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修くんの傷を見たのは、私が中学生になって初めて学校を早退した日のことだった。

その日は一限の終わりから体調が悪くて保健室で寝ていたのだが、保健の先生と相談して早退することにした私は、早退手続きをしてカバンを取りに教室に戻った。
授業が始まって三十分くらい経った頃だったので、他のクラスで授業が行われている様子を横目で見ながらゆっくりと廊下を歩いていると、時々教室の中にいる生徒が私に気付いて視線で追ってくる。ただでさえ具合が悪いのに、私は遠巻きから見られることが苦手なので、心臓を握り締められたかのように苦しくなった。
早く帰りたい、そう思いながら自分の教室に入ろうとした時、体育の授業で誰もいないはずの教室に、修くんがいた。
修くんはボーダーの任務で朝からいなかったはずだが、どうやら任務を終えて学校に来たらしい。
廊下側に背中を向けて体操服に着替えている修くんの剥き出しになった脇腹に、その傷はあった。一瞬だけ見えたそれは、すぐに真っ白い体操服に隠された。
ジャージを羽織った修くんは、振り返ると教室のドアの前で佇む私を見つけて首を傾げた。

「名字。授業はどうしたんだ?」
「具合悪くて、もう帰るの」
「確かに顔色が悪いな。校門まで送るよ」

そう言うと、修くんは私の机にかけられていたカバンを取り、帰る準備を手伝ってくれた。ロッカーに入れていたコートを羽織って、カバンに荷物を詰める。修くんは「ゆっくりでいいからな」と言って私のカバンを持つと、私を労わりながら一緒に教室を出てくれた。
先程まで一人で歩いていた廊下を、今度は二人で引き返す。おそらく偶然だろうが、修くんが教室側を歩いてくれているので、あの嫌な視線を感じることはなかった。ただ静かに、直線に伸びる廊下を歩いて、がらんとした階段を下りていく。

「一人で帰れそうか?」
「うん、大丈夫。ありがとう」

昇降口で靴を履き替えて外に出ると、冷たい空気が一瞬で私たちの身体を包み込んだ。私はコートを着ているが、修くんは体操服にジャージだけなので、ぶるりと身体を震わせていた。
グラウンドではクラスメイトが持久走をしている。真っ白い髪が一番最初に目に入った。空閑くんは先に授業に混ざったらしい。
遠目で見ていると、数人でお喋りをしながら走ったり、ダルそうに走っている生徒はよく目立つ。運動部員はそんな生徒をどんどん追い抜かして、途中で暑くなったのかジャージを脱ぎ捨てていた。
私は持久走が体育の授業で一番嫌いだ。楽しくないし、苦しいだけで得るものが何もない。修くんも走ることが苦手なので、昔からへろへろになりながら走っていた。それなのに、わざわざ授業の途中から参加するなんて、本当に真面目だと思う。

「名字が早退することはぼくが先生に伝えておくよ」
「ありがとう」
「それじゃあお大事に」

校門まで送ってくれた修くんは、手を挙げるとグラウンドの方へ走って行った。記憶よりもしっかりとしたフォームで走る姿がどんどん小さくなる。
修くんはグラウンドを突っ切らず、コースに沿って走り、朝礼台にいた先生に声をかけた。私はそんな修くんのことを、校門から見つめていた。

私は小学生の頃、数人の女の子のグループにいじめられていて、少しの期間だけ不登校になったことがある。暴力を受けたとか、物を隠されたとかそういういじめではない。何もしていないのに遠巻きにヒソヒソ笑われたり、話しかけても相手にしてもらえなかったり、そういうものだ。
何故そんな目に合ってしまったのかわからないが、きっと決定的な理由などなかったのだと思う。たまたま私だっただけで、きっとあの子たちからすれば誰でもよかったに違いない。
仲の良い友達は私のことを庇ってくれたり、相手の子に怒ってくれたが、私はとても傷付いて、ある日学校に行くのが怖くなってしまった。
両親は私の事情を聞くと、無理に学校に行かなくてもいいと言ってくれたし、頑張って登校しようとした時は途中までついて来てくれた。
学校には行けても、教室に入れなかった日は保健室登校をして、校門の中に入れない時はそのまま引き返した。そして私は、少しずつ学校から遠ざかっていった。
そんな時、いつも家にプリントを届けに来てくれたのが修くんだった。家が一番近かったし、押し付けられて学級委員長をしていたからだと思う。
修くんは私が不登校になっても変わらず接してくれた。そして、もし一人で学校に行くのが怖かったら、いつでもぼくを呼んでくれていいと言ってくれた。
修くんは昔から人に優しくて、正しかった。
後から知った話だが、私をいじめていた女の子たちに、何故そんなことをするんだと問い質したらしい。そんなことをしたら次は修くんがいじめられてしまうかもしれないのに、修くんは恐れなかった。
修くんや友達の励ましによってなんとか学校に戻れた私は、そのまま無事に卒業を迎えたが、中学校は三門を選んだ。距離でいうと蓮乃辺でもよかったのだが、あの子たちがいない学校を選ぶことで、ようやく解放されたような気がした。
それに、三門には修くんがいた。私は今でも修くんに感謝してもしきれない。今中学で楽しく過ごせているのは修くんのおかげだ。それなのに、修くんは自分は何もしていない、私が頑張ったからだと言ってくれた。
中学でも修くんの正しさは変わらなかった。しかしその正しさは、修くんを守ってはくれない。

あの傷は近界民にやられた傷だ。修くんは近界民との戦いで意識不明の重体になって入院したのだ。きっとあそこからたくさん血が出て、私なんかじゃ想像が出来ないくらい痛かったはずだ。
修くんが何か行動を起こす時は、大抵の場合誰かのためだった。おそらく今回もそうに違いない。
私はそんな修くんに助けられたから、彼の行動原理を尊敬しているし、見習いたいとも思う。けれど、修くんは他人を案じるくせに、自分のことを蔑ろにする。
私はもっと、修くんに自分を大切にしてほしい。誰かを助けるために代わりに殴られたり、口汚い言葉で罵られたりしないでほしい。
弱い自分のためにしているという行動で、理不尽に傷付けられているということを、もっと自覚してほしかった。

傷は、登校している時でも、昼食を食べている時でも、黒板に問題の答えを書いている時でも、修くんの脇腹に確かに存在している。それなのに、きっと誰も気付いていない。修くんですら意識していない。この教室の中で私だけが、修くんの傷を知っている。

「名字さん、今時間あるかしら?」

放課後になり、帰り支度をしていると水沼先生に声をかけられた。私は部活動に入っていないし、特別な予定もない。

「はい、大丈夫です」
「悪いんだけど、準備室で資料作りをお願い出来ないかしら。三雲くんにもお願いしているんだけど」
「……わかりました」
「ありがとう。やり方は三雲くんに説明してあるから。よろしくね」

水沼先生はそう言うと、慌ただしく教室を出て行った。おそらくクラスメイトが何か問題を起こしたのだろう。私のクラスには不良と呼ばれる生徒が何人かいるので、時々こういうことがある。
私はカバンを持って、この階の一番奥にある準備室へと向かった。扉を開けると、机の上には数種類のプリントが並べられていて、それらを一枚ずつ集めている修くんがいた。

「名字、手伝いに来てくれたのか」
「うん。やり方教えて」

資料作りは簡単なもので、ページごとに並べてホッチキスで止めるだけだった。私たちは作業を分担することにして、修くんがプリントをまとめ、私がホッチキスで閉じる役割を担った。

「もうすぐ卒業だね」
「名字も三門第一だったよな。高校でもよろしく」
「うん、こちらこそ」

紙が重なる音と、ホッチキスの芯が止まる音に加えて、校庭から部活動の掛け声がする。そんなものを遠く聞きながら、修くんとなんでもない話をする。しかしその間も、私は修くんの傷のことばかり考えていた。
私は意を決して手を止めた。ホッチキスの音が止まったので、修くんの手も止まった。

「私ね、この前見ちゃった」
「見たって何をだ?」
「修くんの、傷跡……」

そう言うと、修くんは私がいつのことを言っているのか考えて、「ああ」と思い出したように頷いた。修くんはどこか反省したように背中を丸めると、蛍光灯の光で反射する眼鏡を押し上げた。

「いや、本当に情けないよ。各方面に迷惑かけたし」
「……こんなこと言ったら困るかもしれないけど、言ってもいい?」
「うん?」
「もう一回見てもいいかな。修くんの傷」
「……別に構わないけど。面白くないぞ」

修くんはプリントをそっと机に置くと、ブレザーのボタンを外し、スラックスの中にしまっていたワイシャツの裾を出して、私に背中側の傷跡を見せてくれた。
縫った形跡がある。切れたとはまた違う、見たことがない形状の傷だった。
きっと完全には消えないであろうそれを、心の中で優しく撫でる。そうして何度も撫で続けたら、修くんは理解してくれるだろうか。この傷が、修くんだけのものではないということを。可視化されただけで、本当はもっとずっと前から、傷はあったのだ。
見つめ続けていると、肩越しに私を見下ろしていた修くんは、眉を下げてふっと笑った。

「どうして名字が泣くんだよ」

修くんはワイシャツから手を離すと、床に片膝をついて丸まった私の背中を優しく撫でた。私が心の中でしていたことを、代わりに私にする修くんの体温が、じんわりと背中に浸透する。
私はただ、修くんにわかってほしいだけなのに。修くんが傷付くと、一緒に傷付く人間がいるということを。
それなのに修くんは、私の背中を撫で続けて、私の心をゆっくりと回復させていった。
修くんの傷は、真っ白いシャツの中に隠されたまま、ずっとそこに残り続ける。


20220303

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