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いつのことだったか忘れてしまったが、ふいに太刀川は私に、下の名前で呼んでもいいか、と尋ねた。
あまりにも唐突に、しかしこちらが疑問に思わないくらい自然にそう言うものだから、私は特に何も思わずにそれを二つ返事で了承した。
すると太刀川はふっと目を細めて、確認するように一度私の名前を呟くと、「課題写させてくれ」と戯けながら手を合わせた。どうせそんなことだろうと、予め用意していた課題を渡すと、太刀川は当然のように「サンキュー」と言って呑気に課題を写し始めたのだった。
太刀川が他人を基本的に名字で呼ぶことに気が付いたのは、それからしばらく経った後だった。

私は未だに太刀川慶がどんな人間なのかよくわかっていない。
大学での彼は授業をサボったり、課題そのものの存在を忘れたりと、随分だらしない人間のように思える。しかし太刀川はボーダーで一番強い隊員で、みんなに頼られる存在であるという。
太刀川が隊を統率したり、作戦を考えたりしている姿を想像出来ず、最初は話を盛っていると思っていたくらいだった。だがその話を聞いてから太刀川を観察してみると、状況判断がやけに早かったり、いつも冷静で大抵のことには動じないな、と思うことがあった。それなのに、そういう部分が私生活でよい使われ方をしていないので、大学とボーダー、どちらの太刀川の評価を信じたらいいのかわからなくなってしまう。
太刀川は、こちらの受け取り方によっては先見の明があるような、ないような。言葉に深い意味がありそうで、実はないかもしれないと思ってしまうような、そういう曖昧さがある。それが太刀川らしさでもあるが、こちらから踏み込みきれない原因でもあった。

今までに二度、太刀川から飲みに誘われたことがある。太刀川に誘われる時は、私と二人きりがいいという意味を孕んでいる。初めて誘われた時に他の人も誘うかと訊いたところ、「おまえと二人で」と念を押すように言われたからだ。デートのような雰囲気でもなく、大学にいる時と同じようなノリなのに、そこだけは頑なだった。
男が女に二人きりで会いたいと言う理由など好意がある意外に何があるのだろうか。実際に私に気がある素振りをするし、友人の目から見ても明らかにその気があると判断出来るくらいには、太刀川は私に対してモーションをかけている。しかし決定打になるようなことはしてこないので、意外と恋愛において慎重だということに驚いてしまった。

太刀川は私よりも酒に弱い。複数人で飲みに行くと、一番最初に酔っていると指摘される部類だ。
自制心はあるのか、潰れたり吐いたりしている姿を見たことはないし、くだを巻いたりもしない。普段以上に陽気になって若干やかましくなるか、ぼんやりと眠そうになるかのどちらかが多い。

飲み会といえば、とても印象に残っていることがある。それは太刀川からサシ飲みに誘われた二回目の時だった。
その日、太刀川は待ち合わせの時からやけに大人しかった。酒を飲み始めてもバカみたいな発言をほとんどしないで、「おまえはこの先も三門に残るつもりなのか?」と訊いてきたり、その後も私を心配するような発言を何度もした。そんなことを言われるのは珍しかったので、ボーダーで何かあったのだろうかと思ったが、訊いても答えられないだろうと、私は何も言わなかった。
別れ際に太刀川は、「またな」と私に手を振った。翌日に同じ講義を取っていたので、「サボらないでよ」と軽口を叩いて別れたのだが、その日から数週間、大学で太刀川の姿を見ることはなかった。それどころか、音信不通になってしまったのだった。
ボーダーの任務で大学を数日休むことは多々あったが、そこまで長い期間を用する任務など、一体何をしているのか想像もつかない。任務の内容について規定で話せないことは承知していたが、私は不安で仕方がなかった。
前日の飲み会で太刀川が私を心配していた理由は、おそらくこの長期任務のせいだ。あの会話が今生の別れだとしてもおかしくない。むしろ、きっぱりと別れを告げないあたりが太刀川らしい気がした。胸がざわざわして、せめて安否だけでもわかればよかったが、私にそれを知る術などないのだった。
またな、と言った太刀川の表情を思い浮かべる。夜の帳が落ちる中で、車のヘッドライトや看板の照明にちらちらと照らされた太刀川の顔は、とても柔らかかった。それを見て、私は太刀川のことが好きだと思った。
あれが最後の会話になったら、太刀川は嘘吐きだ。その先を期待させるような言葉だけを残して、永遠に曖昧にさせるなんて、卑怯な男だ。
太刀川のいない大学はつまらなくて、空気が濁っているように見えた。悲しいような、腹立たしいような感情で太刀川を待つ日々が続いた。
そしてある日、太刀川は何でもないような顔をして私の前に現れて、「なんか痩せたか?」と首を傾げた。
そんな太刀川に、私は嬉しいような、腹立たしいような気持ちで「バカ!」と肩を叩いた。安堵して泣きそうになっていたのを必死に隠していたが、もしかしたらバレていたかもしれない。太刀川は「なはは」と笑って、叩かれた肩をゆっくりと摩っていた。

私と太刀川は市外にはほとんど出ない。三門市はいつ何が起こるかわからないので、いざという時に対応出来るようにした方がいいと判断してのことだったが、今日は少し我が儘を言いたくなってしまい、以前から気になっていた市外の店に連れて行ってもらうことになっていた。
一足早く駅に到着したので、駅前で太刀川を待つ。
太刀川はあまり三門市から出ないと言っていたし、おそらく電車に乗るのも久しぶりなのではないだろうか。太刀川のことだから、乗り換えをミスしたり、寝過ごしたりするだろうとたかを括っていたら、予想に反して太刀川は時間通りに現れた。
太刀川はいつもかっちりとしたフォーマル寄りな服を着ている。背が高いしスタイルがいいので黙っていればモデルみたいだが、口を開くと色々台なしだ。
太刀川は「よっ」と手を挙げると、私が持っていたバッグに視線をやって、にやりと笑った。
「出たな、カテスパデ」
「だから違うって!」
私が普段から使っているお気に入りのブランドのバッグを見ると、太刀川は決まってそう言う。初めは本気でそう読むと思っていたらしいが、今は私がいちいち言い返すのが面白いのだろう。
まったく、と呟いてバッグを持ち直し、賑やかな方へ歩き出す。
「ほんとやだ、ほんとバカ」
「怒んなよ」
「別に怒ってないけど、周りの人が聞いたらバカにされるからやめなよ」
「誰も聞いてないだろ」
「意外と聞いてるもんなの」
「へえ。覚えておくか」
そんなんでよくボーダー隊員をやっているなと思ったが、面倒くさくなってしまって口に出すのはやめた。
「まだ時間早いな。どっか寄りたいとこあるか?」
「そうしたらちょっと戻るけど駅ビル行きたい」
「了解」
くるりと踵を返した太刀川は、人の流れに逆らうようにして駅の方向へ向かって行く。私はその後ろについて、太刀川の大きな背中を見つめながら歩く。
駅ビルに入って商品を見ていると、太刀川は後ろから私の手元を覗き込んだ。こういう時、太刀川はふらふらしたり座って待っていたりせず、興味のないものでも一緒になって商品を見てくれる。
「これどっちがいいと思う?」
「左だな」
「答えるの早すぎ」
「こういうのは迷い過ぎない方がいいぞ」
「確かにそうか。じゃあこっちにする。買ってくるからちょっと待ってて」
「おー」
太刀川を置いてレジに向かい、お会計をする。
太刀川と一緒にいると本当に楽だ。気を遣わなくていいし、向こうも遣っていない。こうしたちょっとした買い物でも、放っておかれるよりは一緒に見て回ってくれる相手が好きなので、結構理想的な振る舞いをしてくれる。
お会計を終えて太刀川の元へ向かうと、コートに両手を入れて佇んでいた太刀川はふっと微笑んで、私の隣に並んだ。黙っていれば本当にかっこいいが、悔しくなるので気のせいだと己に言い聞かせる。
「さーそろそろ行くか」
店の場所はどこだったか、と携帯で場所を確認し始めた太刀川を横目で盗み見る。
太刀川は一体どういうつもりで私の隣にいるのだろう。少なからず私に好意や興味があることはわかっている。私の方も、とっくに太刀川のことが好きだ。そもそも興味がなければ初めからサシ飲みの誘いを受けたりしない。
私は今日、家に帰らなくてもいいとさえ思っている程度には、太刀川のことが好きだった。
店の看板を探してきょろきょろしていると、ふいにお互いの手の甲が触れ合った。温かい太刀川の手と、冷たい私の手は何事もなかったかのように一瞬で離れる。
太刀川は何も言わずに、「あったぞ」と店の看板を指差した。手ぐらい握ったらどうだバカ、と心の中で呟いて、ステンドグラスが嵌め込まれた木製のドアに手をかけた。
天井からいくつも吊り下がっているトルコランプに照らされた店内は、温かい光に溢れている。通された半個室の席は、エキゾチックな雰囲気のソファーやクッションが置かれていて、人目を気にせずゆっくり出来そうだった。
「おお、なんか洒落てるな」
「三門にはこういうお店ないよね。あんまり需要ないのかな?」
「新しい店はなかなかな。老舗ばっかりだろ、うちは」
太刀川の言う通り、三門市には昔からやっているような個人経営の店が多い。大規模侵攻があってすぐは撤退したチェーン店も多く、古くからあった店も閉店を余儀なくされていた。しかし無事だった地域に移転した店舗も多くあって、今では不便なことは何もない。
こうした最近流行っているような雰囲気のお店が出来ないのは、土地柄的に仕方ないのかもしれない。ただでさえいつ近界民が襲ってくるかわからないので、夕方以降はどうしても客足が伸びにくく、本来ゴールデンタイムの時間帯にアルコールが割引になる店もある。それに慣れているせいか、こうしたお店の値段設定は、やけに高く感じてしまう。
「飲み物決まった?」
「とりあえずビール」
「オッケー。私もビール……、いや、なんか他所であんまり飲めないようなやつにする。選んでるから食べ物適当に選んでて」
フードメニューを渡し、私はドリンクメニューを開く。このお店はカクテルの種類が多いことで有名らしく、数ページに渡ってメニューが書かれていた。詳しくないので何がなんだかさっぱりわからないが、目の前の男に訊いてもわからないことは確かだ。
「なんかよくわかんないけど、チャイナブルーってやつにしてみる」
「何だそれ」
「ライチとグレープフルーツだって」
「美味そう。もう頼んでいいか?」
「いいよ〜」
太刀川はボタンを押して店員を呼ぶと、メニューを指差しながら注文をしてくれた。グループで飲みに行く時は絶対に注文係なんてしないのになぁ、と思いながらお冷に口を付ける。
少ししてから先にドリンクが届き、私と太刀川は「乾杯」と言ってグラスを合わせた。
私が注文した水色のカクテルは見た目もよく、飲みやすくて美味しい。他にも色々と試してみたくなり、料理が運ばれてくる前に次のお酒を吟味する。
「早いな」
「メニューいっぱいあるから先に見ておくの」
それからしばらくして料理が届き始め、私たちは食事をしながらたわいもない話をした。
大学の話題が尽きると、太刀川はボーダー隊員の話をし始めた。
風間さんが酔ってポストと戦ったとか、来馬くんがレポートを手伝ってくれたとか、また忍田さんに怒られる、など。
太刀川は当たり前のようにボーダー隊員のエピソードを話すが、登場人物のほとんどは太刀川の話の中でしか知らない。かろうじて来馬くんは知り合いだが、太刀川がよく話題に挙げる二宮くんは同期にも拘わらず話したこともない。
ボーダー関連のことを話す太刀川はとても楽しそうで、彼にとってボーダーという組織は天職なのだなと感じる。変わった人が多いようなので、太刀川の話を聞くのは楽しいが、本当に時々つまらないなと思ってしまう。
私はもっと、太刀川と私たちの話をしてみたいし、太刀川が何を考えているのか教えてほしい。不透明な関係でいるのは傷付かないし楽だが、焦ったい気持ちの方が日に日に強くなっている。
オレンジ色の光にぼんやりと照らされた太刀川は、年齢以上に大人っぽく見えた。おそらくヒゲだ、ヒゲのせいだ。くだらない理由で伸ばしているというヒゲのせいで、なんだかいい感じに見えるだけだ。
「おまえ酔ってるだろ」
何杯目かわからないカクテルグラスを机の上にこんと置くと、太刀川は呆れたような顔で頬杖をついた。
「酔ってるけど別にこれくらい大丈夫だし」
「帰り電車だってこと忘れんなよ」
「電車? ああ、電車、って今何時!?」
ばっと携帯を見ると、日付を越えていた。大慌てで終電の時間を確認すると、あと三十分もない。駅から少し離れているのでかなりギリギリだ。急いで荷物をまとめ始めた私を見て察したのか、「マジか」と太刀川が薄く微笑んだ。
「割り勘後ででもいい?」
「払っとくから準備してろ」
「助かる!」
コートを適当に肩に引っかけた太刀川は、席番号の札を持って先にレジに向かって行った。机の上に出していた荷物をバッグにしまい、後を追いかける。
ほろ酔いも一気に冷めて、私と太刀川は冬の冷たい空気の中を泳ぐように駅へと向かった。しかしその途中で、終電に間に合わない方が都合がいいことに気付いてしまった。
「たっ、太刀川、もう走れない」
立ち止まると、途端に疲労が足にくる。実際に息も絶え絶えで、これ以上走りたくなかったのは事実だ。
「もう少しだろ」
すると太刀川は、膝についていた私の手を取ると、点滅している青信号の中に飛び込んだ。
「もう!」
普段だらしないくせに、どうしてこういう時だけしっかりしているのだろう。どうしてこういう時だけ、簡単に手を繋ぐのだろう。
改札を抜けて駅のホームに下りると、電車はまだ来ていなかった。結局間に合ってしまった。息を整えていると、ふう、と息を吐いた太刀川が、ふっと微笑んだ。
「間に合ってよかったな」
その細められた瞳と同じくらい、私の胸が締め付けられる。太刀川は電光掲示板と時計を見比べて、「そろそろ来るな」と線路の先を見据えた。
アナウンスがホームに流れる。暗闇の中で、小さな二つの光が見えた。
太刀川の考えていることを知りたい。今までどんなつもりで私を誘ったのかとか、帰りは電車だとわかっていたくせに時間の管理をしなかったこととか、それなのに私を終電に間に合わせたこととか、全部。
パァン、と音を立てて電車がホームに向かって来る。乗車位置に移動しようとした太刀川の腕を、緊張で震えた指でそっと掴む。
「名前?」
「帰りたくない……」
ごうっと音を立てて、電車が水平に線を引いた。その風が、太刀川のふんわりした髪とコートの裾をはためかせた。
太刀川は心なしか目を見開いて、じっと私のことを見つめている。電車は次第にスピードを落としていき、今まさに動きを止めようとしていた。
「……悪い、言わせたか?」
太刀川は私に近付くと、耳元でそう言った。
そう、私は太刀川に言わされたのだ。こういう時は男から来てほしいのに、太刀川が煮え切らないから、私が仕方なく言ってやったのだ。
恥ずかしくて泣きそうになっている顔を見られるのが悔しくて、俯こうとした顔に太刀川の温かい手が触れた。太刀川は私の顔を覗き込むように身を屈めると、唇を触れ合わせるだけのキスをした。そうなることがずっと前から決まっていたような自然な流れだったので、私が目を閉じたのは必然だった。
ドアが開く。太刀川は私の腕を引っ張ると、電車に乗り込んでドア横に私を押しやった。三門行きの電車には人気がなく、この車両に乗っているのは私たちだけのようだった。
ドアが閉まる。ゆっくりと電車が動き出して、ホームの景色がどんどんずれていく。
「名前」
私の名前を呼んだ太刀川は、片手で手すりを握ると私の耳元に顔を近付けた。
「途中の駅で降りるか、俺の最寄りで降りるか、どっちがいい?」
そう言った太刀川の柔らかな声は、私の耳元で揺らぐように滞留した。いつまでも聞いていたいような甘い囁きに、私の頭は酒に酔うよりもくらくらしていた。
「また言わせるつもりなの?」
わざと不機嫌な顔をしてそう言うと、太刀川は「怒るなよ」と言って私に口付けた。髪の中に手を差し込まれて、首の後ろをくすぐるように支えられる。次第に唇が触れ合う時間が長くなっていき、ゆったりとした時が流れる。
はぐらかされているのか、懐柔されているのかわからないが、このまま電車が止まらなければいいのにと思った。

私がその選択肢の答えを出したら、言って、太刀川。
私は太刀川の色んなことを知っているはずなのに、太刀川のこと、あまりわかっていないみたいだから。私のことをどう思っているのか、ちゃんと言葉に出して伝えて。
太刀川がどういう人間なのか、朝が来るまでに私に教えてほしい。


20220320
『征野として知られる市における』書き下ろし

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