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こちらの続編

その日の午後八時、約束通りイコくんは待ち合わせ場所で私のことを待っていてくれた。実際にはもっと早い時間から待っていたのだろうが、その辺りの詳細は濁されてしまったため、詳しいことはわからない。
私がイコくんが待つボーダーの出口に着いたのは約八時十分。それにも拘わらず、無事に合流出来たのは八時二十分を過ぎた頃だった。
まず原因の一つは私の仕事だ。私は八時に仕事が終わるのであり、八時に待ち合わせ場所に行けるわけではない。タイムカードを切り、同時上がりのパートさんに捕まらないように素早く着替えて職場を出たとしても最低十分はかかってしまう。では合流までにかかった残りの十分は何をしていたのかと言えば、彼に話しかけていいのかどうか悩んでうろうろしていた。というのも、その場にいたのが本当にイコくんなのかどうか、確信が持てなかったのだ。
ボーダー隊員はトリガーを起動すると服装などが変わる。私はイコくんの私服を意識して見たことがなく、ゴーグルを外した素顔を見たのもあの時が初めてだった。しかし私が話しかけられなかった原因は、見た目が変わっていたからではない。胸から上がすっぽり隠れるほどの巨大な花束を持っていたため、顔が見えなかったからだ。
花束から胴体と足が生えたような男性が佇んでいるのは異様な光景で、訳を知らない隊員たちはイコくんを迂回して何事だろうと注目していた。かくいう私も、正直近付きがたいと思ってしまった。イコくんは視界が遮られていたため、周りの視線には気付かなかったという。
あれはおそらくイコくんだと思ったものの、万が一違ったらどうしようという思いから、少し離れた場所でうろうろしながら見守って約十分。ようやくイコくんが花束を下ろして顔を見せたので、私は今来ましたという顔でイコくんに近付いたのだった。
「お待たせしてごめんなさい」
頭を下げながら駆け寄ると、イコくんは花束を抱え直して「俺も今来たとこです」とわかりやすい嘘を吐いた。もっと早く話しかければよかったと反省していると、イコくんは私の顔から爪先までを真顔でゆっくりと見た。
「何か変ですか……?」
職場に行く服装など、どうせ着替えてしまうのだから適当だ。清潔感があり、脱ぎ着しやすい服を選んでいるのでオシャレとは程遠い。こんなことになるなら、もっとかわいらしい服を着て来ればよかった。イメージと違ったと思われたかな、と意味もなく服のシワを伸ばしたり髪を整えていると、イコくんはぽつりと「私服、カワイイ」と呟いた。
「え、ヤバい。ほんまにカワイイ」
「いや、それは大袈裟……」
「大袈裟ちゃうって。めっちゃ似合っとる。モデルさんみたいや」
「わ、わかったから。どうもありがとう」
このまま否定しているとその分肯定され続けそうだったため、気恥ずかしいが素直に認める。イコくんは最後にもう一回「はーカワイイ」と言って、改めて私に挨拶をした。
「お仕事お疲れさん。来てくれてありがとうな」
「そんな、こちらこそ」
「俺、昼はお友達から始めてくださいって言ってもうたけど、そんなんすっ飛ばして名字さんと付き合いたいです。絶対幸せにします」
迷いなくそう言われ、ばさ、と音を立てて花束を差し出される。それはまるで剣道の素振りのような勢いだったため、私の前髪は風圧で割れ、揺れた衝撃で花弁が数枚はらはらと落ちた。しかしそんなものはさほど気にならず、私はイコくんのセリフにドキドキと胸を高鳴らせながら、差し出された花束に手を伸ばした。
受け取るのも一苦労な花束を生ける花瓶など持っていない。花瓶として使えるかもしれないと思って取っておいてあるオシャレなお酒の瓶があるが、口が小さいので最低でも十三個くらいは必要そうだ。今までこんなに大きな花束なんてもらったことがないし、今後もないだろう。告白するためだけにこんなに大きなものを用意してくれたことに驚いたが、それ以上に気持ちがとても嬉しかった。
「私でよければ、よろしくお願いします」
今思えば、告白された時から返事は決まっていた。
控え目にお辞儀をすると、イコくんは真顔で「ほんまに? 嘘やったらさすがに泣くで?」と謎のポーズを取りながら確認してきた。少しでも不安を払拭してほしくて、私の気持ちも伝える。
「本当です。私もイコさんのこと気になってました。話しかけてもらえるのも楽しみでしたし」
「名字さん……」
「お花もきれいでとっても嬉しいです。それにこの白いリボンも素敵ですね。なんて言うか、うどんみたいで」
「うどん」
「……はっ」
うどんと言われて目を見開いたイコくんを見て、やってしまったと血の気が引く。
私は時々、無意識にこういう妙な例えを言ってしまうことがある。前の彼氏と別れたのも、私のこういうところが原因だった。私は褒め言葉として言っているつもりなのだが、相手はそう思わなかったらしい。デリカシーがないと言われて傷付いた思い出がフラッシュバックしてくる。
いくら好物だからといって、サテンの白いリボンをうどんに例えるなんて失礼を通り越して変な女だ。さすがの私でもわかる。しかし放たれた言葉は戻らない。
早速幻滅されてしまったかもしれないとイコくんを見ると、彼は相変わらず真顔で、胸に手を当てていた。ドン引きのポーズだろうか。嫌な緊張で心拍が上がる。
「ご、ごめんなさい、つい……」
「何でわかったん?」
「へ?」
「俺ほんまにうどんっぽいなー思って白にしたんやけど」
心なしか弾むようなイコくんの声に、胸の軋みがすっと引いていく。
「……本当に?」
「せやで。俺名字さんの好きな花どころか色も知らへんし。リボンの色選べ言われた時、名字さん今日うどん食べとったなぁって思い出してん。前見かけた時も食べてたし、好きなんやなぁって。え、まさか通じるとは思わんかったわ。以心伝心やん」
どうやら感動のポーズだったらしい。真顔のまま嬉しそうにしているイコくんを見て、私の胸はじわじわと温かくなっていた。
イコくんの言う通り私たちはまだお互いのことをほとんど知らないが、今のところフィーリングはバッチリだと思う。イコくんと付き合いたいと思ったのも、彼が私のことがとても好きだからというわけではなく、日々の関わりの中で私自身もイコくんのことが気になっていたからだと確信に変わった。
私はこれから、イコくんのことがもっと好きになる。そんな予感がして、自然と頬が綻んだ。
「改めて、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ」
お互いに深々と頭を下げる。こうして私たちの交際はスタートしたのだった。
その後、人の目を集めたが花束を持ったまま食事をしに行き、呼び名を「イコさん」から「イコくん」に、「名字さん」を「名前ちゃん」に変え、自宅まで送ってもらった。どうせだから少し上がって行くかと尋ねたが、それはまだ早いと言われたので玄関先で別れることになった。

食堂であれだけナンパ紛いなことをしてきたのに、付き合うと奥手なんだなと思っていたが、イコくんは今まで彼女がいたことがないという。そのため余計に私のことを大事にしたいようで、会うと些細なことでも褒めてくれたり、ちょっとしたプレゼントを頻繁にくれる。褒められるのは嬉しいが、対等な関係でいたいのでプレゼントは特別な日だけにしようと提案すると、私の言いたいことを理解し、改めると了承してくれた。こう言ってはなんだが、これまで変な女の子に捕まらなくて本当によかったなと思う。
イコくんのことを知れば知るほど彼を好きになり、今のところ仲は良好だ。だが恋人としての進展は、非常にゆっくりである。

   ●

お昼のピークを過ぎて人がまばらになった食堂で食器などを片付けていると、「すんません」と声をかけられた。手を拭いてカウンターに行くと、そこにはすっかり見慣れた人物がいた。
「あ、水上くんだ」
「どうも」
カウンターに食券を置きながら、水上くんが会釈する。
私たちはある意味水上くんのおかげで付き合えたようなもので、イコくん曰く彼は恋のキューピットだ。それを本人に伝えたところ、「身長一七〇超え痩せ型の恋のキューピットは縁起悪そうやないすか?」と言われたという。その話を聞いてしまったため、水上くんを見ると縁起が悪い恋のキューピットの姿を想像してしまい、吹き出しそうになる。
「こんにち、ふっ、んふふっ」
「めっちゃ笑うやん。なんなんすか」
「いや、ふふ、ごめん。思い出し笑い」
「どうせイコさんがしょーもないこと吹き込んだんやろ」
「いやもう、ふふ。食券もらうね」
未だに笑いが止まらない私に、水上くんは呆れ顔だ。笑いを沈めながら食券を確認すると、たぬきうどんと書かれていた。水上くんはいつもきつねうどんを食べているイメージだったので珍しい。この時間にお昼を一人で食べることもそうだ。何かあったのかなと思ったが、あまり深入りすると機密に触れて記憶を消される可能性があるので追求はしない。
「せや、名字さんちょっといいすか?」
「暇だしいいよ。どうしたの?」
「イコさん、名字さんとのことベラベラ喋ってはりますよ。名字さんが気にせぇへんのやったらええけど」
「やっぱり……?」
水上くんは眠たげな表情でこくりと頷いた。
イコくんが誰かと食堂に来ると、必ず私のことをカノジョと紹介したり、カワイイカワイイと言ってくるので、こうなることはある程度予想していた。だが水上くんがわざわざ私に言ってくるということは、相当ベラベラ喋っているのだろう。彼女自慢されるのは嬉しい方だが、度が過ぎているなら注意した方がいいだろうか。
「初めての彼女で完全浮かれとりますわ」
「なんかごめんね」
「何とは言わへんけど、名字さんからしてあげたらどうすか。正直先輩のその手の相談そろそろキツいんで」
「なっ、なん……」
「そういうことで。出来たら呼んでください」
水上くんは積み上げられた本の上にレモンを載せるようにそっと爆弾発言を残してカウンターから離れて行った。私の手から食券がひらりと落ち、カウンターの上を音もなく滑っていく。
「なんてことを言うんだ……!」
イコくんはどうやら、自分のチームの後輩にキスの相談をしているらしい。
私との関係を他人に話すのは悪いことではない。イコくんのことだから、下世話な話ではなく純粋にどうしたらいいかわからなくて、キューピットである水上くんに相談したのだろう。イコくんが水上くんのことを相当信頼しているのは普段の会話からも窺い知ることが出来るので不思議なことではない。しかし水上くんの言う通り、よく知る人間の色恋に浮かれている姿は結構堪える。男の子同士なら尚更そうだろう。
はあ、とため息を吐いて食券を拾う。一体どこまで話が広がっているのだろう。下手したらイコくんとよく一緒にいる人はみんな知っているのではないか。職場が同じだとこういうことがあるのか、と火照る頬に追い討ちをかけるように鍋から湯気が立ち昇る。
しかし調理の準備をしている間に、水上くんへの申し訳なさや気恥ずかしさがどんどん薄れていき、「イコくんは私とキスしたいと思ってるんだ」と考え始めてニヤけが止まらなくなってしまった。惚気に付き合ってもらった水上くんには本当に悪いが、なにせ付き合いたてのカップルのため、私も相当浮かれているのである。
イコくんは基本的に表情があまり変わらないので気付かなかったが、これまでキスをする機会を窺っていたのか。あの風貌なのに乙女でかわいい。
付き合って一ヶ月程経ち、この前ようやく家に遊びに来た時は、キス以上のこともするかもしれないと準備していたが、イコくんは私に美味しい手料理を振る舞っただけで何事もなく帰って行った。私はそれを真面目だなぁくらいにしか考えていなかったが、単純にタイミングがわからず、言い出せなかっただけなのかもしれない。それならば、私からわかりやすくアピールして関係を進めてみるのも有りか。
私だって欲はある。何より、少し近付いただけで顔を真っ赤にするイコくんが、キスをしたらどうなってしまうのか興味があった。

   ●

防衛任務の終わりに私の家に遊びに来てくれたイコくんに振る舞った料理は、一つ残らず私たちのお腹の中に収まった。私は仕事が休みで、初めて手料理をイコくんに食べてもらうということもあり、自分でも驚くくらい張り切ってしまった。そのせいで品数が多くなったが、イコくんは全部美味しいと言って完食してくれたのだった。
「やっぱ名前ちゃんの料理はウマい。さすがプロやな」
「ありがとう。お粗末さまでした」
ぱん、と合掌するイコくんに、ぺこりと頭を下げる。
私がやる事なす事全てに感動と感謝をしてくれるイコくんは、とてもいいカレシだ。こんなにカノジョのことを大事にしてくれる人なのに、今までカノジョがいなかったのはおそらく、以前隠岐くんが言っていた「イコさんて、女子のことすぐカワイイとか言えるタイプやないですか」辺りが原因に違いない。
確かに色んな人にかわいいと言ってしまったら軽薄そうな印象を持つ。しかし私の場合は、付き合う前は「カワイイ」と言われなかったし、本気だったからこそ言えなかったというのがわかっていたので、全く問題はなかった。むしろその反動なのか、付き合ってからは逐一「カワイイ」と言ってもらえるし、他の女の子をかわいいと言っているところは見たことがない。そのうち言ってもらえなくなるかもしれないので、あまり期待はせず今のうちに堪能しておこう、くらいの気持ちでいる。
イコくんは皿を重ねると、ゆっくりと立ち上がった。私も片付けようと皿に手を伸ばすと、触れようとした皿がすっと離れた。見上げると、イコくんがふるふると首を振っていた。
「片付け俺がやるわ。名前ちゃんはゆっくりしとき」
「そんなのいいよ。後でやるから」
「ええからええから。俺がやりたいねん。すぐ終わらすし」
そう言うと、イコくんは食器を全て下げてお皿を洗い始めた。本当にいいカレシだなぁと、大きな後ろ姿をぼんやりと眺める。
イコくんは私に結婚を前提にお付き合いしてくださいと言っていたが、あれはどこまで本気の言葉だったのだろう。ノリで言ってしまった言葉なのか、本当にそう思っているのかわからないが、イコくんは旦那さんになっても変わらずにいてくれるのだろうか。付き合いたての浮かれた頭でそんなことを思いながら、イコくんに近付く。
「あ、名前ちゃん。悪いんやけど袖捲ってくれへん? 落ちてきてしもた」
「はーい」
「っ! 名前ちゃん、それはヤバい」
出来心だった。私はイコくんを背後から抱き締めると、手を伸ばして要望通りに袖を丁寧に捲った。イコくんは「ヤバいヤバい」と言って、身体を硬直させている。袖を肘の下まで捲り終えたので、イコくんのお腹の前で手を組み、背中にぴたりとくっ付く。肩が触れるくらいの距離に座ったことはあるが、抱き付いたのはこれが初めてだ。
どんな反応をしているか気になってちらりと見上げると、イコくんの耳が真っ赤に染まっていた。後ろからではどんな表情をしているのか見えないが、おそらく茹でダコ状態だろう。イコくんの鼓動が私の身体に伝わり、伝播して私もドキドキしてくる。
沈黙の中、出しっぱなしの水が流れる音がやけに大きく聞こえた。徐々に熱くなっていくイコくんの身体を抱き締め直して、私は小さな声でイコくんに尋ねた。
「私とキスしたい?」
ごくり、と唾を飲む音がした。「したい」と即答すると思っていたが、予想に反してイコくんはしどろもどろになって、「や、そ、し、あ……」と色んな単語の冒頭の言葉を順番に口に出し、やがて口を噤んだ。
「まだ早い?」
泡だらけの手はぴくりとも動かない。情報過多でフリーズしてしまったらしい。私はイコくんの手を取り、流水の下に持っていって泡を流す。されるがまま手を濯がれている最中、イコくんはようやく口を開いた。
「正直めっちゃしたい。したくない奴なんかおらん。せやけど、なんかこう、あるやん。雰囲気とか、色々。最初のちゅーやで。ロマンチックやないと嫌やーとか、女の子はあるんちゃうの?」
イコくんの言う通り、雰囲気は確かに大事だ。イコくんにとっては正真正銘、初めてのキス。こだわりたい気持ちがあるのだろう。どんなロマンチックなシチュエーションを想定しているのか知らないが、何かプランを練っていたのだろうか。だが私はそこまで気が長くないし、こだわりも強くない。私はイコくんとキスしてみたいし、イコくんも同じ思いならば、するタイミングは今ではないだろうか。
「私は今したいな」
「い、今……?」
「うん」
「俺、手ぇびしょびしょなんやけど。歯も磨いてへんし」
困惑した表情でイコくんが振り返る。いつも真顔のため、初めて見るその表情に胸がきゅんとした。我慢が出来ず、イコくんの身体を反転させて、首にするりと両手をかける。手が濡れているのを気にして私に触れることが出来ないイコくんは、背伸びをする私のことをただ見つめていた。距離が近付いたことによって仰け反り、後ろ手でシンクに手をついたイコくんに、触れるだけのキスをする。一瞬すぎて本当にしたのかどうかわからないくらいのキスだ。再び唇が混じり合いそうな至近距離で緑色の瞳を見つめると、イコくんが一つ瞬きをした。
「名前ちゃん」
「うん?」
「手ぇ拭くから、一瞬離れてくれん? ほんまに一瞬でええから」
「え、あ、うん」
照れながら「ヤバい」や「あかん」、「もう一回」辺りの言葉が出てくると思っていたが、イコくんは冷静な口調でそう言った。もっと狼狽する姿が見られると思っていたため、拍子抜けしてしまう。
首に回していた手を離して一歩後ろに下がると、イコくんは宣言通り一瞬でキッチン用のタオルで手を拭いた。
「名前ちゃん」
「わっ」
そして一回がばっと私を抱き締め、その勢いのままキスをされた。大きな手のひらが私の頬に添えられ、下から掬い上げるように唇を押し付けられる。予想していなかった状況に、今度は私の身体が後ろに仰け反ったが、イコくんのがっしりとした腕が私の背中を支えた。
ちゅっ、ちゅと啄むようなキスの合間に呼吸をする。薄目を開けると、目の前にはぎゅうっと目を瞑ったイコくんがいた。必死にキスをしているのがかわいくて、ちろりとイコくんの唇を舐める。するとイコくんは驚いてびくりと震え、すぐに唇を離してしまった。
「名前ちゃん、それはあかん!」
「やだった?」
「そんなわけないやろ! せやけどそれ以上はイコさんのイコさんがトリガーオンしてまう」
「はっ、ボーダー用語っ」
「え、スルー? いっちゃん恥ずかしいやつやん」
下ネタをスルーされてショックを受けるイコくんと、ボーダー用語を聞いて慌てて耳を塞ぐ私の行動により、色っぽい雰囲気が一気に崩壊する。
イコくんは私の手首を掴むと、耳から引き剥がして空中でよいよいと私の手を揺らした。
「トリガーオンくらい平気やで。市民の皆さまも知ってはるし」
「そうかもしれないけど、私は何かあったら記憶消すよって書類にサインしてるから不安なの」
イコくんと付き合う際、私は彼にボーダーについてあまり話さないようにお願いをしている。もちろん機密事項を話してしまうような人間ではないとわかっているが、不用意に情報を入れない方がいいだろうと判断したのだ。
「大袈裟やって。こんくらいは大学でも話すし」
「でも万が一、イコくんの記憶がなくなったら嫌だから……」
ボーダーの機密情報についてならばいくらでも忘れていい。それは私の生活に何の影響も及ぼさない。しかしながら、それに付随してイコくんのことまで忘れてしまう可能性がある。
ナスカレーは私が考えたメニューなのかと話しかけられたことや、マグロカツの切り口が鮮やかだとか、告白されるのかと思いきや好きなメニューを訊かれたことなど、全て大切な思い出だ。イコくんとの関係がリセットしてしまうと考えただけでも悲しくなる。
「名前ちゃん」
しゅんとする私の名を呼んだイコくんは、私を引き寄せると両手で頬を包み、むちゅっと唇を押し付けた。顔を見る間もなく、全身を包まれるように抱擁される。大きな身体にすっぽりと覆われて、先程の不安が嘘のように消えてしまった。
「もし名前ちゃんが俺のこと忘れても問題あらへん。また話しかけるし」
「イコくん……。これ、実は二ループ目だったりしないよね?」
「こわ! この話やめよか」
話の方向性がホラー寄りになってしまったため、イコくんは厄祓いでもするかのように手を叩いて会話を打ち切った。そして、その手で私の肩をがしりと掴む。
「それはそれとして、もう一回ちゅーしたいんやけど」
この流れの後に真剣な顔付きで言うものだから、気が抜けて思わず笑みが溢れた。イコくんは「俺なんか変なこと言うた?」と小首を傾げている。
「イコくんのこと好きだなぁって思っただけ」
「奇遇やな。俺も名前ちゃんのこと大好きやで。はよお嫁に来てほしいわ」
「……うん」
「えっほんまに?」
「考えとく」
「どっち?」
慌ただしく再確認しようとするイコくんに抱き付いて動きを止める。頭上から「なあなあ」と話しかけられるが、照れてしまって顔を上げられない。
まだ学生の男の子のプロポーズ紛いな言葉を鵜呑みにしている自分がいるなんて、過去の自分に教えてあげたいくらいだ。

2022/3/20

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