×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -



目を覚ますと、諏訪くんの腕が私の身体を包み込んでいた。何も纏っていない上半身の温もりを背中越しに感じる。昨夜、向き合って眠ったと思っていたのに、どうやら私は寝返りを打ってしまったらしい。それでも頭の下にはしっかりと諏訪くんの腕が差し込まれていて、それだけで胸が高鳴る。
諏訪くんは眠る時、よく腕枕をしてくれる。身動きが取れなくなってしまうにも関わらず、こうして朝まで同じ体勢でいてくれるし、今日はもう片方の腕が私のお腹周りに回っていて、首筋に寝息が掛かっている。こんなに幸せなことがあってもいいのだろうか。
諏訪くんを起こさないようにゆっくりと方向転換して、眠る諏訪くんをじっと見つめる。当たり前になったこの距離も、初めのうちは本当に心臓が爆発してしまうのではないかと思うほどに緊張した。あの頃みたいに軽い酸欠を起こすようなことはなくなったが、代わりに、諏訪くんに貪り尽くされた記憶を、また現実に呼び戻したい衝動に駆られることが強くなってしまった。今だって寝起きだというのに、もう触れてほしくて堪らない。今までそんな風に思った相手などいなかったので、色んな意味で変わっていく自分に毎日驚いている。
穏やかとは言い難い寝顔。今日の諏訪くんはすごく静かだ。疲れていたり、酔っ払っている日の夜はなかなかなイビキをかく。そういえば初めて会った日も、諏訪くんはボーダーのラウンジでイビキをかいて寝ていた。

あれは私が三門市に来たばかりの頃だった。私はスカウトではなく自ら志願してボーダーに入隊し、隣の県から三門市に越して来た。入隊が決まるまでは実家からボーダーの試験などに通っていたのだが、正式な入隊と共に推薦で大学の編入も決まり、ボーダーと大学の等距離にあるアパートを借りた。その時に、沢村さんに諏訪くんを紹介されたのだった。
諏訪くんはソファーで腕を組み、上を向いて仮眠を取っていた。その姿を見て沢村さんは「顔は怖いけど話せば大丈夫だから」と私に言いつつ、苦笑いをしていた。金髪で厳つくて、人目を気にせずイビキをかいて寝ているような男の人は、これまでの私の人生にはいないタイプだったので、怖いと思うより先に興味を引かれた。沢村さんに起こされた諏訪くんは、「あー、寝ちまった……」と掠れた声で呟いて、ただでさえ悪い目つきで私を見た。

「おめーか、最近入ったっつう。名字だったか?」
「名字なまえです。よろしくお願いします」
「タメだろ、敬語いらねーよ。ワリ、ちょっと顔洗ってきていいか?」
「あ、うん。もちろん。ごゆっくり」
「おー、すぐ戻るわ」

そう言いつつ、胸ポケットからタバコを取り出したのを見て、「男の子だ……」と思ったのをよく覚えている。この時すでに成人していたので、タバコを吸っていることは咎められることではないが、なんとなくこの人は、きちんと二十歳になってからタバコを吸い始めたというタイプではないだろうなと思った。こういう組織にもヤンチャそうな人がいることに驚いて、一服するなら時間が掛かるだろうと予想していたが、宣言通りすぐ戻って来た諏訪くんに感心した。
沢村さんは仕事に戻り、残された私は諏訪くんから大学の授業のことやボーダーのこと、三門市のことについてを簡単に話してもらった。右も左もわからない状態だったため、こうして話を聞けたことが心強かったし、諏訪くんは会話がうまくて物怖じせず、思ったことをはっきり言う明け透けなタイプだったので、こちらも人見知りせずに話すことが出来た。後から聞いた話によると、この日は夜勤明けだったらしい。それなのに私のために時間を割いてくれたことが申し訳ないと思いつつも嬉しくて、優しい人だな、と思ったのだった。
第一印象がよかったので、私はどんどん諏訪くんのことを好きになっていった。ボーダー内で会うと必ず声を掛けてくれて、色んな人に私を紹介してくれた。そのおかげで、人脈がどんどん広がっていって友達も出来たし、自分が先輩の立場になった時に、諏訪くんの行動を見習って行動することが出来た。その頃にはもう諏訪くんのことが好きになっていて、楽しかったり、苦しかったりと目まぐるしい日々を過ごしていた。

このまま諏訪くんの隣でまどろんでいたいが、家事をしなくてはならないので諏訪くんの腕からゆっくりと抜け出す。身を起こして脱ぎ散らかした服を探そうとした時、背後から伸びてきた腕に再びベッドに引き込まれてしまった。

「わっ!」
「起きんのか?」

少し掠れた諏訪くんの声で、昨夜の出来事を思い出してしまう。

「びっ、くりした。おはよう諏訪くん」
「はよ」

向き合って、一瞬の沈黙があった。もしかして、と期待したが、諏訪くんはぱっと身を起こすと、掛け布団の中でぐちゃぐちゃになっていたTシャツと短パンを引っ張り出して着始めた。それを残念に思っている自分が恥ずかしくて、毛布の中に口元を埋め、目だけを諏訪くんに向ける。

「ンだよ、その顔は」

肩越しに振り返った諏訪くんは、眉をひそめて私を見ていた。諏訪くんは今、おそらく寝起きのタバコを吸いに行きたいのだろう。この空気を長引かせるのも悪いので、「なんでもない」と私も起き上がって服を探す。こういう時、どうして真っ先にブラジャーが見つからないのだろう。私だけ上半身裸なので恥ずかしい。諏訪くんに背中を向けて布団をめくっていると、「あー……」という声と共に後ろから抱きすくめられた。

「わっ、諏訪くん……」

首筋に硬い髪の毛がちくちくと刺さり、肩甲骨の辺りに唇が触れる。諏訪くんの大きな手のひらが私の胸を包む。いやらしい手つきというわけではなく、遊びで触っているようなものだったが、私は諏訪くんに触れられるだけで感じてしまうし、元々そういう邪な気持ちがあったので、すぐに意識が切り替わってしまった。

「んん……」

鼻に掛かるような声が漏れて、諏訪くんの呼吸と手つきが心なしか荒くなっていくのがわかった。このまま振り向けばキスしてもらえるかな、と思い振り返ろうとしたが、諏訪くんの手が急に私の肩をがしりと掴んだ。驚いてびくりと跳ねる。

「いや、ダメだ。起きんぞ」
「えっ、そうなの……?」
「……昨日で使い切ったんだよ」

がしがしと頭を掻いて、やっちまったと言わんばかりに諏訪くんがため息を吐く。最近そういったものの管理は諏訪くんに任せきりだった。それなら仕方がないか、と自分に言い聞かせて、熱を鎮めながらブラジャーを探す。

「なまえ」

名前を呼ばれて、後頭部を優しく引き寄せられる。目を閉じた諏訪くんの顔が一瞬だけ見えて、唇が重なり、すぐに離れた。

「タバコ吸ってくるわ」
「はっ、い……」

私の反応に薄く笑った諏訪くんが寝室を出て行く。ぱたんとドアが閉じた後に、私は声にならない悲鳴を布団に吐き出して、バタバタと暴れてしまった。ずるい。今のは絶対に故意的だ。あの諏訪くんが自らの意思でキスをしてくれるということ自体、未だに嘘みたいな話だと思っているのに、あんな風に不意打ちするのは卑怯だ。
諏訪くんは演技がかった行動や、いわゆる甘いムードというやつを作ることが苦手だ。似合わない、単純に照れ臭い、俯瞰した時に自己嫌悪するからだと、酔った時に教えてくれた。しかし今の行動は、その諏訪くんが苦手とする行為だったのではないか。だって、少女マンガみたいだった。思い出して、また暴れそうになる。

どこまでいくのかわからないくらい、諏訪くんのことが好きになっていく。それと同時に、諏訪くんはどうして私を好きになってくれたんだろうという疑問がついて回る。教えてもらったことがないし、おそらく教えてくれないだろう。しかし、こうして一緒にいてくれて、今みたいにキスしてくれて、ずっと名字呼びだったのが、ようやく名前呼びに変わって、不満など何もない。私は諏訪くんが隣にいてくれれば、それだけで幸せだ。

服を着てから脱衣所へ向かい、洗濯機を回す。今日は天気が良さそうなので、ベランダに干しておけばふかふかになりそうだ。
洗顔などを済ませてリビングに行くと、諏訪くんはまだベランダでぼんやりとタバコを吸っていた。せめて水くらい飲んでから吸えばいいのに。喉が渇かないのだろうか。
そんなことを思いながら、冷凍してあったご飯を温めて、昨日の残りの長ネギと豆腐の味噌汁を火に掛ける。その間にケトルでお湯を沸かし、自分用のルイボスティーの準備をする。
朝食を食べられない私と、出来れば食べたい諏訪くんの折衷案として、朝は基本的に冷蔵庫の残り物を出すことになった。私は構わないのだが、さすがに一から作らせるのは悪いとのことだ。そして私が準備をする代わりに、諏訪くんは食器を洗ってくれる。これはもうすっかり定番の流れになってしまった。そして、お金関係の折り合いをつけるため、外食をする時は、特別な日を除いて諏訪くんが出してくれるようになった。初めは断ったが、材料費や手間賃、私の家に来た時の光熱費などを鑑みて、これが妥当だと判断してくれたようだ。こうした後々揉めそうなお金関係の提案を向こうからしてくれたおかげで、今のところトラブルなく日々を過ごしている。私の友人はこうしたことで相当揉めて、結局別れたと言っていた。言い出しにくいことも、諏訪くんは結構あっさりと口に出すので、私たちの関係は大分風通しが良い。
ベランダの窓が開く。諏訪くんは欠伸をし、身体を掻きながらのっそりと部屋に戻って来た。手を止めて、諏訪くんの方へ身を傾ける。

「おにぎりの具、シャケフレークとツナマヨどっちがいい?」
「シャケ」
「はーい」

解凍したご飯の側面に軽く塩をふり、広げた中心にシャケフレークを適量載せ、包むように握っていく。熱いのでささっと握り、海苔をつけて完成だ。コンロの火を消すと、味噌汁からふわっと湯気が立ち上った。お椀に移して、諏訪くんのご飯をお盆に載せる。これだけで日本の朝食、といった感じだ。
諏訪くんは冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぎ、私のルイボスティーが入ったマグカップも食卓まで持って来てくれた。私はソファーを背もたれにするようにして、向かい合って座る。

「いただきます」

諏訪くんが手を合わせる。諏訪くんにこうして「いただきます」と言ってもらえる瞬間が、私は好きだ。テレビを流し見しながら、今日の予定を相談する。珍しく二人とも大学も任務もない日なので、急な近界民の襲撃がなければ自由な一日だ。

「どっか行きてーとこあるか?」
「うーん、これといって特にない。買い物も昨日しちゃったし。強いて言うなら来週提出のレポートを片づけないとかな。地味に期限が……」
「だったら俺はコンビニついでに本買いに行くわ。何かほしいもんあんなら買ってくっけど」
「糖分をいただけたらレポート頑張れそうです」
「了解」

朝食が終わった頃、洗濯が終了した音が聞こえてきたので、諏訪くんは洗い物、私は洗濯物を干す。生活の中に組み込まれた諏訪くんの物や、時間や意識が嬉しい。しかしこれは、決して当たり前ではないんだと気づくたびに、大事に過ごしていきたいな、と強く思う。
背後から吸引音が聞こえて振り返ると、洗い物を終えた諏訪くんがリビングを掃除してくれていた。私は手を止めて、その様子を少しの時間、見つめていた。
諏訪くんと一緒にいると、心臓が壊れそうになったり、身体が熱くなったり、安堵したり、胸が締めつけられたりする。この気持ちを、「好き」という言葉だけで表すなんて、今の私にはずいぶん難しく思える。
諏訪くんも私も、ボーダーで命を掛けて戦っている身なので、いつ何が起こるかわからない。最悪の場合死んでしまうかもしれないし、近界民に拐われてしまうかもしれない。突然親しい人に会えなくなる気持ちは痛いほど知っている。せめて残す側だけにはならないように、もっと強くなりたい。
掃除を一通り終え、身支度を整えた諏訪くんは、財布と携帯をポケットに突っ込みながら玄関に向かった。その後ろをついて行く。

「昼メシどうすんだ?」
「パスタいっぱいあるから何か適当に創作パスタ作るよ」
「おめーほんと好きだよな、麺」
「だからお米消費するの、本当に大変だったんだよ……」
「アホ。まあ、とりあえず行ってくる」
「諏訪くん」
「あ?」

玄関先で靴を履き終わった諏訪くんの首に抱きつき、キスをする。私の突然の行動に驚いたようだったが、諏訪くんは私の身長に合わせて身を屈め、数秒後に私の背中をぽんぽんと叩いた。腕をほどいて唇を離す。

「いってらっしゃい」
「おう。すぐ戻る」

ひらひらと手を振って送り出す。ベランダから諏訪くんを見送りたい気分になったが、そこまでしたらさすがに何か言われそうなのでやめた。私が今やるべきことはレポートをさっさと終わらせて、自由な時間を作ることだ。リビングに戻り、ノートパソコンを開く。

四十分くらい経って帰ってきた諏訪くんは、真っ先に寝室に入って行った。その行動の意味を考えないようにしつつ、キッチンでお湯を沸かす。リビングに戻ってきた諏訪くんは、ビニール袋から小さな袋を取り出して私に差し出した。

「これでよかったか?」
「わ、ありがとう。好きなやつ」

私がよく食べているチョコレートのお菓子を受け取る。私が諏訪くんの好きなビールの銘柄を知っているように、諏訪くんも私が好きなものを知ってくれているのだと思うと、にやにやしてしまう。

「コーヒー淹れるけど飲む?」
「もらうわ」

諏訪くん用のマグカップと自分用のマグカップにコーヒーを淹れて、諏訪くんはソファー、私は床に座ってパソコンと向き合う。諏訪くんは買ってきた文庫本を開いて、楽な体勢を取った。
会話がなくなり静かになった部屋では、生活の音だけが聞こえる。キーボードを叩く音とマウスのクリック音。諏訪くんが本をめくり、時々ぺらぺらと前に戻る音。遠くで微かに鳴る戦闘音。エアコンの音。
温くなったコーヒーを一口飲んで、マグカップを机に戻す。諏訪くんが体勢を変える。私のスマートフォンに、献立アプリの通知がきたのを横目で確認して、またパソコンの画面に視線を戻す。諏訪くんが、微かに吐息のような唸り声を漏らす。
二時間くらいそうしていただろうか。お腹が空いて、時間を見ると十二時を過ぎた頃だった。ソファーに寝転んで本を読んでいた諏訪くんの目線が、私に移る。

「お腹空いちゃった。ご飯作ってくるよ」
「あー、もうこんな時間か。頼むわ」

パソコンを閉じて、キッチンに向かう。換気扇のスイッチをいれて、調理器具を並べた。

まず初めに、家で一番大きな鍋にたっぷりの水を入れ、火に掛ける。買い物したばかりの冷蔵庫には、使い慣れた食材が詰まっている。厚切りのベーコンとしめじ、玉ねぎ、キャベツを手に取る。今日は和風パスタを作ろうと思う。
まず食材をそれぞれ食べやすい大きさに切っていく。その間に鍋の水が沸騰してきたので、パスタメジャーで三人前を計り、鍋にバラバラになるように投入する。塩を適量ふり、タイマーをセットして、曲がる程度に柔らかくなった麺をお湯に押し込む。
一人の時は電子レンジでパスタを茹でられるものを使っているのだが、諏訪くんの前だと、そういった手抜きをしている姿を見られたくなくて、わざわざ鍋で茹でてしまう。諏訪くんは絶対に気にしないし、手抜き料理だって文句を言わずに食べてくれるのだろうが、これは私なりのこだわりだ。
熱したフライパンでバターを溶かしつつ、少しだけチューブのニンニクを入れる。ニンニクを入れると大抵何でも美味しくなるというのは、私の母の教えだ。先にベーコンを焼いてから全ての具材をフライパンに入れ、塩胡椒をふって炒める。全体的にしんなりしてきたら、一度火を止めてパスタのタイマーを確認する。あと数十秒で茹で上がりそうなので、大きな深皿と、取り分ける用の平皿二枚を出しておく。
ジリリリ、と大きなベルが鳴ると、「それやっぱうるさくねーか?」とソファーから顔を出した諏訪くんが言った。諏訪くんの言う通りだが、可愛いし、せっかく買ったからには使いたい。
鍋の火を止めて、パスタを湯切りする。お玉一杯半程度の茹で汁とパスタを、具材を炒めていたフライパンに投入する。さすがに三人前のパスタは量が多く、気をつけないと溢れてしまいそうだ。フライパンを再び火に掛けて、醤油を回し掛ける。最後に塩胡椒で味を整えたら、バター醤油パスタの完成だ。

「諏訪くん出来たよ。そっち持って行っていい?」
「おー」

私が料理を作っている間に、諏訪くんは机を片づけてくれていた。初めのうちはただ待っているだけの諏訪くんだったが、こうして私の家によく来るようになって、私がしてほしいことが段々とわかってきたらしい。掃除機を掛けてくれた時も感じたが、ここ最近の諏訪くんは以前より細かい部分の気が利く。向かい合って座り、机の上を整える。

「あ、サラダとか何も作ってない」
「おめーそういうの結構気にするよな」
「うーん、結構品数が多い家庭だったからかな」
「こんだけで十分だっつの。食おうぜ」
「うん。そういえば諏訪くんって料理出来るの?」
「簡単なもんなら、やろうと思えば出来んだろ」

パスタを取り分けながら、諏訪くんが料理をしている姿を想像してみるが、似合わなくて笑ってしまった。「失礼なこと考えてんな?」と言う諏訪くんに、「いやいや」と微笑みを返す。

「いただきます」

諏訪くんが軽く手を合わせてから、パスタをすする。一口食べて「うめえ」と言ってくれたので、私もパスタを頬張った。普通に美味しい。三人前のパスタを作ったのは、諏訪くんが食べることを見越してだが、実を言うと自分のためでもある。朝ごはんを食べていない反動なのか、お昼は結構お腹が空いている。それにパスタは好物なので、自分が想定している以上の量を食べられる時があるのだ。なので、少し多いくらいが丁度いいのだが、食べすぎないように注意しなければならない。

「そういや……」

諏訪くんの手が止まり、歯切れ悪く話を切り出した。何だろうと思って、私の手も止まる。諏訪くんは「そんな大したことじゃねーよ。食っとけ」と食事を催促したので、言われた通りに手を動かす。

「あー、なんだ。こないだ母親が、今度おめーを連れて来いだってよ。メシ食いに」
「えっ!」

驚きすぎて、フォークを皿の上に落としてしまった。
諏訪くんは実家暮らしなので、まだ家には一度も遊びに行ったことがない。諏訪くんがどんな家で暮らしてきたか、どんな部屋で過ごしているのか、今まで幾度となく妄想したが、まさか諏訪くんじゃなくてお母様にご招待いただけるとは考えてもいなかった。

「い、いいの?」
「いいも何も、そっち次第だろ」
「行きたい! ご挨拶したいです!」
「んな大層なもんじゃねーよ」
「大層なものだよ! だって、諏訪くんのご家族に会うんだよ? どうしよう、緊張してきた」
「そんなんで大丈夫か……」

食事にお招きしてくださったということは、諏訪くんのお父さんやおばあちゃんもいるはずだ。彼氏の家族に会うこと自体が初めてなので、粗相をしてしまわないか今から心配になる。

「諏訪くんのご家族ってどんな人?」
「ぁん? 普通の親父とお袋とばあちゃん」
「その普通が知りたいのに」

諏訪くんが「普通」と感じる家族像が、一体どういうものなのか、知りたい。そう言うと、諏訪くんは渋々といった表情で、自分の家族のことを話してくれた。私はその話に相槌を打ちながら、パスタを口に運ぶ。そういえば、ちゃんとした家族の話が出たのは諏訪くんと付き合ってから初めてかもしれない。

「そういやおめーの家、親父さんいないんだっけか」

自分のことを話し終えた諏訪くんが、ふいに思い出したようにそう言った。これは以前、飲み会か何かの時に話していたはずだ。その時はさらっと流してしまったが、ボーダーの人に何故父がいないのかを話したことがなかった。いずれ諏訪くんにも私の家族と会ってほしいので、話すタイミングはおそらく今だろう。

「そうなの。亡くなったとか離婚とかじゃないんだけど。なんだろう。簡単に言うと蒸発っていうやつ?」
「なまえ、それ俺が聞いてもいいやつか?」
「うん、聞いてほしい」

真面目な表情をしてフォークを置こうとした諏訪くんに、「食べてて」と笑い掛ける。諏訪くんは軽く頷くと、半分ほどになったパスタを食べ始めた。
簡単に説明すると、父は借金を作って、その借金と共に家から姿を消した。まだ私が幼稚園の頃だったと思う。何の借金なのかは知らないが、どうやら父が作ったものではないらしい。父の記憶はあまりないが、変な人ではなかった。普通の、優しい人だったように思う。
父は離婚届を置いて行ったが、母は応じなかった。いつか父が帰って来てくれると信じているようだ。私には言っていないが、おそらく母は父の連絡先を知っている。実際に連絡を取っているのかは定かではないが、十何年も待つ母の忍耐力は尊敬に値する。
幼少期から家の中に男性がいない状態で過ごし、なおかつ中高が女子校だったので、私は妙に男性に対しての憧れが強かった。私が諏訪くんの男性的な部分に魅力を感じてしまうのは、おそらくこれが原因なのだろう。
一通り父の話を終えると、諏訪くんは内心思うことがあっただろうが、特に同情する素振りを見せず、何でもない顔で「そうか」と言ってくれた。私にとってもこの話は「そうなんだよね」という言葉で済ませる程度には消化しているので、諏訪くんの態度が有難い。

「お父さんも色々考えて家族から離れたんだろうけど、私としては、借金あっても一緒にいてほしかったなって思うよね」
「残される方はそうかもな。男としては色々あんじゃねぇの?」
「そうなのかなぁ。でもお母さんも、やっぱり離れるのは辛かっただろうし、何とも言えないよね。諏訪くんは借金あっても、私の前から消えたりしないでね」
「ばっ、ねーよ! どういう話の流れだ!」
「好きな人とずっと一緒にいたいって話……」

そう言うと、諏訪くんはぐ、と一瞬怯んで、ふうと息を吐いた。そして私の皿に、パスタをトングで一掴み載せた。食え、ということらしい。ありがとうとお礼を言って、フォークにくるくると巻きつける。諏訪くんは残りのパスタを自分の皿に取り分けて、無言ですすった。微妙な空気になってしまったので、話を変える。

「ねえ諏訪くん。私、今まで諏訪くんのどこが好きとか言ったことなかったよね?」
「ぐっ、っ! はあっ!?」

咀嚼していた途中だった諏訪くんは、慌てて口の中のものを飲み込むと、大きな声を出した。まさかこの流れでそんなことを言われるとは予想出来なかったのだろう。しかし興味はあるようで、「んだよ……」と目を細めている。
諏訪くんの好きなところはたくさんある。以前堤くんに溢した、諏訪くんの全部が好きという言葉も嘘ではない。しかし、諏訪くんのことが好きだと自覚した時に思ったことは、こうなのだ。

「気を悪くしないでほしいんだけど、諏訪くんの好きなところは、面倒見甲斐がないところ」
「は……?」

ぽかんとした表情で、諏訪くんが私を見た。もしかしたら、カッコいいとか、男らしいとか、そういう言葉を期待していたのかもしれない。そういう気持ちも当たり前だがある。だが、他の男の子と違うのは、ここから始まる部分だったりするのだ。

「自分で言うのも何だけど、私って多分面倒見が良い部類に入ると思うんだよね。尽くすタイプというか……」
「だな」
「でも諏訪くんも面倒見が良いでしょ。諏訪くんといると、どっちかって言うと私が甘える立場になることが多いなぁって思ってて。それなのに趣味とか振る舞いとか、すごく男の子なんだよね、諏訪くんって」
「待て、それ以上言うな……」

顔をしかめる諏訪くんを無視して続ける。

「タバコ吸ってるとか、お酒が好きとか、徹夜で麻雀するとか」
「おい、やめとけ」
「女なんだから夜一人で出歩くな、とか言って、夜勤明けなのに家まで送ってくれたり」
「よせ、マジでやめろ!」

諏訪くんに口を塞がれる。まだまだ好きなところはたくさんあるのに、強制終了させられてしまった。息を切らした諏訪くんは、俯いて顔を押さえている。少しだけ耳が赤い。

「おめーなぁ。後半ほとんど俺がカッコつけてるっつってるようなもんだぞ……」
「私はカッコいいと思ってるよ」
「勘弁してくれ……」

がしがしと刈り上げている部分を掻いた諏訪くんは、照れた表情でじろりと私を睨みつけた。諏訪くんは、こういう時にお返しと言わんばかりに、私の好きなところを言ってくるような人ではない。少しだけ残念だが、言われたら言われたで悶絶してしまいそうなので、ここぞという時にだけ言ってもらえたら、私は満足だ。
諏訪くんの男らしい部分や、精神的に自立しているところは、一緒にいて頼りになるし安心する。この人になら全て委ねられると、私は真剣に考えている。

「昔から本当に純粋な疑問なんだけど……」
「何だよ」
「深い意味はないから話半分で聞いてほしいんだけど、お父さんがいない人って、結婚式のヴァージンロードとかってどうしてるのかな?」

すると諏訪くんは、先日冬島さんに言われた「嫁」という言葉と共に、風間くんにキスしているところを見られたことを思い出したのか、苦虫を噛み潰したような顔をした。あの後、風間くんに会うたびにいじられていたから、余計にだろう。
正直、純粋な疑問と言っておきながら、諏訪くんと将来そうなりたい、というアピールが強かっただろうか、と少しだけ後悔する。諏訪くんが私との将来について考えてくれているかどうかはわからないし、学生で、なおかつボーダーとして戦っている身としては、将来のことを不用意に口に出すのは避けたいはずだ。私ばかり気持ちが先行している自覚があったので、「やっぱり何でもない」と言おうとした時、諏訪くんが口を開いた。

「そんときゃおめーのお袋さんか、俺なんじゃねーの?」

それ以外になんかあるか、と続けて言われたが、私はそれに対して、何も言い返すことが出来なかった。

「なまえ?」
「諏訪くん、俺って言ってくれるの……?」
「あ? あ、いや、まあ、例えばの話だろ」
「それでも嬉しい……」

気を抜いたら泣いてしまいそうだったので、ぎゅっと自分の手を握った。諏訪くんは口をへの字に曲げて、私から目を逸らす。

「俺も色々考えてっから、そっちからそういうこと言ってくんなよ」
「へ?」

どっ、と心臓が跳ねた。ばく、ばく、と全身が脈打って、熱が広がっていく。正しい呼吸が出来ているかわからない。首、耳、手首、全ての脈拍を感じる。握っていた指が震えている。はくはくと唇が震えて、私は叫んだ。

「む、むり!」
「はあっ!?」

気がついたら立ち上がっていた。諏訪くんの顔を見られなくて寝室に逃げ込もうとする私を、諏訪くんが追い掛けて来る。慌ててドアを閉めたが、すごい力で押された。生身では勝てないので換装してしまおうと思ったが、トリガーホルダーはリビングだし、こんな私情で使ったら隊務規定違反だ。体重を掛けたが、徐々にドアが開いていく。

「てっめ! 自分から言ってきたくせに! つかなんだよむりって!」
「本当にむり! 今度こそ本当に、ほんっとに爆発しちゃうから!」
「だからっ、しねぇっつの! 開けろ、壊れんぞ!」
「諏訪くんのせいじゃん!」

やいやいと言い合いつつ、空いた隙間に諏訪くんが身体を滑り込ませてきた。もうだめだ。観念して手を離した反動で後ろに倒れそうになった私の手を、諏訪くんが慌てて引っ張り上げる。なす術なく、そのまま二人でベッドに倒れ込んだ。
マンガだったら、私が下になっていただろう。しかし諏訪くんは私を庇ってくれたので、私の下敷きになっている。急いで退こうとした時、諏訪くんの腕が私の腰に巻きついた。そしてぐっと引き寄せられる。

「好きだ」
「まっ、待って、今は……」
「お前のしっかりしてそうで、どっか抜けてるとことか」
「ひえっ」
「裏表ねーとことか」
「す、諏訪くん、だめ、本当に……」
「家庭的なとことか」
「あぅ……」

諏訪くんの胸に力なく顔を埋めると、諏訪くんの鼓動が速くなっていることに気がついてしまった。それが今の一悶着のせいなのか、この状況に起因するものなのかはわからない。もしかしたら、両方かもしれない。

「なまえ」

耳の横から手を差し込まれて、上を向かされる。おそるおそる目線を上げると、真面目な顔をした諏訪くんが、私をじっと見ていた。諏訪くんは表情が豊かな方だが、こんな顔をすることはあまりない。差し込まれた手が、私の髪を梳く。精一杯の優しい手つきだった。諏訪くんが片肘をつき、首を上げた。腰に回っていた手が、私の後頭部に添えられて、力がこもる。私は諏訪くんのシャツを握り締め、身を乗り出した。わずかに鼻先を掠めるタバコの香りを感じながら、私はそっと目を閉じる。



back