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名字さんのボーダーでの印象は、後輩に優しい、基本的に誰にでも親切で笑顔、意外にもノリがいい。大学を卒業していて、院に行っている東さんとは違い、自営業の傍らボーダーをしている年長組だ。お淑やかとまではいかないが、それなりに控え目で、高校生からは憧れの先輩として名高い。かく云う俺もその中の一人だった。
ロードワークの最中、ふと気が向いて普段は行かない公園の横を通ると、園内のゴミ箱の前に名字さんが仁王立ちで立っていた。パンツスーツに身を包んだ名字さんの片手には見たことがない程に大きい真っ赤なバラの花束。重いのか、肩に担ぐようにしている。もう片方の手は口元を覆うようにしていて、人差し指と中指の間にタバコが挟まれていた。一瞬、見間違いかと思ったが、名字さんで間違いない。だが、あんなにも無表情で、むしろ不機嫌そうで、タバコを吸っている姿を初めて見た。そもそもタバコを吸うなんて諏訪さんにも聞いたことがない。じっとゴミ箱を見つめながらタバコを蒸していた名字さんは、片足に重心を預けて、ふと俺を見た。目が合うと、驚いた表情をして動きが止まる。会釈して駆け寄ると、名字さんはばつが悪そうに笑った。

「どうも」

帽子を取って頭を下げると、名字さんはタバコを地面に落とし、踏み潰して火を消した。

「色々、突っ込みたいんですけど」
「だろうね。あー、まずったな。今更取り繕ってもしょうがねえか」

今度は俺の動きが止まる。名字さんの頭からつま先までを確認するが、確かに名字さんで間違いない。そのはずだが、言葉遣いに違和感がある。まず、こういうシチュエーションなら、名字さんは『恥ずかしいところ見られちゃったかな』とはにかむような人だったはずだ。聞き間違いどころの話ではない。

「……名字さんですよね?」
「双子の姉だって言ったら信じる?」
「いや、一人っ子だろ」

名字さんは渇いた笑いを浮かべながら足元の吸殻を拾って、ポケットに入っていた携帯灰皿に押し込んだ。

「大人になると嘘が上手くなるんだよ」
「結構ショックです」
「だろうね」
「佐鳥が知ったら泣きますよ」
「目に浮かぶわ」

くつくつと笑うだけで、フォローも何もしない。それどころか、「ガキばっかの組織で上手くやるコツは理想のお姉さんでいることなんだよ」と名字さんは続けて言った。

「あと、その花束なんですか。プロポーズでもされたとか?」

冗談めかして言うと、名字さんはそうだとでも言うように笑って、担いでいた花束を両手で抱え直した。風に乗ってバラの香りがここまで届く。偽物みたいな、くすみのない真紅のバラを、名字さんは一体誰から渡されたのだろうか。

「結婚するんですか?」
「いや、しない」
「しないのにどうするんですか、そのバラ」

ついでにそれを渡したであろう男も。名字さんの像がぼろぼろに崩れていく音を聞きながら訊く。

「ちょっと調子に乗ってる男が面白くて泳がせてたらプロポーズされちゃった。ほんとウケる」
「うわ……」
「私今日バイクで来てるから持って帰れないし、タバコ吸ったら捨てて帰ろうと思ってたとこ。でも丁度いいところに来たよね」

バサっと胸元に花束を叩きつけられる。持てということらしい。これが一〇八本のバラってやつか、とまんじりと眺める。上等なバラだ、値段もそれなりだろう。顔も素性も知らない男が哀れで、自然とため息が出た。すると名字さんは、何か閃いたらしい。にやにやしながら俺を見てくる。

「荒船くんの家ってここから近い?」
「近くはないですけど、普通に行ける距離ですよ」
「じゃあバイクならすぐか。水着持ってる?」
「は?」
「バラ風呂しようぜ」

ちょっと待ってて、と俺の返事を無視して、名字さんは公園の駐輪場に停めているというバイクを取りに行った。程なくして俺が走ってきた道に、フルフェイスのヘルメットを被った名字さんが現れ、俺を急かすようにエンジンを吹かせた。

「イカしてますね」
「でしょ。あいつ乗るかなと思ってヘルメット持ってきて正解だったな、クソ邪魔だったけど」

名字さんは俺が持っていた花束と引き換えにヘルメットを俺に渡した。俺が行くことは決定しているようだ。せめてこの後の予定を聞いてほしいとは思ったが、特に用事もないので黙って従う。それに、俺はこの映画のようなシチュエーションに密かに心踊らせていた。カフェレーサータイプの、構造が剥き出しになっている黒いバイクのタンクにはtriumphと書いてある。イカしているにも程がある。

「俺がバイクの免許取ったら譲ってくださいよ」
「やだね」

ヘルメットをつけてシートに跨ると、車体が沈んだ。花束と脱いだ帽子を落ちないように抱え直し、どこに捕まればいいのか迷っていると、ヘルメットの中でくぐもった声が、シートにあるベルトと足元のステップの位置を教えてくれた。

「それか後ろにバーあるから。不安だったら腰でもいいけど?」

これは明らかに挑発だ。その手には乗るかと、花束を抱えている手をベルトに、空いている手で背後にあるバーに捕まる。それを確認して名字さんはゆっくりと走り出した。
行き先を指示しながら大通りに出る。
イカしたバイクでタンデムして、運転手の女はスーツで、後ろの男がデカいバラの花束を抱えているのは、側から見たらどう映るのだろう。想像して思わず笑ってしまう。
後ろから見た名字さんの背中は思っていたよりも細く、頼りないのにバイクを手足のように操っている。ボーダーで穏やかに微笑む名字さんはもうどこにもいない。残念なようでもあり、ワクワクもする。
俺の家の前で停車した名字さんは、エンジンを切ってヘルメットを脱ぎ、バイクに体重を預けてタバコを吸い始めた。住宅街だぞ、と注意したが、「早く行け」とあしらわれる。仕方がないので足早に家に入る。母親と祖父は外出しているようだった。自室のクローゼットに仕舞い込んだ水着を引っ張り出すと、ふと自分がトレーニング用のジャージだったことを思い出した。着替える時間がもったいないため、念のために一泊できるような着替えをリュックに詰めて名字さんの元へ向かう。俺に気がついた名字さんはまだ長いタバコを携帯灰皿に押し込んだ。再び走り出す。
名字さんのマンションは前に数人で遊びに来たことがあった。名字さんはネット通販でハンドメイドした商品を売っているらしく、リビングには相変わらず道具や材料などが散らかっていた。その時は名字さんも片付けが苦手なんだな、と思っていたが、本性を見るに苦手そうだ。

「風呂掃除してくるから、勝手にしてて。冷蔵庫のものも好きにしていいから」

脱いだジャケットを床に落としていき、名字さんが風呂場に消える。雑だな、と思いながらソファーに転がっていたハンガーにジャケットを掛け、壁に吊るしてやる。
シャワーの音が遠くでする。そういえば完全に忘れていたが、名字さんは「バラ風呂しようぜ」と言っていた。そして俺に水着を用意させたということは、まさかとは思うが、そういうことなのだろうか。
脱衣所に入ると、洗濯機の上に例の花束とゴミ袋が横たわっていた。風呂はそこそこ広いらしく、シャツとスラックスを捲し上げた名字さんがアクリルたわしで浴槽を洗っていた。

「なあ」

風呂場の入り口にもたれて話しかけると、振り返りもせず返事をされる。

「まさかとは思うが、一緒に入るつもりじゃないよな?」
「こんなの一人ずつ入って何が楽しいんだよ」
「……一理ある」

俺はもう名字さんに敬語を使うのをやめているが、指摘されないあたり気にしていないようだ。浴槽を洗い流した名字さんは、栓をしてお湯はりボタンを押した。浴槽の濡れた縁をタオルで拭き、そこに腰掛けると、バラとゴミ袋を取ってくるよう言われた。大人しく従う。

「うし、やるか」

それからは地味な作業だった。バラを数本手に取り、ひたすら花びらをむしって浴槽に落としていく。花の部分をそのまま浮かべようとも考えたが、ハサミを取ってくるのが億劫だったためだ。しかしむしるのも大変になってきたのか、さっきから名字さんの顔が死んでいる。

「めんどくせえ! 誰だよバラ風呂やろうって言った奴」
「あんただろ」
「あー、ちょっとハサミと飲み物持ってくる」

浴槽を出て行った名字さんの背中を見送り、一人風呂に取り残された俺は湯船にゆらゆら浮かんでいる花びらを眺めた。誰かが名字さんのために一世一代の想いで贈ったものを、特別仲が良いわけでもない高校生と共に解体されている。このことを知ったら立ち直れないんじゃないだろうか。今更罪悪感のようなものが芽生える。

「うーし、荒船くん、ハサミ持ってきた」

はい、と持ち手が大きいガーデニング用のハサミを渡される。

「ちゃんとしたのあるなら最初から持ってこい」
「クソ生意気だな」

どこかで聞き覚えがあるセリフを吐いた名字さんは、ハサミに続いてお茶のペットボトルを差し出してきた。遠慮なく受け取り一口飲んでいると、横からプシッと缶が開く音がする。こいつビール飲んでやがる。

「っかー、やるか」

ビール缶をカウンターに置いて、名字さんはキッチン用のハサミでガクの下あたりを切り落としていった。

「そろそろお湯止めたほうがいいかな」
「絶対溢れるぞ、これ」
「つかバラもこんなもんでいいか。めっちゃ余った」

花で真っ赤に染まった浴槽を見て満足げに頷いた名字さんは、茎が入ったゴミ袋とまだ数十本残っているバラを持って脱衣所に置いた。

「余ったので何か作ろうかな。材料費浮いたぜ」
「マジ同情する……」
「ただゴミになるよりいいでしょうが。さ、着替えよ。荒船くんここ使って。私は寝室で着替えるから、終わったらリビング集合で」

ひらりと手を振って名字さんが消える。リビングに置いていたリュックを引っ掴んで脱衣所に戻ると、途端に緊張してきた。脱衣所は風呂場から漂ってきたバラの香りが充満している。ここまで来て怖気付いたとわかれば、名字さんは俺を日和ったと笑うだろう。こんな状況、ボーダーの奴には誰にも言えない。名字さんは自分の秘密を守らせるため、あえて口外できないような状況を作ったのだろうか。名字さんの戦い方なら充分に有り得る。はあ、とため息をついて静かに服を脱いでいく。
さっさと着替えてリビングに行くと、名字さんはまだのようだった。居た堪れない。半裸で他人の家のリビングで一人、正解がどこにもない。目に入った名字さんの作りかけの作品を意味もなく眺めていると、寝室のドアが開いた。ハイネックの黒いビキニを着た名字さんが、「お待たせ」と出てくる。大胆なデザインの水着ではなく安心したが、鎖骨の部分がうっすら透けていて、やはり目のやり場に困る。ふいと視線を逸らすと、にやにやしている気配の名字さんは俺の耳元で「エロガキ」と囁いた。カッと顔が熱くなる。帽子のツバで顔を隠そうとしたが、そもそも被っていなったため、行き場のない手で後頭部をかいた。

「おーおー、なかなか仕上がってんじゃん」

何がだ、と言う前に名字さんの中指の爪が俺のうっすら割れた腹筋の筋にそってウロウロする。突然だったためビクついた俺を見て、更に機嫌を良くした名字さんは、口元を歪めて「あータバコ吸いてえ」と言いながら歩いて行く。最悪だ。
後を着いていくと、棚からバスタオルを出している名字さんの後ろ姿があった。露出した腰から尻、足を何となく見つめていると、気がついているのかいないのか、名字さんはその手に電子タバコを持って浴室に入った。

「名字さんって改めてクズだな」
「わかってて着いてきたんでしょ、優等生の荒船くん」

乾いた桶の中に電子タバコを入れた名字さんに軽くムカつきながら、向かい合うようにして二人で浴槽につかる。案の定お湯が溢れて、花びらが散った。俺は足を外側に開いて、名字さんはその間に収まる。足を伸ばせるほど広くない浴槽で、密着しながら目線がかち合った。

「ぷっ、うはは!」
「くくっ」

どちらかともなく吹き出し、浴室に笑い声が反響する。名字さんは大口を開けて笑っているし、俺も笑いが止まらない。何の変哲もないマンションの浴室で、真っ赤なバラ風呂に浸かっているのが何故こんなにも面白おかしいのかわからないが、俺は今、確実に楽しんでいる。

「腹いてえー! バカ笑いが止まらん!」
「ほんと頭おかしいんじゃねえの」
「荒船くんもな」

丹精込めて仕込んだバラを胸に投げつけられて、更に笑いがこみ上げてくる。ぬる目のお湯と、立ち込めるバラの匂いと、足に触れる名字さんの柔らかい感触に頭がくらくらして、俺は本当に頭がおかしくなったのかもしれない。名字さんは笑いながらビールを一口飲んで、飲み込むとまた吹き出した。

「名前って呼んでいいか?」

ビール缶を置いた手で頬杖をついた名前は、にやりと笑う。

「荒船くん、私のこと好きになっちゃった?」
「生憎全く好みじゃないんでね」
「クソガキが」

憎まれ口を叩いているが、名前は楽しそうな表情をしている。浮かんでいる花びらを両手で掬ったり、お湯に戻したりなんかして遊んでいた。

「そういやさっき少し調べたら、バラは先に洗っておくんだって。もう遅いけど」
「本当に遅え」
「まあ大丈夫でしょ」

動くたびに水音がして、バラが肌をくすぐる。少し冷静になってきた。こんな密閉空間で、裸同然の格好で一体何をしているんだか。ペットボトルのお茶を飲み、長く息を吐いて肩まで沈むと、名前は「せまい」と俺を押しやった。

「あっち向けばいいだろ」
「ふうん」

冗談で言ったつもりだったが、間に受けた名前は一度立って方向転換すると、背中を俺に預けて座った。さっきよりも密着度が高くなって、名前のうなじがすぐそこにある。負けたような気がして名前の肩に顎を乗せ、腹に腕を回すが、抵抗されなかった。

「これがバレたら逮捕だな」
「バカか。18歳はもう大人だよ」
「都合の良い時だけ大人扱いかよ。名前がこんなんだってボーダーの奴は知ってるのか?」
「あー、東さんと忍田さんにはバレてるかも」
「それ以外に隠し通してるのがすげえ」
「東さんも理想の大人像を押し付けられてるとこあるからね」

名前の顎を持って後ろを向かせる。
これは恋ではない。恋ではないが、キスしたくなった。抵抗の隙を作ったが、拒まれないので唇に噛みつく。薄目を開けると、名前も少しだけ目を開いて俺のことを見ていたが、すぐに閉じた。体勢的にがっつけないため、舌を絡めた後にすぐに離す。苦しそうな顔をした名前は前を向くと、俺の膝に体重をかけて電子タバコに手を伸ばした。

「生意気だね、荒船くんは」

パキッと何かが割れるような音がする。
タバコのことはよくわからないが、名前はヘビースモーカーの部類に入るのではないか。ボーダー内で吸っていないのが不思議だ。
少しして、名前から白い煙のようなものが吐き出された。微かにブルーベリーのような匂いがするが、バラの香りに混ざって掻き消えた。名前は体勢を変えて俺に向き合うと、少し距離を取り、再びふっと煙を吐き出した。白くモヤがかかった先で、名前は薄く微笑している。挑戦的な表情に、また俺の頭はくらくらする。


20110313

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