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その日、一人の女が文化を手放した。十字にも満たない文字の羅列で俺はそのことを知った。自室に一人でいる時のことだった。
山崩しのようなプロ人生だった。少しずつ、だが確実に削られて、とうとう崩れた。いずれそうなるとわかっていたはずだったが、俺は少しだけ驚いて、しばらく放心していた。
カラーボックスの奥に隠すようにしまっていた一年前の将棋専門誌を引っ張り出す。実家に残しておくことも捨てることも出来ず、ここまで持ってきてしまったが、買ったその日に一度開いたきりで中身はまともに見ていない。表紙にはピンク色の字で「若手女流棋士浴衣アルバム」といかにも通俗的なコピーが書かれていて、これをレジに持って行った時の居た堪れなさを今でも思い出せる。開くと、色とりどりの浴衣に身を包んだ女流棋士がカメラ目線で微笑んでいた。女流棋士の名前と、編集部が勝手に付けたアイドルのようなキャッチコピー、独断と偏見による紹介文。そんなものを流し見しながらページを繰る。そして、これまで目を逸らし続けた女のページに辿り着いた。
紺地に白椿、臙脂色の帯といった古典的な浴衣に身を包んだ名前は、振り返るようにして曖昧に笑っている。誰が見ても乗り気でないとわかるはずなのに、その表情すら映えていて、贔屓目なしに他のどの写真よりも惹き付けられた。雑誌のカラーページ特有の、薄くてつるつるした紙の縁を指のはらでなぞりながら、無防備に晒されたうなじと、光が当たって淡くぼやけている輪郭を眺めて、視線を文字へ移す。キャッチコピーは「触れたら溶ける、白雪姫」らしい。

「アホか」

当時も言ったセリフが、そっくりそのまま口から零れた。紹介文を読む気になれず、雑誌を閉じて床に放り投げる。床を滑っていった雑誌はゆっくりと失速して、中途半端な位置で止まった。ずっとそこに置いておくわけにもいかず、立ち上がって雑誌を拾い上げる。

「溶けやんかったわ」

そしてまた誰にも見付からないように、雑誌をカラーボックスの奥にしまい込む。

プロ将棋の世界に引退規定というものがある。簡単に言えば降級により引退を余儀なくされる制度だ。自らの意思で引退する棋士もいるが、大半はこの規定による在籍期限切れで、現役から退く。
永世称号の資格をいくつも所持していたり、最年少でプロ入りを果たし数々の偉業を成し遂げた棋士の引退は、全国放送のニュースで取り上げられるくらいの出来事だ。質素な会議室で記者会見が開かれて、幾多のフラッシュを浴びながら心境を語り、それが文字に起こされ、歴史となる。
名前は女流棋士として活躍していたが、先日将棋連盟から退会した。プロ入りから三年という短さだった。引退ではなく退会だったことで、少なからず将棋界はざわついた。
引退と退会では大きな違いがある。引退とは公式戦への出場資格を失うことで、引退後もプロ棋士を名乗ることが出来る。対して退会とは、棋士という身分を失うことを意味する。
名前は一身上の都合という典型的な理由により、退会を表明した。記者会見は開かれず、詳細も多くは語られなかった。そのせいで匿名掲示板の一角では憶測が飛び交った。文字列はおぞましく蠢いて、落胆や悪意で埋め尽くされた。
引退を惜しむコメントと、盤上を見つめる凛とした表情の名前の写真が載ったのを皮切りに、スレッドは見る見るうちに伸びていった。イベントで撮られたのであろう澄ました表情の写真や、慣れない聞き手をおろおろしながら務める様子のスクショ、将棋雑誌に載った浴衣姿の転載。それから、名前の“癖”の写真。ヒートアップしていくスレッドの中に挟まれた「ぽまいらのせいで名前たん引退しちゃったじゃん」という文字に、俺は形容し難い感情を燻らせた。そこからは見るに耐えない醜悪と卑猥な言葉で溢れ返り、俺は静かにページを閉じた。

「水上みたいな奴に限って童貞じゃないんだよなー」

突然名前を呼ばれて、反射的に顔を上げる。仄暗い視界に滲むように光が射す。
昼休み、人がまばらな教室の窓際。窓枠に腰掛けた俺にクラスメイトがそう言った。教室の隅とはいえ、女子もいる場所で猥談に花を咲かせていたため会話から離脱していたのだが、強制的に引きずり込まれる。俺は窓枠から下りて、汗ばんで背中に張り付いたシャツを手ではためかせた。背もたれを前にして椅子に座り、頬杖をつく。

「せやから彼女おったことないって前言うたやん」

俺は十七年半、彼女がいない。高校最後の夏が始まろうとしている現在も、候補に上がるような女子はいなかった。しかし友人たちは何に対する期待なのか、にやにやと見つめてくる。

「いやガチで実際どうなん?」
「正真正銘の童貞やって。言わすな」
「んだよつまんねー」
「そういうお前はどうなんだよ。彼女ともうヤッた?」
「聞く? 聞いちゃう?」
「ヤッてんなぁ」
「ヤッてんねぇ」
「そろそろ休み時間終わりやぞ」

俺は椅子から立ち上がり、自分の席に戻った。机の中から教科書類を引っ張り出して、机に並べる。
経験人数が多いことを自慢する男はアホみたいにいる。中学の時からそうだった。生物としての目的は良い遺伝子を持つ子孫を多く残すことであるから、その名残なのかもしれない。これについては否定するつもりもなければ肯定するつもりもない。だが生殖を目的としない行為をしている人間が、生物学を言い訳にするのはあまりにも都合が良い。
こういう人間は、生涯大切にしたいと思う相手に、過去の経験を理由に別れを切り出されたら一体どうするのだろう。少なからず後ろめたい内容ならば、例え嘘を吐くことになっても初めから黙っていればいい。あとはその嘘を貫き通す覚悟があるかどうかだ。
俺にはあった。だからずっと、嘘を吐いている。



自分の昔の記憶を、何故か俯瞰して覚えている。その時点で脚色された記憶なのは間違いない。
小学校低学年の時、名前は東京から大阪に引っ越して来て、文化の違いに戸惑っていた。特に声が大きい大人や、言い回しがキツい上級生を怖がっていた。そのせいか、初対面は無口で大人しい子という印象だった。
近所に住んでいた俺は比較的静かだったせいか名前に懐かれて、常に周りをちょろちょろされていた。俺が通っていた将棋教室にまでついて来るほどだった。
将棋教室の大盤を使った講義ではわいわいと喧しいが、対局になるとそれが嘘みたいに静まり返る。名前はそれが気に入ったようで、俺と一緒に本格的に将棋を学び始めた。
名前はこの頃からすでに容姿が秀でていた。外見にさほど興味がない俺ですら、名前をかわいいと思っていたし、テレビに出ていてもおかしくないと思っていた。もちろん将棋教室でも目立っており、他校の生徒は名前をじろじろ見るし、保護者の間ではかわいい子がいると話題になっていた。
出会った頃、名前は見た目に言及されると謙虚に「そんなことないよ」と首を振っていたが、次第に「ありがとう」へ変わり、最終的には曖昧に笑うだけになった。生まれた頃から言われ続けて、疲れたのだろう。
名前は大人しそうな見た目のわりにかなりの負けず嫌いだった。勝てば昇級出来るという対局でこてんぱんに負けた時は、廊下の隅で隠れて泣いていた。俺はそれに気が付かないふりをして、目が赤い名前と共に帰路についた。

「敏志くん、わたしね、夢あるんだよ。笑わないなら教えてあげる」

俺と名前の棋力はどんどん上がっていき、その辺の小学生では太刀打ち出来ないほどになっていた。子どもの大会にも出るようになり、上位入賞も決して偶然ではなかった。俺はこの頃にはもうプロ棋士になりたいと考えていたため、常に将棋のことで頭がいっぱいだった。
そんな頃、何故その流れになったのかは覚えていないが、名前は俺に夢を打ち明けようと耳打ちをしてきた。「笑わないなら教えてあげる」と言っておきながら、すでに教える気満々な名前は、俺が笑わないと信じていたに違いない。
名前の吐息が耳に掛かった。こそばゆくて俺は少し身体を離したが、名前はその距離と同じだけ俺に近付いて、口を開いた。その時、名前の上唇が俺の耳に触れた。硬直する身体を、心臓が内側から激しく叩いた。この鼓動が名前にまで聞こえるのではないかと焦ったが、名前は唇が耳に触れたことに気が付かなかったのか、または気が付かないふりをしたのか、吐息混じりの声で囁いた。

「わたしね、女流棋士じゃなくて、棋士になりたいんだ」

それは俺と同じ夢だったが、遥かに遠い夢だった。例えば俺の夢が地球から太陽までの距離だとしたら、名前の夢までの距離は、地球からまだ観測されたことがない未知の惑星を探し当てるところから始まる。
女のプロ棋士は、過去一度も現れたことがない。

中学生になると、俺と名前は研修会で研鑽を積んでいた。生涯忘れられない出来事があったのは、中二の時だ。
俺はB二クラス、名前はC一クラスにいた。棋力では俺が上だったが、プロになる見込みが薄い俺に対し、名前が女流棋士になるのは目前で、界隈から注目されていた。
俺は夢の距離までの目測を誤っていたらしい。地球と太陽の距離とは、おこがましいにも程があった。

プロ棋士になるには十五歳までに研修会のA二クラスに上がり、そこから上位組織の奨励会六級に編入し、四段まで勝ち上がらなければならない。
女流棋士になるには、研修会B二クラスに昇進し、協会に申請が通れば晴れて女流棋士になれる。つまり俺が女で、協会に申請が認められれば、俺はプロを名乗れたということだ。名前の夢はあくまで棋士だったが、女流棋士と奨励会の掛け持ちは認められているため、一旦女流棋士にはなるつもりだろう。だが名前が奨励会に入れるかどうかは別問題だった。そのくらい、棋士と女流棋士には格差がある。

今はとにかく将棋に専念したいと思っていた名前には別の懸念があった。
中学生大会の女子の部で常に上位入賞していた名前には、すでにファンがついていた。大会に地方局の取材が入ったことで、偶然映り込んだ姿がネットで話題になったのだ。問い合わせが殺到したとかで、今度は名前に直接取材の申し込みが入った。中学生、もうすぐ女流棋士、美人。メディアが放っておかなかった。
おそらく名前は取材を断りたかっただろうが、周りに言いくるめられて出演の段取りが組まれ、五分程度の映像がテレビに流れた。俺はその放送を見なかった。
それから名前のファンを自称する人間に街で声を掛けられたり、時には出待ちされることもあった。直接何かされたわけでもないため、警察に相談は出来ない。しかし名前の精神は確実に削られていた。

「敏志くん、怖い……」

俺は一人で出歩くことを怖がる名前の隣をいつも歩いていた。家が近いからだと、自分に言い聞かせていた。

その日、名前は俺の家で将棋の研究をしていた。一緒に研究することは珍しいことではなく、棋譜を読んだり、詰将棋をどちらが先に解くかを競ったり、片方が駒落ちというハンデを負って指したりと、とにかく様々なことをやっていた。小さい頃からずっと一緒にいたため、相手の手の内は知り尽くしている。だからこそ、新しいことに挑戦しようという向上心があった。
対局中、名前の携帯にメールが入った。視界にちらちらと入るランプの点滅が目障りで、名前は携帯に手を伸ばした。

「名前、やめとき」
「でも……」
「泣くんがオチやで」

名前は俺の忠告を無視して携帯を開いた。そして顔を歪めて、縮こまって泣き出した。ほら見たことかと、俺は足を崩してすすり泣く声を聞いていた。
差出人不明のメールが頻繁に届いていたのは知っていた。どこから流出したのか知らないがアドレスを変えても届くので、無駄だと思って放っておいたのだ。俺は名前の手から携帯を取り上げ、ディスプレイを見た。そこには隠し撮りされた対局中の名前の癖の写真が映っていた。
集中していると無意識に癖が出る。活躍している棋士にも様々な癖があり、長考中に前後にゆらゆら揺れたり、扇子を開閉させたり、中には「ダンゴムシ」と揶揄されるほど蹲る名人もいる。
俺も完全に無意識だが、顎に手を当てたままうんうんと揺れている。そして名前の癖というのがまた厄介で、名前は集中し始めると、唇で人差し指を食む。昔からなので俺は見慣れていたが、初めてそれを見た同級生はその癖をエロいと言った。そう思うのは個人の勝手なのでやめろとは言えない。だが問題は、そのことを直接名前に伝える人間がいることだった。
名前の携帯画面をスクロールさせて、メールの本文を見る。その下劣な文面に、俺はため息を吐いた。携帯を閉じ、蹲る名前に「いけるか?」と声を掛ける。頷いたものの顔を上げない名前に静かに寄り添う。背中をさすってやろうと思ったが、ただ隣にいるだけにした。すると、名前がぽつりと呟いた。

「顔がかわいいとか、将棋に関係ある……?」
「は?」

突然の言葉に間抜けな声が出た。

「経験あるかって、将棋に関係ある?」
「……あるわけないやん」

俺は言わないでおいた。「女流棋士」とネットで検索すると、サジェストに「かわいい」や「美人」が出ることを。名前も知っているはずだが、お互いに口を噤んだ。

「この前知らないおじさんに彼氏いるのって訊かれたの。いたことないって言ったら、『ほんならこれからも応援するわ』って……」
「…………」
「でもね、みんなわたしとしたいんだって。お金出すからって。わたしが処女だとよろこぶくせに」

俺は何も言えなかった。名前の濡れて煌く目が、真っ直ぐに俺を捉えていたからだ。名前が何を考えているのか、俺に何を望んでいるのか、手に取るようにわかってしまった。

「敏志くん、わたしとしてって言ったら、出来る……?」

どう答えても、おそらく傷付けることに変わりない。それならばと、俺は名前から目を逸らしたまま、本心を吐露した。

「出来る。正直名前で抜いたこともある。俺も所詮そんな奴やで」
「…………」
「せやけど出来るんと実際やるんは別モンや。俺は別にしたないしな」

縁が切れたらそれまでだと思い、全て打ち明けた。名前は顔を赤くして俯き、スカートを握り締めた。その顔に嫌悪はなく、むしろ決心がついたような顔をしたため、俺はこの時すでに先輩からもらって財布に入れたままのコンドームの存在を思い出していた。

「こんなこと頼めるの、敏志くんしかいない」
「そう言うたら俺が折れると思ってるんやったら大間違いやぞ」
「本気で嫌なわけじゃないなら、お願い……」

将棋以外でここまで食い下がる名前を久しぶりに見た。しかし俺もまだ引き下がれずに、なんとか思い留まるよう説得に努める。すると名前は、無理に挑発的な笑みを浮かべ、口を開いた。

「敏志くんがしてくれないなら、お兄ちゃんにお願いする」

一番の悪手だった。お兄ちゃんとは、俺の兄のことだ。内心その言葉に憤りを感じていたが、顔には出すまいと無表情を貫く。名前は判決待ちの被告人みたいな顔で俺を見つめていた。

「わかった。途中でタンマはなしやで」
「わかってる」
「痛い言うてもやめへんし、泣いても知らんからな。あと俺も童貞やし、色々求められても困るで」
「うん……」

不安を滲ませる名前にダメ押しで、財布からコンドームを取り出して見せる。初めて見たそれに名前は動揺して顔を背けたが、この場から立ち去りはしなかった。
心の準備など全く出来ていない。性行為については保健の教科書と又聞きとAVの知識しかない。優しくするというのがどういう行為なのかもわからないまま、俺と名前はベッドに座った。しばらく沈黙した後に、横目で盗み見る。緊張して瞳を潤ませた名前が、俯いて震えながら俺に手を出されるのを待っていた。
居た堪れなさに頬を掻いてから、その手を名前の肩に置いた。おそるおそる顔を上げた名前に、ゆっくりと近付く。不安げなまま目を閉じた名前のまつ毛の震えを眺めたまま、そっと唇を押し付けた。以前から指を食む名前の唇を柔らかそうだとぼんやり思っていたが、想像以上に柔らかく温かい唇の気持ち良さに、じりじりと理性が削られていく。

「敏志くん……」

唇が触れ合ったまま、名前が俺の名を呼んだ。俺の胸に添えられていた冷え切った手を握って、不格好なキスをし続けた。呼吸の仕方がわからず、一度離れて息を吸い込む。苦しそうに肩で息をする名前の濡れた唇が扇情的で、俺の方はすっかり準備が整ってしまっていた。
引かれるかもしれないと思いつつ、再び名前にキスして、舌を捻じ込む。ディープキスのやり方など知らないが、名前の舌や唇を舐めたり、それによって小さく反応するのを、心の底から愛おしいと感じた。
キスから先に進まなくてはと、手始めにベッドに押し倒してみる。行き場のない名前の手のひらに己の手のひらを重ねると、きつく握られたので、出来るだけ優しく握り返した。
押し潰さないよう身体を浮かせながら、名前の吐息ごと飲み込む。頭がぼんやりして、時間の感覚が狂っていた。
はっとして、俺に組み敷かれた名前の顔を至近距離で見つめる。息を荒げ、目を細めて溶けたような表情に頭がぐらぐらした。
身体に触る許可を取ろうとして、やめた。わざわざそんなことをする意味などない。服の上から胸の膨らみに触れる。恥ずかしそうにそっぽを向いた名前はされるがまま、時折吃音的な声を漏らした。手の形に合わせて服が歪んでいく様に、俺の息は上がっていた。
服を脱がせて下着姿にさせる。日に晒されたことのない白い肌には、いくつもの青い血管がうっすらと走っていた。身体は想像していたよりもふっくらとしていて、服の締め付け跡が付いている。そういった一つ一つの生々しさを、汗ばんだ指で辿っていく。
対局に勝てなくなり自分の限界を知った俺は、一人盤面に向かう名前を見て、まだ、もう少し頑張ろうと奮起した。しかしそろそろ終わりだ。俺は自らの手で、十三年間に見切りを付けなければならない。名前は俺がいなくなってもあの世界に残るだろう。八一マスの不自由な空間の中を、たった一人でもがき続ける。
俺の下で羞恥と痛みに震える名前を抱き締める。名前の爪が俺の肩に食い込んで痛んだが、名前の姿を見ていると指摘など出来ず、そのままにしておいた。

「敏志くん」
「ん?」

俺を迎え入れた名前が、大きく息を吐きながら切羽詰まった声色で言う。

「嘘でいいから今だけ好きって言って……」

そう言った名前の形容し難い表情が、俺の都合の良い言葉全てに当て嵌まりそうで、思わず口走りそうになった。だが俺はその言葉を口に出したら嘘ではなくなると思い、代わりにキスをするだけにした。

卒業というよりは中退という言葉に近い行為が終わり、俺たちはしばらく部屋でぼんやりしていた。オレンジ色の西日が差して、暑く、眩しい。
将棋盤は、俺が優勢のまま放置されている。

「思ったより普通だった……」
「悪かったな、下手くそで」
「あっ、違くて。心境の変化とかあるのかなって思ってたから。でも正直言ってあんまりない、かも。わかんない」
「……そおか」

無神経な言葉に俺は少なからず傷付いていたが、それを伝えたところで意味がないため黙っていた。まだ手に柔らかな名前の気配が残っている気がして、その辺に置いてあった携帯を強く掴んで、感触を上書きする。

「まあなんや、今度処女かって訊かれたら、笑って嘘吐いたらええんとちゃう?」
「え……?」
「処女ってことによろこんでる奴らを、心の中でざまぁみろってバカにしたったらええねん」

何故かフォローまでしている自分に呆れる。名前はきょとんとした顔をした後に、膝を抱えた。

「あのね、敏志くん、わたし……」
「水飲むか? 持って来たるわ」
「……ありがとう」

俺は逃げるように部屋を去った。その言葉の先をちゃんと聞いていたら、俺と名前の仲が拗れることはなかったのかもしれないが、この時の俺には勇気も自信も全くなかった。



隠岐は律儀だ。ことあるごとにイコさんに「イケメン」と言われ、その全てに否定の言葉を返す。柔らかい皮一枚隔てたような物言いは、誰も傷付けずに会話を終わらせる。
隠岐が内心何を思っているのかは知らないが、言い慣れているからこそあの態度なのだろう。そこに若干諦めを感じるのは、俺の思い過ごしかもしれない。
隠岐を見て時々名前を思い出すのを、未練と呼ぶには全てが手遅れだった。

中間試験の初日を終え、俺とカゲ、穂刈、鋼は、明日のテスト勉強をするため駅前のファミレスに向かっていた。平日の街中は人通りが少なく、制服姿の俺たちを横目で見る大人の目が生温かい。高校生がこの時期に早帰りするのはテストくらいなので、郷愁に駆られているだろう。
この中で成績が芳しくないのはカゲだが、一番やる気がない。しかし面倒と言いつつこうしてついて来てくるので、赤点を回避出来るくらいには手助けをしている。

「知ってるか? あの噂のことを」
「何のことだ?」

脈絡なく穂刈が口を開いたので、そちらに視線が集まった。あの噂と言われても一体どの噂なのかわからず、鋼は微笑みながら首を傾げる。

「とある女が駅前に出没しているらしい。一週間くらい前からな」
「なんや、オカルトか?」
「あー、なんか聞いたわ。興味ねーから忘れちまったけど」
「それ聞いたうちに入らんやろ」
「俺もその話は聞いたよ。すごい綺麗な女性が最近駅前にいて、誰か待ってるんじゃないかって話だろ?」

鋼の言葉に穂刈は頷いて、「丁度通るからな。確認してみるか」と言った。顔に似合わずミーハーだ。

「美人がそんなとこにおったら変な奴に絡まれるんちゃう?」
「何かあったら警察が飛んで来るぞ。目の前に交番があるからな」
「あー、そういやあるな」

偶然なのか計算なのか、随分と都合が良い場所にいるらしい。そこまで美人に興味はないが、何の目的でそこにいるのかは多少気になる。見掛けたところで判明するわけではないが。
初夏とはいえ日差しが強く、直射日光を浴びると背中に汗が滲む。空気はまだ涼しいので、早く日陰に入りたい。腹も減った。そんなことを考えていると、鋼が「あれじゃないか?」と小声で言った。

「絡まれてんじゃねーか」
「巡回中だな。交番に誰もいない」

穂刈の言う通り巡回中のようで、交番はもぬけの空だった。人助けは専門外だが、仮にも街の平和を守っているのだから、場合によっては助けた方がいいか。そう思って女に目を向けて、俺は「んっ!?」と目を細めた。見間違いか。目頭を掴んで、再び女を見る。

「げっ」
「あ? んだよ水上」
「うわ、最悪や……」

券売機の横で、大学生くらいの男二人が女を挟むようにして声を掛けていた。男たちは今のところ悪い奴らには見えず、女に必死に話し掛けている様子が外からでも伝わってくる。だが女はその男二人を全くいないものとして、澄ました顔で遠くを見ていた。

「あれ、助けた方がいいか?」
「せやなぁ……」
「どうかしたか、水上?」
「いや……」
「おい、あの女こっち見てんぞ」

カゲの言葉に観念して視線を向けると、見事に目が合った。間違いない。

「やっぱ名前やん……」
「知り合いなら行った方がいいんじゃないか?」
「はあ……。ちょっと行ってくるわ」

俺は猫背だが、今の背中は普段以上に丸まっているに違いない。首の後ろを掻きながらだらだら歩いて、名前の元へ向かう。様々な疑問が頭の中を巡ったが、理由はともかく俺に会いに来たのだろう。それくらいしか、この街に近付く理由がない。
距離が縮まり、表情がはっきりしてくる。泥の中を歩いているような感覚がするが、不思議と足は止まらなかった。
来るんやったら連絡せぇ。いつからおんねん。相変わらず勝手やな。つか絡まれてんねやったら逃げろや。
言いたいことが山ほどある。

「名前、悪い。遅なった」

それなのに、俺の口から出た言葉はこれだった。名前との待ち合わせに遅れたことはない。何故なら大抵の場合、俺が迎えに行っていたからだ。
名前に話し掛けていた二人の男は振り返って俺を見た。名前を呼んだことで待ち合わせだと思い込んだらしく、気まずそうにそそくさと散って行く。二人だけになると、今まで何の表情もなかった名前の顔が、むっと膨れた。う、と一瞬怯んでしまう。

「やっと来た」
「やっと来たちゃうわ。こっち来るんやったらせめて連絡せえ」

いつ振りの会話だろうか。名前とは高校が別だったし、俺が大阪を離れる日と名前の仕事が重なったため、見送りには来なかった。そうなると、二年以上になる。
しばらく見ないうちに痩せた名前のワンピースから伸びる手足があまりにも白く、直視出来ない。親から名前が体調を崩したことは知らされていたが、連絡一つしなかった。一人で戦う名前に気休めの言葉を掛けていいのか、わからなかった。

「連絡しようと思ったけど、何て送ったらいいか悩んじゃって。会えたらいいな、くらいに思って待ってたの」
「自分ほんま勝手やな……」
「あそこにいるの友達? もしゃもしゃの子、わたしをすごく睨んでる」

離れた場所で待機しているみんなの方を見ると、名前の言う通り目をすがめたカゲがこっちを見ていた。大方名前の感情が刺さったのだろう。今は表に出さないが、男に対する敵意をこいつはずっと抱えたまま生きている。

「悪い奴ちゃうねん。ただの人見知りみたいなもんや」
「大丈夫。わたし、あの人に好感を持ちました」
「はあ?」
「初対面でわたしのことを嫌いな人は好きです」

にこりと名前がカゲに向かって微笑む。カゲは刺さってくる感情が急変したことに驚いたのか、さっと穂刈の影に隠れた。猫か。

「友達と約束あるなら出直しますが……」
「さっきから何なんその敬語。大した用事ちゃうし、ちょっと待っといて」
「ご挨拶した方がいい?」
「ええからここで大人しくしとき」

名前を手で追い払い、三人の元に一度帰る。俺もまだ混乱しているというのに、何と説明するべきか。頼むから何も訊くな、とオーラを出しておく。

「すまん。用事出来たわ」
「予想外だった。待ち人は水上だったとはな」
「俺たちのことは気にしないでくれ。あ、こんにちは」

鋼の視線の先を追うと、俺のすぐ後ろに名前がいた。どわっ、と大袈裟に跳ねる。名前は俺の背中から顔だけを横に出して、ぺこりと頭を下げた。

「敏志くんがお世話になっております。突然で申し訳ありませんがお借りします」
「好きなだけ借りてくれ。オレたちのことは気にせず」
「どうも」
「んだこいつマジで……」

カゲが小声でそう呟いたため、さり気なく側に寄って声を潜める。

「カゲ、ほんまにすまん」
「……水上、ちょっと来い」

カゲに襟ぐりを掴まれ、街路樹の下まで連行される。名前は初対面の男の中に置き去りにされ、死んだ魚のような目をして何かを喋っていた。鋼と穂刈のためにもさっさと戻ってやりたい。襟を直しながらカゲに謝る。

「あいつ色々あって男苦手やねん。多目に見たってくれ」
「ちげーよ。てめーだ水上」
「は?」
「んで俺にそんな感情向けてんだよ」

困惑の表情で、カゲは俺を見ていた。俺はカゲに指摘されて初めて、自分が何を思っていたのかを理解し、ぎょっとした。自己嫌悪で思わずしゃがみ込む。

「嘘やんほんまに? うわすまん、ちゃうねん」
「無自覚か?」
「なっさけな……」

頭を抱える俺を、カゲは鼻で笑った。カゲは口が堅い方だが、念の為口止めをする。俺は立ち上がったものの、あまりの恥ずかしさに項垂れた。カゲはケケッと愉快そうに笑って、俺に「さっさと行け」と足で促した。
げんなりした様子で帰って来る俺を不審に思った名前が首を傾げる。余計に目を合わせられなくなり、視線を逸らした。

「はあー。名前、行くで」
「うん。じゃあさようなら」

名前は会釈して俺の横に並ぶと、行き先も決めずに歩き出した。少し前をゆったりと歩く姿はあの頃から変わっていない。しかし記憶よりも低い位置にある名前の頭や、合わない歩調に、俺だけが変わってしまったような気がした。
俺と名前は当時将棋のことばかり話していたため、それ以外に何を喋っていたのか思い出せない。この数年で、随分と環境の変化があった。俺も名前も将棋をやめた。俺はボーダーで楽しくやっているものの、今の名前には何もない。

「昼食ったんか? 俺腹減ってんねんけど」
「まだ。この辺公園とかないの? そういう場所で話したいかな」

振り返らず、名前は言った。俺はそれに同意して、ここから少し離れているが、広いグラウンドがあるだけの公園を提案する。名前は頷いて俺の爪先の方向に歩き出した。
下手に踏み込まないよう、当たり障りのない会話を広げる。想像より元気な姿に安堵しつつ、俺はこちらでの生活や、ボーダーのことを順番に話した。名前はそれを楽しそうに聞きながら、「こんなに穏やかな街なのに、戦場なんて嘘みたい」と微笑んだように見えた。確かに近い地域で戦闘が行われているのに、呑気に犬の散歩をしている主婦や、老夫婦を見たらそう思うのも頷ける。
しかし生活の形を残したまま人の気配だけが消えた地区を、名前は知らない。有刺鉄線で囲われているだけで空間そのものが隔てられたわけでもないのに、どこか暗く淀んだ空気の市街地など、生涯知らないままでいい。

「コンビニ入るか。しゃーないから奢ったるわ」
「やったぁ。わたしお手洗い行きたいから、選んでて」

自動ドアをくぐると、名前は真っ先にトイレに向かった。俺はカゴを一つ持ち、迷わずウーロン茶を二本選ぶ。
昼時を少し過ぎたということもあり食品は売り切れが多く、種類が少ない。名前はどうせチョコチップメロンパンだろうと、最後の一つだったそれをカゴに入れてやった。麺類か弁当にするかと悩んでいたところに、名前が何かを手にして戻って来た。

「敏志くん、これも買って」

甘えるような声で見せてきたのは、コンビニのおもちゃコーナーに売っているポケット将棋だった。大体のコンビニにオセロと並んで売られているが、実際に買う人間は見たことがない。

「久しぶりに指したいな、敏志くんと」

挑発的な笑みに、苦味を覚えながら俺の口角も上がっていた。ポケット将棋をカゴに入れ、次にタピオカミルクティーとフルーツサンドを両手に持ってにこにこしている名前に、呆れながらカゴを前に出す。

「遠慮とかないんか?」
「どこかに置いてきちゃったみたい」
「まあ別にええけど……」

俺は弁当を買うのをやめ、おにぎりを数個と水、レジ横の春巻きを二つ買い、コンビニを出た。
太陽を覆っていた雲がちょうど途切れ、強い日差しに目を細める。これからどんどん暑くなっていく予感がする空気と、揺れるワンピースの裾に、ようやく地に足が付いたような心地がした。
少し歩いて公園に入ると、グラウンドでは高齢者の団体がゲートボールをしていた。よく見掛ける光景だが、将来自分もあの集団の一員になるかもしれないと想像し、意外にもしっくりきてしまったことに多少傷心する。しかし人生のどこでゲートボールと出会うのかは謎だ。
俺が将棋と出会ったのは兄の影響だったが、名前はそんな俺に影響されて将棋を始めた。そのせいで余計な視線に晒され、傷付き、それでも一番長く将棋の世界にいた。そもそも俺と出会っていなければ、もっと穏やかな暮らしをしていたかもしれない。
俺も、名前も、将棋という文化に身を置いていなければ、手放す辛さを知らずに済んだ。それでもこの文化があったからこそ、こうしてまた別の場所で息をしている。

「ここにしようか」

名前が指差したのは、広場の中心にある見頃を少し過ぎた藤棚の下のベンチだった。背もたれがない正方形のベンチで、一辺に三人ほど座れる。名前は角に腰掛けると、俺が持っていたビニール袋を物色しようとした。その手を払い、ベンチの真ん中に袋を置く。結露して張り付いたウーロン茶とタピオカ、パンを渡すと、名前は「ありがとう」と笑った。中身を全てベンチの上に広げ、水を一口飲む。ポケット将棋の箱を開けていた名前は水を飲む俺を見て、顔付きを変えた。対局前に水を飲むのは、俺のルーティンだった。折りたたみ式の将棋盤を開き、風が吹いたら飛んでいきそうな小さい駒を取り出す。

「えらいちゃっちい駒やな」
「本当だね。でもコンビニでも買えるんだから、将棋をマイナー競技なんて言ってほしくないよね」

将棋を広めるために浴衣になった女の言葉の重みに、俺は「せやなぁ」と頷いて、マグネットが入っている駒を並べた。これなら風が吹いても問題なさそうだ。
駒を配置し終わり、俺はおにぎりを一つ口に入れた。空腹ではまともに頭が働かない。温かいうちに春巻きも平らげる。

「敏志くん、じゃんけん」

パンに齧り付いている名前が手を出した。この駒では振り駒が出来なさそうだからだろうが、こうしてじゃんけんをするのは初めてだった。まるで初心者だ。名前がじゃんけんに勝ったため、先手になる。名前はメロンパンを袋に戻してベンチに置くと、タピオカのストローを突き刺した。

「初手、タピオカ」
「おまえのルーティンはウーロン茶やろ」

タピオカがぽこぽこと吸い上げられて、名前の口内に入っていく。名前は昔からグミなどの弾力があるものが好きだった。

「ほな、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

タピオカを噛み砕かながら、名前が第一手を指す。ついこの間までツゲで出来た水無瀬駒を好んで使っていた名前が、プラスチックの安物で対局する姿を見る日が来るとは。虚しさと気楽さを感じながら駒を持つ。

食事が終わってからは本腰を入れて対局が始まった。感情を沈め、集中する。名前は涼しい顔をして、自分の得意な形を作り出していく。
途中、公園で将棋を指す学生を珍しがってゲートボールをしていた老人に声を掛けられたり、寄り道していた小学生に茶化されたりした。俺はそれをほとんど無視していたが、名前はそれに丁寧に受け答えしながら俺の相手をした。将棋のイベントに出演したり、指導対局をしていたお陰なのか、よそ行きのコミュニケーション技術が上がっている。そんな風に振る舞えるのなら、俺の同級生にも同じように振る舞えただろう、と内心思ったが、無視しなかったあたり努力はしたのだろう。
俺の悪足掻きの甲斐があり、名前が長考に入った。もう周りの音も聴こえなくなっている。すると、やはり名前の癖が出た。数日前に見た掲示板を思い出し、奥歯を噛む。俺は水のキャップ部分を掴み、名前の手首をペットボトルで軽く小突いた。ぱっと深いところから帰ってきた名前は、自分の癖に気が付くと、困ったように笑った。俺はそれを見なかったことにして、ひたすら将棋盤を凝視していた。

「負けました」
「ありがとうございました」

対局の結果は名前の勝利だった。俺のブランクの問題ではなく、名前の実力なのは明確だった。名前はタイトルこそ取れなかったものの、プロの世界で揉まれていたのだから当然の結果だ。

「勉強不足だね」
「ぐうの音も出んわ」

名前は感想戦までするつもりなのか、駒を配置し直している。その形からどこまで巻き戻したいのかがわかり、俺も駒を並べていく。感想戦は共同作業だ。

「やっぱりここから悪くなったと思う」
「キツいなぁ」

俺と名前の感想戦に配慮は無用で、言いたいことをそのまま伝える。その時の狙いや、相手の心情などを少しずつ紐解き、今後の対局に生かしていく。
感想戦は名前の言う通りで、俺はそれにただ頷いていた。すると名前は盤上を眺めたまま、ぽつりと呟いた。

「わたしたちはいつから悪かったかな?」

俺たちが、いつから悪かったか。今日出会ってからお互いに触れまいとしていたことをようやく口に出されて、俺は誰もいなくなったグラウンドを眺めた。隣で息を飲む気配がしたが、あくまで俺は呑気に言う。

「まあ、俺のせいやろなぁ」
「敏志くんのせいじゃないよ」
「わかりやすく避けたしな」
「わたしも、声掛けられなかったし」

不毛な責任の押し付けあいに、俺たちは口を噤んだ。居心地の悪い沈黙の間、藤の隙間を抜けた木漏れ日が将棋盤の上で揺れていた。

「あのね、わたし、敏志くんが会いに来てくれたら、ずっと言おうと思ってたことがあったの。でも敏志くん、一回も来てくれなかったね。当たり前だけど」

これは誰にも打ち明けていないが、過去一度だけ、名前が出る将棋イベントの会場の前まで行ったことがある。だがそこで結局俺も名前目当ての男の中の一人であることに気付き、会場には入らず踵を返した。そのイベントでは、名前の指導対局が受けられるチケットは即完売、トークショーの他にサイン会や写真撮影が行われたという。

「全部終わったから。だからわたしから来たの。この数年間つらいことがたくさんあったけど、わたしずっと『ざまぁみろ』って思って頑張ったよ。でも、もう頑張るのに疲れちゃった。将棋好きだったけど、仕事にするのは向いてなかったね」
「……後悔してへんか?」
「してない。やめようって決意したらすごく気が楽になって苦しくなくなったから。こんなに楽に生きていいなら、自分のやりたいことやろうって思って」

名前はウーロン茶を一口飲むと、深呼吸した。俺はとうとう名前の口からあの日告げられるはずだった言葉を聞くことになるのかと身構えた。

「敏志くん、あのね……。わたし夏休みにこっちに引っ越して来るから」
「…………は?」
「こっちで働くことにしたの」
「……ちょい待ち、話が見えへんのやけど」

頭をフル回転させて名前の言葉を噛み砕く。名前は女流棋士になった後、母親と東京に戻ったはずだ。わざわざ三門市に越して来て働くということは、つまり。

「まさか、おまえボーダー入るつもりなんか?」
「違うよ。もう誰かと戦ったり目立ちたくないもん」
「ほんなら何すんねん」
「みかん」
「み、みかん……?」
「うん。みかん農家に就職して、今度は自然と戦うつもり」

たこ焼き屋の前で「もちチーズ焼にするつもり」と言うのと同じテンションで言う名前に、頭がくらりとした。名前はいつも俺の想像を軽く超えてくる。

「な、なんでやねん……」
「敏志くん、ツッコミのキレ悪くなった?」
「突拍子のなさに呆れとんねん」
「あ、就職って言っても高校卒業してからだよ。本当は中退して働くつもりだったんだけど、あと半分なんだから高校は出ておいた方がいいって言ってもらえたんだ。だから在学中はアルバイトで雇ってもらうの。敏志くんと同じ学校に通うんだよ」
「あかん。完全置いてきぼりやわ」

名前が自分勝手なのは今に始まったことではないが、ここまで来ると手に負えない。こちらの状況を確認もせず、よくここまで行動に移せるものだ。

「もう手遅れかもしれないけど、わたし、敏志くんにあの時言ってもらえなかった言葉を言ってもらえるように頑張るね」

それはあまりにも柔らかい微笑みだった。こんなに穏やかな表情など記憶の隅の方にしかなかったので、思わず引き寄せたくなった。しかし俺はその手をきつく握り、地面を見つめた。

「もう気張らんでええ。正直悔しいけどずっとおまえのこと好きやった。カゲに嫉妬するくらいや、かなわんわ」
「敏志くん……」
「名前、遅くなってすまんかった」

想いには気が付いていたのに、逃げ続けてここまで来てしまった。だがもうここより遠い場所など近界くらいしかない。そして俺は、当分ここから離れない。
顔を上げると、日が傾いて名前の足元まで光が射し込んでいた。白く輝く輪郭を辿りながら、ワンピースの裾、腕、そして名前の顔を見つめる。名前は俺の告白に緊張の糸を緩めたのか、堰を切ったように泣き出した。
高校が終わるまで、あと半年。これから夏が始まる。
俺は帰宅したら一番にあの雑誌をゴミに出すことを決めて、名前の肩をそっと引き寄せた。


20210929
関西弁をねりさんに監修していただきました。
ありがとうございました!

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