ソファの背に無造作に掛けられた隊服を見付けるなり、は溜息をついた。 『またこんなところに放置して…』それが第一の意見である。 特に頼まれているわけでも任されているわけでもなかったが、 いつの間にか彼の世話を焼くのは自分の役割になっていた。 もともと男ばかりの集団である。 他人の世話を焼きたがる人間など、ほぼいない。 自分がここヴァリアーに来るまではルッスーリアが時々彼の世話を焼いていたようだが、 自分が彼を気に掛けるようになってからは、ルッスーリアは暗黙の了解でそれを私に任せるようになっている。 年上のはずなのに世話が焼ける彼は、にとってまるで我儘な弟のようだった。 ここは談話室だ。 利用する者は一部だとは言えあまりにも荒れていると、他の人間だけでなく、 ここを利用する人間の一人である自分自身も落ち着かない。 それがの意見だった。 だからこそ今日も脱ぎ棄てられたベルの隊服の上着を片付けようと、それを手に取った。 持ち上げた拍子にそれが纏っていた空気が揺れ、香水の匂いがふわりとの鼻腔をくすぐった。 化粧品の匂いも混じったような濃厚な香りに思わず顔を顰める。 これではつい先ほどまで彼が何をしていたかなど明らかだった。 任務なのかプライベートなのかそこまではわからないが、恐らく女性と共に過ごしていたのだろう。 自分はベルの恋人でもなんでもない。ただの同僚で、ただの友人なのに。 彼が自分以外の女性と過ごしたとわかると、何故だかいつも胸が苦しくなってしまうことに、は気付いていた。 その感情に名前を付けることも、その感情を認めることも本当は嫌だった。 自分にとって今まで彼がそうだったように、彼にとっても自分は同僚にしか過ぎないはずだ。 だからこそ認めたくないけれどもう隠し切れない自分のこの不毛な気持ちを、 自分以外の誰かに明かすつもりなどなかった。 これからもずっと彼とは同僚として、良き友人として、長く付き合っていければ良いと思っていた。 ふと沸き上がってしまった感情にが溜息を零し、ふと視線をずらすと、 その肝心の隊服の持ち主はふんぞり返ってソファで眠りに落ちていた。


「…ベル」
「ん…あ、?」


持ち上げたコートを手に取ったままベルの近くまで移動したは、彼に声を掛ける。 眠りが浅かったのか、一度小さく呼び掛けただけで彼は目を覚ましてしまったようだった。 眠たげに目を擦った後、隠そうともせず大きな欠伸を一つ零した。


「また談話室でうたた寝してたの?眠いなら自分の部屋で寝ればいいのに」
「あー、まあそりゃあそうなんだけどさ、誰かいるかなと思って来てみたら誰もいねーから、暇だなと思ってたらいつの間にか寝てた」
「今日は任務で帰って来ない人が多いし、帰ってくる人も日を跨ぐって言ってたけど」
「ちぇっ、なんだよつまんねー」


よほど眠いのか、もうひとつ大きな欠伸を零してからソファに踏ん反り返った体制のまま、 天井に向かってベルは腕を伸ばした。


「これってベルのコートでしょ?そこに置きっぱなしだったよ。忘れていったら明日困るでしょ」
「あー、…さんきゅ」


抱えたままだった彼のコートを本人に渡そうと手を差し出せば、 その拍子にまた例の香水の香りがの鼻腔を刺激した。 ベルの持ち物から女の匂いがすることなど珍しくない。 だからこそ、今日のようにきつい香水の匂いにが顔を歪ませることも初めてでは無かった。 だが普段なら例え気になっても聞こうとも思わなかったはずのことが、 今日に限ってはの頭の中を、あの香水の香りを感じたときからずっと支配している。 今この場には自分とベルしかいないという理由からか、 はたまた今までずっと燻っていたはずの彼女のエンジンに何かが火を点けてしまったのか、 その原因はわからなかったが、 普段なら怖くてベル本人には聞けないはずの言葉が、ついに今日はの口から発せられてしまった。


「…ねえ、ベル」
「なんだよ」
「今日…任務帰りにどこ行ってたの?」


質問し終わってからははっと我に帰ったが、それに気付いた時にはもう遅かった。 聞くべきではないことを、気になっても絶対に聞くまいと思っていたことを、ついにベルに尋ねてしまった。 の胸に一気に後悔が押し寄せる。 聞いたところで自分がどうしたいのかもわからないのに、 その返事に自分がどう返したらいいのかも思いつかないのに、 後先考えずにその疑念が口をついて出てしまったのだ。 だが意外なことに 『ごめん、今の忘れて』と言おうとしたよりも先に口に開いたのはベルだった。


「気になる?」


後悔ばかりが胸を支配してベルの顔が見られないに、彼は挑発とも取れる言葉を投げかける。 彼の顔を見られないは、彼が今どんな顔で自分を見てそう言葉を発したのかもわからなかった。 彼からの問いの答えはもちろんイエスだった。 だがイエスと答えれば、なぜイエスなのかと更に質問が返ってくることは目に見えている。 だからこそにとっては、ここでその問いにイエスと答えるわけにはいかなかった。


「っ……べ、べつに」
「じゃあ何で聞いたんだよ」


ベルの言葉には怪訝そうな含みが込められている。 が落としていた視線を上げれば、ソファに座ったまま自分を見上げていた彼の瞳と自分のそれが絡まった。 普段はほとんど見えることのないベルの瞳は、まるで自分を挑発しているかのような色を湛えていた。 しばし彼と見詰め合ったあと、その圧力に耐えられなくなったの視線がまた逃げ出す。 結局何も言えなくて、ベルが好きだから気になってしまうとも言えるはずがなくて、 が素直に口に出来たのは不快だった、あのことだけだった。


「その香水のにおい、好きじゃない、から」


そう言ってから逃げるように自分に背を向け談話室を後にするの背中を見送ってから、 ベルはひとつ舌打ちをした。 彼女の言う自分の隊服のコートに染みついた香水の匂いは彼自身も好きではなかったが、 彼にとってはそんなことはどうでもよかった。 が気付いていたように、今日は仕事が終わってから女と会っていた。 彼が街で女と会う理由など一つしかない。肉欲を満たすためだけに街に寄った。 どうせ後腐れない関係だ、香水の香り含め相手の好みなど鼻から気にしていないし、 それは向こうとて同じことだろう。 ただお互いに肌を重ねる行為に溺れたかっただけ。 ベルが今夜その相手の女を選んだ理由はただ一つ、密かに想いを寄せるに顔が似ていたから。それだけだった。


「ちっ、つまんねーの」


天を仰いでベルは愚痴を零す。 欲は満たされたはずなのに、返って空っぽになっただけのような気がした。 自分の動向をに気に掛けてもらえたことが、ベルは嬉しかった。 でも逃げたその背中を追いかけたいのに出来なくて、 その背中に追い付いて、今日の女はお前の代わりでしかない、自分が本当に欲しいのはお前だけだと、 素直に伝えればいいだけなのにそれが出来ない。 今まで自分がどれだけ女と遊ぼうがそれを咎めることなどなかったはずの彼女が、 自分に気があるという確信は、 つい先程の彼女の表情からだけでは到底持てなかったからだ。 欲しいものは全て手に入れてきたはずの人生なのに、今回ばかりは力ずくでも奪ってやろうとは思えない。 自分が求めるばかりではなく、相手にも同じように求めて貰えなければ意味が無いのだ。 投げたナイフで彼女の自由を奪うことなどたやすいが、それでは面白くないとベルは思っていた。 に指摘されるまで気にも留めていなかったはずの女の香水の下品な香りが突然鼻につき始めて、 ベルは途端に不愉快な気分になった。 に渡された自分のコートに、色濃くそれが染み着いていることが、ますますベルをやるせない気持ちにさせた。 その香りを振り払うように乱雑にコートを放ってから、 やりきれない虚しさに、ベルはもう一度舌打ちをした。


うらはらに抱く水泡


御題配布元様 : 誰花
(20201022)

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