#6 蹂躙



最近、名前は何だかとても変な感覚に襲われる。
何がどう変なのかは、はっきりとは分からない。ただ、今まで感じたことのない胸の奥がつっかえる様な違和感が、偶に名前を襲うのだ。
底無しの呪力を持つ呪術師、なんて周りから称されている名前だが、実はそろそろ限界が来ているのだろうか?いや、呪力を使っていない時でも、違和感を感じる事がある。きっと呪力ではなく身体自体がどうかしてしまっているのだ。
そんな事を考えながら、名前は自分の掌へと視線を落とした。

最近、強くなれているという感覚がない。
前までは確かに感じる事ができていたその感覚が、今は全く感じられないのだ。
それに、最近は任務に行っても怪我をするようになった。この間なんか、特級呪霊に片腕を吹っ飛ばされてしまった。血だらけで肩を握る名前を、血相を変えた家入が慌てて治療してくれたのを鮮明に覚えている。
あの時、五条が助けに入ってくれなければ、きっと名前は死んでいた。
治療の後、見舞いに来た五条に「どうして逃げなかったの?」と聞かれた時、名前はその答えを上手く口にすることが出来なかった。

決して敵の強さを見誤り、勝てると思って挑んだ訳ではない。庇っていた非術師を助け通さなければと、責任感を抱いた訳でもない。

ただ単純に、特級を前にして逃げ出すという事を思いつかなかったのだ。
だから当たり前のように挑んだ。
そして、死にかけた。

それに、名前は思う。もしそこで逃げ出してしまえば、きっと“逃げる”と言う選択肢がこれからの名前の道に加わる事になる。そうなれば、もう二度と今立っている場所には戻って来れなくなる気がする。
それは、腕が無くなるより、死んでしまうより、もっとずっと怖いものの様に思えて。

見つめていた掌をぎゅっと握り締め、そっと立ち上がる。そして、今晩もまた自分を磨くために武道場へと1人向かうのだった。







「名字先輩、」

夜、人気のない校舎の中で名前を呼ぶ声がした。
最近、よくこの声に名前を呼ばれることがある。名前に用事のある物好きなんて、五条か補助監督か、この声の主しか居ない。だから、これが誰の声かなんて直ぐに分かった。
早歩きをしていた足を止めて、声のした方を振り返る。

「…なに。」

振り返った先には、名前が想像をしていた人物、伏黒恵が立っていた。
彼は、いつか名前が武道場で寝落ちしてしまった時に掛けてくれたジャージを羽織っている。それを見ると、あの時の事を不意に思い出してしまう。そして同時に、何か胸がつっかえるような違和感を感じる。ああ、まただ。また、身体が可笑しくなっている予兆がしている。
襲ってくる違和感に、名前の顔は自然と険しくなっていく。そんな名前の厳しい表情など気に留めていない様な態度で、伏黒は名前の手元を指差した。

「それ、今日もやるんですか?」

それ、と言うのは、名前の手元にある呪具のことを言っているのだろう。伏黒はどうやら名前が夜な夜な武道場で何をしているのかを知っている様だ。
だが、名前はそれに関して特に嫌な気分にはならなかった。伏黒は恐らく名前の事を色々と詮索したり、誰かに言いふらしたりする様な人間では無い。そこまで彼と親密な仲では無いが、名前には確信があった。

「…武道場、使うなら別の場所でするけど。」

彼がこうして武道場に来る理由は、きっと呪力を使った修行をするため。しかし、そこは名前が連日使用してしまっている。きっと彼は名前に今日も使うのか?と聞きたいのだろう。
何だか少し申し訳ない気がして、今晩は伏黒に場所を譲ろうと名前はそう提案した。

しかし、伏黒から返って来た言葉は、そんな名前の予想を裏切るもので。

「いや…名字先輩、今日はそれじゃなくて俺に稽古つけてくれませんか?」

そう言った伏黒は、真っ直ぐな瞳を名前へと向けてくる。彼が何を言っているのか理解できなかった名前は、思わず盛大に顔を顰めた。
誰が誰に稽古をつけると言うのか。彼は本気で言っているのだろうか?言葉が少なければ愛想もない名前に、何を望んでそんな事を言っているのだこの男は。

「五条先生や他の2年に付けて貰った方がいい。」
「いや、名字先輩がいいです。」

一瞬たりとも考える素振りを見せず、名前の言葉をぴしゃりと否定する伏黒。
その返答から相当強い伏黒の意思を感じた名前は、自身の顔を更に歪める。

「…なんで、」
「先輩のこと、もっと知りたいので。」
「…なんで、」
「先輩に興味があります。」
「揶揄っているの?」
「本気です。」
「私はそんなに暇じゃない。」
「少しだけでいいので、お願いします。」

思いもよらない理由が伏黒の口から紡がれ、名前は盛大に顔を顰める。彼は一体何のつもりだ。
揶揄っているとしか思えないその言葉とは裏腹に、伏黒の瞳はどこまでも真剣な事を訴えてくる。穏やかな濃い色の彼の瞳がじっと名前を捉え、離さない。それを意識すればするほど、どくんと胸が跳ね上がり、苦しくなる。ああ、またこれだ。今日はどうしてこんなに頻繁に起きるのか。
なんとか痛みを抑えようとゆっくりと息を吐くが、これではまるで溜息をしている様だと途中で気付いた名前は、慌てて伏黒を覗き見る。彼はそんな事など気にしていないのか、まだ真っ直ぐな視線を名前へと向けていて。
皆が不快に思う名前の無意識な悪態を、伏黒はどうやら全く気にしていないみたいだ。こんな人と出会うのは初めてで、名前の方が動揺してしまいそうになる。

そんな彼と目が合えば、またどくんと心臓が跳ね上がる。
一向に退く様子を見せない伏黒に、どうすれば良いのか分からない名前は困り果ててしまう。

最後には、「…少しだけだから」と小さくぼそっと呟き、伏黒の視線から逃げる様に武道場へと向かった。
そんな名前を後ろから追いかけてくる伏黒は、それはそれは嬉しげに「お願いします。」という言葉を口にしてきた。







あれから名前は伏黒から頻繁に稽古に誘われるようになった。強い意志のある彼の瞳に一度捕まると、どうにも断りきれなくなる。いつも「少しだけだから、」なんて言葉で伏黒を許してしまうのだ。そして、その度に伏黒はどこか嬉しそうにしていて。それが目に留まると、何だか恥ずかしくなって名前はいつも目を逸らしてしまう。

武道場での稽古は、呪力無しで組手をしたり、呪力を使った打ち込みや防御をする。名前よりもずっと身体の大きい伏黒相手では、呪力無しでは到底敵わない。素早く動いたとしても手足の長い彼の攻撃を躱すことは難しい。反射的に呪力を使ってしまいそうになるのを抑えれば、そこに意図せぬ隙ができてしまう。
身体の力で押し負け、名前がバランスを崩して倒れれば、伏黒は必ず謝りながら右手を差し出してくる。その手を素直にとるのが何だか嫌で、名前はいつも差し出される手を取らない。それでも伏黒は毎回、飽きもせず手を差し伸べてくる。その大きな手がさっき名前を押し跳ばしたのだと思うと、手を取りたくないという意地が出てくるのだ。

だが、そんな立場も呪力を使ってしまえば簡単に逆転する。
呪力を使いさえすれば、名前は伏黒に一度も隙を与えることなく、彼を床へと倒す事ができる。呪力の上限がない上に近接戦を得意とする名前は、式神使いである彼にとっては相性最悪の相手だ。それでも負けじと名前へと挑んでくる伏黒を、名前は失礼のない様に手を抜くことなく受けて立つ。

伏黒は名前より1つ年下だが、身体は大きく、落ち着きもある。
取っ組み合いの最中はそんな事を感じたりしないが、稽古が終わった後や部屋へと戻った後に、不意に最中の事を思い出す。腕や手足が彼と触れ、そこから温かい熱を感じたことや、真剣な瞳で終始見つめられていたことなどを、一つ一つ思い返してみれば、胸がドクリと音を立てる。そしてまた、胸のつっかえる様な感じがして、胸元でぐっと拳を握る。

元々、名前は人と一緒に居るのがあまり得意で無い。
相手の気持ちを汲み取ったり、自分の思っている事を伝えたりするのが、大層苦手なのだ。
だから、伏黒と一緒に稽古をする時間が長くなればなる程、彼は名前が自分の期待していた人間では無い事に気付き、自然と名前の前から去っていくだろうと考えていた。

だが、待てど暮らせど伏黒が名前と距離を置くことはなかった。
それどころか、彼との距離はますます近くなる一方で。
こんなに名前に踏み込んで来た人間なんて今まで居なかったし、居たとしても名前が不快だと思わなかったことはなかった。
名前も名前で、伏黒のことを一つも嫌だとは思わない。それどころか、静かで穏やかな伏黒と居る時だけは、自分の冷たく暗い心の内を綺麗さっぱり忘れる事ができた。
だから、名前が自分から彼を拒むなんて考えられないし、彼に拒まれる事を想像すると酷く動揺する。

しかし、きっとそんな事を感じていられるのも束の間で、いつか必ず彼は名前から離れていってしまうだろう。それは、彼が名前に愛想を尽かすのが先か、それとも、どこからかこの事を聞きつけた名前の父が伏黒と距離を置けと命令してくるのが先か。何にせよ、伏黒とのこの関係はきっと長くは続かない。
以前名前がクラスメイトへ歩み寄った時と同じ結果になるのは目に見えている。

なら、今のうちにこんな関係など絶ってしまった方が良い。
そう頭では分かっているのに、心は伏黒を拒むことを否定する。それどころか、あの2人きりの時間をどこか期待してしまっている自分が居る。
名前の心がこんなに素直に何かを求めたのは、あの時以来初めてだ。そう、両親が初めて名前に期待を寄せてくれくれたあの時以来で。いつものように上手く心に蓋をする事ができない。

深い溜息を吐いた名前は、そんなどうにもならないモヤモヤとした心を胸に、自分を呼び出している五条のいる部屋へと足を進めた。



部屋の扉をノックする。すると、すぐに中から適当な返事が聞こえてきたので、名前は静かに扉を開いた。部屋の中には、椅子を反対向きに座った五条が背もたれに身体を預けながら「良く来たね。」と名前を出迎える。そんないつもの光景に名前は特に戸惑う事なく、後ろ手に扉を閉めてその場に佇んだ。

「あれ、どうしたの?なんか良いことでもあった?」

そんな事を突然言ってくる五条に、名前は思わず不審な目を向ける。
“良いこと”の心当たりが全くない、こともない。が、思い当たる“それ”が良いことなのかは分からない。どちらかと言えば、名前の心はその事で掻き乱されている最中であり、あまり良い気分ではない。
そして、何より目の前で意味深にニヤリと笑う五条の真意が読めない。まるで全てを知っているかの様に優しい口調で名前に尋ねてくる五条に、名前の警戒は強まる一方で。

「別に、特に何も変わりありません。」
「ふーん、そう。何か最近の名前はいつにも増して可愛いからさ、なんか良いことでもあったのかな?って思ったんだけど。」

何もないんだ、へえ、ふーん。
そんな含みをもった言葉を並べる五条に、名前は眉を顰める。五条が何を知っているのかは分からないが、完全に揶揄われている事だけは名前にも分かる。それを少し不快に思うものの、彼は名前の家系の偉い方で、名前が逆らってはならない存在。全ての感情を押し殺し、無表情で黙って五条を見た。
そんな名前を見て五条は苦笑を浮かべる。

「それはそうとさ、これ見てよ。」

手招きをする五条の元へと名前は足を進める。そして、五条が自分の目の前でぺらぺらと揺らしている紙を受け取った。
粗末に扱われ少しシワのついた紙には、筆のようなもので文字が書かれている。今時珍しいその形式の手紙に、普通のことが書かれている訳ではないだろうと察した名前は、黙って記載されている文字を読む。

そこには、五条家本家が五条悟に対し、名前を特級術師へ推薦するよう指示する内容が書かれていた。

文章の途中でこの手紙のおおよその目的が理解できた名前は、困惑と動揺が表情に出てしまいそうになるのを堪える。
きっと、名前の実家が五条家に掛け合い、両家の間で色々と話がまとまってきているのだ。当事者である名前と五条悟を含めず、本人達の意思などまるで無視した手紙の内容に、五条がどうして名前にこれを見せたのかが分かった。

きっと、彼は名前の意思を問うために、名前をここに呼んだのだろう。

全ての内容を読み終えた名前は、五条へと手紙を返す。それを受け取った五条は、掛けていた丸いサングラスを少しずらし、その美しい青い瞳を名前へと向けた。

「名前はさ、特級に推薦して欲しい?」

まるで心の内を全て晒せと言わんばかりの五条の視線に、名前は静かに息を呑む。

高専を卒業するまでに特級術師になる、それが両親から課せられた名前への使命。故に、そんな五条の問いは愚問で。だが、その当たり前な答えを返そうとするのに、どうしても言葉が喉を通らない。
もし審査が無事に通れば、名前は特級術師になる。そうなれば、流石に両親も名前に『良くやった』と一言言ってくれるだろう。
だが、特級になって変わるのは、両親からの視線だけではない。
名前が今まで相手にしていた1級呪霊が、特級になるのだ。特級呪霊の強さは、登録されている呪霊だけでもピンからキリまである。最悪な相手に当たってしまえば、きっと今度は腕を飛ばされるだけでは済まない。
上限の知れない特級呪霊の力と今の自分の力を比較するなんておかしな話だが、名前はまだ特級術師という枠組みに自分が入れるほどの能力もなければ自信もない事に気付いている。

しかし、そんな名前の私情など今はどうでも良いこと。
これは、五条家からの正式な依頼なのだから。
ぐっと拳に力を入れて、無表情の名前は五条へと告げる。

「…貴方が、それを望むのなら、」

やっとの思いで絞り出した言葉。
これでいい、これが名前に望まれる最適な解なのだと言い聞かせながら、五条の蒼瞳を見つめ返す。
そんな名前からの返事を耳にした五条は、悲しげに顔を顰める。
ああ、またこの顔…。名前がいつも五条に従うような言葉を言えば、彼は決まってこの顔をする。彼が何を思ってそんな顔をするのかが分からない名前は、ほかに何も言えなくなる。

すっと椅子から立ち上がった五条は、深い溜息を吐く。
そして、背の高い彼は腰を折り、名前と目線の高さを合わせて言った。

「名前、この際だから言っとくけど、五条家に従順であることと五条悟に従うことは、全く違うからね。」

囁く様に名前へとそう告げる五条。だが、その声色は一転し、鋭く低いものへと変わる。

「…で、名前は一体どっちに従うつもりなのかな?」

どくんと心臓が跳ね上がる。
五条悟が彼の実家と反りが合わない事は、知っていた。だが、名前が両親から告げられていたのは、五条家に従順である事。即ち、五条家にも五条家の一員である五条悟にも従順であること。
どっちに従うなんて、そんな選択をできる立場に名前はいない。
何も言えなくなる名前に、追い討ちをかける様に五条は言う。

「どっちも、なんて虫のいい話は流石に無いよね?」

今まさに名前が結論付けた事を、五条はすっと目を細めながら否定した。
名前の思考は、どうやら彼に一瞬で見透かされてしまった様だ。しかし、それ以外の解など今すぐに導き出す事はできない。

「まさか本気で僕のお嫁さんになるために頑張ってる訳じゃないだろうし。」

こんなハードな呪霊狩りが花嫁修行なんて、一体どんな時代だよ。
冗談気にそう口にする五条は、チラリと名前の表情を盗み見る。そして不敵な笑みを浮かべる。

「あれ、もしかして本気だった?」

口調は優しいものの、彼の目に一つも優しさなど感じられない。
きっとこれが五条家ではなく五条悟の本音なのだ。名前が特級術師になったとしても、彼は名前を五条家の嫡男として貰い受ける事などない。そう言っているのだと理解できた瞬間、胸の奥が酷く空っぽになる感覚を覚える。

今までの血の滲むような努力やそれに費やした時間は、一体何だったのか。
呪霊にやられて大きな怪我を負って、反転術式で治療をしてもらっては、死ぬ物狂いで立ち向かって。痛くて辛くて苦しくて、それでも目指すべき場所へと辿り着くために、余計な事は考えないようにした。なのに、この様だ。
名前はこの事実を一体どう受け止めれば良いのだろうか。
混乱する名前の肩に手を当てた五条は、柔らかい口調で名前へと告げる。

「五条家は君を僕の婚約者として迎え入れるかも知れないけど、僕は今のままの君なら選ばないよ。…でもさ、それは名前も同じじゃない?」
「その様な事は…っ」
「本当かな?じゃあさ、」

そう何かを言いかけた五条は、口を閉ざして口角をあげる。
そして、自分の手を添えていた名前の肩へと力を入れて、そのまま直ぐそばにあったソファの方へと名前を倒す。何一つ構えてなどいなかった名前の身体は、そのまま簡単にソファの上へと転げ落ちる。
一瞬の出来事に頭が追いつかない名前は、ソファの上で完全に受け身を取り損ねる。崩れた態勢をすぐさま戻そうとするが、そんな時間など与えられないまま名前の上へ大きな五条の身体が覆い被さった。

ぼすっと名前の顔の横に肘をついた五条。
気付けば、五条に身体を完全に拘束されていていて。

「こう言う事、僕とできる?」

低い声でそう囁く様に言われ、名前は何が来るかも分からないまま思わず身体をびくつかせる。
徐々にこちらへと近付いてくる端正な顔。息使いが分かるぐらいの程の距離まで、目の前の男はあっという間に迫ってきて。
稽古の時にはない熱の籠った五条の瞳が、名前を見下ろしている。
その視線に今まで感じたことのない恐怖を感じ、全身が凍りついた様に動けなくなる。

嫌だ、怖い、助けて。
こんな獣の様な男など、名前は知らない。
力の入らない身体で必死に抵抗しようとするが、力の差は圧倒的で、もはや名前がどうこうできる状況ではない。

次に起きる何かを必死に耐えようと唇を噛み締め、目をぎゅっと瞑る。
そして、迫り来る五条から顔を逸らして息を止める。

誰にも触れられたくない。
名前がこの距離を許しているのはたった1人、伏黒だけ。
伏黒でなければ、こんなのは嫌だ。
咄嗟にそんな事が頭によぎる。

ばくばくと異常なまでに心臓が音を立てていて。
強張っていく身体を丸め、恐怖に耐え凌ごうとする名前。

しかし、その脅威はいつになっても名前へと訪れることはない。
寧ろ、その気配は徐々に自分から離れていくのを感じる。

何が起きたのか分からないまま、名前はぎゅっと瞑った瞼を薄く開き、五条の方を見る。
彼はいつの間にか名前の倒れているソファから少し離れた場所に立っていた。そして、先程の熱をおびた瞳など微塵も感じさせない、いつもの冗談気な顔で、名前へと手を差し伸べていて。

「ごめんごめん、ちょっと悪戯が過ぎたね。でもね、そう言う事だから。」

そう言った彼は、名前のよく知るいつもの五条に戻っていて。
なのに、どうしてか、ばくばくと破裂しそうな心臓の音が止まらない。嫌な汗が全身を纏っていて、少しでも気を緩めれば今にも震え出してしまいそうになる。
名前は差し出された手を取らず、自分の力でソファに起き上がる。そして、できる限り彼から距離を取り、警戒の瞳を五条に向けた。
そんな名前に、少し申し訳なさそうな顔をする五条。そう思うのなら、どうしてあんな事をしたのだ。普段から五条の考えている事は理解しがたかったが、今回は普段の非にならない程理解できない。
混乱している名前へ優しい口調の五条は語りかける様に言う。

「今回、僕は君を特級には推奨しないよ。だって君が望んで無さそうだからね。」

その五条の言葉に、名前は思わずはっとなる。
これまで誰にも打ち明けたことのない心の内。それどころか、口にすらしたことがない名前の気持ちを、今初めて誰かに言い当てられたのだ。

「僕は自分の意思でそうするんだ。だから、名前も実家や五条家に囚われる必要はない。君はもっと自由に生きて良いんだよ。」

そう言った五条は、先程の手紙を手に取り、そしてビリビリと破き出す。
それを名前は、まるで自分の歩んできた人生が引き裂かれているような思いで見つめてしまう。

誰でもない五条本人からそんな事を言われてしまった名前は、この先一体どうして行けばいいのか。
もう何年もこうして生きてきたのに突然そんな事を言われても、何が自由かなんて名前には分からない。

ずっと噛み締めていた唇は切れて、血の味が口の中に広がる。
目の前の男へ感じる恐怖と、自分の心の内を暴かれた戸惑い、そして、向かう先が無くなったという喪失感と虚無感で、名前の頭の中はぐちゃぐちゃになっていて。

気が付けば、名前は五条の部屋から逃げるように去っていた。五条家の嫡男に無礼だなんて気を回せる余裕などはもう何処にもない。
ただ行く宛もないまま、我武者羅に走った。
立ち止まって、ふと振り返れば、自分が一体誰なのかすら分からなくなってしまいそうで、怖くて堪らない。

いつの間にか降り頻っていた豪雨が名前の体を濡らしていく。冷たい風が徐々に名前の体温を奪って行くことすら、もうどうにでもなれば良いと思ってしまう。

気が付けば名前は1人、暗い武道場の片隅で膝を抱えて蹲っていた。




=
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -