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悠然とした瞳が、ほんの少しだけ揺れていた。私の手首をゆるく掴む手はとても熱くて、村上先輩の手のひらの大きさや、指の太さが温度でわかってしまうくらいだった。
呼吸の速度を落とした村上先輩が、節目がちに私の方へ近付いてくる。服がこすれて、うっすらと柔軟剤の香りが漂った。
もう触れ合ってしまう。落ち着いていて柔らかいのに、確固たる意志が宿る声を紡ぐ唇が、あと数秒で私の唇に触れてしまう。鼓動が最高潮に達して、心臓がこぼれ落ちてしまいそうになった。その瞬間。
「だ、だめっ!」
私は反射的に村上先輩の胸に手をついて、拒絶の言葉を口走ってしまったのだった。



消えてなくなりたい。村上先輩からのキスを拒んでしまってから二日経つのに、いまだに三秒に一回そんなことを考えてしまう。ていねいに作り上げた砂の城が波にさらわれてしまったみたいに、これまで築き上げてきた関係がぼろりと崩れてしまった。
ボーダーのラウンジの机に突っ伏して、ぎゅう、と頭を抱える。目をつむると、キスを拒まれた村上先輩の表情が暗闇の中に映し出された。照れと戸惑いと、気遣いが入り混じった優しい顔。大好きな村上先輩にあんな顔をさせてしまうなんて彼女失格どころか、ふられても仕方がないくらいの仕打ちをしてしまった。
「消えたい……」
村上先輩に告白をしたのは私だ。憧れの村上先輩の彼女になりたくて、震える手で連絡先を聞いたり、拙い言葉でデートに誘ったりして、意識してもらえるように頑張った。
隠していたつもりだったのに私の好意は周りにバレバレで、もちろん本人にも知られてしまっていたけれど、告白を受け入れてもらった時に「一生懸命な姿がかわいかった」と言ってもらえて、冗談ではなく腰を抜かして泣きじゃくった。そんな姿に村上先輩は戸惑いながらも、私が泣き止むまで傍にいてくれた。触れるのではなくて、ただ傍にいてくれるところが村上先輩らしい。私はさらに村上先輩のことが好きになり、未だに恋心は加速するばかりだ。
村上先輩と付き合って三ヶ月ほど経ってから、初めて手を繋いだ。友人には「遅すぎる、村上先輩は奥手なのか」と言われたけど、私に足並みを揃えてくれているだけで村上先輩が悪いわけじゃない。手を繋ぐ時もお伺いを立ててくれて、きちんと返事を待ってくれた。しかし私が話せなくなるくらい緊張するものだから、村上先輩もより慎重になってしまったのだった。
付き合って半年ほど経つが、未だに村上先輩の隣を歩くだけで胸が高鳴って、目が合うだけで泣きそうになる。キスなんて、C級がいきなり遠征任務に放り込まれるようなもの。対応できるわけがない。
そんな私でも、村上先輩とキスしてみたいと一丁前に思っている。しかし妄想するだけで恥ずかしくて手で顔を覆ってしまう。でも世界で唯一の村上先輩の彼女になれたんだから、いつかは、なんて夢見ていた。それなのに、想像していたよりも早く機会が来てしまったのだ。せっかく慎重な村上先輩が私とキスしたいと思ってくれたのに、気持ちを無碍にするようなことをしてしまった。
「本当に消えたい……」
「あんた、まだへこんでんの?」
声がして項垂れていた顔を上げると、隊服姿の葉子と華ちゃんが私のことをじっと見ていた。呆れた顔をした葉子は私と目が合うと、大袈裟なため息をついて私の正面の椅子にどかっと座って足を組んだ。
「いい加減その悲劇のヒロインみたいなオーラ出すのやめてくれない? そろそろウザいわ」
「悲劇のヒロインなんて思ってないもん……」
私の目にじわりと涙が滲むのを見て、葉子は「げえっ」と顔をしかめた。本当に悲劇のヒロインだなんて思っていない。自分が情けないだけだ。
「名前、何かあったの?」
「華。こいつ村上先輩からキスされそうになったのを自分から拒んだくせに、勝手にへこんでるのよ」
「だから言わないでって言ってるのに!」
烏丸くん好きを公言している葉子と違って、私は村上先輩好きを言いふらしているわけではない。自然とバレてしまっただけだ。
昨日は珍しく葉子が心配してくれたからつい相談してしまったが、やっぱり言うんじゃなかった。私のことなら好き勝手言ってくれて構わないけれど、今回は村上先輩にも話が及ぶ。私のせいで村上先輩が周りから色眼鏡で見られるのは耐えられない。
葉子の方に手を伸ばして机をばしばしと叩いていると、華ちゃんが葉子の隣の席に腰を下ろした。
「村上先輩を拒んだって、どうして?」
「違うの、本当はそんな気なくて……。でも緊張しちゃって……。だってまだ隣にいるだけでヤバいのに……」
「アタシあんたのこと嫌いだわ」
「葉子。名前の気持ちはわかったけど、村上先輩の気持ちはどうなの?」
「え……?」
「その感じだと村上先輩に弁明してなさそう。ということは、名前に拒まれて音沙汰がないまま数日経った村上先輩がどう思っているかなんて、名前ならわかるんじゃない?」
淡々とした華ちゃんの言葉で、さあっと血の気が引いていく。華ちゃんの言う通り、私は村上先輩に何の弁明もしないまま「ごめんなさい!」と言って逃げてしまった。その後来た連絡にも「今日は本当にすみませんでした」と返しただけだ。
「私、本当にふられちゃうかも……」
「今話を聞いた限りだと、村上先輩がふられた側に見えるわ」
「え……?」
うん、と華ちゃんが頷く。続いて葉子も、頬杖をついて「そうね」と頷いた。じわじわじわ、と嫌な汗が滲む。肋骨の中がもやもやして、舌の根本を掴まれたように息苦しい。
「わ、私……。今から鈴鳴行ってくる……」
「そうした方がいいと思う」
「ま、頑張んなさいよ」
こくり、と私は頷いて、弾けるようにラウンジを後にした。
鈴鳴までは歩いて行ける距離ではないので、バス停まで全力で走る。急いでもバスがいつ来るかなんてわからない。けれど居ても立っても居られない。
バスに乗り込んだ私は、慌てて携帯を開いて村上先輩にメールを打った。何度も打ち間違えたけど、なんとか「今から鈴鳴に行ってもいいですか?」という文章を完成させ、決死の覚悟で送信ボタンを押した。
バスに乗っている間に返信がなかったので、村上先輩が鈴鳴支部にいるかどうかわからない。どこかに出かけている可能性もある。しかし帰ってくるまで何時間も待つつもりだったので、大した問題ではない。
鈴鳴支部に到着して、勢いのままインターホンを押す。いつもは身なりを整えて、心臓が落ち着くのを待ってから村上先輩に逢いに行くが、もうそれどころではなかった。
『はい』
「あっ、あの! 本部所属の名字ですが、村上隊員はいらっしゃいますか?」
食い気味でインターホンに話しかけると、『少々お待ちください』と声がして、インターホンが途切れた。ということは、村上先輩は支部にいる。緊張で息が上がって、汗が止まらない。
ドアの前で数分待っていると、静かにドアが開いた。ドアを開けたのは村上先輩で、私の姿を見るなり「名字?」と目を見開いた。どうやら来客が私だとは伝わっていなかったらしい。
「あの、突然来てごめんなさい。一応メールしたんですが……」
「わるい、さっきまで訓練室にいたから見てなかった」
「ああっ、お忙しいのに本当にごめんなさい……」
「いいよ。どうしたんだ?」
ふ、と村上先輩が微笑む。それなのに村上先輩の目元はどこか寂しそうな印象で、ずきりと胸が痛んだ。
「あの、あの、私……」
「外で話すか」
プライベートなことをボーダーの支部で話すわけにはいかないので、村上先輩の提案に従う。村上先輩の少し後ろを歩いて、人通りのない裏手の方に回る間に、言いたいことを頭の中で整理した。
「それで……」
村上先輩が振り返ったと同時に、ばっと頭を下げる。
「村上先輩、一昨日は本当にすみませんでした」
私の勢いに気圧されたのか、息を飲むような音が聞こえた。村上先輩がどんな顔をしているのかわからないまま、思いの丈をぶつける。
「嫌だっただけじゃなくて、だめなわけでもなかったんです。ただ恥ずかしくて、緊張してしまって……。ゆっくり近付かれたら、その、本当に心臓が保たないです。でも村上先輩の気持ちなんにも考えてなくて、私、村上先輩のことが本当に大好きで、ずっと、ずっと好きで……」
途中から何を言っているのかわからなくなってしまったが、伝えたかったことはなんとなく言えたと思う。気が抜けてその場にしゃがみ込んだ私は、顔を覆いながらついぽろっと「本当はキス、したいです……」と口走ってしまった。
「名字」
名前を呼ばれて、おそるおそる指の隙間から村上先輩を見上げる。村上先輩は安堵したような表情を浮かべながら、私に手を差し出した。意を決してその手を取ると、村上先輩は軽々と私を立ち上がらせた。
「ボサボサだな」
「うあっ」
村上先輩の指が私の髪を軽く梳いた。村上先輩が許可なく私に触れるのは初めてで、狂喜乱舞している心とは裏腹に、指先一本すら動かせない。
「嫌なわけじゃないんだな?」
「は、はひ……」
「ならよかった。正直やってしまったかと思ってヒヤヒヤしたよ」
「ちがっ、うう……。かっこいい……」
ふふ、と笑う村上先輩に思わずそうこぼしてしまい、慌てて口を塞いだ。本心だけれど、こんなに気持ちをだだ漏れにしたら引かれてしまう。ふるふると首を振っていると、村上先輩が照れながら口をきゅっと結んだ。そして口を覆う私の手をそっと掴んだ。
村上先輩の手が、熱い。そんなことを考えている間にそっと手を下ろされて、あっ、と思った時には村上先輩の顔が近付いていた。
唇が触れ合いそうになり、きゅっと身体が強張る。身構えたものの、予想していたタイミングに感触がなくて、どうしたのだろうと身体から力が抜けた。私があまりにも緊張しているから、やっぱりやめようと思ったのだろうか。そう思った刹那、村上先輩の唇が私の唇に触れた。柔らかくてあたたかくてぞくぞくする感触に、私は驚いて思わず口を開けてしまった。離れようとする唇を追うように口付けられて、ちゅっ、と音を立てて離れる。
過呼吸寸前の呼吸をしながら、目だけを動かして村上先輩を見上げた。村上先輩は気恥ずかしそうな表情をしていたものの、瞳に色を滲ませていた。見たことがない「男の人」な表情に、血流が加速していく。
「もう一回してもいいか……?」
「だ、あ、だめで……」
「いいんだな?」
優しく耳をくすぐるような声で確認した村上先輩は、私の背中に腕を回して身体を引き寄せた。村上先輩のふっくらした筋肉質な身体の感触に、全身にびりびりと電流が走る。
「ほんとに、ほんとにだめです……っ!」
半泣きの状態で言うと、村上先輩はとうとう笑い出してしまった。それでも私の「だめ」が肯定だと学習してしまった村上先輩を止めることができないまま、私は二度目のキスを受け入れた。


20230825

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