×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -


その言葉を発したのは間違いだったのだと、言ってからすぐに気が付いた。三輪の表情が力なく抜けていくのに対し、その身体の輪郭はどんどん強張って、ついには固く動かなくなってしまった。それは熱湯をかけられて縮むプラスチック容器ように歪な形となり、本来中に入っていたものをどんどん吐き出していくようだった。
同じ運命を共にしていたはずの私たちの世界は、その時完全に隔てられて、もう戻らないのだと、瞬時に察知出来た自分が恨めしかった。決して叶うことがないと痛い程知っているのに、時間を戻したいと、何度も強く願った。
去り際に言った三輪の言葉は全く頭に入って来なかったため、未だに何と言われたのかはわからない。短い言葉だった気もするが、確認する勇気など、もうどこにもない。

私の両親は、近界民被害者の会の活動で忙しい。第一次侵攻によって家族を亡くした遺族達によって立ち上げられたその非営利団体は、三門市に強く根付いていて、ボーダーだけではなく国からの後援も受けているようだ。活動内容は様々だが、定期的に講演会の開催や、遺族同士の交流の場が設けられたりしている。時々開催される展示会では、故人の当時の身長を模した等身大パネルに写真やメッセージを飾り、足元にその時履いていた靴などの遺品を置き、彼らが三門市にいたという事実を伝えようとしている。
雨が降りしきる六月、紫陽花から雫が零れ落ちるように、私の姉は胸を貫かれて亡くなった。辺り一面の血溜まりは雨に滲んで、ゆっくりとコンクリートに吸い込まれていったのだろう。
ボーダーに入ってからわかったことだが、姉はトリオン器官を奪われたのだった。遺体と対面するのはとても勇気が必要で、泣き叫び取り乱す母親と、じっと固まる私を置いて、まずは父が身元確認を行った。その遺体は間違いなく姉で、遺体安置所から出てきた父は嗚咽を堪えて泣いており、それが一層母の気を狂わせた。私はどくどくと脈打つ心臓の音を聞きながら、最後に見た姉の姿を思い出そうとしたが、何も出て来なかった。喧嘩をしたわけでも、何かを約束した記憶もない。確かに朝、家にいたはずなのだが。
彼女が何をしていたのかを思い出すため、私自身がどんな行動をしていたのか紐解いていくと、ふと姉がパンを食べている姿が蘇った。そして何故そう言ったのかわからないが、「ココア飲みたい」と言っていた姿を思い出すことが出来た。
すると、途端に喉が締め付けられ、涙がぼたぼたと落ちてきた。上手く吐けない息と、全てが歪む視界で、姉の名前を小さく呼んだ。そして心の中で、殺してやる、殺してやる、殺してやると三回唱えて、その間に何度もそんな自分を恐ろしいと感じて、また「殺してやる」と、今度は声に出して言ってしまったように思う。
姉の姿が灰色の石に変わった頃、私はボーダーに入隊した。そこにはやはり私のように近界民への恨みを滲ませた人も多くいて、その中でも三輪は特に殺気立っていたので、とても目立っていたのをよく覚えている。聞くと彼も姉を亡くしたのだという。それから私は三輪と行動を共にすることが多くなった。同じ境遇の人と傷を舐め合うのは寂しくて、正気を保っていられた。
両親が講演会に私を呼びたいと言い出したのはその頃だったように思う。姉のためにボーダーに入隊した遺族の代表として、何か話してほしいと言ってきたのだ。
初めのうちは二人の気持ちを汲んで協力していたのだが、次第に何かがおかしいことに気が付いた。私に話し掛けているのに、姉のことばかり話している。ボーダーに入ったのはもちろん姉のことがきっかけだが、ボーダーの仲間と切磋琢磨するのはやりがいがあったし、技が上達していくのが嬉しかった。自分が強くなるために試合をするのも、どこか楽しかった。それなのに、いつも姉のために頑張ってえらい、と言う。姉のために近界民を倒してね、とも言う。姉はもういないのに、私の取る行動全て姉のためだと思っているらしかった。それから私は講演会から足が遠退き、ボーダーを言い訳にして一度も行かなくなった。
A級になった三輪に対し、私はB級の下の方をうろうろしていたが、それに対して三輪は何も言ってこなかった。それどころか、たまに戦い方をレクチャーしてくれて、実質私の師匠は三輪になった。時々ふざけて三輪に「師匠」と言うと、彼は「そういうつもりじゃない」と顔をしかめた。なら一体どういうつもりで私に教えてくれるのかと問うと、固く口を閉ざした。元々口数が多い方ではないし、自分の気持ちを表に出さない部分があるので、いちいち気にしてはなかったが、なんとなく三輪の中でも、恋愛感情ではないにしても、私を特別に思ってくれているのではないかと感じることが増えた。そもそも、同じ隊でもないのに一緒にいてくれること自体が特別なことだったのだ。
そして私はあの日、何に浮かれてしまったのか、何気なく口に出してしまった。

「お姉ちゃんが死んじゃってつらいけど、でもそのことがあってボーダーに入って、三輪に会えたのはよかったよ」

両親のことも相まって、永遠に続くと思われていた苦しみから開放される瞬間があった。私はそれに気づいていないふりをして、かさぶたにならないように、ずっと三輪と傷をなぞり合っていた。
でも三輪は、ずっと悲しんで、苦しんで、今も耐え難い怒りに満ちている。あの時私が呟いた恐ろしい言葉を、三輪はまだ新しく吐き出し続けて、己を傷付けながら闇の中を前進している。
最初は同じ気持ちだったはずなのに、私達はいつの間にか随分と遠いところにいた。この言葉が、それを浮き彫りにしただけだった。

あれから三輪とは一言も口を利いていない。クラスも違うので、移動教室の際に時々見かけるが、視界に入れるのが申し訳なくて、すぐに目を伏せてしまう。ボーダー内ではほとんど会うことがなかった。これまでの私達は、きちんと意図して共にいたのだと実感する。
私はおそらく、三輪に惹かれている。あれほど恐ろしく線が細く、鋭く、寒がりな男の子は他に知らない。きっとこれから何があっても、さらさらした黒髪から覗くあの鋭利な瞳を思い出す。

個人ランク戦を終え、ポイントを失った私は一人ベンチに座ってぼんやりしていた。このところほとんど勝てず、じりじりと減っていく数値にため息が出る。
最近入った玉狛支部の新人だという白い髪の男の子は、記録を残してあっという間にB級に上がってきた。私なんかすぐに追い越してしまう。ふいに喉の奥が締まる。

「お、名前じゃん」
「米屋……」

ぐ、と堪えて顔を上げると、紙コップを片手に持った米屋が私の隣に座った。私と三輪が喧嘩をしていると思っている米屋は、こうして会うと必ず話しかけてくれて、近況を聞いてくる。

「まだ喧嘩してんのか?」
「まだ、とかそういうんじゃないよ」
「お前らめんどくせーのな」

飲むか、と紙コップを差し出されたが、首を振って断る。米屋は特に気にする様子もなく、自分でストローを咥えた。米屋のこういう部分には助けられることがあるが、時々劣等感を覚える。彼のこの余裕は、自分の強さを自覚しているからこそなのだろう。そのくせ負けた時には素直に悔しがるものだから、今の私にはあまりにも眩しくて、目を逸らしたくなる。

「なあ、秀次も名前も似たもの同士じゃん。お前が謝りてーと思ってんなら、秀次もそうなんじゃねーの?」
「そんなわけないよ」
「わかんねーじゃん」
「私、三輪のこと裏切ったようなものだから」
「はあ? んなわけねえって!」
「あるから、今こうなんでしょ!」
「……お前、どうした。何かあったか?」

気が付いた時には、米屋からいつもの笑みがすっと消えていた。私の勝手な癇癪なのに、本気で心配させてしまった。情けなさにまた泣き出しそうになって、小さく謝る。

「ごめん、ごめんね。自分があまりにも弱いから嫌になっちゃって。八つ当たりした」
「いーよ別に。名前が怒鳴るの初めて聞いたわ」
「本当に嫌になる……」
「そんなんなるなら、さっさと秀次に告っときゃよかったな」

はた、と自分の動きが止まったのがわかった。予想外の言葉に混乱する。確かに私は三輪に好意を抱いているが、今はそういうことで悩んでいたわけではない。だが、米屋にはそう見えていたのだろうか。
米屋は私や三輪、おそらく奈良坂や古寺も、どのような過去で悩もうとも、ただの仲間、友人として特別な贔屓をせずに接してくれる。米屋は私を復讐のために戦う人間ではなく、普通の恋に悩む人間として、見てくれていたのだった。何か許されたような気がして、張り詰めていたものが緩む。
米屋はいつもの少しにやけたような表情で、またストローに口を付けた。残量の少なさを知らせる音を立てて、米屋は「よっと」と立ち上がる。

「まー俺はお前らがどうなろうがどっちでもいいけど。でも名前といる時の秀次の顔、結構好きなんだよな」
「顔?」
「んじゃな」

ひらりと手を振って、米屋がロビーに向かって歩いて行く。私はすっかり涙が引っ込んでしまって、目に入る景色の消失点を意味もなく、じっと見つめていた。
このままずっとここにいても仕方がないので、ベンチを離れる。少し、寒い所へ行きたい。換装を解いて、ボーダーの屋上へ上がる。
学校のようにフェンスも何もない屋上は、この辺りで一番高い建物のため、ここからではぼんやりと白けた空しか見えない。冷たい風が四方から舞い上がるように吹き、毛流れに逆らった髪が後方から視界を遮った。鼻がつんとして、先端に触れると、きんと冷たくなっていた。思考が冴え渡るような気がして、目を閉じる。
私は三輪と傷付いた心をずっと共有していたかった。そうすれば、その時だけは三輪は私だけのものだった。でもその想いに終わりを見たのは私の方で、本当は、三輪の心を私で満たしてみたかった。それが出来たならば、私の心も満たされたのだ。でもそれはもう叶わない。

「あ……?」

濡れた布を絞り上げたかのように、涙が溢れてきた。それは私が溜め続けていた澱が放出されていくようだった。これが全てなくなった時、本当の意味で私はもう二度と元には戻れない。三輪との唯一の繋がりを少しでも残そうと、空を仰いだが無駄だった。三輪、三輪、三輪と心の中で三度唱えて、その間に明確に彼が好きだと、強く思った。

「いやだ……」

私はずっと楽な方へ逃げていた。本当は、「出会えてよかった」だなんて言葉を伝えたかったのではない。「三輪が好きだ」と言ってみたかった。最後の言葉になるのなら、米屋が言った通りにしておけば、私はここで立ち止まらずに済んだかもしれない。
涙の跡に吹き付ける風が頬を冷やす。どうすることも出来ず、背中を丸めて声を押し殺した。
その時、屋上の扉が静かに開いた。反射で振り返ると、そこには学生服を着て、マフラーをはためかせた三輪が静かに佇んでいた。彼の真っ直ぐな髪は、風によって散らばって、攻撃的に透けていた。その隙間から見える瞳は私を捉え、揺れたように思えた。ゆっくりとした動作で、三輪が駆ける。涙を拭おうとした私の手を、三輪が掴み、引き寄せられた。

「三輪、ごめん。三輪が好き……」

三輪の肩口で独り言のように呟くと、彼の身体が強張った。あの時と同じだ。しかし、どうせ同じ結果になるのなら、小さな傷を化膿させるよりも、血を流すほどの傷を受けて回復したい。

「私、もう三輪と一緒に傷付いてあげられない」
「……名字」
「三輪のことを置いていくみたいで、ごめんね……」

すると、三輪は一歩退き、柔らかいマフラーの先に私の涙を滲ませた。その表情はどこか柔らかく、けれど悲しそうでもあった。
頬や唇に張り付いた髪に、そっと三輪の冷たい指先がかかる。剥がされた髪が、濡れたマフラーと一緒に風になびいた。わずかに俯いた三輪の鼻先が、私のこめかみの近くにある。ぼうぼうと吹く風の中、私にだけ聞こえる声が、「俺が悪かった」と囁いた。手に熱いものが触れる。それはホットココアの缶で、三輪はそれを私に握らせた。
ホットココアは私が好んで飲んでいたものだった。唯一思い出すことが出来た、姉の遺言のようなもの。縛られていたわけではないが、飲んでいるうちに、いつのまにか癖になっていたのを三輪は知っていた。
冷えた手のひらにじんじんと熱が伝わり、片手では持っていられない。両手で包むと、三輪は私から少し離れて、真っ直ぐに視線を刺した。

「俺はお前と慰め合っていたつもりはない。名字に甘えていただけだ。悪かった」
「三輪……」
「俺はお前に置いていかれない」

改めて三輪の顔を見ると、鋭さは残したまま、どこか晴れた表情をしていた。これまでに見たことがない、新たな三輪の姿だった。

「ここは寒い。戻るぞ」

手を取られるが、まだ私には確認しないといけないことがある。歩き出さない私を見て、三輪は戸惑いの色を浮かべたが、何故私が動かないのかを察したようで、ふっと視線を落とした。

「言わせるつもりか?」
「何も言ってくれないなら、私は三輪と帰れない」
「……お前といると、寒さが多少ましになる」
「…………」
「っ、……。名字が、好きだ」

三輪は舌打ちをすると、今度こそ私の手を引いて屋上から連れ出した。温まった私の手には、三輪の手は冷た過ぎて、握り返すと、ほんのりと力が篭ったような気がした。それは二度と繋がらないと思っていた世界が再び交わった合図だった。
ここから、ここからだ。私たちの止まっていた流れは、ここから動き出す。これからも辛いことがたくさん待ち受けていたとしても、今日の日を思えば呼吸が出来る。きっと、そうに違いない。過去と決別は出来ないが、ここまでずっと地続きなのだから、もう進んで行くしか道はない。
歪む視界で見た三輪の後ろ姿は、真っ直ぐにそびえ立っていて、私はそれが幻でないことを祈りながら、燃えるように熱い心をそっと沈ませた。


20210507

back