名前が消えた。いや、消えたという言葉には語弊がある。事実を述べるならば、ここで待っていろと言った場所からいなくなったのだ。確かに迎えに来るのが遅くなったかもしれないが、まさかいなくなるなど思っていなかった。背中の筋に沿って冷たい風が吹く。勘でしかないのだが嫌な予感がした。名前は知らない男に付いていくほど馬鹿ではないがお人好しなところがある。騙されて何処かへ連れていかれたとしてもおかしくはない。手懸かりもないのでしらみ潰しに街を駆け抜けた。波紋は人探しには使えない。これもまた勘でしかないのだが、名前は店に入っているような気がする。誘ったのが男にしろ女にしろ、立ち話など有り得ない。しかも今は昼食時だ。リストランテやバールが軒先を並べるここら一帯はどの時間帯になっても人が減らない。どの店も大体が満席だったり、人気がある店には列も出来ている。この中から名前を見付けるのは至難の技だ。大きなガラス窓がついている店ならば店内を見回せるが、そうでなければ店内に入らなければならない。一体何軒目で見付けることが出来るだろうか。だが俺の心配は一軒目のバールを外からガラス越しに覗いたことにより解消された。名前は窓際の席に座ってパスタを頬張っていた。それだけならまだいい。俺が気に食わないのは名前の対面に座っている男だ。あの図体、嫌というほど見覚えがある。
名前が俺に気付いた。ほっとしたように笑って手を振っているが、俺は手を振り返すことが出来ない。拳を握り締めていないと今にもこのガラスを叩き割ってしまいそうだった。名前が手を振るので背後に俺がいるとわかったのか、憎くてたまらない男が振り返った。
「ジョセフ…!」
俺の声はおそらく届いていない。だが口の動きで名前を呼ばれているとわかったのか、ジョセフは手をひらひらと振ってニンマリと笑った。そのおどけた態度に更に腹が立ち、いてもたってもいられなくなった俺は乱暴にバールの扉を開き、対応しようとするウェイトレスを無視して二人が座る席へと向かった。
「シーザー、」
「名前、お前は少し黙っていろ。俺はこいつと話をする」
「あらぁー、シーザーったらお怒りモードじゃなぁい?」
「黙れ!何故お前が名前といるんだ!」
ジョセフはにやにやしてグラスの半分ほどになったコーラを一気に飲み干した。
「さっきそこで名前ちゃんに会ってよぉ、シーザーがまだ帰ってこないって言うから飯食ってたの。わかる?」
「貴様…!」
「シーザー、勝手にいなくなったのは謝るから、落ち着いて」
やけにおっとりした声で名前が言う。仕方なく空いていた椅子に腰を落とした。
「ごめんねシーザー。でもシーザーなら絶対に見付けてくれると思って」
「名前、勘違いしているようだが俺は名前に対して怒っているわけじゃあない。ジョセフに対して怒っているのだ」
「ちょっとちょっと!なんでだよ!」
「うるさい!」
スパゲッティ・ネーロを食っていたのか唇を黒く染めたジョセフが騒ぐが一喝する。いい加減消えろという目線を送れば、ジョセフは大袈裟に溜め息をついて席を立った。
「ここはシーザーの奢りな!」
「なっ!待て!」
「じゃーな!」
颯爽と店を出ていく。とんでもない奴だ。
「大丈夫?」
「ああ。それより名前が無事でよかった」
「心配かけちゃったみたいだね」
朗らかに笑っているが、俺がどれほど心配したかなんかわかっていないのだろう。だがこんな一面も可愛らしいとさえ思ってしまう。
「それにしてもシーザー、さっきの顔凄かったよ」
「さっきの顔?」
「外にいる時の顔」
名前がくすくすと笑う。名前が言っているのは多分ジョセフを見ていた時の顔だ。カッとなって気にしていなかったが、よりによって名前に見られてしまった。自己嫌悪していると、名前が俺の手に自分の手を重ねた。
「愛されてるねえ、私」
「当たり前だろう」
名前が嬉しそうに微笑む。その笑顔で先程までの怒りや疲れが吹き飛んだ。名前を待たせてまで買ったプレゼントは今は渡さないことにする。今はまだこの笑顔を見ていたい。
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