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数週間ぶりに訪れた生家は、どことなく嫌な匂いがした。それが湿気なのか、何かが腐ったものなのかはわからない。薄暗い部屋に、わずかに開いたカーテンの隙間から差し込んだ光の線を追いながら、この部屋は時を止めたりなどしなかったのだ、と名前は思った。名前は風間にスリッパを差し出し、自分は靴下のまま居間を進む。床に積もっていた埃が舞い上がった。カーテンを開け放つと、名前の影を濃くした光の中を埃がゆらゆらと揺れて、それを見ながら風間はスリッパを履いた。

「ちょっと窓開けてきますね、変な匂いする」
「それがいいな」

家の中の窓という窓を開け放つ名前を横目で見ながら、風間は持っていたビニール袋から大量のゴミ袋を取り出した。ぐるりと部屋を見回す。
テーブルの上に無造作に置かれたテレビのリモコンと、木目が鮮やかなティッシュケース、イスの背もたれにはタータンチェックの膝掛けがかけられている。キッチンのカウンターにはピンクと白がまだらになったバラの花束の造花、名前と家族が映った写真が入れられたガラスの写真立て。少し離れた場所にあるテレビ台には、陶器でできたウサギの置物が飾られている。それらの小物を見て、風間は名前がどんな家庭で育ったのかを想像しながら、短く息を吐いた。

名前の両親は、衝突事故を起こして歩道に乗り上げた車に轢かれて亡くなった。信号無視をしてぶつかった側の車は逃走したが、その日の未明に逮捕された。
第一次近界民侵攻時に無事だった家族と家は、日常を取り戻したあと、呆気なく壊れた。名前は一週間半、防衛任務を休んだが、その休暇を葬祭と基地内にもらった部屋への引っ越しに使ったらしく、周りからはもっと休んでもいいと言われたほどだった。
そんな中、名前が風間に実家の片付けを手伝ってほしいと申し出たのは突然のことだった。名前と風間はボーダー内で会えば挨拶を交わすし、戦い方を教えたこともある。しかし一緒に出かけたことはおろか、食事をしたこともない。何故自分を誘ったのかはわからないが、名前の家の事情を理解していた風間は、名前の申し出を二つ返事で了承したのだった。

「後で段ボール届くので、それまではひたすらゴミを捨てていこうと思うんです」
「わかった」
「でもどうしよう、何から手をつけたらいいのかわかりません」

腰に手を当て、途方に暮れた様子の名前は、なんとなく目に入ったテレビのリモコンを袋に放り込んだ。

「家電は捨てずに残しておいたらどうだ。市が買い取ればこのまま住めるだろう」
「そうですね。避難所で暮らしてる誰かの奴に立つならそのまま譲りたいです」
「まずは狭い空間のものから捨てたらいい。俺は冷蔵庫をやる」
「助かります。全部捨てちゃってください」

リモコンを拾いながら、名前はぺこりと頭を下げた。風間は軽く頷いて、冷蔵庫を開ける。昨日までここで生活していたかのような形跡が詰まったままの冷蔵庫だった。作り置きのおかずが入ったタッパーも、使いかけの調味料も、数週間前に期限が切れた牛乳も、躊躇せず捨てていく。
名前は玄関の靴箱の中身を片付け始めた。誰も履くことのなくなった靴と共に、自身の履かなくなった靴も捨てる。本当に必要なものはあらかたボーダー内の自室に運び込まれているので、この家の中には名前の生活に必要なものはもうないのだった。

「不謹慎なこと言ってもいいですか?」
「なんだ?」
「この家が近界民に壊されてたら、こんなことしなくてよかったんですかね?」

ガサガサとビニール袋の音に掻き消されながら、名前がぽつりと呟いた。第一次近界民侵攻時に被害を受けた地域や、警戒区域にある家は生活の形を保ったまま放棄されているが、名前の家は通常の住宅街にあるマンションで、このまま契約をし続けている理由もない。むしろ、手放すことで今も避難所で暮らしている誰かがこの部屋を借りることができる。風間は冷凍庫の氷をシンクに捨てながら、「どうするか自分で選べただけマシだろう」と答えた。それに名前は納得した様子で、「そうですね」と笑った。
その後も風間は勝手に捨てても差し障りのない範囲を片付け、名前はあらゆるものの引き出しの中身を片付けた。アルバムや写真などは後から来る段ボールにつめる予定で、その他にも持って帰る予定のものは邪魔にならないよう名前の自室に運び込まれた。

「少し休憩したらどうだ? 冷蔵庫から勝手に拝借した」

風間は名前に冷えたオレンジジュースの缶を差し出す。名前はそれを笑顔で受け取り、ソファーに腰掛けた。風間は居間の椅子に座り、プルタブを開ける。

「片付いている気配が全くしないです」
「ゴミ袋が散らかっているからじゃないか? これを飲んだら一度捨てに行くか」
「運び出すのも大変ですね。本当にありがとうございます、助かります」
「構わない」

風間がテレビのリモコンをつけると、昼のニュース番組が映った。

「あ、嵐山さん」

番組内の特別企画なのか、嵐山がキャスターのインタビューに答えている映像が流れている。嵐山がテレビに出るのは珍しいことではない。そのおかげでボーダーの知名度や好感度も高く、ボーダーに憧れている市民も多い。名前はオレンジジュースを一口飲むと、「なんか」と続けた。

「事故起こした奴、いるじゃないですか」

風間は名前の口から事故の詳細を聞くのは初めてで、気取られないよう名前の顔色を伺う。名前の目はテレビに向けられているが、普段となんら変わりないように見えた。

「遺族がボーダーだって知らなかったんだと思うんですけど、警察に、ボーダーに入って命をかけて戦いますとか、償いますとか言ってたらしいんですよ」
「……そうか」
「確かに命の危険がある仕事ですよ。でもそれで償うってなんなんですかね。だったら私は、自分が起こした何かしらの罪を償うためにボーダーで戦ってるんですかね? 模擬戦にチームで戦略立てて勝ったら嬉しくて、負けたら泣くほど悔しいって思うあの場所はあいつにとって罰なんですか?」

堰を切ったようにどんどん早口になっていく名前の口調。風間は椅子から立ち上がり、名前へと近づく。

「だいたい、信号無視して車にぶつかって、それで人殺してその場から立ち去るような人間がボーダーに入れるわけないじゃないですか」
「名字、その辺にしておけ」

膝をついた風間は、その時初めて傷ついた表情の名前を見た。名前はわなわなと震えた手で、すみません、と言いながら髪を耳にかける。両親が亡くなったにも関わらず、名前が塞ぎ込む様子がなかったのを逆に周りは心配していた。それは決して無感情だったわけではなく、突然突きつけられた現実と、手続きなどの対応に終われて心が追いついていなかったためであった。風間は名前の隣に腰掛け、軽く背中を叩く。

「そういう風に思う連中がいるというのはまだ広報が足りてない証拠だな。嵐山に伝えておくか」
「そんな……」

風間の言葉に落ち着きを取り戻したのか、名前はジュースを一口飲み、俯きながら話を続ける。

「事故られた方の車に乗っていたのは小学生の子どもがいる家族だったんです。お父さんは怪我をして病院に運ばれました。自動車事故の過失割合って難しいみたいで、その人は何も悪いことしてないのに、車が動いてたってことと、自分の車で私の両親を殺してしまったというのもあって、すごく取り乱してたみたいです。私が病院に着いた時には治療が始まっていたので会うことはなかったですが、奥さんと子どもが泣きながら私に謝っていました」
「…………」
「その子、ボーダーのエンブレムが入ったパーカーを着てて。何にも悪くないのにずっと謝ってて、私はそれが何よりもつらかった」
「名字」

ぱた、と名前の膝に涙が落ちる。名前は謝りながら、自身の服の裾で涙を拭った。

「本当はボーダー辞めようかなとも思ったんですけど、その子のこと、守りたいなと思ったので続けることにしました」
「そうか」
「詳しくはわからないんですけど、犯人がその場から逃走したのでその家族の過失もなくなったみたいですし。唐沢さんに弁護士紹介してもらったので、これから忙しくなりそうです」

眉を下げて名前が笑う。風間も少しだけ口角を上げると、名前の頭に手を乗せた。すると名前は驚いた顔をしたまま頬を紅潮させた。

「セクハラだったか?」
「いや、これは違っ……」
「なんだ?」
「違うんです……」

目を逸らしながら言う名前の表情で悟った風間は、違っていたら後で謝ればいいか、と思いながら頭に置いていた手を頬から耳の後ろに滑らせた。びくりと名前の肩が跳ねるが、抵抗する気配がない。重心を傾けて鼻先が触れ合いそうになった瞬間、インターホンが鳴った。ひっ、と名前が声を上げる。見ると、モニターに宅配業者が映っていた。

「あ、段ボール、え……。い、行かなきゃ」
「いい」
「え?」

引き寄せて触れ合う。それは一瞬のことだった。混乱と緊張で頭が真っ白になっている名前を他所に、風間は立ち上がるとインターホンで応対を始める。

「お前のような隊員がいること、同じ組織にいる者として誇りに思う」

ふ、と風間は笑うと、名前を残して玄関へと向かった。残された名前は、ひどく脈打つ耳の後ろを押さえながら、ぐるりと部屋を見回した。来る前よりも散らかっているように見える部屋には、名前ただ一人。それなのに誰かに見られているような気がして居た堪れなくなる。先程までひどく真面目な話をしていた手前、後ろめたさがあった。これでは、両親の死を出しにしているようではないか。

「(いやでも、実際そうなのかもしれない)」

不謹慎、卑怯、したたか、様々な言葉が頭の中をよぎる。否定したい気持ちがあるが、どれも自分のことに当て嵌まるような気がした。両親が亡くなって悲しんでいるのも本当で、犯人にどうしようもない怒りも覚えていて、自分のために市民のために前向きに生きていきたいのも偽りではない。そしてそんな自分を、風間に支えてもらえたら、という淡い期待も確かにあった。それがまさかこんな形になるとは思ってもいなかった。
名前は風間に触れられた耳の後ろに手をやると、早鐘を打つ脈を聞いた。これはどうにも止まりそうにない。だからこそ、今だけは何事からも許されたい、と思うのだった。


2021.2.25

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