「いた、い」
握り締められた手首の痛みにの顔が歪み、拒絶の言葉が吐かれる。
だからと言ってやめるつもりはなかったけれど、
それでも泣きそうなその表情に胸が痛んで一瞬腕の力が緩んでしまった。
我に返ってもう一度強く握り返すと、彼女が息をのむ声が聞こえた。
「何で逃げんの」
背を向けているに向かって責めるように言う。
もちろん彼女は何も答えないし、背を向けたままで俺を見ようとさえしない。
ただ一つはっきりわかったことは、握った手首から伝わる震えだった。
そんなに俺が怖いのか、そう思って手を離しそうになったけれど、
そうしてしまったらきっとはそのまま逃げてしまうから。
だからどんなに自分の中の罪悪感が強くなったとしても、
この手を放す訳にはいかなかった。
「そんなに嫌だった?俺に好かれんのが」
本当に突然だった。俺にとっても予想外のことでこの先もまだ言うつもりもなくて、
いつかは伝えたいと思いつつも、ずっと言えないかもしれないと思っていたこと。
が好きだということ。
彼女のことが昔からずっと好きだった。
その想いが本人と話していたある瞬間、
急に大きくなって止まらなくなって、気付いたときには好きだと口にしてしまっていた。
その後の彼女の反応は、これまた俺の予想外で何も言わずにその場から逃げ出してしまったのである。
そして今に至る。逃げるの腕をこうして捕まえたのだ。
「ねえ、そんくらい答えてよ」
そこでようやく何かを口にしようと少し顔を後ろに向けたの横顔が見えた。
手の震えはもう感じなかったけれど、泣きそうな表情は依然として見受けられた。
「いやじゃない、よ」
恐る恐る絞り出したような言葉に少なからず安堵する。
嫌ではない、もうそれだけでも十分な言葉だった。
でも知りたいのは、の俺に対する気持ちだった。
この気持ちに応えてくれたら…それが一番の希望だけれど、
でもこの様子だとその可能性は低いのかもしれない。
「じゃあ―――」
「でも憲男の気持ちには応えられないの!」
俺のことどう思ってる?そう続けようとした言葉は、によって遮られた。
応えられない、はっきりと突きつけられた返答に俺は衝撃を受けて何も言えずにいた。
それってどういうことだよ、そう言いたかった言葉は、唇の震えのせいで出来ず終いだった。
それでも自分が聞かずともがそれを続けて口にした。
「憲男のことは好きだよ、でもね、そういう風には見られないの。だから――」
「だから応えられないって?」
今度は俺がの言葉を途中で遮った。
それを自分で彼女に尋ねるのと、一方的に彼女にそれを告げられるのとでは
受けるショックの大きさがあまりにも違い過ぎる。だからこそ自分で言う方を選んだのだ。
自身にはそれを言われたくなかった。
「そんなの言い訳っしょ、今までそう思わなかったからってこれからもそうとは限らないんじゃねーの」
「違う、そうじゃない。昔は私も憲男のことが好きだった。でも今はもう無理なの」
「今は?今はって何だよ、そんなこと言われても俺だってそんな急に綺麗さっぱりのこと諦められないんだけど」
一瞬頬を染めたの表情を俺は見逃さなかった。
表情だけ見ればまだ可能性はあると思えたかもしれないけれど、
俺の言葉を聞いたは再び逃げ出そうと腕を捩り始めた。
「ごめん、でも本当に無理なの、お願いだから放し―――」
お願いお願いって、俺のお願いは聞いてくれないくせに自分ばっかり。
どうしても俺から逃げようとするの様子に思わず悔しさが込み上げて、
彼女の言葉が言い終わらない内にの腕を思い切り引いた。
彼女を抱き締める形になって、一瞬静止したがすぐに腕の中で暴れ出す。
「放したくない」
腕の中でもがいているはやめてと呟いた。
やめるわけがないじゃないか。
届かないからと言ってすぐに諦められるほど、すぐに彼女から離れられるほど自分の気持ちは軽くない。
だから彼女と離れるぐらいなら、憎まれてもいいから傍にいて欲しい。
ずっと一緒にいたんだ。逃がすつもりなんて、最初からないんだから。
彼女に拒絶されたショックのあまり我を失っていた俺には、
『今更もう遅いよ…』と静かに涙を零したの言葉は届かなかった。
届かないならいっそ憎んで、
(俺の気持ちを知らなかった君が、俺を諦めて既に他の男の手を取っていただなんて、その時の俺は知らなかったんだ)
御題配布元様:
玉響
(20090728)
(20210220)修正