カラメル・カラメロ白蘭


    部屋のドアをコンコンとノックすれば『どうぞー』と間延びした返事が返ってくる。 ドアを開き『失礼します』と声を掛けてからが部屋の中に足を踏み入れれば、 何か考え事をしていたのかデスクの椅子に腰掛けた状態でぼんやりしている状態の白蘭が目に入った。


    「白蘭さん」


    いつもなら自分が彼の前に姿を現わせば、 その姿を目にするなり楽しげに『やあ、チャン』と声を掛けて来るはずの彼からは何の反応も返って来ない。 不思議に思ったが彼の名を呼べば、ハッと我に返った白蘭が彼女に視線を合わせた。


    「あ、あれ、チャン?いつの間に来てたの?ごめんね、てっきり他の人かと思ったよ」
    「随分とぼんやりされてましたけど…大丈夫ですか?」


    が心配そうに声を掛ければ『ちょっと考え事だよ』と言って白蘭が苦笑する。


    「少しお疲れなんじゃないですか?」
    「うーん、まあ最近急な仕事が入ったり、僕自身が動かなきゃいけない仕事もあったからね」
    「…大変ですね」
    「仕方ないよ、僕はみんなのリーダーだから」


    いつも通りにこりを笑ったはずの白蘭の笑顔に疲れが滲んでいるのは明らかだった。 心なしか無理して気丈にふるまっているようにも見える痛々しい姿にの胸が少しだけ痛んだ。


    「ところで今日はどうしたの?いつもは僕が呼ばないとチャンからここに来てくれることなんてないのに」
    「え、っと」


    デスクに肘を付けて頬杖をついた白蘭が、 物珍しそうにを見つめる。


    「実は入江さんが」
    「正チャン?彼がどうしたの?」
    「最近白蘭さんがお疲れだから、ちょっと様子を見て来て欲しいと言われて」
    「へえ、それで正チャンの言葉通り心配して来てくれたんだ、嬉しいな」
    「入江さんから頼まれたら断れませんから」
    「……正チャンから頼まれたから来ただけってこと?」
    「ま、まあ…」


    嘘でもそこは否定しておくべきだったかもしれないとが気付いたのは、 自分の返事を聞いた彼の纏う空気が一瞬だけ張り詰めたからだった。


    「ふーん、チャンは正チャンのお願いだったら何でも聞いちゃうんだ?」
    「そ、そういうわけでは…!」
    「それはちょっと妬けちゃうなあ」


    自分に投げ掛けられた問いに必死で否定するも彼の機嫌を損ねたらしいことは明らかだった。 笑っているのに笑っていない、彼特有の貼り付けられた笑みが鋭い視線と共に自分に向けられていることに気付いて、 の背中を冷や汗が伝いそうになる。


    「まあとりあえずそれはいいや、ところでそれなに?すごくいい匂いがするね」


    彼にそう声を掛けられて、は自分の手に持ったままだったトレイを慌てて彼に差し出した。 何のために彼の部屋に来たのか、それはこれを彼に届けるためだった。


    「お疲れだと聞いたので、ちょうど休憩されたら良い頃かなと思ってキャラメルラテを入れて来たんです」
    「わあ、それはおいしそうだね、いつも通りマシマロも。それも正チャンに持って行けって言われたの?」
    「いえこれは白蘭さんがお好きなマシマロに合うかと思って私が選んだもので」
    「へえ、じゃあわざわざ僕のことを考えて選んでくれた、って思っていいのかな?」


    先程一度彼の機嫌を損ねたことを思えば、ここでは嘘でもそうだというべきだった。 だが今回に限っては彼のことを考えてしたことに間違いなかったので、 が小さく頷けば嬉しそうに白蘭が微笑む。


    「はい、お口に合うといいのですが」
    「嬉しいな、チャン趣味が良いから絶対合うと思うよ、それにチャンが僕のために用意してくれたものなら何でも美味しいし」
    「…ありがとうございます」


    『さっそくいただいていい?』そう言われてが『どうぞ』と返せば、 キャラメルラテに口を付けた白蘭がその甘さを舌に乗せるなり目元を緩ませた。 どうやらお気に召したらしい。思わずが安堵の表情を浮かべると、満足げな白蘭がカップから口を離す。


    「マシマロは、」
    「?はい」
    チャンが食べさせてくれるんでしょ?」
    「えっ」
    「違うの?」


    さも当たり前のように首を傾げた白蘭にの思考回路が停止した。 慌てて首を横に振るとつまらないと言わんばかりに彼が唇を尖らせる。


    「なんだ、違うの?僕、今疲れてるのになあ」
    「そ、それはそうかもしれないですけど、自分で食べるぐらいの元気はおありでしょう!」
    「うーん、でもチャンが食べさせてくれたらすっごく元気が出るよ」
    「う…」
    「ダメ?」


    彼の喜怒哀楽が激しいのは最初からわかっていたことだが、本当にとんでもない上司だと思う。 突然機嫌が悪くなったかと思えば、何か楽しいことを見付けると急に元気になるし、 先程まで元気が無かったはずなのに、次の拍子には心底楽しそうな表情で笑っていたり。 そんな彼が憎らしい時もあれば、可愛らしく思える時もある。 究極の天の邪鬼な彼を心配する人間など、恐らくと入江ぐらいだろう。 だからこそだけでなく入江も、たまの白蘭のお願いやおねだりには弱かった。 それ自体は仕方がないとはいえ、 問題なのは自分達2人が彼を甘やかしているそのことに、 白蘭本人が気付くのにさほど時間が掛からなかったことである。 彼に気付かれてしまえばもう終わりだった。 彼がそれを狡賢く、上手く利用し始めたのだ。 そして今この瞬間、その狡賢さを彼に発動されたことに気付いたの口から溜息が零れた。


    「…今日だけですよ」


    渋々マシュマロを手に取り白蘭の手前まで持っていけば、 嬉しそうな表情を浮かべる彼と目が合った。 目が合った途端に恥ずかしげに視線を伏せたの表情に今一度目をくれた白蘭は、 彼女が伸ばした手をぐっと掴む。 驚いたが咄嗟に引っ込めようとしてもそれは叶わなかった。


    「ほら、早く」


    強い力で掴まれたままの瞳は白蘭に鋭く射抜かれる。 彼の口元まで届いた彼女の指がマシュマロごとその口の中に入ると、 べろりと舌を這わされていやらしく絡むその感覚にの背筋が震えた。 咄嗟に手を引っ込めようとしても白蘭の強い力がそれを許さない。


    「や、やめ、っ」
    「ん、あまい」
    「っ、そのまましゃべらないで、っ」
    「どうして?」
    「歯が、」
    「歯が、なに?」


    本当にわかっていないのか、それともわかっていてわざと聞いているのか定かではなかったが、 白蘭が言葉を発する度に彼の歯がの指に当たり甘咬みされてしまうのだ。 その上、舌を這わされてしまえばもうその刺激に腕が痺れてしまう。 与えられる甘い刺激とこちらを窺うように見詰めてくる白蘭の視線から逃れるようにが視線を反らすと、 最後にもう一度指の腹を撫で上げた彼の舌が、ようやくその指を開放した。 指を開放しただけで依然として腕は拘束されている。


    「正チャンから頼まれたんでしょ?僕の様子見て来てって」
    「そ、それがなんですか…っ」
    「なんですかって冷たいなあ、ちゃんだってどうして正チャンがちゃんにその役を任せたかわかってるくせに」


    白蘭の言葉通り、彼が言いたいことも彼が今この瞬間、自分に何を求めているかもはわかっていた。 ただ彼の前で大人しくそれを認めてしまっては、 調子に乗った彼に最後まで好き勝手に扱われてしまうこともわかっている。 ボスに元気になってもらいたいと思うのは、正一だけでなく部下の自分とて同じだが、 何でもかんでも『はいわかりました』と了承するわけにはいかなかった。


    「正チャンは優秀だから、僕が元気がないときにチャンが傍にいてくれたら仕事頑張れるって気付いてるんだよね」


    最後の抵抗とばかりに再び腕を引いてみるが、効果が無いことなど一目瞭然だった。 腕を掴まれてしまった時点でもう白蘭から逃れられるわけがないとわかっていた。 正一に申し訳なさそうに『悪いけど白蘭さんの様子を見て来てくれないか』と頼まれた時から 嫌な予感はしていたのだ。 なぜならその時に正一から『すぐには戻って来られないかもしれないけど』と言われていた。 その意味がわからないほど子供ではない。 白蘭が自分を気に入っていることは自覚していたし、 彼とは恋人同士ではないが何度か手を出されている。 勝手に唇を奪われたことなど数知れなかった。 正一はを白蘭の栄養剤のような存在として認識しているのかもしれない。 つまりどういう方法をとるにせよ、『彼の様子を見て来い』というのは、 今すぐボスを元気づけて来いということなのだ。 そしてどういう方法を取るかを選ぶのはではない、ボスである白蘭本人なのである。


    「だから最後までお仕事してくれるよね?」


    部屋を訪れたばかりのときにはぼんやりとして何処か元気が無さそうに見えたはずの白蘭の表情が、 今となってはそれが幻だったかのように思える程に楽しげに歪んでいる。 嫌なら拒否すればいい。全力で腕を振りほどいて逃げれば良い。 そうすればきっと白蘭は自分を逃がしてくれることもはわかっていた。 だがその一方でそれをがしないことを彼は知っているのだ。 が一つ溜息をついて引いていた腕の力を緩めると、白蘭の唇が嬉しそうに弧を描く。 その楽しげな表情を見て、正直もう十分に自分の役割を果たしたのではないかとは思った。 掴んでいただけの腕が自分を引き寄せて距離を縮めたのを感じながら、 重なった白蘭の唇に残っていたマシュマロとキャラメルの甘さに、 は最後の抵抗すらも溶かされてしまうのだった。



    (20201020)



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