#3 開闢


物心がついた時から、名前は1人だった。

御三家の一つである五条家、その分家の出身であるとある男と、呪術師の娘であるとある女が結婚した。
男も女も呪霊が見える。だが、それを祓うための呪力を持っていなかった。
だから、彼らの間にできた一人娘に珍しい術式と底知れぬ呪力がある事を知った時、彼らはそれはそれは素晴らしい未来を想像した。

神は自分たちを決して見放したりはしていなかったのだ、と喜んだ。

その事が分かるや否や、これまであまり興味を持って接してこなかった一人娘の名前に対し、膨大な期待を押し付けた。

普段喧嘩ばかりで仲が悪かった両親が急に手を取り合い、2人して名前に話しかけてくれる様になった事を、彼女は今でもはっきり覚えている。広い家の片隅で孤独に溺れていた名前は、その時初めて誰かに必要とされる事がこんなに嬉しいことなのだと知った。

そんな健気で純粋な幼い名前に、彼らは自分たちでは成しえなかった様々な事を強いた。
名前へ試練や苦難を与えれば与えるほど、彼女の才能は瞬く間に花開いていく。それを我がごとのように、男も女も喜んだ。
両親が喜ぶ姿を目の当たりにした名前は、自分が彼らを満足させている事に安堵した。そして、この夢の様な日々が終わってしまわない様に、どんなにボロボロになろうと必死に努力を重ね続けた。

そして、男と女は揺るがない確信を持つ様になる。
このまま順調に階級を上げていけば、名前はいずれ特級術師になれる。そうなれば、優秀な術師を好む五条家本家へ名前を嫁がせることも難しい話ではない。
術式を持たない自分たちが御三家と揺るがぬ縁を築く事ができ、そして娘も不自由なく幸せに暮らせる。

彼らが自分たちの明るい未来を想像している間、彼らの自慢の娘である名前は術師としての能力と引き換えに、人として大事なものを失っていくのに彼らは気付こうともしなかった。







“呪術高専へお前を入学させるのは、決して呪術を学ばせるためなどでは無い。

高専に入れば、呪術関係者がお前を見定める機会が増える。より階級の高い呪霊を祓い、自らの地位を高めろ。お前は特級術師になり、五条家へ嫁ぐための地位を確立するのだ。
決して他の術師と馴れ合い、己の立つべき場所を見誤る事のない様に。“

それは名前が高専へ入学する前、実家でいた頃に何度も何度も聞かされた父親の言葉。
普段からずっとこの様な事を聞かされ育った名前にとって、その無情で家族らしくない言付けに特に何も思う事はない。しっかりと「はい」と答え、そしてその言葉通りの事を実行する。ただそれだけだった。

名前が父や母の言葉通りの事をすれば、褒められることは無いが、決して見放されることもない。
それを幼ながらに学んだ名前は、いつも彼らに従順でいた。



「久しぶりだね、名前。」
「悟様」
「やだな、久しぶりに会ったのに何でそんな仰々しい呼び方なわけ?」
「ですが…」
「前みたいに、悟お兄ちゃんって呼んでくれても僕は全然いいんだけど?どう?」

高専への入学直前に名前を迎えに来てくれたのは、誰でもない五条悟本人だった。
父も母も、アポ無しでやってきた五条を慌てて家へと招き入れようとするが、そんな彼らの透け透けな胡麻擂りになど見向きもしない五条は、名前の手を引き自らの車に詰め込み、誘拐犯のように攫って行ってしまったのだ。

「ね、高専に行く前にどっか寄ってかない?この辺、美味しいケーキ屋さんとか可愛い雑貨屋さんとかあるんだよね。」

どうする?と逆ハンドルの高級車の運転席で、サングラスを少しずらしながら助手席の名前へ話しかける五条。
先程からの無茶苦茶な展開に状況が読めず、困り果てる名前は何も返事が出来ずにいた。

自分の横に座る男は五条家本家の嫡子であり、父と母が五条家へ婚約者候補として名前を差し出そうとしている、まさにその相手。
遠い昔、五条家の集まりで一度だけ話したことはあるものの、名前からすると雲の上の人だ。

だが、この男との縁を手に入れる事が名前に科せられた使命。
絶対に機嫌を損ねる様な真似はできないし、どうにかして良い関係にならなければならない。

「…どうかお好きなところへ寄って頂けると、」
「そう?じゃあまずはケーキ食べに行こっか。」
「はい。」
「それから、服とか生活用品とか買いに行こう。一人暮らしは初めてでしょ?」
「…はい、」
「なら僕に任せて。僕、こう見えて一人暮らし長いからね。部屋を彩る可愛い家具から、主婦もびっくりアイディア商品まで何でも紹介しちゃうよ!」
「…はい、」

それからそれから、と次から次へと提案してくる五条に、名前は完全について行けていない。
これから寮で一人暮らしを始めるのは名前だというのに、本人よりも張り切った様子で楽しげに話す五条。実家暮らしで、学校の合間を縫った修行と呪霊狩りに明け暮れる毎日を過ごしていた名前には理解できない横文字が、五条の口から沢山出てくる。自らケーキ屋へ足を運びケーキを買った事もない名前は、いかに自分が世間知らずであるかを痛感する。

自分には不要だと思い込んでいたい色々な事が世間の常識にあって、実家で囲われて育ってきた名前はこの日、初めて新たな世界へと飛び出した気がした。

「名前の実家は色々息苦しかった思うけど、これからはもっと気楽に肩の力を抜いても良いんだよ。」

ケーキを食べ終え、服や雑貨をこれでもかというほど買ってもらった名前は、隣を歩く五条を見上げた。
これまで実家が息苦しいと感じたことなどなかったし、これから限られた時間の中で特級術師にならなければならない名前は頑張る他ない。
五条の言っている意味が理解できず、ぐっと眉間に皺が寄るのを感じる。それを見た五条は「今はまだ分からないかもしれないけど、これから分かる様になるよ。」と一言付け足した。

「…そのような事は、」
「そういうのもさ、やめようよ。明日からは先生と生徒だし、僕は名前ともっと親しい仲で居たいんだよね。」
「…それは、命令でしょうか?」

そう質問した名前に、五条は淋しそうに顔を歪める。
これから学校でどうであれ、名前にとって彼は五条家の嫡男で本家の偉い人間。彼の言う事を聞くのは当然のこと。そう幼い頃から教育されてきた名前の思考は根深く、今日1日で五条が変えれるようなものではなかった。

なるほどね、と諦めた様な声で独り言を口にした五条。そして少し考え、人差し指を名前の前に立て、言った。

「まあ、じゃあ命令って事で。1年間の期限付きね。」

1年間の期限付きで、五条家の嫡男としての接し方を止めるという命令。
果たして自分にそれが出来るのだろうか、そう考えながらも、命令なら遂行しなければならないと高を括る。

どこか掴みどころのない五条とこれからどのような関係になってしまうのか、名前には全く想像も付かなかった。







その後、名前は高専の1年生として様々な経験をした。
同年代の術師にこれまで会った事がなかったため、真希や狗巻、パンダと授業を共にするのは不思議な気持ちになった。友と共に切磋琢磨できるのが高専の良いところだよね、と五条がぽろりと口にしていたが、正にそんな環境なのだと名前は理解した。

真希も狗巻もパンダも、そして新しく入った乙骨も、悪い人間ではない。真っ直ぐに仲間を思いあえる良い人間だ。
それを名前は入学から数ヶ月かけて理解した。
しかし、名前はどうだろうか。
未だに彼らの輪には入れず、1人で居ることの方が多かった。授業以外で何かに誘われても、どうするのが良いか分からず冷たい態度をとってしまう。さらに1級術師に昇格した名前は任務の幅も広がり、望まずしも自然と1人になる事が多くなっていた。

授業を受け、任務を遂行し、そして夜中に武道場で修行をし、部屋に戻り就寝する。
気付けばそんなルーティーンを繰り返す名前は、完全に孤立に道を一人歩んでいた。


「名前はさ、全然皆と一緒に居ないよね。」

どうして?と、突然後ろから話しかけてくる五条にも、名前はすっかり慣れてしまった。慌てる素振りなど見せず、淡々と返事をする。

「授業では一緒に居ますが。」
「そうじゃなくて、授業以外のこと。こーもっと青春っぽいこと皆んなとしたら?大人になったら絶対にできないんだから、今のうちだよ?」

廊下の窓からグランドを見る五条。その視線を追って、名前もグランドを見る。
そこには、クラスメイトである真希が乙骨と組手をしていて、その側らにはパンダと狗巻が立っている。彼らは放課後の自主練をしているのだろう。それはいつもと何ら変わらない普通の光景だ。
もしこれが屋外授業であれば、同じような絵面でパンダと狗巻の後ろに名前が黙って立っている。授業以外では名前がそこに居ないだけ、ただそれだけのこと。
どうせ何も喋らない名前など、そこに居なくても良いのだ。彼らにとって何も変わりはしない。

「…それは、命令でしょうか?」

五条の伝えたい事が理解できず、思わずそう質問する名前。そんな名前の一言に、五条はあの時と同じで淋しそうに顔を歪ませる。

「そう言うのナシって、前に約束したでしょ。」
「…約束ではなく、命令です。」
「名前ちゃん、知ってた?そういう事言う女の子はモテないんだよ?」
「………。」

一瞬のうちにいつもの冗談気な顔に戻った五条に、名前はもやもやとした気持ちを抱える。
いくら対人能力がない名前でも、今五条に誤魔化された事くらいは分かる。だけど、彼が何を思って淋しそうな顔をしたのか、どうしてそれを隠したのかが全く分からない。
ぐっと皺が寄る名前の眉間に人差し指を当て、ぐりぐりと解してくる五条。その強引な指先とは裏腹に、心地よいほどの優しい声色で名前へと告げる。

「今日は任務は無いから、皆に混ざっておいでよ。そうすれば今の名前に足りないものがきっと分かる様になるよ。」

自分に足りないもの、とは?
ふと思ったそれを尋ねる前に、五条はふらりと名前の前から姿を消していた。
相変わらず良く分からないお方だと思いながらも、五条の言葉が気になり、こっそりとグランドへと足を運んだ。







時は早1月、百鬼夜行の一件が落ち着いた頃、名前は近況報告を兼ねた新年の挨拶にと、実家を訪れた。昨年3月の最終日に五条が名前を連れ去って以降、名前は任務に追われ休暇を繋げられずにいたため、実家に帰れていなかった。流石にあんな家の出て行き方をしたのに、新年の挨拶にも参らないのは不味いだろう。
それに、在学中に名前は1級術師に昇級している。これを報告すれば、きっと父も母も名前が高専で順調に実力を伸ばしている事に安堵してくれる筈だ。
実家ではずっと1人で頑張っていたが、最近名前はクラスメイトと共に任務に出て呪霊を倒したりと、他の術師と息を合わせて協力し合うことなどを学び始めた。人と関わることは相変わらず苦手だが、協力して呪霊を倒す事により戦術の幅をかなり広めて来たのだ。きっと、その成長を認めてもらえる。

そう信じていた名前の心は呆気ないほどに砕かれる。

「何故戻ってきた。」

数ヶ月ぶりに父と顔合わせをした名前に飛んできたのは、その冷たい一言とパシャリと頬を打つお湯だった。
全く想定外の父のその言動に、名前の頭の中は真っ白になる。何が起こったのか、何を言われたのか暫く理解できずに佇む名前。ポタポタと自分の顎を伝うお湯を拭い、ヒリヒリと痛む頬に手を添えると、徐々に自分が置かれている状況が見えてくる。

これまでに見た事がないほど激しく激情する父を前に名前は震え上がる。その場で俯いたまま、顔を上げられずにいた。

「聞いたぞ、同じクラスに特級術師が転校してきたそうじゃないか。そいつに任務中に幾度か助けられているとか。」

それは、乙骨憂太の話だ。
父が何の話をしているのか、次は一瞬にして理解できた名前。しかし、なぜ父がその話を知っているのか、なぜそのことに対しこれ程までに父が激怒しているのか、全く理解できない。
ここ数ヶ月で、実家へ伝わるほど良くない行いをしただろうかと、必死に考える。が、何も思いつかない。

俯いたままの名前へ浴びせる様な、長いため息を吐いた父は、低い声で言葉を続ける。

「…クラスメイトとも懇意にしているそうだな。お前は何のために高専へ通っているのかを忘れたのか。」

“決して他の術師と馴れ合い、己の立つべき場所を見誤る事のない様に。“
それは、高専へ入学する前に父が口酸っぱく名前へ言っていた言葉だ。

父の伝えたい事が徐々に分かってきた名前は、酷く困惑する。
決してクラスメイトとの馴れ合いを喜んでいた訳ではないし、己が楽をするために特級術師の乙骨の力を借りたことなどない。名前はここ数ヶ月間で自分を高めるための努力を怠った事はない。
強いて言うなら、乙骨は誰彼構わず助けたり庇ったりする。
それが事実なのだが、それをそのまま父に言えるほど、名前は立派な功績を残している訳ではない。
父から見れば、名前が何かを言ったところで、それは見っともない言い訳に他ならない。名前はぐっと奥歯を噛み締める。

乙骨は才能があり、実は器用で、仲間思いで皆と強くなれる優秀な逸材だ。
だけど、名前は違う。
努力を重ねなければ、強くなれない。強くなれなければ、簡単に殺されてしまう。名前は1級以上の呪霊と戦う階級に居るのだから。
だが、乙骨のように助けてくれる様な仲間も居なければ、仲間を作る為の対人能力すら無い。

そして、いくら優れた術式と底なしの呪力があろうと、上手く使えなければ何の意味もない。

ぐっと唇を噛み締める。

「お前を1級術師へ昇級させるために我々がどれだけ苦労したか。
お前は優秀だ、我々をこれ以上失望させないでくれ、いいな。」

はい、と頷く名前は歯を食いしばり、父を真っ直ぐに見た。
どこか悲しげで残念そうな父の顔に、言葉通りに失望されているのだと改めて気付く。

「分かったらさっさと高専へ帰り任務と修行に励め。」
「はい。」

お辞儀をし、速やかに父の部屋から出て行くと共に、実家から飛び出した。
門の近くで使用人に何か声をかけられたが、名前の耳にはこれっぽっちも入らなかった。

ただ何も考えなくなるほどに必死に走った。
冬の凍える風に濡れた髪と頬が凍てつくが、それすら感じない程に我武者羅に走った。

別に父に何かを期待していた訳ではなかった。
何かを成し遂げたって、認められた事などこれまでになかったのだから。
なのに、こんなに虚しさを感じるほど、自分は一体何を父に期待したのだろうか。

馬鹿みたいだ。
高専のあの雰囲気に飲まれて忘れてかけてしまっていたのだ、自分が何をすべきなのかを。

徐々に頭が覚めてきた名前は、同時に自分の心が凍てついていくのを感じた。







「なんだ、お前もう戻ってきたのか?」
「…用事、済んだから。」
「ならこれから付き合えよ、すっげー呪具が手に入ったんだ。パンダとそいつを試しに…」
「任務があるの。」

数時間後に高専へ戻れば、実家に帰っていない真希と乙骨と廊下で遭遇する。
真希は手元の呪具を弄びながら名前のつれない返事に顔を顰める。そんな真希の表情に名前は少し罪悪感を覚えるが、それも束の間、先程実家で告げられた父からの言葉を思い出し、スッと心が冷え切って行く。

そのまま真希と乙骨の横を通り過ぎれば、すぐ後ろから放たれる真希の声が廊下に響く。

「1級術師様は忙しいこったなぁ。特級より忙しいのかよ。」
「ま、真希さん…。」

まあまあ、と真希を宥める乙骨の声が聞こえてくる。
特級術師、乙骨憂太。彼を超えた存在にならければ、きっと名前は実家に帰れない。だが、それが一体どのぐらい遠い道のりなのか、名前には計り知れない。
冷え切った拳にぐっと力が入る。

早歩きで廊下を過ぎ去ろうとする名前の後ろから、此方へ駆け寄る足音がする。その足音が近くまで来た時、名前の予想通りの声が聞こえる。

「名字さん、」

自分を呼ぶ乙骨の声に、名前は音もなく振り返る。
パチリと目が合えば、名前の目つきの悪さに一瞬怯む乙骨。だが、声を掛けた勢いに任せて少し大きめの声で彼女へ言う。

「あの!僕も一緒に行ってもいいかな?何かお手伝いができれば…」
「絶対来ないで。」

言葉が尻すぼみしていく乙骨に対し、名前は容赦無くバサリと切り捨てる。
そうだよね、ごめんね邪魔して。と、自分を傷付ける名前にお人好しな言葉を返す乙骨。これではまるで名前が悪者みたいではないか、と苦虫を噛み潰したような顔で乙骨から離れる。

彼が“手伝う”ことによって、名前の価値はどんどん下がっていくのを、彼は知らない。
きっと彼はただ忙しい名前の事を純粋に支えたいと思っているだけだが、名前に突きつけられている現実はもっと残酷なのだ。

クラスメイトとの距離を少しずつ縮めて来た名前は、この日を境にまた孤立していった。
冷たく沈んでいく心に蓋をして、身体を気遣う事なく強くなる為の努力を重ねた。



そんな名前の心を奪い去ってしまう唯一の人間、伏黒恵と出会うのは、もう少し先のこと。





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