遠くで鳥の囀りが聞こえる。 ぼんやりとした意識の中、うっすらと目を開けると白い海に溺れていた。 昨晩閉めてあったはずのカーテンは開かれていて、レースの合間から眩しい日差しが差し込んでいる。 意識をはっきりさせようと、数度ゆっくりと瞬きを繰り返してからは軽く身を起こした。

確か今日は担当の仕事があってまだ日の昇りきらないうちに出発しなければならなかった気がするが、 体が重いせいで思考回路までもがおぼろげである。 一体今は何時なのだろう。

せめてそれだけは確認せねばとベッドサイドテーブルにある置時計に手を伸ばしたとき、 の体に鈍痛が駆け巡った。


「い"っ…!」


あまりの腰の痛みに再びベッドに沈み込む。額をシーツに埋めるほど屈み込んだあと、ゆっくりと顔を上げる。 何故こんなにも腰が痛いのだろうかと考えをめぐらせれば、少しずつ昨晩の記憶がの脳裏に蘇ってくる。 彼女の頭を占拠するのは自分の恋人のことだった。 昨晩、翌日の仕事に備えて早めに休もうと就寝の支度をしていたところで恋人である骸が彼女の部屋に入って来たのだ。 仕事帰りらしい彼はがベッドに入ろうとしているまさにその時に登場した。 彼と言葉を交わしながらベッドに潜り込めば同じように骸も身を滑り込ませてくる。 ピッタリと寄せられた体に、は彼が自分に何を求めているかを察した。 恋人である彼を全力で拒むことなど無いが明日の仕事のことを考えればあまり夜更かしはしていられない。 何より彼の気が済むまでそれに付き合っていては、明日の仕事に支障が出ることはわかりきっている。 一度だけだと折れて身を任せてしまったのがいけなかった。 正直何度達したか分からないほど長くて熱い夜だったことだけは確かだった。 思い出せば思い出すほど熱い夜の記憶だけがの頭と心を埋め尽くしていく。 その度に自分の顔が熱くなってしまい、は大きなため息を吐いた。 とはいえ昨夜のことがどうであろうとも、完全に彼女は寝坊、仕事に遅刻である。 それに夜更かしのし過ぎで翌日に寝坊して許されるほど若くもない。職務怠慢も良いところだった。 事の重大さに青褪めながらもせめて謝罪だけでもしようと、は痛む体を奮い起して体を伸ばし、 部屋の内線から自分のボスに電話を掛けた。


「はい」
「…綱吉、私です」
「あ、?起きたの?大丈夫?」


呼び出し音がいくらも鳴らない内に取られた受話器に恐る恐る名乗り出れば、 拍子抜けするほどいつも通りの声が自分のボスから返って来ては目を瞬かせた。 てっきり寝坊した件を怒られるとばかり思っていたのに、掛けられた声は自分を気遣うもので彼女は思わず首を傾げた。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい、今日の仕事完全にすっぽかして寝坊しました」
「すっぽかし?何言ってるの、体調悪いんでしょ?」
「え?あ、まあ確かに骸さんのせいで体調は優れないんだけど…」
「骸のせい?何の話?」


受話器越しに骸の名前を出した途端、訝しむ様な声が返って来ては慌てて話を反らした。


「ま、まあ骸さんの事は置いておいて確かに体調は悪いんだけど、体調管理が出来てないのは自分の責任で、寝坊しておいて今更だけど今日の仕事どうしよう…まずいよね、本当にごめんなさい」
「ああ、それなら大丈夫、その骸がの代わりに行ってくれてるから」
「…はい?」
「骸から聞いてないの?昨日の夜、仕事から帰って来た骸がそのまま俺の部屋に来たんだよ」
「そ、そうなの?」
「うん、まあ昨日の仕事の報告もあったんだけど、の部屋に顔出したら体調が悪そうだったから、今日のの仕事を自分が代わりたいって言い出して」
「は、はあ」
「だから今日のは非番になってて別に寝坊もすっぽかしも何もないんだけど…骸に何も言われなかったの?」
「…言われてない」


怪訝そうな色を滲ませた声で綱吉にそう言われたところでやっとが事の次第に気が付いた。 骸は最初からこうするつもりだったのだ。 綱吉の言う、骸が彼の部屋に顔を出したのは恐らくの部屋に訪れる以前の話だ。 恐らく骸が彼女の体調について綱吉に言ったことは嘘で、すべて昨晩のことのための口実に過ぎなかったのだ。 仕事帰りで血の気が立っていたのか何なのかはしらないが、 最初からを思う存分抱き潰すつもりで、昨晩彼女の部屋を訪れたに違いない。 は彼に一度だけだと体を許したが、骸にしてみれば最初からそれで済ますつもりなどなかったのだ。 完全に全てが骸の思うツボ、彼のペースに乗せられてしまった自分が恥ずかしい、誰かに泣き付きたい、 は心からそう思って泣きたくなった。 恥ずかしいのは山々だし、骸に無理をさせられたせいで体の節々が痛いのは事実だが、 彼によって強制非番にさせられたとはいえ一日中ベッドに潜り込んでいるつもりもない。 せめてシャワーを浴びてブランチをいただきながら、 自分を好き勝手扱う骸がいない、平和で貴重な休日の過ごし方を考えようとがベッドから足を踏み出したそのとき、 軋んだ股関節の鈍痛で思わず足首を捻り、彼女はそのまま床へとダイブすることになってしまった。


「う、わっ!!!」


鈍い音との叫び声が受話器越しに聞こえて、思わず綱吉が目を見開く。


「えっ、ちょっと今凄い音したけど大丈夫?!」
「…落ちた」
「え?」
「……ベッドから落ちた」












「せっかく骸が仕事代わってくれたんだから無理しないでゆっくり寝てればいいのに…具合悪いんだろ?」


痛む体を労わりながらも空腹を満たそうと食堂に足を運んでいたの元へ、 彼女の体調を心配した綱吉が様子を見に来た。 体調が悪いとは言え別に風邪でも何でもなく、ただただ大人の遊びを致し過ぎて体が痛むだけの自分を心から気遣い、 眉根を寄せて『医者が必要なら呼ぼうか?』と提案してくれる彼の優しさには胸を打たれてしまう。 気恥しさと彼への申し訳なさのあまりに思わず涙ぐむ。


「綱吉くん…本当は仕事を代わってくれたなんてそんな可愛いものじゃないんだよ…全部骸さんが仕組んだことなんだよ…私達は彼の操り人形なんだよ…」
「は?ねえ、さっきから骸のせい骸のせいって一体何の話?俺には全然話が見えないんだけど…」
「うっ…うっ…」
「お、おい、泣くほど具合が悪いなら部屋で寝てろって…!体調本当に大丈夫なの?!」


骸が身勝手なのは今に始まったことではない。 口がうまい彼が人を誑し込むのが得意なのは昔からのことである。 彼に出会ったばかりの10代の頃はもまだ純粋で、彼に都合よく動かされることがあっても、だまされていることにすら気付かないことが多かった。 だが彼との付き合い、彼が投獄されている間も含み、知り合ってからの月日が経てば経つほど、 いかにいつも自分が彼の口車に乗せられているかがわかるようになってきた。 とは言えいつもそれに気が付くのは全てことが済んだ後であって、毎度ながら彼の良い様に操られてしまう。 悔しい。悔しいけれどそんな器用で頭の良い彼のことが好きで、が彼の恋人であることは間違いなかった。 ただどうしても、どうやっても何をしても骸に勝てそうにない自分に対して、は時々自己嫌悪に陥るのである。


「もういいから…哀れな私のことは放っておいて…骸さんの馬鹿…うっ…」
「放っておいてって…泣くほど具合悪いのに放っておけるわけないだろ…っていうかだから骸が仕組んだって何のことだよ…」


自己嫌悪のあまりついにはテーブルに突っ伏して落ち込み始めてしまったの様子に、 訳が分からないとばかりに綱吉が溜息をつく。 放っておけと言われても元来優しい彼のことである。 仕事仲間以前に、自分の幼馴染であるの体調が悪い上に、彼女が泣いているとなるとそういうわけにもいかない。 困り切り、さてどうしたものかとふと綱吉がに目を遣ると、緩く羽織ったシャツの襟元が大きく開いていることに気付く。 幸か不幸か、何気なく視界に入った彼女の首筋に真新しそうな鬱血の後が残っていることにまで気が付いてしまい、 思わず彼の顔が朱に染まる。 それからはた、と気が付いた。


「あー…」
「…なに、綱吉?」
「骸のせい骸のせいって言うから何のことかと思ったら、やっとわかった、そういうこと…の体調が悪いってそういうことかよ…」


半べそ状態の顔をがテーブルから上げると、うんざりした様子の綱吉が目を細めて彼女を見詰めていた。


「なにそのものすごい憐みの目!」
「今ようやく今日のの体調が悪い理由と、それに骸がどう関係してるかがわかったから」
「なっ…!」
「骸に好かれる女性は振り回されて苦労が多そうだなとは思ってたけど…やっぱりも苦労してんだな…」
「うっ…!わ、わかってるならボスの綱吉が何とかしてよ!」
「何で俺なんだよ!恋人なんだからお前が自分で何とかしろよ!っていうかお前が骸を甘やかすからあいつに好き放題されるんだろ!今日みたいに!」
「ひ、ひどい…それが出来たらこんなに苦労してない!」


綱吉の言う通りだった。結局のところが骸の好き勝手を許すせいで結果的に彼女自身が振り回されるのだ。 それゆえ自業自得だと言われてしまえばそれまでである。 ただこればかりは惚れた弱みであり、骸自身も物事の後始末はしっかりつけてくれるので、ついもその骸に対して大抵のことは許してしまうのである。 唇を噛み締め反論するの首元は未だに晒されたままだ。 彼女の方に視線をやる度に先程のそれに目が言ってしまう綱吉は、目を反らして再び一つ大きな溜息を吐いた。 本人は全く気付いていなさそうだが、こうも男所帯の場所にいては他人にそれを気付かれた時の彼女が可哀想である。 せめてその存在だけでも教えてやるのが最初にそれに気付いた自分の役目だと、綱吉は重い唇を開いた。


「っていうか何で昨夜のこと知って…!」
「あのな…は気付いてなさそうだから言うけどお前の首に…」


骸のせい骸のせいと散々振っておきながら、 いざ綱吉に事の経緯を気付かれば顔を赤くするに彼がそう言いかけたところで、 突然部屋のドアが開かれ、靴底を鳴らして誰かがその続きを遮った。


「おや、こんなところにいたんですね、探しましたよ」


声がした方にと綱吉が2人揃って視線を送れば、全ての原因の男がいつも通りの飄々とした顔でそこに立っていた。


「む、骸さん!」
「は?!え、骸お前、の代わりに外へ仕事に行ったはずじゃ…まさかもう帰って来たのか!?」
「ええ、彼女の今日の分の仕事はもう僕が済ませてきましたよ。何をそんなに驚いているんです、そういう話になっていたでしょう?」
「それはもちろんわかってるけど!今日丸一日掛かる仕事のはずだろ?!何で半日で片付けてるんだよ!」


心底驚いた様子で声を荒げる綱吉に、 自分を見くびるなと言わんばかりに骸はやれやれと呆れた表情を浮かべた。


「あの程度の仕事、僕が一日も掛けるわけがないでしょう?半日あれば十分ですよ」
「……」
「ちょっと、聞いてるんですか?」
「…さすがだけど俺はやっぱりお前の能力の高さが怖いよ…未だに雲雀さんとお前の強さは本当に怖いよ…」


綱吉が青褪め顔を引き攣らせている間に、呆れた表情のまま骸は足を進め、綱吉より奥の席に座っていたの傍に立った。


、食事はもう終わったんですか?」
「あ、はい、さっき食べ終わったのでそろそろ部屋に戻ろうかと思っていたところで…」
「それなら良いタイミングでしたね、今日は貴方と過ごすために早く仕事を済ませて帰って来たんですよ、貴方は今日一日お休みのはずですし午後は僕に付き合ってくれますよね?」
「えっ!え、っと…」
「いいですよね、ボス?」
「…はあ…もう勝手にしろよ」


これである。先程まで骸に怒っていたはずのは結局何があっても骸に流されるし、 綱吉自身も有無を言わせない流れを骸に作られてしまえばもうお手上げだった。 今回はのみならず彼までも骸の思惑に乗せられてしまったが、 何か問題が起こったわけでもなければ、仕事はきちんとこなしている上にそれが早いとなると 文句の言い様がなかった。 綱吉の許可が下りると、骸はに『ほら、行きますよ』と声を掛け、 まるで執事のように恭しく彼女の椅子を引いた。 立ちあがる際にふらついた彼女の様子を見て『腰の具合は大丈夫ですか?』と骸がに声を掛けると、 顔を真っ赤にした彼女が『…っ!!!心配するなら最初から無理させないでください!』と反論する。 のそんな様子を満足げに見詰める骸の視線は優しかった。 この2人の姿だけを見れば例えがどれだけ骸の横暴さを嘆いたとしても、綱吉にとっては2人は十分仲の良い幸せそうなカップルにしか見えなかった。 自分に背を向けた2人をそのまま見送りかけて、ふと綱吉はあることを思い出す。


「あっ、そういえば…!」


綱吉が声を掛けると彼女が振り向いた。


「なに?綱吉」
「あ、えっと、その、」


彼女の首筋に付けられたキスマークの存在を本人に知らせてあげたかったが、 付けた御当人がいるとなると彼の前では言いづらく、言葉を濁す綱吉をが不思議そうに見詰める。 どうやってそれを彼女に伝えるべきか悩みつつ、綱吉がそっと骸に視線を送ったとき、 肝心の彼は手袋をしたままのその人差し指を静かに動かした。 そしてまるで『そのことは内密に』とでも言わんばかりに意味深げに、彼自身のその指を自分の唇の前に立てたのだ。 それを見た綱吉は呆気に取られたあと、小さく息を吐く。


「…いや、何でもない」


綱吉が首を横に振れば子首を傾げたの横で骸は満足げな表情を浮かべている。 彼等が去り一人残された部屋で綱吉は自分の幼馴染の身を案じ、 そして今回彼女と同じように骸に上手く利用された自分の惨めさに、 今日もう何度目かもわからない大きな溜息をついた。 ただ一つ、骸に振り回されるを気の毒だと思いつつも、 なんだかんだ幸せそうな彼女を見られたことも、 そしてまた彼女への愛ゆえに彼女を振り回している骸の幸せそうな表情も悪くはないと綱吉は思ったのだった。


クラフィティに隠した秘密


(20210218)
お題配布元様:誰花

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