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思い出すことも出来なくなってきた事柄を、大切な思い出と言って胸に秘めておくのはもう、ずいぶん意味のないことのようにおもう。せめて何かに書き留めていれば、文字のカーブの丁寧さや筆圧、選んだペンの色、触れた紙の質感から、宝物のような記憶として維持出来たかもしれない。しかし、私の胸を埋め尽くす大切な思い出たちの正体は、すでに忘れたことすら忘れた記憶の集合体になってしまっている。その表皮を優しくなぞって、愛しい恋しい寂しいと、私は私を慰めている。
私は、鳩原未来が好きだった。恋に違いなかった。それすら通り越した想いにも似ていた。何にも喩えがたい苦痛でもあった。
彼女と過ごした日々は楽しく、温かく、時に不穏で、そのアンバランスさが胸を焦がした。それなのに一体どのようなことをして楽しいと感じ、どんな時に温かいと感じ、彼女の何を見て不穏を感じ、何故胸を焦がしたのかの詳細は、頭の中でどんどん透けていって、一つ一つのエピソードを詳しく説明をすることは困難になった。だから私は、未だに自殺未遂の理由を兄に上手く説明することが出来ない。今の私は横転した掃除機の本体のように、ゆっくりと兄の進行を阻む、手の掛かる妹になってしまっている。

浴室の天井から滴る水が顔に落ちて、濡れた指先で拭った。湯船に浸かったままバスタブの栓を抜く。ごっ、と音を立てた後、一瞬静かになる。水面に出ていた膝の面積がどんどん広くなり、減少するお湯に合わせて身体を沈ませると、私自身が流されていくように錯覚する。
指先を排水溝の周りで遊ばせる。微かに感じる水流。まだ近付ける、そうおもっていると、急に指が引きずり込まれる。しかし、いともたやすく抜け出すことが出来る。この遊びを数回繰り返しているうちに、胸が露わになってくる。少なくなった浴槽のお湯に居座り続けるためには、仰向けにならなくてはいけない。背中を底にくっつける。膝が少し痒い。排水の勢いがなくなり、すっと引いていくようにお湯が流れていく。ずっしりと重たくなった身体に点々と冷たい雫が落ちて、現実が追い付いてくる。
空になったバスタブに寝転んだまま、私は動けない。ここから這い上がる力が残っていない。このままどろどろに溶けて流れてしまいたい。流された先に、未来はいない。
未来はきっと、私のことが好きではなかった。でも私に必要とされることは嬉しかったとおもう。だから最後に、私に手紙を書いてくれたに違いない。
お人好しで、優しくて、自己肯定感が低い。素質は高いのに、いつまでも自分を卑下していて、努力を惜しまない。地味で温厚な女の子だった。
私は、周りに溶け込んで薄っすらと微笑んでいる未来が好きだった。溶け込もうとしているのに、浮いていることを自覚している姿を見ると、張り裂けそうなほど愛しいとおもった。ぼさぼさの髪を梳って、好きだよと囁いたら、素直に照れてほしかった。どこにいるのか、生きているかもわからない弟よりも、手を伸ばさなくても届く距離にいる私を選んでほしかった、のに。
目を瞑って、浴室に立ち込める湯気をゆっくりと吸い込む。身体は冷えてきているが、まだ背中が温かい。風邪を引くまで、ずっとここにいたい。
ぼうっと天井の結露を眺めていると、玄関の鍵が開く音が聞こえた。兄が帰って来たらしい。兄は帰宅すると一番に風呂場に来る。私がちゃんと約束を守っているか、確認するためだろう。
気難しそうな足音が近付いて来る。脱衣所の扉が開かれ、立て続けに浴室のドアが開く。浴室内に充満していた暖気がさっと逃げて、おもわず身震いした。私は兄に、まばたきだけで生存を報告する。

「いつまでそうしているつもりだ」

兄である匡貴くんの、不機嫌な声が反響した。無視をする私にため息を吐くと、匡貴くんは腕を組んで浴室のドアに寄り掛かかり、じろりと私を睨み付けたのが、鏡越しに見えた。
私の裸はとっくに見慣れてしまったようで、今更目を逸らしたりなどしないし、タオルを掛けてくれることもない。私が寒がって出て来るまで、いつもこうして待っている。それは私のためではなく、どちらかと言えば自分自身のためなのだろう。何だかんだ文句を言いつつ、私を看病してくれるくらいには面倒見が良い。
浴槽で手首を切った私を発見した時、兄の焦った表情を初めて見た。私が二宮家に引き取られた頃から匡貴くんは仏頂面で、笑っている顔はほとんど見たことがない。そのため、そんな人間らしい表情筋の動かし方も出来るのだと、ぼんやりとした頭で関心していた。
今おもえば、兄は相当参っていたのだ。兄は私と未来が繋がっていることを知らなかったし、私が失恋したくらいで死にたくなることを知らなかった。未来の行動も寝耳に水で、ボーダーではない私が何故そのことを知っているのかも、知らなかった。そして私は、未来が兄に、私との交流を話していないことを知り、やはり私を置いて行ったのだという事実を知り、兄が私に対してどのような感情を抱いていたのかを知った。
私と匡貴くんは血が繋がっていないが、兄妹で同じ女に人生を歪められて、不確かな足取りで歪んだ線の上を歩き続けている。私の手首に残る剥き出しの傷跡と、匡貴くんの胸にあるであろう、今後一生可視化しない傷跡が、今の私たちの間を取り持っている。

「そんなことより、買って来てくれた?」

天井を見つめたまま尋ねると、匡貴くんは靴下を履いたまま浴室に入って来て、指先に下げていたショッパーを私の腹の上に投げるように置いた。ショッパーの中から箱を取り出す。開けると、透明なプラスチックケースの中に、真珠の粒のようなものが詰まっていた。金色の蓋の鈍い輝きと、しっとりした真珠の光沢が美しい。

「彼女でも出来た?」
「は……?」
「これ買って来てくれたの誰?」

自殺未遂をした後、私は匡貴くんと約束を交わした。それは、素敵な入浴剤があるうちは、再び自殺を図ろうとしませんよ、というものだ。
私は元々入浴が好きだ。もっと言うと、バスタブの中で小さくなって、ぼんやりするのが好きなのだった。お湯に浸かっていると色々なことが閃いたり、思考が整理される感覚がある。生きていくために頑張ろうとおもうのも、諦めてこのまま死のうとおもうのも、まとめて一つの場所で行えそうなところが好きだ。
匡貴くんは面倒くさそうな表情をしたが、死なれる方が困るとおもったのか、週に一度、新しいものを律儀に買って来てくれる。しかし兄は雑貨などには疎いため、大抵の場合、ボーダーの部下である犬飼に選ばせているという。犬飼は学生の女の子が喜びそうな可愛らしいデザインのものを選ぶ傾向があり、センスも良い。何度か会ったことがあるが、愛想が良くて人懐っこく、兄に対しても物怖じしていない様子だったので、兄はこの男に大分助けられているのだな、とおもった。
犬飼がそういうものを選ぶのに対し、兄はシンプルなボトルに入ったバスソルトを選ぶ傾向にあるので、今日のものは二人が選んだものではないとすぐにわかった。これを選んだのが女だということもなんとなくだがわかる。兄に女友達はほとんどいない。そもそも友達と呼べるような人間がいるのかすら怪しい。そんな兄が親しくない女性に頼みごとをするわけがない。
容器を振りながら匡貴くんを見上げると、目を細めて「同期が買って来た」と小さな声で言った。匡貴くんは私の手からケースを取り上げると、腹の上に乗せていた外箱やショッパーを回収して、洗濯機の上に置いたようだった。

「お兄ちゃん、同期の人にも話してるんだー」
「……勝手に会話に割り込んできただけだ」

匡貴くんは濡れたバスタブの縁に腰掛け、足を組んだ。お尻濡れたでしょ、と呟くと、誰のせいだ、と針のような声色で言うので、私はなんだか笑ってしまった。匡貴くんの大きな背中の影の中で丸まりながら、微睡むように息を吐く。

「兄さん、問題です。何故私は未来に置いて行かれたのでしょうか?」
「傲慢だからだ」
「即答じゃん。匡貴くん、きらーい」

くすくす笑って、バスタブの底に残っていた水をぱちゃんと叩くと、匡貴くんは舌打ちをした。匡貴くんは私に嫌いと言われることが嫌いだ。この人は意外にも、言葉をそのまま受け取る傾向にある。
私は毎日、匡貴くんにこの問題を出している。初日は何も答えてくれなかったが、おどけて死を引き合いに出すと、渋々答えてくれるようになった。
初めのうちは、「おまえがボーダーではないからだ」「戦力にならないからだ」とボーダーに関することだったが、その辺りの理由が尽きると、「腹が減ると機嫌が悪くなるからだ」「待ち合わせに遅れるからだ」と私の悪口に変わっていった。そして最近は、「自己中心的だからだ」「差別的だからだ」「利己的だからだ」「真意が読めないからだ」と、どんどん核心に近付けて、私を追い詰めている。兄は、私の悪いところを毎日言えるくらい、私のことをよく見ている。そのことに近頃は居心地の良さすら感じている。だが私は、兄の口から「俺の妹だからだ」と言われることを、密かに恐れている。

「気が済んだか?」

匡貴くんが立ち上がる。すっと腕を伸ばすと、雑に引っ張り上げられ、座礁した船のように傾きながら私も立ち上がった。濡れた髪から滴る水が、渇いた肌に線を引く。膣の中に入り込んでいた水がじわりと溢れて、内腿を伝った。私はバスタブを跨ぎ、匡貴くんの身体に寄り添うように抱き付いた。髪の水分が匡貴くんのシャツに浸透して、シミを作る。

「かわいそうなお兄さま」

腕に力を込めて、額を胸に押し付ける。匡貴くんは両手をスラックスのポケットに入れ、舌打ちをした。私が離れるまで、匡貴くんは動かない。服越しに伝わる温もりと、背中を走る悪寒に身震いする。

「抱き締めて」

小声で言ったつもりだったのに、浴槽内に私の言葉が反響した。匡貴くんはただ黙っていた。
裸の私と、服を着ている匡貴くんとの、曖昧な境界線が鏡に写っている。このまま一度一つになって、分け合うように二つになれたら丁度良いだろうな、とおもいながら、匡貴くんにもたれて、服を濡らしていく。
私は私を晒すことで、本当に知られたくないことを隠している。いつか匡貴くんがそのことに気が付いたなら、私はその時こそ、本当に死ぬ時であると、おもっている。

20211031

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