#7 耽溺


強い風が吹き付ける音、雨が地面に叩きつけられる音、轟々と鳴り響く雷の音。
全て名前の耳へと入ってくるが、頭の中では何事もなかったかの様に消えていく。

暗い武道場の片隅で冷たい床へと座り膝を抱く名前は、無意識に震える自身の身体を抱きしめる。先程の五条とのやり取りが頭の中で何度も繰り返される度に、現実を上手く受け入れられない名前の心が悲鳴を上げる。

両親のことも、五条家のことも、五条悟のことも、今はもう何も考えたくはない。
ずっと心の中では分かっていた。でも、見ないフリをしていた。誰かに言われるまで気付かないで居ようとしていた。だが、それを五条に言われてしまった今、名前は目の前の事実を少しずつ飲み込んでいかなくてはならない。
だけど、それが上手くできない。まるで溺れている人のように息が出来ずに、どんどん苦しくなってしまう。

自分は誰で何のためにここに居るのか、本当の自分はどうしたいのか、そんなの今まで一度だって考えたことがなかった。幼い頃からずっと定められた事をしてきた名前には、それを考える方法がわからない。
このままでは、この世界に1人取り残されてしまう気がして、怖くて堪らなくなる。

それに、と名前は思い出す。
あんな熱を帯びた瞳をした人に触れられる事が、こんなに怖いなんて思いもしなかった。恋人どころか友達すら居たことの無い名前は、あんな風に他人が自分のテリトリーを侵して来ることなんて今まで無かった。未知の恐怖に怯えて体に力が入らず、いつでも払い除けられる程の力で拘束されているにも関わらず、何の拒絶もできなかった。

『…でもさ、それは名前も同じじゃない?』
『こう言う事、僕とできる?』

不意に五条の言葉が頭によぎる。
あれに続きがあったとすれば、きっと名前には耐え難いものであったのだろう。五条と結婚すると言うことは、つまりあれ以上の事をしなければならないということ。
これまで名前は、結婚に心が伴わなくとも何も問題はないと思っていた。そんな心など自分には無縁なものだと決めつけていた。無心で呪霊と戦う様に、無心で事を済ませれば良いのだと、ただそう思い込んでいた。
だが、現実はそうではない事を突きつけられた様だ。

それに、名前はあの時思ってしまった。
伏黒でなければ嫌だ、と。
五条に触れられているのにどうして伏黒のことが頭に過ったのか、名前自身も驚くばかりだ。伏黒が名前にとって特別な存在である事は否定できない事実だが、決して彼と触れ合いたいなんて心を持った事はなかった。
きっと色々な事に動揺して、ついそう思ってしまっただけ。もし伏黒がさっきの五条みたいに名前に触れようとしてきたら、名前はまた同じ事になる可能性だってある。
でも、もしそうなったら、名前はあんなに優しい伏黒を拒んだ自分が嫌いになってしまいそうだ。

そんな事を考えれば考えるほど、底無しの思考や感情が泥々に渦巻き名前を蝕む。
今日あったことは、もう何もかも全部忘れてしまいたい。何も知らなかった時の様に見たくない事実から目を逸らし、必死に努力をして過ごしたい。
望まない自由なんて、名前には余るもの。
そんなものを今更与えられても、どうすることもできない。

膝を抱く腕に力が籠る。瞳を閉じ、ぐちゃぐちゃで押し潰されそうになる心を必死に守る。

不意に、誰かが此方へと近づいて来る足音が聞こえてきて、名前の体は自然と強ばる。
とてもじゃ無いが、今は誰かに会えるような心情ではない。このまま電気を点けずに黙って気配を消していれば、足音の主は名前に気付くことはない筈。そう考えた名前は、ただ静かに息を殺して耳を澄ませた。

暗闇の中、建物に雨風が打ち付けられる音と共に聞こえる足音は、真っ直ぐ此方へと近づいて来る。まるで名前がここに居る事を最初から分かっているような足音に、違和感を感じる。
部屋の電気も点けず、スマホの明かりを頼りに名前の目の前までやってきたその足音の主は、静かに名前の名前を呼ぶ。

「…名字先輩?」

聞き慣れたその声に、名前は弾かれる様に顔を上げる。そこには、名前の目の前で床に膝をついた伏黒の姿があって。
どうして彼が、こんなところに。
少し息を切らしている伏黒が、偶々ここに足を運んだだけなんて到底思えない。でも、名前を探しにきてくれたなんて自惚れることなんてできなくて。
何も言えずに、ただ目の前に現れた伏黒を見詰める。

「何かあったんですか?」

心配そうに名前の顔を覗き込んでくる伏黒。彼の声を聴くと、なんだかどうしようも無いくらい色々な気持ちが胸から溢れて出てきそうになる。
このままではダメだ。ぐっと唇を噛み締め、押し負けそうになる心を耐える。

「…何も無い。」

苦しくて辛い気持ちを押し殺し、まるで本当に何も無いような無表情を作る。そして、平気そうな声色で伏黒へと告げた。

「あなたの相手、今日はできない。帰って。」

もうこれ以上、ここにいないで欲しい。
でなければ、きっと名前は何事もなかったフリを貫き通せなくなる。ただでさえ、彼の穏やかで優しい声色に名前の荒んだ心は包み込まれそうになるというのに。側で長く居られては、伏黒に縋ってしまいたくなる。そんなのは、絶対にだめだ。関係のない伏黒に迷惑をかけるなんて、できない。

冷たく突き放すような言葉を口にした名前。
それに伏黒は何も言わず、ただ少しだけ名前へと近づいて来る。

そして、ゆっくりと大きな腕を名前の肩へと回し、手繰り寄せるように静かに名前を抱き締める。

一瞬何が起きたのか理解できず、名前はただふわりと香ってきた石鹸の香りを肺いっぱいに吸い込む。

「…もう、大丈夫です。」
「…っ!」
「何にも怯える必要なんて、ありません。」

優しい伏黒の声と、名前をしっかりと抱きしめる温かい腕に、自然と身体の震えが治まっていく。だが、それと同時に、塞ぎ込んでいたぐちゃぐちゃな心が溢れてきそうで、思わずぎゅっと目を瞑る。

「先輩が何を選んだって、誰も責めたりしませんよ。」

どこまでも穏やかな伏黒の声色が、今にも破裂してしまいそうな名前の心を無造作に揺さぶる。
一体どうして彼は、そんな事を言うのか。
名前が1番掛けて欲しい言葉を、どうしてそんなにも優しい口調で紡いでくれるのか。
他人からこんなに優しく扱われた事なんてない名前は、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。

不意に、自分の瞳からポロポロと涙が零れ落ちている事に気づいた。
なんで、一体どうして自分は泣いているのだろうか。伏黒が側に居てくれているお陰で、今はもう悲しくなどないし、辛くも無い。寧ろ、彼の腕の中はとても心地が良いのに、それなのに涙が次から次へと溢れて来る。

しゃくりあげる声を殺し、黙って目を瞑る名前。
そんな名前の背中を優しく摩ってくれる大きな手が温かくて、ゆっくり息をする胸の動きが気持ちよくて。
伏黒のシャツをぎゅっと握り締める。

やっぱり、名前は伏黒がいいのだ。
伏黒でなければ、絶対にダメなのだ。
改めてそんな思いを胸に抱いた。



伏黒にこうして抱きしめられてから、どれぐらいの時間が経ったのだろう。雨風の音は、名前がここに辿り着いた時に比べると弱くなっている。
心地の良い腕に抱かれていたお陰で、名前の心は徐々に落ち着きを取り戻してきていて。
そして、ふと我に帰ってみると、伏黒に抱きしめられている事が急に恥ずかしくなってしまう。思わず離れようと伏黒の胸を小さく押せば、しっかりと名前を抱きとめていた腕は段々と緩んでいく。そうしてできた腕の隙間から、名前はするりと潜り抜けた。
しかし、伏黒の腕から離れてはみたものの、気恥ずかしさは一向におさまらず、名前は伏黒と目が合わせられない。気が動転してか、掛けるべき言葉もろくに見つからない。目を見てちゃんとお礼を言わなければならないのは分かっている。だけど、今は恥ずかし過ぎてそれどころでは無い。

そんな1人で焦っている名前の気も知らない伏黒は、ふっと笑ってその大きな手を名前の頬へと近づけて来る。
そして、頬にその手が添えられれば、唇に何かが触れる感触がした。
やけに近い伏黒の顔、伏せられた瞼に長い睫毛が見えて。
それから、名前はやっと伏黒に口づけをされている事に気付いた。

「…っ!」

驚きのあまり、目を丸める名前。
どくどくと心臓が大きく波打ち、一瞬のうちに頭の中が真っ白になっていく。

次第にゆっくりと離れていく唇。
徐々に開いていく伏黒の瞳と視線が絡まれば、また一層鼓動が高鳴る。

「…その、付け入るつもりは全然無かったんですけど、結果的に付け入っちゃいました。」

何だか申し訳なさそうにガシガシと後頭部を掻く伏黒。何が何だか分からずに混乱している名前は、その言葉の意味が理解できていない。
ただ伏黒が触れていた自分の唇が異様に熱くて。そして、その熱がじわじわと顔全体にも広がっていくのを感じて、思わず手の甲で頬を押さえる。
ふうっと大きく息を吐いた伏黒は、真っ直ぐに名前を見て言った。

「好きです、名前さん。」

形の良い唇からはっきりと紡がれる、その聞き慣れない言葉。真剣で嘘偽りのない事を訴える伏黒の瞳が名前を射抜けば、その衝撃に名前は思わず言葉を失ってしまう。

彼は、今何て言った?
名前が、好き?

目を見開き固まってしまう名前の髪を、伏黒は優しい手つきで耳に掛けてくれる。

「キスしといて何なんですけど…返事、直ぐに欲しい訳じゃないんでゆっくり考えてください。」

大きな手が優しく名前の頭を2、3度撫でれば、その手はすっと離れていく。
なんだかそれが名残惜しく感じてしまい、名前は思わず拳を握る。

こういう時は、一体どうするのが正解なのだろうか。
恋愛なんて一つも経験せずにこれまで生きてきた名前には、この状況が上手く飲み込めない。
ただ、さっきまで伏黒に触れられていた場所が熱くて、どくどくと暴れ出す心臓の音が煩くて、もう他に何も考えられなくなるのだ。
こんなに胸が張り裂けそうなのに、なんだかとても嬉しくて仕方がなくて。
ゆっくりと大きく息を吸えば、さっきまで匂っていた伏黒の匂いが微かに香ってきて、どうにかなってしまいそうになる。

伏黒の言葉に何も言えずに、ずっと彼から視線を逸らしている名前。そんな自分を責め立てる事などせず、側で物静かに見守ってくれている伏黒は、本当によくできた優しい人で。
どうしてこんな人が自分なんかを好きだと言ってくれるのか、理解ができない。

そろそろ行きましょうか、とその場から立ち上がる伏黒は、しゃがみ込んだままの名前へと手を差し伸べて来る。

「寮まで送ります。ずぶ濡れのままいつまでもここに居たら風邪ひきますし。」

伏黒のその言葉に、そうだ自分は土砂降りの中ここまで走ってきたのだと思い出す。
ここに来た時には冷え切っていた身体は今ではすっかり温かくなっていて、自分がずぶ濡れであることを忘れていた。きっと名前を抱きしめてくれていた伏黒も濡れてしまっている筈だ。
申し訳なさで一杯になる名前だが、目の前の伏黒は特に何も気にしていない様子で、重ねられた名前の手を力一杯引き上げてくれる。

「その…あ、ありがとう。」

立ち上がった名前は伏黒の手から自分の手を引き、小さく消え入りそうな声でそう呟く。
そんな分かりにくい名前の声を零さず拾ってくれた伏黒は、「どういたしまして。」と柔らかく微笑んでくれた。







その翌日、名前は高熱を出した。
朝、いつもと変わらぬ時間に起床し、いつも通りに支度をした。ただ少しだけ頭がぼーっとしていたが、少し疲れているだけだろうと特に気にせず2年の教室へと歩いていた。その途中で偶々出くわした五条によって、名前は渋々自室へと引き戻されたのだ。「うわ、なんでこんな熱で外出歩いてんのさ!」と珍しく焦っていた五条を見て、名前はやっと自分は熱が出ているのだという事に気がついた。

風邪なんて、もう何年も引いて居なかったのに。自室の天井を見上げながら、ふとそう思った。
これまで何年も張り詰めっぱなしでいた緊張が、昨日の出来事をきっかけに一気に緩んでしまったのだろう。土砂降りの雨に身体を打たれた名前は、心身ともに弱りきっていたのは間違えない。
たったそれだけのことで、これほどまでに身体が参ってしまうなんて。いつから自分はこんなに脆弱になってしまったのだろうか。
自身の体調管理すらできない人間が高位な術師になれると思うな、そんな事を過去に父が言っていた。父は術師ではないが、確かに病床に伏せるところなど見た事がなかった。父も父で、きっと何かの緊張の中闘っていたのだと今になって思う。

名前はもう特級術師を目指す必要も無ければ、五条悟と婚約する必要もない。
一頻り泣き散らし、そのまま一晩眠って、次の日に熱に充てられれば、あれほど拒絶していた事実もまるで何か悪い夢から醒めたかのように自然と名前の中へと溶け込んでいく。

名前は今日から、何の意味も持たずにただ呪霊を祓う呪術師になる。だけど、それではきっと、あの痛く苦しい戦いを耐え抜くことはできない。
辛い気持ちを押し殺してでも戦わなければならない理由など、今の名前には無い。

だけど少しだけ、ほんの少しだけ理由をつけるとするなら、きっとそれは伏黒の側に居たいと思っている事で。
こんな名前の事を好きだと言ってくれた、あの穏やかで優しく名前を包み込んでくれる伏黒と、許される限り名前はこの先ずっと一緒に生きて居たいと、そう思うのだ。

この気持ちを、一体どう言えば彼に伝わるのか。
考えれば考えるほど、熱に侵された頭は重く沈んでいく。
もう一度瞼を閉じ、眠ってしまおう。そうすればきっと、もっと上手に考えることができるかもしれない。

重い瞼が下がっていくのを争う事なく受け入れる。静かな部屋の中で、鉛のように重たくなった自分の体をベットに沈めていく。
そんな微睡の中、コンコンと部屋をノックする音が聞こえてきて、名前は慌てて瞼を押し上げる。
誰だろうか、五条が家入でも呼んできたのだろうか?いや、しかしただの風邪に術師の治療なんて要らない。五条が日下部に名前が休みである事を伝え損ねたのか?いや、あの人はそんな手の抜き方はしない人だ。
あまり上手く動かない頭を必死で働かせながら、名前は髪を手櫛で整えて部屋の扉を開ける。

すると、そこには想像もしていない人物が立っていた。

「…伏黒?」

見慣れた制服姿の彼は、額に汗を浮かべながら少しだけ息を切らしていて。
一体どうしたのだろうか、彼が名前の部屋を訪ねて来るなんて初めのことで、少し戸惑ってしまう。

「名前さん、起こしてすみません。これどうぞ。」

そう言って伏黒が差し出してきたのは、何やら色々なものが入った白いコンビニ袋で。名前は勢いのままにそれを受け取る。
袋の中には、風邪薬やビタミン飲料、果物やレトルトのお粥などが入っていて。まるで名前が病人である事を知っているかのようなこのラインナップに、名前は目を丸めて伏黒を見上げる。

「どうして…?」
「五条先生に名前さんが風邪で寝込んでるって聞きました。」

ああ、五条の差金か。そう思った名前だが、ふと疑問に思う。
彼は名前が風邪で寝込んでいると聞いたから、わざわざ色々買って来て、ここまで届けてくれたと言うのだろうか。誰でも無い名前のために、こんなに息を切らして。

そんな何も語らない伏黒の優しさに気づいてしまった名前は、嬉しさでじわりと胸が熱くなる。

「…じゃあ、俺はこれで。」

お大事に、そう言って名前の部屋のドアを閉めようとする伏黒。
このままでは行ってしまう。せっかく来てくれたのに。まだお礼も言えていないのに。
もう少しだけ、一緒に居てくれないだろうか…。

気が付けば、名前は伏黒がドアを閉めようとしている手を、ぎゅっと握って居た。

「?」
「…っ!」

驚いたような顔をした伏黒と目が合えば、やってしまったという後悔と羞恥に襲われる。
どうしてこんな事をしてしまったのだ。慌てて手を引き、伏黒から目を逸らす。
ああ、早く此処から立ち去って…。そう頭の中で願う名前に、伏黒は柔らかい表情で静かに告げた。

「名前さんが良ければ、りんご剥いていきますよ。」

その発言に、名前はふと顔を上げて伏黒を見た。
それは、彼はもう少し名前と一緒に居てくれると言う事だろうか。ぼーっとして上手く回らない名前の頭は、自分に都合よく解釈してしまっては居ないだろうか。

「水ぐらいしか出せないけど…」
「何もしなくていいですよ、名前さんはベットで休んでてください。」

そんなやり取りをしながら、名前は自分の部屋へと伏黒を招き入れた。

名前は伏黒に促されるままにベッドへと寝転び、キッチンから伏黒が顔を出すのを横になって待つ。
自分の部屋に他人が居るなんて何だか不思議な感じだ。普段、名前は自室にいないことが多いため、部屋にあるのは必要最低限のもののみ。他人を招き入れて楽しめるような娯楽など一つもない。
伏黒を招き入れてはみたものの、彼は名前をやはりつまらない人間だったのだと思ってしまうのでは無いだろうか。そんな今まで感じたことのない不安に駆られる。

そんな中、皿と果物ナイフを持った伏黒がキッチンからベットの側へとやって来る。
そして、名前の寝転ぶベッドの脇に椅子を構え、そこに座りながらリンゴの皮を慣れた手つきでスルスルと剥き始める。

「りんご剥くの、得意なの…?」
「いや、そんなことは。寧ろ自分で食べる時は皮剥いたりしませんし。」

名前からの突拍子もない質問が少し意外だったのか、「そんなに上手くないと思いますけど…」なんてぼそっと言いながら綺麗にリンゴを等分していく伏黒。
知ってはいたが、やはり彼は器用な人なのだと改めて感じる。綺麗に同じ形に切り分けられるリンゴには、生真面目な彼の性格が出ている。

「りんご、今食べますか?冷蔵庫に置いときますか?」
「…たべる、」

目の前に並んでいく形のいいリンゴを見て、名前はそう言えば朝から何も食べていないなとぼんやり思う。早速リンゴを食べようと重い身体を少し起こそうとするが、慌てた様子の伏黒に阻止される。これではリンゴが食べられない、と眉を顰める名前。しかし、次の瞬間には、フォークに刺さったリンゴが口元へと運ばれてきて、思わず伏黒を凝視する。
…さも当たり前かのように口元までやって来たリンゴに、戸惑っているのは名前だけなのだろうか。ん?と首を傾げて食べないのか?と言いたげな顔の伏黒。リンゴを剥いてもらう約束はしたが、こんなのは聞いてない。恥ずかしさに負けそうになる心を抑え、名前は伏黒から目を逸らしながら口を開き、リンゴを食べる。

「…おいしい」 
「それはよかったです。」

何だかとても満足そうな伏黒は、もう一つどうですか?と次を勧めてくる。
そう楽しそうにされると、餌付けでもされている動物ような気分になる。この式神使いめ、と心の中で悪態を吐くが、結局その伏黒に上手く飼い慣らされてしまっているのは名前の方で。こくりと頷き、伏黒から運ばれてくるリンゴを一頻り食べた。


「まだ熱、結構ありますね。」

リンゴを食べ終え、キッチンへと後片付けに行った伏黒が戻ってくる。
不意に、冷たい大きな手が名前の額に当てられ、思わず体がピクリと跳ねる。だが、その冷たさに驚いたのは一瞬だけで、次第に熱を帯びた名前の額は、冷たい彼の手に心地良さを感じていく。

「冷えピタも買ってきたんですけど、貼りますか?」
「なにそれ…」
「おでこに貼る冷却シートです。使った事ないんですね。」
「ない…」

じゃあ今日使ってみましょう。そう言って、ビニール袋からそれらしきものを取り出し、開封した伏黒は、「失礼します。」と言って名前の前髪を優しい手つきで払い、そしてシートを額へと貼り付ける。

「ぅあ…っ」
「冷たかったですか?」
「…ん、平気、」

急に来た冷たい感覚に思わず変な声で驚いてしまう。そんな名前に、伏黒は優しい声で気にかけてくれて。丁寧にシートを貼ってくれる彼は、本当に几帳面な人だ。
これでよし、と彼の手が名前から離れていけば、何だか少しだけ名残惜しさを感じてしまう。

ああ、伏黒はきっと、もうすぐ帰ってしまう。
熱に侵された名前の頭は、何とかして胸の内に閉じ込めている想いを言葉にしようと必死になる。

伏黒にどうしても聞きたくて。
伝えなければならなくて。

それはきっと、今でなければダメになってしまう。

彼の名前を口にした名前に、伏黒は柔らかい表情を向ける。

「…伏黒は、本当に私が好きなの?」

突拍子もなく告げられる、何にも包み込まれることのない名前の言葉。伏黒はそれに何の迷いもなく、当たり前かのように答える。

「好きですよ。どうしたんですか、急に。」

ふっと柔らかく微笑む伏黒に、名前のどくりと心臓は跳ね上がる。
なんで、どうして、そんなに当たり前の事みたいな顔をするのか、名前には全然分からなくて。

「…あなたは私に色々してくれる。でも私は、あなたに何もしてあげられない。」
「別に俺は名前さんに何かして欲しい訳じゃないです。名前さんの側にいられるだけで、十分幸せなんで。」

そんな予想もしなかった答えに、名前は驚く。
ただ側にいるだけで人を幸せにさせられるなんて、そんな体それた存在になった覚えはない。名前の側など百害はあっても一利もない。無愛想で、選ぶ言葉も悪く、人を思いやるのが苦手な名前なんて、側に置く価値がどこにあるというのか。
伏黒の言っている事が名前には全然理解できない。
でも、伏黒の綺麗な瞳はどこまでも真っ直ぐ此方を見ていて、それに名前は何も否定できなくなる。

変な人、彼は本当にどうしようもない程の変な人だ。
名前が好きなんて、どうかしている。

でも、そんな伏黒を、名前は愛しくて堪らなくて。

「…私もきっと、あなたが好き。」

そう静かに口にすれば、名前を見つめている伏黒の瞳は見開かれる。
そんなに驚く事だろうか、と少し苦笑したくなる。こんなに素敵な伏黒に名前が惹かれるのなんて、当然のことなのに。

しかし、好きだからこそ、好きだと思ってくれているからこそ、名前は全部を伏黒に伝えなければならない。

「でも、両親は私に悟様との婚約を望んでいる。それができない私には失望してしまう。」

回らない頭で必死に言葉を絞り出す名前。
そんな名前のどんな些細な言葉も逃すまいと言わんばかりに、伏黒は真剣な表情で静かに名前の話を聞いていて。

「…前に、2年の皆と少しだけ親しくした。そうしたら、父は他の術師と馴れ合うなって激怒した。」

淡々とした様子で話をする名前。だが、実際は、そうやって気を張ってなければ、今にも不安と戸惑いで押しつぶされそうでどうしようもなくて。

ぎゅっと拳を握り締め、伏黒から目を逸らしながら低い声で言う。

「…どこで誰が見てるのかなんて、私には分からない。だから、私はあなたとこれ以上仲良くできない。」

ぐっと歯を食いしばり、重く辛い胸の苦しみを耐える。
せっかく彼は名前を好きと言ってくれたのに、側にいたいと言ってくれたのに、こんなに勝手な理由で突き放すなんて最低だ。そんなことは分かっている。だけど、そうしなければ、きっと名前は伏黒の側どころか、この高専にすら居られなくなってしまう。

こうやって伏黒と触れられなくなったとしても、伏黒の姿を見掛ける事ができるのなら、名前はそれで十分だ。
見掛けることすら叶わなくなるのぐらいなら、特別な関係になどならない方がいいのだ。

昨日伏黒の胸で散々泣いたというのに、気を抜けばまた涙腺が緩んできそうだ。
こんな自分勝手で酷い名前を、伏黒が今どんな顔で見ているのかなんて、怖くて確認できない。
次の言葉が交わされるまでの間がやけに長くて、いやに胸が騒ぎ立てる。

まるで何かを考えるように少しの間、沈黙をする伏黒。
そして、ゆっくりと開いた彼の唇は、静かに言葉を紡ぎ出す。

「…それってつまり、誰も見てないところなら別に仲良くしても良いんですよね?」
「え…?」
「なら、こうして2人きりの時だけでいいので、俺の恋人でいてくれませんか?」

名前は思わずきょとんとして伏黒を見る。
伏黒は一体何を言っているのだろうか。
名前は今さっき恋人になれない旨を彼に伝えたはずで。でも、2人きりの時だけ恋人でいて欲しい、とは。混乱する名前は黙って伏黒を見る。

「誰かがいる時は、今まで通りただの先輩と後輩の振りをする。これなら何も問題ありませんよね?」

ね?と強い意志の瞳が名前を見つめれば、名前は戸惑い何も言えなくなってしまう。

誰にもバレなければ、誰かわからない父の間者にも知られることはない。
それは尤もなのだが、そもそもそんな事が本当にできるのだろうか。名前は元々誰とも交流がないので隠すことは簡単だが、伏黒は2年の皆とも親しいし、これから他の同級生も入ってくる。人付き合いの多い彼が隠し事をするのなんて、かなり厳しいに違いないのに。

「なんで、どうしてそこまで…」
「好きだから、絶対に諦めたくないんです。」

穏やかな深い色の瞳が、とても大事なものを見る目で名前を見詰めている。
一切の迷いの無い伏黒の言葉に、名前の胸は熱くなる。

「正直、こんなに早く良い返事が貰えるなんて思っても見なかったです。でも、名前さんも同じ気持ちでいるって聞けたんで、俺もう遠慮なんてしませんからね。」

ふっと満足げに微笑む伏黒はその場に立ち上がり、寝たまま伏黒を見上げる名前に触れるだけの軽い口付けを送る。
そんなことを恥ずかし気も無くさらりとやってのける伏黒に、名前の頭は破裂寸前で。どうすれば良いのか分からず伏黒から視線を外した名前は、ぶわっと熱くなる頬をを両手で覆う。どくどくと鳴り響く鼓動の音がやけに煩い。

お大事に、またお見舞いにきます。
そう言って、今度は本当に部屋から去っていってしまった伏黒。名前は伏黒が触れた自分の唇を指で擦りながら、瞳を閉じた。

この先、実家や五条家が名前をどうするのかは分からない。
でも、名前が初めて自らの意思で選んだこの想いを、誰にも邪魔されたくはない。
せっかく伏黒が受け止めてくれたこの心を、名前も諦めたくはない。

この日を境に、名前の世界は良くも悪くも一変することになるのであった。




1章 完



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