手首を掴む力は消して弱くはない。
かと言って強過ぎるほどでもないのだけれど、
今の私の動きを封じるには十分な強さだった。
まさかこうなるなんて考えたこともなくて、
彼が私を追いかけるのだって冗談の一つだと思っていた。
だからこそ今、自分が置かれている状況が理解できなくて、
理解しようとすればするほど頭の中が混乱してぐちゃぐちゃになっていく。
「アレ、ン」
名を呼べば、彼の口元が嬉しそうに歪んだ。
それと共に私の手首を拘束している力が少しだけ弱められる。
それでも相変わらず私を開放する気が無い彼は、
私を壁に押し付けたまま見下ろしている。
何がどうしてこうなったかよく覚えていない。
いつも通り追いかけてくる彼から逃げていた、そこまでしか十分な記憶が無い。
逃げ切った、そう思った瞬間にどこからか伸びてきた腕に捕らえられてしまっていたのだ。
それがアレンのものだと気付くにはそれほど時間はかからなかったけれど。
「もう逃げられないですよ、」
私を見下ろしたままアレンがそう言う。
いつもとは違う少しだけ低い声が、私に焦りを生じさせた。
今までこれほどまでに力尽くで強引な事はしなかった彼だけに、
初めて見るこの表情に私は驚きを隠せなかった。
「なんで、こんなこと」
強張る表情筋を無理やり動かして、アレンに向かって言葉を発する。
彼の顔を直視できず俯いたままそう呟いた。
表情は見えていないのに、それでも彼の表情が変わる気配を感じてしまい、びくりと身動ぎしてしまう。
「なんで?今更でしょう、そんなこと」
次の瞬間、拘束していた手を解放した手が、私の顎に触れた。
ぐいと上に持ち上げられて、見られなかったアレンの顔を見るように強制される。
飛び込んできたそれは今まで見たことが無いような、
切なそうで苦しそうなものだった。
思わずこちらまで切なくなってしまうようなそれを見ていることができず、
再び顔を背けようとするけれど、顎を掴まれている所為で、視線を逸らすことしかできない。
しばしの間、気まずい沈黙がその場を満たした。
その沈黙を破ったのはアレンで私は彼にされるがままだった。
「が好きだからですよ、貴女だって嫌ってほどご存知のはずです」
好きだから好きだから好きだから、その言葉が頭の中を廻り続ける。
そんなのいつもの冗談でしょと口にしそうになったその言葉は、
アレンの真剣な表情のせいで喉の奥に飲み込まれた。
それでも信じられないと震え始めた私の体が、
掴まれた顎を伝ってアレンへとその想いを届ける。
本当にその想いが伝わったのだろうか、
アレンは急に寂しそうに苦笑してから普段の彼の口調で『…すみません』そう呟いた。
途端に涙が滲み始む。
アレンが怖かった、普段と違う彼に恐怖を感じていたのだ。
頬を伝い始めた涙を拭おうとアレンの指が頬に伸びてくる。
その温かさにますます涙が溢れていく。
アレンが嫌いだった訳じゃない。
彼の自分への想いが嫌だった訳じゃない。
それを認めることが照れ臭かったのもあった。
でもそれ以上に、彼の想いを受け止めるのが怖かったのだ。
「ごめんね…アレン」
涙で霞む視界にアレンを映す。
驚いた表情を浮かべるアレンが困ったように笑った。
捕らわれる、動けない。
(逃げ切るつもりだって、本当はなかったんだって言ったらあなたは信じる?)
御題配布元様 /
美しい猫が終焉を告げる、
(20080726)
(20210418)修正