Ep.01


目覚まし時計のアラームが鳴った。 ぼんやりとする意識の中、もぞもぞと動き出しながら布団から伸ばした手で無機質な物体を触る。 カチという音がしてアラームが鳴り止んだ。カーテンの隙間から日差しが僅かに差し込んでいる。 少しだけ体を起こし反射的に隣に手を伸ばしたが、 誰もいないそこはひんやりとしていて、もちろん温度などなかった。 毎日のようにこの無意味な行動を繰り返している自分に思わず溜め息が出る。 以前は隣に手を伸ばせばいつもそこには温かいぬくもりがあった。 随分と前からそれがない生活が続いていて、 もう慣れてもいいはずなのに未だになれない自分に嫌気が差してしまう。 だるい体をなんとか起こして洗面所に向かい、 冷水で顔を洗えば少しは冷静になれる、少しは気分もすっきりすると思ったが、 濡れた顔をタオルで拭きながら鏡を見れば写った自分の顔色のなんと冴えないことか。 自分の顔色の悪さを知ってますますうんざりしてしまい、頭を掻きまわしていると、 少しハネた髪の毛が指に引っかかった。寝癖か…と気付いた次の瞬間、 彼女と共に迎えたある朝、今日と同じように寝癖を付けた自分に対して 「光子郎、寝癖が付いてるよ、かわいい」 と笑った時の彼女の表情がフラッシュバックした。 思わず「っ」と息をのみ立ち尽くす自分の隣に目をやっても、 あの日と違って彼女の姿はない。 鏡に向き直ると視界に入ってきたのは二つ並んだ歯ブラシだった。 一つを手にとって歯磨き粉のキャップを外し、もう一つが最後に使われたのは一体いつだったかと考える。 数か月前であることは間違いない。 身支度を終えてリビングに戻るといつの間にかかなりの時間が経ってしまっていた。 ぼんやりし過ぎていたらしい。 軽く朝食を食べている時間すらなさそうだ。 慌ててソファに置いてあった鞄を引っ掴み、今日の講義に必要なものを確認していると、 テーブルに置いてあった一枚のプリントに目がとまった。 「これ昨日やってた課題でしょ、忘れてない?」 彼女にそう声を掛けられて、あやうく必死にやった課題を家に置き忘れそうになった日のことを思い出す。 もし今日この場に彼女がいたならば、また忘れてるよと笑われていただろう。 相変わらずそそっかしい自分に苦笑しながらそれを鞄の中にしまった。 今日出席するべき講義は確か2つだけだ。 玄関で靴を足にひっかけながら、午後一で授業は終わるからそのあとはサークルにでも顔を出そうかどうしようかなどと 午後の過ごし方を考えあぐねていると「今日は午前中しか講義が無いから、早めに帰ってくるね」 そう言って彼女より先に自宅を出る自分を見送ってくれた時の彼女の姿が思い浮かんでしまい、頭を抱える羽目になった。 どうやら自分は相当重症らしい。 今朝は起床してからずっと同じ人のことばかり考えてしまっている。 しばらく会えていない年上の彼女のことばかりを。 今もこのまま後ろを振り返ったら部屋の中には彼女がいて、笑顔で「いってらっしゃい」と声を掛けてくれそうな気がして 思わず背を返してみたけれど、もちろんそこに彼女の姿はない。 彼女が自分と同じ学生だったつい数か月前までは、 ごくありふれていて平凡ではあったけれど、とても幸せな日々を一緒に過ごしていたのだ。 それがいつからか変わってしまった。 すべてを無くしたわけではない。一応まだ手の内にはある。それだけが救いだった。 とは言え、皮一枚で繋がっているかのような今のこの脆い関係が壊れるのは時間の問題である気がしていた。 当たり前が当たり前で無くなることはこんなにも虚しいことなのか。 10年以上も前に仲間たちとデジタルワールドを去った時のあの大切なものを失った時の気持ちに似ている。 あの時自分だけでなく彼女もそこにいた。 だからきっとあの時僕が感じた虚無感を当時の彼女も感じたと思う。 仲間みんなが同じ気持ちだったはずだ。 当たり前が当たり前に続くとは限らない。 自分の力でどうにかできることもあれば、必死に追いかけてももう届かなくなってしまったものもある。 いわずもがな最近の僕は悩んでいた、大好きな彼女との関係を。 それは自力で解決できることなのか、もうどうしようもないことなのか、 正直なところ今の自分にはわからなくなってしまっていた。 相手を大切に想うからこそどうしたら良いのか、 どうすべきなのか迷ってしまうのだ。 溜息を一つ落として玄関の鍵を開けると自宅を後にし、気乗りがしないまま大学へ向かう。 今日も願うことはただ一つ「彼女に会いたい」だった。














「おい、聞いてるか?おーい」


背後から誰かに呼ばれている気がする。 しかし振り返ってそれを確認する気力も無い。 最近疲れがたまっているのか基本的にぼんやりしている自覚はあった。 肩こりはひどいし、ドライアイも酷くて目の奥がずしりと重い。 目頭を軽く押さえ小さく唸っていると誰かに肩を叩かれて我に返った。 誰に呼ばれているかはわかっていた。仲の良い先輩だ。


「おい、。さっきから何度も呼んでたんだぞ、無視してたろ」
「え、あ、、、すみません。無視してた訳では…いや、少しぼーっとしてたので無視しました」
「本当に無視してたのかよ」


この野郎とばかりに旋毛をぐりぐり押される。 何かといつも絡んでくるこの先輩は自分よりも一回りほど年上で、いわゆる兄貴肌の面倒見の良い先輩であった。 入社してすぐの頃に起こしたミスの数々を救ってくれたのはこの人だった。 聞けば昔はやんちゃばかりして血だらけになったことがあるような体育会系らしい。 誰に対しても面倒見がよく、上司にもはっきりと意見するような性格で、職場でも頼りにされている存在だった。 おまけに割と顔も良いので女子ウケが良い。 もし独身であれば引く手あまたで職場内でも争奪戦になっていたかもしれない。 だが女子社員には残念なことに彼の左手の薬指にはシルバーのリングが光っている。 休憩時間となれば、やれこの前家族で海に行った時の写真だの、 BBQをしただのといって同僚たちに幸せそうな家族写真を嬉しそうに見せつけている。 純粋にうらやましいな、と思う。 奥さんや子供たちがではない。まあ、彼に心から愛されているだろう奥さんを羨ましく思う気持ちは少なからずある、 それにこんなにも素敵な先輩にここまで愛されているということも羨ましく思える。 だが一番羨ましいと思うのは、先輩が自分は今幸せなのだということを迷うことなく胸を張って他人に言えることだった。 私なんて自分の恋人に、会いたいの一言すら言い出せないというのに。


「あの、先輩」
「何だよ」
「先輩は今…幸せですか?」


いきなり何の話だと先輩は一瞬驚いた顔をしたが、空気を呼んでくれたのか何も聞こうとはせず 「まあ仕事も悪くないし、家に帰れば家族がいるし、幸せだろうな」 そう言って笑った。語尾の「だろうな」が照れ隠しに過ぎないことは明らかだった。 その嬉しそうな笑顔を見れば、誰がどう見てもああこの人は幸せなんだと思ったことだろう。 大好きな恋人に会うことすら出来ない日々に、鬱憤が溜まるばかりの私とは正反対だ。 純粋に羨まし過ぎて思わず妬むような目で先輩を見やってしまった。


「おい、人に聞くだけ聞いておいて何だよその不服そうな顔は」
「えー…私今そんな顔してました?」
「してるしてる、羨ましくて仕方ないって顔」


そう言って笑いながらデコピンを一つ額に喰らわせられる。 いたいです!と叫べばこれでも軽くしてやったんだぞと更に笑われる。 先輩と話しているとこの人は全てに余裕がありそうだなと感じる。これが大人というやつか。 つい数か月前まで学生だった自分にはまだまだ遠い存在だろう。 それにしてもこの人は少しばかりボディタッチが多過ぎやしないだろうか。 他の女子社員に対してより明らかに自分に対してそれが多いということは最近気が付いたことだ。 まあ私が知らないだけで、誰にでもそういうことをしているのかもしれないけれど、 正直先輩の幸せをうらやむ今の私にはいただけなかった。 自然とそれが顔に出ていたらしい。


「あー悪い、嫌だったか」
「嫌ではないですけど、今の私にはつらいです」
「なんだよそれ」
「そんなに構われると好きになってしまいそうです」
「………は?」


何を言っているんだと心底驚いた顔で先輩は目を見開いた。 すみません軽い冗談のつもりで、、、まあ半分本気なんですけど軽口を叩きました などと可愛くない言い訳を返そうして口を開きかける。 しかし私が口を開くより前に、先輩から続けて言葉が返ってきた。


「お前…彼氏いたよな?」
「ええ、一応」
「一応ってなんだよ、っていうかいるなら好きになっちゃうとか冗談でも言ったら駄目なやつだぞ、誠実さに欠ける!」
「妻子持ちな癖くせに奥さん以外の女の子に軽くボディタッチしてくる人に言われたくないです」


悪い悪い、ついなと悪びれる風も無く笑って先輩に言葉をかわされてしまった。 不満げに唇と尖らせていると先輩は何かを察したのか、先程とは打って変わって少しだけ真面目な表情になっていた。


「彼氏と上手くいってないのか?確か前聞いたと思ったけど…相手年下だっけ?」
「…はい、まあ関係が悪いわけではないんですけど最近会えてなくて」
「悩みがありそうって顔だな」
「う…」
「仕事中は無理だが、休憩の時なんかでも良ければ相談なら乗るぞ。お前にとったら俺は人生の先輩でもあるしな」


そう言って肩を優しく叩かれる。 女たらしな男ならばこういった時には頭を撫でるなんていうベタな手を遣ってくるかもしれない。 でもこの先輩はこういう時にはあえて距離を保って必要以上には近付かない。 肩をポンポンと叩く程度の距離感を保つのだ。 無意識だろうがこういう優しさと余裕がこの人のいいところ。ずるい。これが大人だ。 本当に好きになってしまうじゃないか。 先輩の優しさに思わず視界が滲んできて軽く鼻をすすればそれに気付いた先輩が、ここで泣かれては困ると慌て出した。


「ま、待て待て!ここで泣くなって!話ならあとで聞いてやるから、な!?」


先輩は今にも泣き出しそうな私を落ち着けるように数回、再び肩を叩いてから、 近くに常備してある箱ティッシュを取ってくるなり私に押し付けた。 恋人に会えないつらさに今にも泣き出してしまいそうだったのに、 普段は余裕ある姿しか見せない先輩の慌てふためく姿が面白くて少しだけ元気が出た。

(20200910)
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