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例を挙げるとするならば、服を着たまま顎下まである泥水の中を掻き分け歩くような、鳩尾の下を強く押され続けているような不快感。眼球の奥で無限に広がっていく空間と、反して自分が小さくなっていくような、落下に似た感覚。思い切り走り出したいのに、小刻みに膝上まである何かに阻害され、転ばないようにするだけのもどかしさ。
これは一部に過ぎないが、そんな思いをしているのは俺だけではなく、あの場に集まっていた人間全てそうに違いなかった。何でもないような顔をして向き合って座り、じっと盤面を見つめているだけの少年少女の内側は、ただ凪いでいて、吹き荒んでいて、孤独に震えて矛盾だらけだった。
長年かけて頭に叩き込んできた定跡や、先人が辿り着いたシステム、改良され続けていくワクチン。終わりのない情報をひたすら咀嚼し続けていく。
そもそも終わりなど存在していない。終わらせないためにずっと息を殺して、相手の動きを封じていくための機会を窺う。その静かな指先は、時々光って眩しく見える時がある。攻めに転じる時や、勝敗の決定打となる一手を指した時の、相手の表情を凍り付かせる温度のない指。そんな指先を俺は持っていた、中学の半ばまでは。

研修会とはプロ棋士の養成機関である奨励会の下部組織で、そこでは将棋を習い事で終わらせないよう互いに心を打ち砕き合っていた。プロ棋士になる手段は複数あるが、研修会から奨励会に編入して勝ち上がるのが最もメジャーな方法だ。
奨励会に入るためには、十五歳までに研修会のA二クラスに上がる必要がある。しかしその歳を過ぎてもA二クラスになれなかった場合、十八歳までにより難しいSクラスに上がれば奨励会に編入出来るが、多くの人間はそこまで上り詰める前に、己の棋力に見切りをつけて場を去ることが多かった。また、奨励会に編入出来たとしても、二六歳までに四段に上がれなければ強制的に退会となり、プロ棋士の道は閉ざされる。
人生のほとんどを将棋に費やした者に、年齢制限という壁は何よりも残酷だった。しかしながら、最後まで努力した末、二六歳で強制的に将棋人生を断ち切られ、何者にもなれなかった後の人生を想像するとぞっとする。そういった意味でも、自分の才能を信じ続けるのは強靭なメンタルが不可欠だった。
俺はそんな年齢制限に焦る年上連中を尻目に、小学生で研修会を卒業し、奨励会に編入した。
叶うかどうかわからない夢のために、一体何人の心を殺してきただろうか。
将棋は全てが自己完結している孤独なゲームだ。勝てば自分のおかげで、負けたら自分のせい。他人を責める必要がないからチーム戦より気が楽だと言われるかもしれないが、何年も自分一人を責め続けるには限界がある。反対に勝利した時の喜びは全て自分に返ってくる。ぴんと張った糸が唯一緩む瞬間で、全てが報われたような気になる。しかしそれも一瞬で過ぎ去り、また沈黙の苦痛が続く。
一日中、限られた時間の中で呼吸も忘れ、陸地を目指して荒れた海を進む小舟のようにがむしゃらだった。しかし俺の最後の日はあっけなく訪れた。
その時俺は十四歳だった。一度は一級にまで上がったものの、そこからすぐに二級に降級、停滞。さらに再び降級をくらい、俺は三級まで転がり落ちた。這い上がる力は、もうほとんど残っていなかった。
奨励会での最後の対局相手は小学生だった。発達しきっていない手で鳴らされるパチ、パチという音は、俺が積み上げてきたものを重機のように着々と崩していった。
どれだけ手を尽くしても優位に立てない。追い詰められ、逃げ回るか、殺される前に攻めるかの瀬戸際で、何か手はないかと長考したが、時間も切れた。
駒を進める。読んでいたとばかりにすぐに返される。焦って駒を進める。角を取られる。どんどん崩壊していく盤面を前に、為す術がなくなる。
「負けました」
その敗北宣言は、将棋の世界で生きていきたいという夢を終わらせる、ひどく短い言葉だった。これまで俺が息の根を止めてきた人間の亡霊たちは、俺を巻き込んで目の前の小学生に取り憑いたに違いなかった。
赤の他人に夢を託す気などさらさらない。だが同時に、頼むから俺のようになるな、という祈りにも似た思いを抱いた。

  ●

大型トリオン兵が空き家を巻き込んで倒れていくのを横目で見ながら、耳に手を当てて通信を図る。少し離れた場所では、隊長に真っ二つにされた敵の姿が目視で確認出来た。
「こっち全部片付いたで。マリオ、他に反応あるか?」
『終わったみたいやな。今そっちに……が……とる』
「なんや、また通信障害かい。マリオ、聞こえるか?」
通信を試みたが、ブツブツと途切れて何と言っているのか聞き取れない。討伐のカタが付いた後だったからよかったものの、このところボーダーの通信機器や本部そのものの調子がおかしい。異常が出た初日は本部内のモニターが表示されなくなったり、数秒間の停電などがあった。それ以降は派手な障害はなかったが、今日のように通信障害などが起こりやすくなっている。
「お疲れさん。なんやマリオちゃんの声聞こえへんな」
「そうスね。本部に連絡も出来ひんみたいです」
屋根の上を渡って隣に下りてきたイコさんが孤月を鞘に納める。それに続いて海、少し遅れて隠岐と合流した。全員無傷だ。

これまで一人で戦ってきたが、チームで戦うというのは奥深い。自分以外の駒を動かし、相手を削っていくのは思い通りにいかないことも多いが、やりがいがある。将棋と違い、取られた駒の再利用は出来ず、優劣がその時の状況次第で変わるため、より頭を働かせる必要があるが、自分の能力だけでなくチームとしてどんな動きが出来るか、相手を詰ませるための臨機応変な作戦をその場で考えるのは面白い。その作戦と自分の能力の差を埋めていくのが今後の課題でもある。
将棋に全く未練がないと言えば嘘になるが、割り切れる程度には今のボーダーでの生活を気に入っている。
チームメンバーとの相性も良く、隊長の名が『生駒』だったのも運命的な何かを感じたが、本人に言うと妙な勘違いをされそうなので伝えたことはない。

ライトニングを担いだ隠岐は、気の抜けた顔で笑いながらバッグワームを解除した。
「トリガーに異常がないだけでもよかったなあ。これが壊れてしもたら戦えへんし」
「本部はまだ原因調査中や言うとるけど、明らかに何か起こっとるな」
再度通信を図ってみたが未だ調子が悪く、諦めて耳に当てていた手を下ろす。何か起きる前に早いところ帰還するかと考えていると、ふいに海の視線が刺さった。
「そういえば話変わりますけど水上先輩、名字先輩と連絡取れました? やっぱフラれたんですかね」
「おまえはまたいらんことを……」
連絡が取れないということから派生して思い出したのか、海が痛いところをついてきた。わかりやすく顔を顰めたが、その話題にイコさんも乗っかってくる。
「名字ちゃんはかわいい。ちょい難しそうな子やけど。頭良い同士お似合いや思っててんけどなあ」
「イコさん、決め付けはあかんすわ」
「せやな、堪忍してや水上」
イコさんが舌を出しておどけた。好き勝手言われているが、面倒なので聞き流す。しかし海の言う通り、この数日なまえと連絡が取れていない。それはボーダーで通信障害が起きた日と一致している。それだけで、今ボーダーに何が起こっているのか大体予測出来た。

名字なまえはホワイトハッカーというやつで、鬼怒田さんの下で雇われている非正規社員だ。
初めはハッカーと聞いて犯罪者を想像したが、話によるとサイバー犯罪を犯すような奴らはクラッカーと呼ぶらしく、ハッカーとは別物なのだと力説された。
なまえとは転校先の三門第一高校で出会った。なまえは進学校の入学式で壇上挨拶をしてもおかしくないくらい頭脳明晰だったが、ネクタイが好きではないという理由で三門第一を選んだという。
自頭は良いが少し変わっているというのがなまえの第一印象で、それが面白いと思った。なまえも俺の何を気に入ったのか懐かれて、いつの間にか深い仲になっていた。
なまえは時々授業をサボり、屋上に続く階段でパソコンを弄っては、学年主任に見つかり説教されていた。テストも適当で、答えがわかっているのにわざと間違えてみせたり、全く関係ない、誰も理解出来ない数式を書いて教師を困惑させたりするのを楽しんでいた。
それに対して選択授業の美術は真面目に取り組んでいた。絵の具が手に付く度に席を立って洗うほど汚れに敏感なのに、何故美術にしたのかを訊けば、「ままならないところがいい」と笑った。学問においては秀才だったが、芸術のセンスは皆無で、周りから画伯と呼ばれていた。そこがなまえの憎めないところでもあった。
そして高二の秋、なまえは三門市立第一高等学校を中退した。特に相談はなかったが、そう判断したのもなまえらしいと思ったため、理由は追求しなかった。なまえはそういった俺の距離感が好きだったようだ。
一応高校の卒業資格は取っておくようで、通信制高校に切り替えたなまえは、今でもたまに学校に通っている。体育の授業が面倒だとぼやいていたのも記憶に新しい。
そんななまえと連絡が取れないのは初めてのことだった。今までは常に何かしらの端末を弄っていたため、どんなタイミングでも即レスだった。
なまえはボーダー内に住んでいる。倒れている可能性を考えて部屋を訪れてみたが不在だった。普通の状況ならば失踪を疑ったかもしれないが、今のボーダーの状況を考えると、なまえは仕事中なのだということがわかる。それもかなり緊急事態のようだ。

本部に戻って作戦室に入ると、パソコンと睨み合っていたマリオが顔を上げた。はあ、と安心したような顔をして椅子から立ち上がる。
「お疲れさん。途中通信出来んくなって焦ったわ。無事で何よりやで」
「まだ障害続いてるん?」
「いや、今見たら直ったみたいやな。ほんま何なんやろ。勘弁してほしいわ」
常にパソコンと向かい合って隊員を支援しているオペレーターだからこそ、今回のことは堪えているようだ。
ボーダーはその仕組みからネットワークが必要不可欠のため、強固なセキュリティを誇っているはずだが、それを脅かす何かが水面下で起きている。
イコさんが任務を終えた報告を端末でしようとした時だった。作戦室に来客を告げるブザーが鳴る。隠岐が「おれが出ますわ」と言って扉を開けると、そこには深妙な面持ちの忍田本部長が立っていた。思わぬ人物に海が「え!」と声を上げる。
「突然すまない。任務ご苦労だった」
「お疲れさまです」
「すまないが、少しの時間水上隊員を借り受けたい」
「俺ですか? ええですけど」
「ありがとう。ついて来てくれ」
おまえ何かしたんか、という隊員の視線に、何もしてへんわ、と訴えて忍田本部長の後に続く。忍田本部長は足早で廊下を歩きながら、「さて」と切り出した。
「大方検討がついているだろうが、現在我々ボーダーのネットワークは他方向からサイバー攻撃を受けている」
「まあ、それ以外考えられないですね」
「鬼怒田開発室長の指揮の元、名字くんが先頭に立ってエンジニアと共に戦ってくれているが……」
「あんまり良い状況やなさそうすね」
「いや、名字くんの働きによってサーバを取り返すことが出来た。情報も奪われていないようだ。だが……」
言い淀む忍田本部長の口ぶりに、一抹の不安を抱く。呼ばれたものの、俺はネットのセキュリティ関係はど素人だ。つまり、俺にしてほしいのはなまえに関する何かなのだろう。
「あいつ何かありました?」
訊くと、忍田本部長は丁寧に言葉を選び、なまえの今の状況を教えてくれた。

なまえはもう四日まともに眠っていない。初日は侵入者に食い尽くされたファイアウォールを直す作業に取り掛かり、同時にボーダー内の情報を吸い取られないよう防衛にあたっていたという。
海外のサーバを経由した侵入者は、ボーダーが抱えている機密事項の技術や情報を盗み取ることが目的のようだ、と忍田本部長は語った。
トリオンの存在すら公表されていない世の中だ。ボーダーの情報が公にされたら良からぬことが起こるのは目に見えている。最悪トリオン技術を使用した戦争が世界各国で起こる可能性もある。そうしたことがないよう、情報操作や記憶封印措置などが行われているのだ。
現状、近界民は三門市にしか現れないとされているが、誰も知らないところで門が開かれていても何らおかしくはない。
不正アクセス者が何のためにボーダーの情報を得ようとしているのかはわからないが、強固なセキュリティを突破してきたということは、相手も興味本位なわけではないのだろう。
「悔しいが、敵の実態が見えない以上、我々に出来ることは少ない。今は沢村くんが名字くんに付いて身辺のサポートをしてくれているが、先程名字くんが、君を呼んでほしいと言ってきた」
「あいつが……」
「隊員同士の関係にわざわざ口を挟むつもりはないが、良い関係を築いているようで何よりだ」
「なんかすんません……」
忍田本部長が微笑ましい、とでも言うように俺を見た。よりによって忍田本部長にそんなことを言われると思っていなかったため気恥ずかしくなるが、なまえが俺を求めてくるくらい事態はひっ迫しているということだろう。
ボーダーのセキュリティを司るコンピューター室の前で、忍田本部長が立ち止まる。
「最後に名字くんからの伝言だが……」
「伝言?」
「こんな姿を見せてすまない、と」
扉が開くと、鬼怒田さんの怒号にも似た指示が飛び交っていた。その声は掠れていて、疲労が窺える。ただでさえ濃いクマが更に濃くなっていた。
室内には十数名のエンジニアがパソコンと向かい合っていて、奥で仮眠をしているのか、倒れているのかわからない職員が数名いたが、その中になまえの姿はなかった。
「名字くんはあそこだ」
部屋の一角。記憶よりも痩せたなまえが背中を丸めて、床に置いたノートパソコンに一心不乱に何かを書き込んでいる姿があった。椅子に座っていられないのだろう。いつ倒れてもおかしくないほど青白い顔をして、大量の冷や汗をかいている。息も上がっていて苦しそうだ。
声を掛けようとした次の瞬間、なまえは近くに置いていたバケツを引き寄せ、嘔吐した。すぐに沢村さんがなまえの背中をさすり、口を水でゆすがせる。顔を上げたなまえは涙目になりながらも、また画面へと向き直った。
想像していたよりも悪い状況に、拳を握る。それでも俺の頭は冷静だった。
「トリオン体やないんですか?」
「二日目まではそうだったが今はトリオン切れで換装出来ない。休養もとっていないため名字くんのトリオンは回復していない」
胃の中が空なのだろう。なまえが吐いたものは胃液のみのようだった。吐くほどの疲労。それでも時間が惜しいのか、口を拭うのを他人に任せ、手は絶えずキーボードを叩いているのが痛々しい。
なまえは人よりも綺麗好きで、風呂好きだったが、髪の状態を見るとそんな時間すら取れていないのだろう。不潔という精神的苦痛を受けながら四日間、ずっとあそこで戦っていたのかと思うと、知らずに過ごしていた自分が情けなくなる。
「水上くん、来たのね」
汚れたバケツを持った沢村さんがこちらに近付いて来た。外に片付けに行くところらしい。
「お疲れさんです」
「早速で悪いんだけど、あそこのケトルに白湯が入ってるから、置いてあるラムネを溶かして名字さんに飲ませてくれる? 温度に注意してね」
「了解です」
壁際に置かれた長机の上にはなまえのために用意されたであろう塩、インスタントのすまし汁、腐りかけのバナナなどの飲食物が置かれていた。
俺は言われた通り人肌ぐらいに冷めた白湯を紙コップに注ぎ、沢村さんが言うラムネを探した。
「ラムネて、ブドウ糖やん……」
ブドウ糖は唯一脳のエネルギーとなる成分で、砂糖と違い吸収率が段違いに良い。頭を使うゲームをしていたからこそ、この必要性がわかる。
なまえはもう疲労で固形物を摂取出来ないのだろう。身体よりも頭を働かせるためにこの手段を取っているようだった。
ブドウ糖を紙コップに数個入れると、溶けやすく出来ているのか、サッと白湯に拡散した。準備をしていると、鬼怒田さんがなまえに向けて声を張り上げた。
「名字、少し休まんか! もう限界だろう、こっちは何とかなっておる!」
なまえは聞こえていないのか無視しているのか、何も言わずに手を動かしている。
「名字!」
 再三名前を呼ばれたなまえは、煩わしそうに小声で呟いた。
「早く向こうの動きを止めたい。それに今休んでも目が冴えて眠れないしその時間がもったいない。もし気絶したら十分後に起こしてください」
「おまえなあ!」
なまえが言うその感覚はほんの少しわかる。身体は疲れているのに、目は全方位に映るものに敏感になり、そわそわして眠れなかった経験が俺にもあった。
俺は紙コップにストローを差してなまえに駆け寄った。張り詰めて、触れたら途端に千切れてしまいそうなほど集中している姿に、不謹慎だが見惚れてしまう。
誰も立ち入れない領域になまえは一人でいる。一年以上付き合っていたが、仕事をしている姿を見るのはこれが初めてだった。何と声を掛けたらいいか迷っていると、ふいになまえが「水上?」と俺の名を呼んだ。出来るだけいつも通りに、なまえの好きな距離感を心掛ける。
「来たで。えらいことになっとるらしいな」
「ほんとにヤバい」
「沢村さんがこれおまえにて。飲めるか?」
口元にストローを近付けると、なまえはゆっくりと息を整えてからそれを飲み始めた。途中えずくが、なんとか堪える。
「汚くてごめんね」
「気張ってる証拠やろ」
「助かる」
「おん」
この姿を、誰が汚いと思うだろうか。一人パソコンに向かって、一般人には何が書いてあるのかわからない記号の羅列を読み、書き込んでいくその姿を。
見ると、指先は真っ赤になって腫れていた。キーボードには血が付いている。指からの出血ではない。何だ、と思っていたら、ボタボタとなまえの膝に赤い雫が落ちた。
「鼻血出てるで」
近くにあったティッシュで鼻を抑えてやる。しかしなまえは気にもせずにコードを書き込む手を止めない。鼻を抑えたまま、周りの血を拭う。少ししたら止まったので、静かに手を離した。
「ありがとう」
「おん」
「今ね、敵を返り討ちにするためのソフトを作ってる。これが出来たら敵の攻撃の弾道を解析して経由してる踏み台を全部クラッキングして、逆探知して警察に突き出す、予定。上層部の判断による」
「小難しいこと言われてもわからへん。要は、もうすぐ終わるってことやな?」
「そう。もう好きにさせない」
「ほんなら俺が来た意味なかったんとちゃうか」
「そんなことない」
なまえの目は未だ一度も俺を映していないが、淡々と続ける。
「周りの景色が見えなくて、自分がどうなってるのかわからなくてすごく怖かった。でも水上の声と気配がして、安心した。最後まで頑張れるって思ったよ」
「何もしてへん奴のことめっちゃ褒めるやん」
「何もしてなくない。分野は違うけど水上も一人で戦ってきた人だから。だから好きになった」
「……人おるぞ」
「構わない」
口元に笑みを湛えて、なまえはようやく俺を見た。すぐに逸らされてしまったが、名残惜しいなどとは微塵も思わなかった。その一瞥がどれだけ貴重なものだったか、俺にはわかっていた。
忙しなく動くなまえの指が、モニターの光にぼんやりと照らされて光っているように見える。姿のない敵の息の根を止めるための、か細いたった十本の指。俺がかつて持っていた光を、なまえは持ち続けている。
なまえはこの年までずっとこうして一人で、ゴミだらけの膨大な情報の海を読み解き、砂漠の中から小さな石を見つけ出すようにして日々を生きてきたのか。そしてそれはこれからも変わらない。血が出ても、嘔吐しても手を止めることはない。
「(カッコよすぎるやろ)」
美しいものとは、こういうものを言うのだろう。生涯口に出して言うことはないとしても、今のなまえの姿は俺の記憶に永久に残り続ける。この瞬間が終わるまで、なまえのことを眺めていたい。形にして残しておきたいとさえ思う。
なまえは血走った目でモニターに食い付いている。俺が入って来た時よりも元気になっているように見えるのは、なまえの言葉を否定するようだが俺のおかげではない。最後の最後で舞い上がるような高揚感は、勝負の終わりを意味している。それでなまえは逸っているに違いない。
外野からの応援などもう関係ないだろうが、なまえの精神力だけ切れないようにと、隣で胡座をかいて見守る。なまえは少し微笑んで、目に見えない現実の海を掻き分け、泳いでいく。



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