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窓辺に降り立つ天使のように、非合法な手段で私の部屋を訪れた迅は、私の顔を見るなり「車出してくれない?」と言って微笑した。頂き物のドリップバッグコーヒーの賞味期限が今まさに切れようとしていた時刻のことだった。
「普通に玄関から入って来てほしいんだけど」
「こっちの方が手間が省けるからつい」
迅はへらりと笑いながら両足を室内に入れ、窓枠に腰掛けた。部屋の中に入って来ればいいのに、迅はいつもトリオン体のままそこに佇む。
私は寝る時にエアコンを付けると喉の調子が悪くなるため、この季節の夜は窓を開けて、氷枕を作って寝ている。迅はそのことを知っていて、時々こうして私の部屋を訪れては、少し雑談をして帰って行く。しかし車を出してくれだなんて珍しい。
玉狛にはレイジさんや支部長もいるのに、わざわざ私の元に訪れて車を出させるくらい、何か良くないことでも予知したのだろうか。一見ひっ迫している様子ではないが、迅はいつも大事なことは何も言わないし、顔にも出さない。私たちが普通の日常を何の疑いもなく送れるように、人知れず単独で動くような人間なのだ。
訝しんでいるのを察知したのか、迅は「違う違う」と手を振ると、片膝を抱えてこてんと首を傾げた。この男の手に掛かればあざといポーズもお手の物だ。
「普通にデートのお誘いだよ」
「こんな真夜中に?」
「たまには夜のドライブもよくない? 美味そうなコーヒーもあるし」
私の手元にあるドリップバッグコーヒーを指差し、迅は口角を上げた。どうやら迅は、私がこのドリップバッグコーヒーをどうするか悩んでいるのを予知して、私の元へ来たらしかった。
私は人よりも多少賞味期限を気にするタイプだ。たった数日で何かが変わるわけではないが、期限を過ぎると「もうこれは美味しくありません」と言われているような気になってしまう。せっかくの高級なコーヒーなのに、それではもったいない。しかしあと数分で日付を越えてしまうし、夜中にコーヒーを飲んだら眠れなくなる。それにこんな真夏にホットコーヒーなんて飲めたものではないが、アイスにしたくても氷はさっき枕に入れた分で使い切ってしまった。よりによって何故直前に気付いてしまったのだろうと悩んでいる時に現れたのが迅だった。
「はいこれお土産」
コンビニ袋を受け取って中を見ると、そこにはロックアイスと貝殻の形をしたマドレーヌ、紙コップが入っていた。迅の手に掛かれば、予定調和を作り出すことなんて造作もない。
「今夜は街がすごく穏やかなんだ。こんな日くらい付き合ってくれてもいいだろ? 明日は眠いかもしれないけどさ」
あはは、とおどける迅は、私がとっくに乗り気なことに気付いているのだろう。
中から氷を取り出すと、手のひらに伝わる冷たさが眠気を吹き飛ばした。時計の時刻は、午前零時過ぎを告げている。
「こうして起きてたら、日付の境目なんて関係ないよね?」
「もちろん」
にやりと笑うと、迅もにやりと返した。迅はトリガーを解除すると、靴を脱いで窓枠から下りた。Tシャツにジーパン姿の何の変哲もない一人の青年が、私の部屋に降り立つ。
「いい夜になりそうだ」
迅は歯を見せながら笑って、玄関に靴を置きに行った。

ポットでお湯を沸かし、タンブラーに氷を詰める。氷に触れないようにドリッパーをセットして、少量のお湯で蒸らす。ポタポタと滴るコーヒーが氷を溶かしていくのを見るのは飽きない。
「おー、いい匂いだ」
アイスコーヒーを作る私を隣で楽しそうに見ていた迅は、目を瞑ると鼻から深く息を吸い込んだ。私も香り立つコーヒーの匂いを嗅ぐ。
「本当にいい匂い。安いやつとは違いますな」
「またまた。本当は違いなんてわかってないだろ?」
「失敬な。それくらいわかりますが?」
「それは失礼致しました」
ぺこりと頭を下げた迅に、「許してやろう」とわざとらしく言い、二人で笑い合う。残りのお湯をゆっくり注いでコーヒーの抽出を終え、タンブラーの蓋を閉める。
コーヒーの準備が終わった次は身支度だ。服は外に出歩けるような部屋着だったものの、寝る直前だったのでもちろん化粧をしていない。そのままでいいと言う迅を跳ね除け、洗面所で素早さ重視の化粧をしながらリビングで待つ迅に話し掛ける。
「どこか行きたいところとかあるの?」
「海がいいな」
「海? 本当に珍しいね。何かあった?」
「おれだって海を見たくなることくらいあるさ」
海に行きたいということは、三門市を出るということだ。たまに嵐山から、迅と二人で遊びに行ったという話を聞くが、迅が積極的に市外に行く印象はほとんどない。私も迅と三門市を出るのは初めてだった。
洗面所から顔だけを出してリビングの方を覗いてみると、迅はタンブラーの中の氷をガラガラと鳴らしながら、上機嫌に私のことを待っていた。そんなに楽しみなら待たせるのは悪いと思い、さっと顔面を作り上げる。
「お待たせ
車のカギを指先でくるくる回しながら肩を叩くと、迅は待ってましたとばかりに立ち上がった。意外とかわいいところもあるんだなと思いながら戸締まりをして、私たちは夏の夜に飛び込んだのだった。

四塚市の海岸付近で車を停止させる。昼間は賑わっているであろう海岸だが、真夜中のため当然誰もいない。海岸堤防の上から見える海は深い群青色をしていて、鈍く光る海面の揺らめきが確認出来る。ドラマで表現されるような、満月が海に映し出されてきれいだとか、水平線の向こうが夜景でキラキラしているだとか、そういうものは特にない。ただ暗くて、時折灯台の光がちらちらと光っている海がそこにあった。
「まあ現実ってこんなもんよね」
「冷めてるなぁ」
「そんなことはないけど、もっと明るいかと思ってたからさ。さてどうしよっか、車ここに停める? 一応砂浜まで行けそうだけど」
「それはちょっとやめておいた方がいいかもな」
私の問い掛けに、迅は腕を組んで少し難しい顔をした。
「なに、タイヤがスタックする未来でも見えた?」
「うーん、今のところ五分ってとこだな。確定してるのはおまえが『めんどくさーい!』って泣いてる未来」
未来の私が一体何をめんどくさがっているのか知らないが、真夜中に砂浜でスタックしたら確実にそう言うに違いない。私の愛車は二駆の軽自動車。タイヤはノーマルなので、ハマったら抜け出す力はない。
「でもまあ、ここは行くっしょ!」
「おっと?」
「こちとらJAF会員じゃい!」
私はヘッドライトをハイビームにすると、わっはっはと夜中特有の謎のテンションで砂浜に乗り入れた。そんな私の横で迅は声を出して笑っている。
「タイヤが砂に取られて走りづらい! でもなんか楽しい!」
「未来が確定した。スタックの心配はしなくていいぞ」
「よーし、かっ飛ばすぞ!」
そう言いながら時速十五キロで走る私に、迅はお腹を抱えて笑い出した。
「何でそんなに笑ってるのよ」
「いや、スタックしないって言ってるのに慎重だからさ」
ひぃひぃ言っている迅の脇腹をノールックで小突いて、私は適当な場所に車を停めた。荷物を持って外に出ると、静かな浜辺に波の音がひっそりと這うように響いていた。車のヘッドライトに照らされたさざ波が光って、波打ち際が透けている。
「めっちゃいい感じじゃん」
ボンネットに寄り掛かって海の揺らめきを眺めていると、迅が紙コップを私に差し出した。
「コーヒー飲む?」
「気が利くねぇ」
「実力派エリートですから」
「はいはい」
紙コップを受け取ると、迅がタンブラーからコーヒーを注いでくれた。潮の香りに混ざってコーヒーのほろ苦い香気が鼻先を掠める。よく冷えたコーヒーは普段飲んでいるものよりフルーティーで飲みやすく、賞味期限が切れていることなど頭からすっぽりと抜け落ちていた。味も濃過ぎず薄過ぎず、ちょうど良い味わいだ。
「私ってアイスコーヒーの天才かもしれない」
「おれはコーヒーのポテンシャルに一票」
「おい」
「嘘だって。美味いよ」
「どーも」
黙ってコーヒーを啜る。細い三日月が叢雲に隠れ、また現れる。海はとても穏やかで、こうして並んでぼうっとしていると、日々の戦闘とはかけ離れた世界にいるみたいだった。とても静かな時間だ。
横目で見ると、迅はマドレーヌを頬張りながら水平線をなぞるように遠くを見つめていた。私もマドレーヌを一口食べて、迅と同じように遠くを眺める。マドレーヌの甘さと、コーヒーの苦さが口の中で混ざり合う。
迅は何故私を誘ったのだろう。度々家に遊びに来るのもそうだ。何故私の部屋に現れて、部屋に入らずに何でもない話をして颯爽と去って行くのだろう。
私は迅の特別な存在ではないけれど、そうなりたいという願望は密かに持っている。今はまだ迅とこうした関係を楽しんでいたい気持ちがあるので、この距離感がちょうど良いが、迅のサイドエフェクトがあれば、いずれ私が胸の内を打ち明ける未来が来ることも知っているに違いない。その時お互いにどんな反応をするのか、今この場で私だけが知らない。
一人で勝手に切なくなっていると、ふいに尻の辺りに違和感を覚えた。何だと思って咄嗟に違和感の正体を掴む。私の手の中にあったのは、隣で不気味なくらい真剣な顔をした男の手だった。
「何だこの手は」
「いや、触るなら今かなって」
「最低!」
どかっと脇腹を蹴飛ばすと、迅はよろけながら「いいキックだ」と言ってそのまま逃げるように走り出した。紙コップをボンネットに置き、迅を追い掛ける。迅は靴と靴下を順番に脱ぎ捨てると、浅瀬に入った。私もサンダルを脱ぎ、ズボンの裾を捲って波打ち際に足を踏み入れる。その瞬間、急激に我に返ってしまった。
「勢いですっごい青春みたいなことやってしまった。恥ずかしい……」
「水のかけ合いでもしてみる?」
「絶対イヤ。というか尻触ってきたことは許してないんだよ!」
足をふんと振り上げて水飛沫を上げてみたが、飛距離が短くて迅には届かなかった。悔しくなって落ちていた貝殻を迅に投げ付けるてみるも、あえなくかわされる。他にもわかめや流木を投げてみたが、もちろん迅には届かない。他に何かないかと辺りを見回すと、波打ち際にヒトデが打ち上がっていた。星の形をしているが、近くで見ると先端がうねっていて謎の毛のようなものが生えている。これを素手で触るのは抵抗がある。
「何かいた?」
「ヒトデ」
「踏まなくてよかったな」
「迅いるしそういうのは大丈夫でしょ」
二人でしゃがみ込んで、携帯のライトでヒトデを照らす。ヒトデはまだ生きているらしく、身体をくねらせていた。
「このままここにいたら死んじゃうかな」
「確実に干からびるだろうな。よっと」
迅はヒトデを鷲掴みすると、えいやとヒトデを海へ投げた。ぽちゃんと音を立ててヒトデが海に消える。その光景が、私の頭の中で何かと重なった。一体何だっただろうか。
「あ、ローレン・アイズリー」
以前何かで読んだローレン・アイズリーの『星投げびと』の話と、迅が重なったのだ。それは大量のヒトデが打ち上がった浜辺で、ヒトデを海に投げる少年と主人公が出会う話だ。そんなことをしても全てのヒトデを助けられないから意味がないと言う主人公に対し、少年は「でも今投げたヒトデにとっては意味がある」と言う。
あのヒトデを投げる少年は、迅だ。ヒトデを海に還すように、迅はあの街で暮らす人々を救っている。迅の能力を持ってしても全ての人間を救うことは出来ないだろうが、それでも諦めず、よりたくさんの命が救える未来になるように、ヒトデを投げ続けている。少年と迅の異なる点は、ヒトデを投げる仲間がいるということだ。
「どうした?」
ぼんやりと迅の顔を見ていたら、それに気づいた迅がとても優しく微笑んだ。暗闇の中で、水色の瞳が私を映し出している。
迅の特別な存在になりたいな、と思った。水中をゆっくりと落下していたものが、優しく海底に着地したように、私はその感情を受け入れた。
「好きだよ」
それは呼吸のような言葉だった。あまりにも自然過ぎて、動揺したり、恥ずかしかったり、後悔したりする気持ちは微塵もなかった。迅は私の告白を聞くと、目尻を下げて短く「うん」と頷いた。
「こうなる未来を予知してたの?」
「してたよ」
「これは迅が望んだ未来?」
「もちろん。こうなる未来をずっと待ってたんだ」
額を合わせて、私たちはお互いの瞳を覗き込んだ。迅が目を閉じる。唇が触れ合いそうになったが、私は迅の胸を押し返してキスを拒んだ。
「イヤか?」
「イヤというか……。キスしたら帰りの車内がちょっと気まずいと思いまして」
尻すぼみにそう言うと、迅が吹き出した。あははと笑う迅にむっとして、じろりと睨み付ける。
「ちょっと、あなた笑ってますけどね。そもそもそっちの気持ちをまだ聞いてないし、付き合ってない奴と流されてキスするわけにはいかないんですけど」
「それもそうだな。ちゃんと好きだよ」
「ちゃんとって何……」
「付き合おう」
「……うん」
迅の手が私の頬に添えられる。それでも往生際悪く身体を後ろに引いていると、迅が静かな声で言った。
「悪いけど、この未来は覆せない」
上唇の先端から、ゆっくりと唇が重なる。そして私は、上唇よりも下唇の方が感度が良いことを知る。
波打ち際でキスをする私たちの足に、薄い波が打ち寄せる。足の指の隙間をさらさらと流れていく砂の感覚と、唇の柔らかさが心地良くて、私はそっと目を閉じた。
波が引いていくのと同時に、迅の唇が名残惜しそうに離れる。途端に熱が顔に集まってきてしまい、さっと目を逸らした。
「かーわいい」
「うるさい」
すくっと立ち上がって来た道を戻ると、後ろから迅がついて来る足音が聞こえた。この道を来た時は友達だったのに、帰りには違う関係になっていることが不思議で、心がふわふわする。
浜辺に落ちているサンダルや迅の靴下を回収しながら、くるりと振り返る。
「ねえ、私がこの後『めんどくさい』って言うのは何で?」
すると迅は、潮風に揺れる髪を抑えながら、にっと爽やかに笑った。
「車の掃除がちょー大変だから」
砂まみれのサンダルや靴下、素足を見る。タオルは持って来ているが、水道がないため真水で洗い流せない。海水である程度落としても、車に乗り込む間にまた砂だらけになるだろう。そしておそらく、タイヤが巻き上げた砂が車の下に付着している。中も外も砂まみれになるのは決定だ。
私は賞味期限だけでなく、こうした汚れはすぐに掃除したいタイプだ。だが自宅に戻る頃には明け方になっているだろうし、カフェインの効力がいつまで続くかわからない。迅に訊けばわかるだろうが、私はその質問をぐっと飲み込んだ。
「ねえ、掃除手伝ってくれるんだよね?」
海岸線の先にいる迅に問うと、迅は少し目を見開いた後に、ふっと微笑んだ。コーヒーの賞味期限は、もう少し長くなりそうだ。


20220807
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