俺の口に押し付けようとしてきたので、慌てて名字の腕を掴んで動きを止めようとしたところ、手首を掴んだ指が何かの拍子にずれて、名字の手首の骨の感触を皮膚の上からなぞってしまった。すぐに離せばいいものを、俺は何を思ったのか、名字の手首をより強く掴み直した。名字は眉を潜め、唇を尖らせて言った。
「水上先輩、痛いんやけど」
「……わるい」
「そんなに嫌がります?」
「無理矢理食わそうとするからやろ」
「そこまで強要してないですよ」
ぱっと手を離すと、名字は手首を摩って俺を恨めしそうに見上げた。謝るつもりで名字の頭をぽんと叩く。そしてすぐに、その行動のキモさに自分で気が付いた。やってもうた、と思って名字を見ると、俺を見上げたままぽかんとした表情をしていた。これはさすがに引かれたかもしれん、と思い、「あー」と行き場のなくなった手を自分の首の後ろに回した。
「キモいな今の」
「いや、別に大丈夫です。てか水上先輩がキモいのは今に始まったことやないんで」
「うっさいわ」
「将棋でもやらしい手ばっか使って来るし。せやから今これ食べる羽目になるんですよ」
名字の前歯がソルダムの皮に突き刺さる。色々と言いたいことがあったが、名字の不審な言葉が気になってそれどころではなかった。
名字は咀嚼しながら、俺のことを横目で見た。飲み込むまでの時間が、やけに長く感じられた。
「私、変な能力あるんですよ」
「……これから不思議ちゃん路線でいくんか?」
「ほら、絶対そうなる! 水上先輩ならって思った自分がアホらし。ええわもう。どうせ私はこんなとこでソルダム丸噛りしてる珍妙な女や」
「冗談やんか。なんやねん変な能力て」
今にも暴れ出しそうな名字を宥めつつ促すと、彼女は一つ咳払いをして奇妙な話をし始めた。将棋を指している時と寸分違わない真面目な顔で語った言葉は、ホラ話とバカにされてもおかしくない内容だった。
話を簡潔にまとめると、名字はソルダムを食べるとその直後から一定の時間、何故か情報処理能力が上がる。そのため、落としたくない対局の直前は、ソルダムを食べてから対局をしているという。
「プラシーボやろ」
「せや思うでしょ? でも実際、去年のこの時期の戦績、他の時期より群を抜いてるんです。ま、実力が拮抗してる相手限定で、普通に強い人には負けますけど」
「それは遠回しに俺と実力が拮抗してるって言うとるんか?」
次の対局は俺と名字の予定だ。わざとらしく片眉を上げて言うと、名字はあはは、と気まずそうに笑った。俺と名字の戦績はハンデ有りで約七対三なので、決して拮抗しているとは言えない。そもそも奨励会員である俺に、趣味で将棋を指す人間が勝てるわけがない。
「一回くらい水上先輩に勝ちたいねん」
にっと挑戦的に微笑む名字の言った通り、その後行った対局で、名字は驚異的な集中力を見せた。仕掛けていた手も読んでいたらしく、駒を進めていくにつれて、名字の言葉が現実味を帯びていくようだった。
結果は俺の勝ちだったが、あの対局は未だによく覚えている。それほどに、人が変わったような対局だった。

あ、とポテトチップスを手に取ろうとした手を止める。名字との出来事を一通り思い出し終わったタイミングで、降って湧いたようにある仮説が頭に浮かび上がった。
「あれもしかして、サイドエフェクトか?」
特定のものを食べると能力が上がるサイドエフェクトなど聞いたことがないが、名字が言うように、本当にそんな能力があるとしたら可能性が高い。
ボーダーに入って一年以上経ち、その間名字を思い出す機会は幾度となくあったはずだが、何故今になってこんな簡単なことに気付いたのか。
サイドエフェクトの存在は世間に明らかにされていないが、カゲや鋼のように自覚している能力を持った人間がいることは確かだ。
「(それにしても限定的すぎやろ……)」
名字の能力が本当にサイドエフェクトであれば、トリオン能力にはいくらか期待出来る。だからといってボーダーにスカウトする気はさらさらない。向こうで元気にやっていればそれでいい。
止まっていた手を動かして、大袋のポテトチップスをカゴに突っ込んでいると、ふいに電話が鳴った。ポケットに入れていた携帯を取り出し、通話ボタンを押す。
「もしもし、もう準備終わったんか?」
「いや〜ほんますんません。こっちようやく終わりましたわ」
「聞いたことあらへんぞ、主役パシらせる誕生日パーティー」
「あはは、後から来たマリオに叱られましたわ」
電話を掛けて来たのは、現在俺をパシリにしている張本人の隠岐だった。
今日は十二月五日、俺の誕生日だ。生駒隊を結成してから、隊員の誕生日は毎回作戦室で誕生日パーティーをすることにしている。海以外は関西出身で、引っ越して来た当初は友人もいなかったため、そういう取り決めになった。
その肝心なパーティーだが、段取りが悪かったのか、飾り付けが終わっていないので、まだ作戦室に入るなと締め出しを食らった。あまつさえ、後で立て替えるから菓子や飲み物を買って来いと言う。マリオがいればこんなことにはならなかったが、あの三人に段取りをさせるとこうなる。
「もういつ帰って来ても大丈夫です。ほなまた後で」
通話が途切れて携帯をしまおうとした瞬間、再び電話が掛かって来た。今度は誰や、とディスプレイを見て、表示されている名前に、ふっと頬が緩む。
「もしもし」
「あ、水上先輩。お疲れさまです。名字ですけど」
「おん、どうした」
「どうしたって、水上先輩の誕生日やんか。おめでとうございます。今何してました?」
「俺の誕生日パーティーの買い出しを一人でしてるとこや」
「えっ何で?」
「部屋の飾り付けが終わらん言うて」
電話口で名字の笑い声が聞こえた。
将棋を辞め、ボーダー入隊のために大阪を離れた今でも名字とは連絡を取っている。
名字は毎年俺の誕生日になると、こうして電話を掛けてくる。俺も名字の誕生日には電話をして、お互いの近況を報告し合っていた。メールのやり取りもたまにするが、電話は年にこの二回だけだ。
「水上先輩今年も帰って来ないんですか? そろそろ先輩の顔忘れそうやわ〜」
「将棋やめて記憶力衰えたか?」
「衰えてたら水上先輩の誕生日なんかとっくにですよ」
「そらそうや」
「でも、こうして素直に誕生日を喜べるようになったのは、よかったですねぇ」
「せやなぁ」
「ま、私はプロ目指してへんかったけど」
プロを目指す将棋指しは、誕生日に複雑な思いを抱えている。年齢制限によってプロ棋士への道が先細りしていくからだ。その道が途絶えた時、いい歳こいて何者にもなれなかった自分と対峙する恐ろしさを抱えながら、それでも諦めずに今も戦っている人間には頭が上がらない。
俺はいつから、誕生日を楽しみにしていただろうか。隊の連中は誕生日を盛大に祝いたがる。初めのうちはどんな心持ちでいたらいいのかわからなかったパーティーも、次第に喜ばしいことだと感じるようになった。今では自分の誕生日パーティー用の買い出しに駆り出されても、文句の一言二言呟くだけで、素直に従っている始末だ。
そして、名字からの電話。何故こんなことをするようになったのか覚えていないが、毎年律儀に掛かってくる。本人に言ったことはないが、密かな楽しみになっていた。
「名字。ありがとうな」
「どう致しまして。そろそろ先輩に会いたいです」
「年末帰るかもしれへんから、そん時は連絡するわ」
「よろしくです。誕生日パーティー楽しんでくださいね」
「ほなな」
通話を切り、ため息を吐く。
正直、ソルダムなんて今後一生食べる機会がなくてもいい。所詮プラムの一種だ、味の想像はつく。だが名字との関係は、ずっとこのままにしていていいものか。
遠距離になるとわかっていたので、想いを告げずに大阪を出た。互いにマメに連絡をするような人間でもないため疎遠になると思っていたが、こうして関係が続いている。電話で話している時も、まるで昨日学校で会っているかのような距離感だ。それは向こうも同じことを思っているだろう。
「いい加減ケリつけなあかんか……」
俺も名字も、将棋で培われた忍耐力には自信がある方だ。遠距離でもうまくやれるような気がする。向こうもその気があるから未だに連絡して来ていると思いたい。
年齢制限から解放されたような気でいたが、おそらくこの関係にも制限はある。その終わりが来る前に、伝えようとは思っている。宿便のような、この感情を。



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