※夢主出てきません。ヤマトと夢主は同じマンション(別階)に住んでいます。
玄関のドアを開ければ眩しい程の青空が視界を埋めた。
秋晴れの気持ちの良い朝だった。
ヤマトは玄関の鍵を閉め、マンションの廊下を歩きながら、エレベーターへと足を進める。
下がるボタンを押してエレベーターの到着までしばらくその場に留まっていると、
どこからかチュンチュンと小鳥の鳴き声が聞こえて来る。
少しばかり肌寒い季節だが、澄んだ空気と小鳥のさえずりがヤマトの心に穏やかさをもたらした。
思わず目を細めその心地良さに浸っていると、ようやくエレベーターが到着する。
開いたドアに乗り込むと、自分が住むこの階よりも上から下りてきたそれには既に人影があった。
「おはよう、兄さん」
「ああ、おはようタケル」
馴染みのある声にヤマトが朝の挨拶を返す。
さも当たり前のようにそれは行なわれたが、数秒経ってからヤマトははっと我に返り、
自分の背後でエレベータの壁に寄り掛かっているタケルの姿に驚きの声を上げた。
「は???!!!タケル?!」
「なに?…どうしたの兄さん、そんなにびっくりして」
「お前なんでこんなところにいるんだよ!」
驚きのあまりエレベーターのドアに貼りつかんばかりに飛び退いた自分の兄の様子とは対照的に、
タケルは平然と答える。
「なんでって…昨日さんちに泊まったから」
「はあ???!!!」
自分達2人だけしかエレベーターに乗っていないことが幸いである。
朝から大声を上げて騒ぐ自分の兄にタケルは頭を抱えた。
「兄さん朝から煩いよ…こんな狭い空間で騒がれると頭がガンガンするから少し静かにしてくれない?」
「あ、ああ、そうだな…悪い…少しばかり取り乱してな…!」
ヤマトが胸を落ち着けている間にエレベーターが一階へ到着した。
開いたドアから先にヤマトが下りるとその後ろにタケルが続く。
足取り重く歩を進める自分の兄の背を見つめて、タケルは少しばかり眉を寄せた。
「さんとは恋人同士なんだから、別に部屋に泊まったって普通のことでしょ?どうしてそんなに驚くの?」
「そ、それはそうだが、だからって朝帰りって…!」
「兄さん…僕ももう大学生だよ?いつまでも子供じゃないんだからさんと朝まで一緒に過ごしたり、そういうことだってするよ」
「そ、そういうことってつまり…!」
「……最後まで言わせたいの?」
野暮だと言いたげにうんざりした表情を浮かべた自分の弟に、
ヤマトは焦って『そ、そういうわけじゃない!』と反論する。
いくつになっても弟は弟なのである。
ヤマトとて、つい自分の弟であるタケルの私生活に、兄としての立場以上に口出ししてしまっている自覚はあった。
周りからもそんなことではタケルに嫌われるぞと注意されることもあった。
そうはいっても可愛い弟の世話を焼きたい気持ちは、
昔から弟であるタケルを溺愛しているヤマトにとっては、どうにも我慢できるものではなかったのだ。
とはいえ恋愛事情となれば、さすがにプライベートな内容である。
必要最低減のお小言だけにとどめておこうとそう決めた、ヤマトも口を開いているつもりだった。
それすらタケルに取っては余計なお世話なのだが、
ヤマトにしてみればそれは兄としての務めであり、至極当然のことだと思ってしまうのである。
「おっ、お前ちゃんと避妊はするんだぞ…!」
「はいはい、わかってる、っていうか当たり前だし」
「ちゃんとわかってるならいいんだ…それなら安心した…」
「それは良いけどそういう話こんなマンションのエントランスの前でする?普通」
相変わらず呆れた表情を浮かべたタケルは、もう付き合いきれないとばかりについに兄の背を追い越して歩き出した。
タケルはこれから大学へ行く。
ヤマトは仕事へ向かう。
それぞれがエントランスの前で左右に分かれることになる。
それにも関わらずタケルは自分の兄に別れの言葉すら告げずに、ヤマトが進む方向とは逆へ歩き出してしまった。
弟の背を見送りながら『挨拶も無しって…まさか怒らせたか…?』と、ヤマトは弟のその冷やかな背に少しばかり唇を噛み締める。
「タケル!恋愛も良いけど勉強もちゃんとやるんだぞ!!!」
背後から掛けられるその叫びに、タケルは振り向きもせず溜息を吐いた。
明らかに学生なら学生らしく、恋愛よりも勉学に勤しめと言いたげな兄の声にタケルはやれやれと首を振る。
学生にとって勉学が大切であることは百も承知だが、彼にとっては恋人と過ごす時間も同じぐらい大切なものだ。
なぜならその相手は、長年片思いしていた憧れの相手だったからだ。
大学で出会ったなどという、ごく最近の付き合いしかない女性とはまるで違う存在なのだ。
それにタケルにとって、自分の兄が思うほど、恋人と過ごす時間は満足に取れていないのが現状だった。
自分は学生だが相手は社会人である。
学生のタケルには自由な時間はたくさんあるが、相手は仕事が中心の生活で、
彼女の日々の空き時間に自分が足繁く彼女の家に通う程度にしか、共に過ごす時間は取れていなかった。
その事実さえ知りもしないと言うのに、自分達の関係に首を突っ込もうとする兄の存在は、タケルにとっては邪魔以外の何物でもなかった。
なんなら自分の恋人は、兄とて幼い頃から良く知っている人物で、ましてや友人で、
人柄も素行も良いとなれば何を心配することがあるのだ。
兄の口出しさえなければ自分達の関係はすこぶる良好と言えよう。
共に一夜を過ごし、彼女の家からは少し距離のある自分の大学へ向かう為、
彼女が仕事に向かうより先にタケルは家を出た。
いってらっしゃい、いつも来てくれてありがとね、と見送ってくれる大好きな彼女の唇にキスを落として、
名残惜しげに部屋を出たが、そのやりとりさえタケルにとっては幸せの種に過ぎない。
おかげで今日の講義も頑張れるだろうと思った矢先、
偶然にも彼女と同じマンションに住む兄に出くわしてしまった。
兄とは仲が良いとは思うが、もう良い大人になってしまえばそこまで頻繁に顔を合わせようとは思わない。
会いたいと言われれば部屋に顔は出すし、偶然遭遇すれば話はするが、
特段用事が無ければ自分から彼の部屋を訪れようとは思わなかった。
冷たいと言われればそれまでだが、自分がそうであるように兄にも兄の生活がある。
自分の存在が邪魔になってはいけないとタケルは思っていた。
だがその一方でヤマトはタケルとは考えが違うようだった。
タケルの私生活に悉く口出ししてくるのである。
正直タケルはうんざりしていた。
これ以上考えるとつい先程まで恋人と過ごしていた時間が与えてくれた幸せが全て消え去ってしまいそうで、
タケルは自分の兄の存在を脳内から抹消することにし、
恋人と過ごした幸せな時間の記憶だけを思い出しながら大学へと向かうことにした。
のだが、今朝兄に出くわしてしまったことはやはり最悪の事態を招いてしまったらしい。
大学に着き講義が行われる部屋に腰を落ち着けたところで、
開いた携帯端末に大好きな恋人からのメールが表示される。
どんな内容だろうかとタケルが胸を躍らせたのも束の間、簡潔に要点だけを述べた短いその文章を読むなり、彼は頭を抱えてしまった。
そして泣きそうなほどに沈んでしまった気持ちを振り払う気力すら無くしたまま、机の上に置いていた自分の鞄の上に突っ伏したのだった。
その日の夜。仕事から帰宅しシャワーを浴びたヤマトが缶ビールのタブを開けていると、一件のメールが届いた。
差し出し人は自分の弟である。
今朝挨拶もせずに自分に背を向けたことを侘びる内容だろうか、と弟馬鹿のヤマトがうきうきしたのも束の間、
彼の気持ちはどん底に突き落とされることになった。
”兄さん、今朝さんに何言ったの?しばらく家に来ないでって言われた上に、
電話しても全然繋がらないし、メールにも返事が無いんだけど…どうしてくれるの?責任取ってよね"
今朝タケルと別れたあと、ヤマトは弟の恋人に電話を掛けていた。
弟の恋人は、ヤマトにとっては小学生からの親しい友人であり、当然連絡先も知っていた。
今更余計なお世話かもしれないとは思ったが、彼女の友人として、タケルの兄として、どうしても弟より年上であるに一言伝えたいことがあったのだ。
自分の弟との関係について彼女を責めたわけでも、厳しいことを言ったつもりもヤマトにはなかったが、
『タケルの将来のこともちゃんと考えて欲しい』という言葉は、
彼女にしてみれば堪えるものがあったのかもしれない。
まさか自分の言葉が原因で、弟の彼女であるがしばらくタケルと距離を置こうとするとは、さすがのヤマトとて予期していなかったのだ。
予想外の展開になってしまったことを焦り出してももう遅かった。
"兄さんとはもう話したくないし、顔も見たくないから2度と連絡しないでよね"
愛する弟に絶縁を切り出されてしまい、ヤマトが謝ろうと半泣き状態でタケルに鬼電しまくったことは、
こうしてヤマトの黒歴史になってしまったのだった。
これが不義なら何を恋と呼ぶ
御題配布元様 :
ユリ柩
(20210102)