自宅の玄関の鍵をガチャリと回しながら、今日も疲れたなとヤマトは今日の仕事を振り返った。
月末金曜日となれば何かと仕事が立て込んでしまう。
明日から2連休だ。
今日から2日間、恋人が自分の家に泊まることになっていて今日はそれを楽しみに1日を乗り切っていた。
職場を出る時に確認した携帯端末には、先に家に着いたと彼女から連絡が入っており、
これから帰ると返信を送れば、夕飯準備しておくねとすぐにメッセージが返って来た。
久しぶりに食べる愛する彼女の手料理を楽しみに岐路に就いたのだ。
いつもなら帰宅し玄関を開けてもそこには暗闇が広がっていて、
自分の帰りを待っていてくれる人間はいないが、
今日はこの目の前にあるドアを開けば、愛する恋人から『おかえりなさい』と声を掛けて貰えるだろう。
そう考えただけで自然と自分の頬が緩むのをヤマトは感じていた。
その期待を胸にさあ彼女の笑顔に癒されようと玄関のドアを開く。
あれ?とヤマトが拍子抜けしてしまったのは、音を立ててドアを閉め終えても愛する恋人の姿が見えなかったからだ。
「?」
家の中の電気は点いている。
誰かが既にこの家の中にいるのは間違いなかった。
絶賛夕飯を準備中の彼女のことだ、
ちょうど今何か手が離せないことでもあるのかもしれないと思い直す。
気を取り直してヤマトが靴を脱ごうと足元に視線を落とせば、
の靴と何故だかその隣には自分のものではない男物の靴が並んでいる。
一体誰の靴だ、これは。
その靴をじっと見つめたヤマトの脳裏に浮かんだのは、恐らくこの靴の持ち主であろう可能性の高い、
ある人物の姿だった。
「あ、兄さんおかえりなさい」
「……タケル」
ヤマトを出迎えたのは愛する恋人ではなく、彼の予想した通り、彼の弟だった。
『ごめんね、連絡しないで来ちゃったんだけど、ピンポンしたらさんがいたから勝手に入っちゃった』
と申し訳なさそうに眉尻を下げたタケルに、
今夜存分に彼女に癒されようと思っていたヤマトは、
恐らくその願いが叶わないだろうことに気付いて思わず小さく息を吐いた。
「あれ、兄さん今一瞬嫌な顔しなかった?」
「…気のせいだろ」
「えー、そう?」
いくら弟だとは言え、勝手に家に上がり込んだことを申し訳なさそうに侘びていたはずの表情が一変、
不満げな表情を浮かべる自分の弟を軽くかわして、ヤマトは脱いだ靴を片付け始める。
「さんなら今夕飯の準備中だよ」
ヤマトが尋ねるよりも先に彼女の所在を述べたタケルは、
まるで自分の家であるかのように慣れた様子で廊下を歩いていく。
彼の背を少し距離を空けて追いながらリビングへと続くドアを開ければ、
タケルの言った通り、エプロンを付けてシンクに向かっているの姿が見えた。
「あ、おかえりなさいヤマト」
「ただいま」
「ごめんねお迎え行けなくて、ちょっと今、手が離せなかったの」
一週間振りに会う恋人の姿を目にするなり、ヤマトの頬が緩む。
「いや、いいんだ。悪いな、夕飯の準備してもらっちゃって」
「いいのいいの、私の方が先に仕事上がれたんだし、料理もたまにしか出来ないんだから私にやらせて?」
優しく微笑んだの顔を見つめると、ヤマトの方まで笑みが零れてしまう。
いつもはどれだけ仕事を頑張って帰宅しても出迎えてくれる人はいない上に、
真っ暗な部屋に明かりを灯し無人のリビングを目にする度に虚しい気持ちになるのだ。
それなのに家に帰って来れば大好きな恋人がいて、
自分のために夕飯を作ってくれているという今日のこの幸せ溢れる状況に、
ヤマトの胸がじーんと熱くなる。
「…兄さん、顔緩み過ぎ」
「あ、あんまり見ないでくれ」
自分の隣に立っていた弟にすかさず呆れ顔を向けられたが、ヤマトは幸せを隠しきれなかった。
そんな兄の様子を見たタケルはやれやれといった風に力なく笑ったあと、
既にお手製の料理が並べられているダイニングテーブルに腰を落ち着ける。
湯気が立ち、美味しそうな香りが漂う光景に、
兄と同じで一人暮らしをしているタケルは目を輝かせた。
「でもうらやましいなあ、兄さんいつもさんの手料理食べてるんでしょ?」
「いつもじゃないぞ、一緒に住んでるわけじゃないしな」
「でも週一ぐらいでは食べられるんでしょ?」
「忙しい時はしばらく会えない時もあるけど、まあそれぐらいの頻度ではあるな」
「いいなあ、僕もここに住みたいな」
心底うらやましいといった表情を浮かべたタケルに、
最後の料理をテーブルに運んできたが微笑む。
自分の席に腰を下ろした彼女の姿を見ると、すぐにヤマトもタケルの向かいに位置する自分の席に座った。
「あはは、タケルくんも彼女に作ってもらったらいいじゃない」
「うーん、まあ確かにそうなんだけど、今僕フリーなので寂しい身なんですよね」
「あれ?そうなの?前言ってた彼女とは別れちゃったんだ?」
三人揃ったところで箸を手に取り食事が始まっても、はタケルとその話題で持ちきりだった。
本来なら彼女の話し相手になるのは自分だったはずなのに、
その役目を弟に取られてしまったヤマトは、彼等の話を聞きながらも一人虚しく箸を進めるしかなかった。
自分の方を見てもくれない恋人の姿と楽しそうな弟の姿を恨めしい目で見やりながら、
大丈夫、タケルが自分の家に帰るまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、
ヤマトは苦々しい笑みを顔に張り付けたのだった。
食事を済ませ洗い物をしているの背に身を寄せて来たのは、痺れを切らしたヤマトだった。
「…」
「ヤマト、どうしたの?」
「折角今日の仕事、に会えるのを楽しみに頑張って来たのに」
「うん?」
「頑張って終わらせて家に帰って来たのに、もう家に帰って来たはずなのに、全然が足りない…」
食事の間中、弟に恋人を取られてしまっていたヤマトはようやく解放された自分の恋人を抱きしめ、
甘えるようにその肩に顎を乗せた。
「あはは、タケルくん来ちゃったからね、今日はあんまりいちゃいちゃ出来ないね」
「くそ、タケルのやつ…」
ヤマトがを抱きしめたままリビングにいるタケルに恨めしい視線を向ければ、
お笑い番組でも見ているのか、彼は可笑しそうに笑い声を上げていた。
くそ、いつまでいる気だ。兄として実際に弟にそんなことを言えるはずもないヤマトは、
その代わりに心の中で小さく悪態を吐いた。
それからタケルに気付かれていないことを良いことに、の頬に自分のそれを擦り付ける。
相当疲れたのかいつもより随分と甘えたなヤマトに、は思わず苦笑をこぼし肩を竦めた。
ついに我慢が出来なくなったのか、すりすりと頬を寄せていたヤマトが自分に背を向けている彼女の顎を取り、
少しだけ力を入れて彼女を振り向かせる。
熱のこもった瞳で自分をじっと見つめる彼が何を望んでいるか、
にはすぐにわかった。
「…」
「だーめ、タケルくんに見つかっちゃう」
「別にいいだろ」
「良くないよ、恥ずかしいもん」
案の定近付いてきた唇には自分の指先を当てて、押し止める。
一瞬むっとした表情を浮かべたヤマトも、に拒絶されてしまったことですぐに眉尻を下げた。
一度拒まれてしまったとは言え、どうしたら彼女を落とせるかなと、
ヤマトは最初から承知していた。
「どうしても駄目か?」
「だーめ」
「…頼むよ」
「タケルくんが帰ってからじゃ駄目なの…?」
「駄目だ、今したい…今すぐが欲しい」
瞳をじっと見つめて彼女への想いを伝えれば、どんなことでも大抵の場合が折れてくれることをヤマトは知っていた。
先程は自分からのキスを拒んだはずの彼女は、ヤマトの予想通り、
唇を噛んでヤマトの押しに折れるべきがどうしようか悩んでいる。
ここまで来ればもうひと押しだと確信したヤマトが、再び彼女の名を呼ぼうとした時だった。
「ねえねえ、兄さんとさんにお願いがあるんだけど」
突然キッチンを覗き込んできたタケルの言葉に、の体が咄嗟にヤマトから距離を置く。
キス目前のところを見られてしまったことへの羞恥にが頬を染めて俯くと、
『あはは、ごめん、お邪魔しちゃったね』とあまり悪びれた風もないタケルが笑った。
愛する彼女との時間をまた弟に邪魔されてしまったというこの現実に、ヤマトは小さく息を吐いてからタケルに視線を送る。
「はあ…お願いって何だよ、タケル」
「あのね、」
捨てられた子犬のような目で自分とを見つめるタケルの瞳に、ヤマトは嫌な予感がした。
食後の休憩も済み、しばらく時間が経っている。
まだ終電までには時間があるとはいえ、顔を見せ、
飯を食べに来ただけならもう帰るだろうはずの時間になってもタケルが帰る様子はない。
つまりは。
「今日ここに泊ってもいい?」
恐れていた通りの言葉がタケルの口から発せられて、
ぴしりという音が聞こえるほど、の横に立つヤマトが固まった。
「さん、だめ?」
「だ、だめじゃないけど…」
「やっぱりお邪魔、だよね?」
縋るような目で懇願されれば、にタケルを拒む手段など無かった。
助けを求めるように彼女が隣に立つヤマトを見やれば、彼は少し黙り込んだ後、諦めたように返事を返す。
可愛い弟の頼みなど彼は断る術を持たなかった。
この時ばかりはいつも可愛くて仕方ない弟が悪魔に見えてしまったとしても。
「……ソファでも良いなら」
やったあと嬉しそうに笑い『ありがとう兄さん、さんも』とだけ言いまたリビング戻っていったタケルとは反対に、
彼の姿が見えなくなるなりヤマトはがっくりと肩を落とした。
弟が帰れば存分に愛する彼女との時間を満喫できると思っていたし、そう信じて疑わなかったのだ。
まさか弟がここに泊まるなどどうして予想ができようか。
『たまになんだし、まあいいじゃない』と苦笑いを浮かべるの肩に額を押しつけて、
弟に憩いの時間を奪われてしまったヤマトはがっくりとうなだれた。
結局タケルが一泊どころか二泊していった揚句、日曜の夕方まで帰らなかったので、
その間ずっとヤマトがげっそりしていたのは言うまでもない。
絶望にとろける舌根
お題配布元様:
誰花
(20201022)