#1 盈月




「そう言えばさ、俺さっき、伊地知さんとすげー美女が中庭を一緒に歩いてんの見たんだけど、」

やっぱこれかな?伊地知さんも隅に置けない人だな〜。そう言いながら、にひひと笑い自身の小指を立てる虎杖。いや、高専の中を一緒に歩いてた時点でそれは違うだろ、なんてぼーっと考える伏黒だが、それを口には出さず、黙って夕食を頬張る。
今、虎杖と一緒になってそのネタで盛り上がっているのは、2年のパンダと狗巻で。彼らは食事中にもかかわらず箸を止めて熱い自論を繰り広げる。
伊地知さんめちゃくちゃ仕事できるし、意外と高級取りだからなぁ。女の1人や2人ぐらいいたって不思議じゃないよな。俺だって結構お姉さん達に好評なんだぜ、パンダだからなぁ。え、マジすか?おかか?本当だ、嘘じゃねーよ。
そんな会話を聞き流しながら、ズズッと熱々の味噌汁を伏黒は啜った。

全国に2つしかない呪術専門の教育機関の1つであるここ東京都立呪術高専は、呪術師の活動拠点として使用されている。そのため、生徒以外の呪術師の出入りがあっても何ら不思議ではない。
ましてや、ここにきたばかりの虎杖が知らない呪術師なんて沢山いる。きっと伊地知と仕事中の女性呪術師と間違えているのだろう。興味なさげな素振りをしながら虎杖達の会話を聞き流していた伏黒。不意に、ジャージのポケットに入れたスマホが振動するのを感じ、ごそごぞとポケットを漁りだす。
短く揺れたスマホを手に取れば、ディスプレイにはメッセージが来たことを示すアイコンがポップアップされていた。

誰だ、また五条先生のしょうもない冗談か、なんて気怠げな思いを抱えながらメッセージを開く。だが、送り元の名前を目にすれば、一瞬にして気怠さはなくなる。
伏黒はすぐにそのメッセージを開き、内容を確認した。

「…あの人、なんでまた急に…」

想像もしなかったメッセージの内容に、思わず呆れ果てた声が出る。
そんな伏黒の目の前に座っていた虎杖は、独りスマホを片手に苦笑する伏黒を見て頭上にハテナを浮かべる。だが、そんな事など気にする余裕もない伏黒は、メッセージに返信の返信を何と打つべきかを考える。

「ん?どうかしたのか、伏黒?」
「いや、別に…」
「そっか、ならいっか……って!!アアーーッ!!」
「なんだ!?」
「高菜!?」

急に放たれた目の前の男の大声に、伏黒を含めこのテーブルで食事を囲う全員が何事だと虎杖の方を見る。
当の本人は食堂のドアの方を指を差しながら、大きな口を開けながら叫ぶ。

「あの人っス、パンダ先輩!狗巻先輩!あの人が伊地知さんの愛人!」

その声に全員が扉の方へと目を向ける。
食堂の窓に映ったのは、大きなスーツケースを持った1人の女性の姿。虎杖の大声に驚いた様で、険しい顔で食堂を覗いている。

彼女を逃がすまいと、ひょいと席を立ち彼女の元へと向かう虎杖。それに続いて、皆が虎杖を追って彼女に駆け寄るが、それも束の間、「おいおい、嘘だろ…」とパンダが小さく呟けば、狗巻と一緒にその場で立ち止まり唖然とする。
その半歩後ろで、伏黒は1人控えめに苦笑いをした。

「悠仁、そいつは絶対ないな。」
「おかか」

彼女の姿を目にした先輩達は、さっきまでの好奇心を完全に失っていて。その代わりに、どこか安堵した様な視線を彼女に送る。
いまいち状況が読めない虎杖は、驚いた顔のまま先輩達へ質問をする。

「え、何!?先輩ら知り合いなの?」
「知り合いも何も、クラスメイトだしな」
「シャケシャケ」
「虎杖、その人は2年の名字先輩だ。」
「え!そうなの!?」

なんだ伏黒も知ってたのかよ、と伊地知の愛人ではなかった事に少しがっかりしている様子の虎杖。
その目の前には、眉間に皺を寄せながら腕組みをした名前がいて。心底面倒臭そうな顔をしながら「…なに」と低い声で虎杖とパンダを見る。美しい顔に似合わないその素っ気なさに、ひっと一瞬怯みを見せる虎杖。しかし、負けじと元気良く自己紹介を兼ねた挨拶をする。

「初めまして、虎杖悠仁っす。好きな女性はジェニファーローレンスです。」

よろしくお願いします!とテンポの良い自己紹介をきめるが、彼女はにこりともせず虎杖を見ていて。
「うわー、めちゃくちゃ怒ってる…」と小声で虎杖が呟けば、名前の眉間の皺は更に濃く刻まれていく。

「名前、帰ってきてたんだな。」
「シャケ」
「あれ、そう言えばその大荷物…どっか行ってたんすか?」
「海外にな。悟のお遣いに行ってたらしいぞ。」

五条先生、生徒を海外にお遣いさせるの!?と落ち着くことのない虎杖は驚きをそのまま露わにする。
特に興味なさげに耳からこぼれ落ちた髪を掬う名前。その様子を伏黒はちらりと盗み見た。

いつも綺麗に解かれている彼女の髪は、今日は一つにまとめ上げられていて。その毛先は少し跳ねている。きっと海外での生活が多忙で身嗜みを気にする余裕はなかったのだろう。
それに帰国日である今日は1日以上飛行機に乗りっぱなしで、きっと疲れているはずだ。だがそんな素振りなど一つも見せず、凛とした態度で虎杖達へ鋭い視線を向けていて。ああ彼女はそんな人だったと、暫く感じていなかったこの感覚がまた味わえたと密かに嬉しさを感じる。

「で、どうだった?海外の呪霊は。」
「…別に。」

パンダとの会話をひと蹴りし終わらせる名前にぎょっとする虎杖。これまで虎杖と共に時間を過ごした呪術関係者でこんな態度の人は居なかったはずだから、尚更だろう。

「えー、めっちゃ塩対応…」
「名前はこういうやつだ。」
「シャケ」

気にした方が負けだと、彼女のこの態度にすっかり慣れてしまったパンダと狗巻は何ともない顔で虎杖に言う。
用事が終わったなら、と言わんばかりに組んでいた腕をほどき、大きなスーツケースを再び手に取る名前。今日はもうこのまま部屋に帰ってゆっくり休んでもらった方がいいと、誰もが彼女を見送る言葉を考えていたところで、後方から聞こえてきた声が彼女を呼び止める。

「名字さん、」

聞き馴染んだその声がした方へと振り返れば、先刻まで話題の中心となっていた人物ーーー伊地知が小走りでこちらに来ていて。
ふう、間に合って良かった…、と少し息を切らせた伊地知は足を止めると、改めて名前の周りにいる伏黒達を見て「あ、皆さんお揃いで…」と呟く。

「名字さん、長旅から帰ってきて早々で申し訳無いですが、任務に…」
「荷物置いてくる、車回してて。」
「…話が早くて助かります。」

実は1級かそれ以上が推測される案件なのですが、1級術師は名字さん以外は全員で払っていまして…。と申し訳なさそうに眼鏡を押し上げる伊地知さん。
海外の任務から帰ってきたばかりの彼女を任務に充てがうなんて、いくら術師の数が足りないからと言ってもやり過ぎではないだろうか。今この場には、彼女の代わりになりうる準1級術師の狗巻や、2級術師の伏黒がいるというのに、あえて彼女を指名するなんて。伏黒はもどかしさのあまり、ぐっと拳を握る。
彼女へのこの様な扱いは今に始まった事ではない。やたらと1人の任務が多い上に、1級以上の大物案件の的中率が高い。特級クラスとやりあう事だって偶にある様だが、連れが居ない彼女はそれを1人で対処する。特級となると殆ど未知の呪霊に等しい存在で、高専を卒業した術師ですら恐ろしいと嘆くほど。そんな呪霊を1人で祓えと指示するのは勿論、補助監督の伊地知1人の判断などではない。噂によると、彼女の家が一枚噛んでいるという話だ。伊地知は上が決めた人間を別の人間にスワップすることができないため、いつも渋々彼女を現場へと連れて行く。

これまでどんな時も彼女は任務を拒んだことはなく、いつも二言返事で了承してくるため、彼女に依頼をする立場の伊地知はよく心苦し気にしている。

「1級術師は少ないからな、大変だな」だから仕方がない、そう伊地知をフォローするようなパンダの声がする廊下で、名前はゴロゴロとスーツケースを引きながら自室へと歩き出す。

「名字先輩、」

そんな歩き出したばかりの彼女を呼び止めたのは、誰でもない伏黒だった。
音もなく綺麗に振り返った名前は、先程の嫌そうな顔ではなく、ただ純粋に不思議そうな顔で伏黒を見ていて。久しぶりに彼女と目を合わせた伏黒は、胸の底から湧き上がる嬉しさを隠しきれず、つい柔らかい表情が溢れでる。ああ、釘崎だったら絶対に「なに伏黒キモいんだけど」なんて言葉で非難されるような顔だ。そう自覚はするが、止められない。
虎杖や先輩達から見えない角度で良かったとほっとしながら、彼女のスーツケースの取っ手を握る。

「荷物、部屋まで運んでおきますよ。」

伏黒がそんな提案をすれば、名前はきょとんとした顔を浮かべていて。なんだ可愛いからここでその顔はやめてくれ、と先程の睨みを利かせた顔とのギャップにぐっと胸を掴まれる伏黒。ただでさえ彼女は虎杖が遠目で見てはっきりと言い張れるほどの美人なのだ。先程の様に厳しい表情で居てくれなければ、名前と久しぶりに会った伏黒の心臓は持ちそうもない。

はっと何かを理解した様に、ムスッとした顔を慌てて作り直す彼女。もう色々遅いが、まあそれでいい。
スーツケースからぱっと手を離した彼女は伏黒をチラリと見て、言った。

「土産なんて、ないから」
「別に期待してませんよ。」

どうやら彼女はこれを土産の催促に思った様だ。彼女は自分を一体なんだと思っているのだと、呆れて笑いが込み上げる。伏黒へ荷物を預けて身軽になった彼女は、そのままの足で伊地知と共に現場へと向かい出す。

名前の背中を見つめながら、「気をつけて」とボソッと口にする伏黒の言葉は、この場の誰にも届く事はなかった。







夜11時30分、伏黒は今日の夕食時にきたメッセージを、何気なく見返していた。
『帰った。今高専。』
その短い二言のメッセージは、紛れもなく名前が送ってきたもの。

2ヶ月前、彼女は五条の“お遣い”とやらでアラスカへと旅立った。そこからはメッセージも来なくなり、音信不通な状態が続いた。最初は1週間もすれば帰ってくるだろうと軽い気持ちで待っていた伏黒だが、待てど暮らせど彼女は帰ってこない。メッセージをしようも返事は来ない。五条に聞いても「なに恵、名前のこと気になるの〜、寂しいよね〜!でも、これも2人の愛の試練だと思って待っててあげて。浮気はダメだよ!」とかではぐらかされる。
一体なんなのだと不安ばかりが募る中、彼女は何食わぬ顔をして、いきなり帰ってきた。

この2ヶ月間一体何をしていたのかとか、何で連絡をくれなかったのかとか、怪我はないかとか、少し痩せたかとか、とにかく彼女を一目見て言いたいことが沢山頭の中で溢れ出たが、彼女はそれを伝える機会さえくれずに任務へと出てしまった。
そしてまた連絡が途絶えてしまった。

自分でも女々しい事を思っているという自覚はあるが、それでも彼女と長く付き合っている訳ではない伏黒の心は、一々不安に駆られてしまう。周りには彼女と付き合っている事を秘密にしているため、今日久々に会った時の少し他人行儀な会話がもどかしく切ない。

時計をチラリと見ると、もうすぐ日付が変わる。
今日はもう彼女は帰ってこないかもしれない、そう伏黒が思い始めた丁度その時、部屋の鍵を開ける音が聞こえてくる。その音に弾かれる様に寝転んでいたベットから起き上がり、ドアの方へ向かう。

そこには、随分と待ち侘びた彼女の姿があった。

「おかえり、名前さん。」

嬉しさのあまり踊り出す心を抑えながら、伏黒は名前へとそっと近づく。
疲れた様子の彼女を支えようと手を差し出せば、そのまま彼女の体が伏黒の方へと傾いてくる。完全に気を許し、その身を委ねてくる彼女の小さな身体を抱き止める。
ああ、彼女はこんなに小さかったのだろうか。腕の中で伏黒の胸へと顔を埋める彼女は、記憶の中の彼女よりもずっと小さい。こんな彼女が自分より上の階級を持っていて、自分ではなんともならない呪霊と戦うなんて、誰が想像できるだろうか。
小さな頭を撫でるように、綺麗な髪を縛り上げている髪留めを外す。
サッと首筋へと落ちていく綺麗な髪に自分の指を絡めれば、伏黒は不意に2ヶ月前の旅立ちの日にもこうして抱きしめあった事を思い出す。
あの日も、こうして何も言わずに甘えてくる彼女を存分に甘やかしてやった。
だけど、こんなにも空っぽの心が満たされ幸せを噛み締めるような状況ではなかった。あの時は、1週間我慢すれば良いのだと自分に言い聞かせ、寂しさに気づかない様にやり過ごしていたのだ。

一人で過ごしたこの2ヶ月間を考えれば考えるほど、ああ、もう二度と離したくない。と彼女を抱く腕に力がこもる。「いたい…」と助けを求める声が腕の中から聞こえきて、まずい、と腕の力を緩めれば、その腕の隙間から彼女はひゅるりと外へと抜け出してしまう。まるで猫の様だ。

シャワー浴びたい、とだけ言って部屋の奥へと入っていった名前は、テーブルの前でピタリと足を止める。

「これ……」
「まだ食べてないんですよね?」

テーブルの上には、伏黒が自分の部屋の冷蔵庫の余り物を持参して作った、簡単な夜食があって。ラップがかかった夜食を目を輝かせながら見る彼女は、何も言わないのに、なんだか素直で可愛らしい。チンしますか?と伏黒が問えば、コクリと首を縦に振り、シャワーに行く予定など無かったかのようにテーブルにつく。

「前もって連絡くれてたら、もっとちゃんとしたの作ったんですけど。」
「…連絡した。」
「いや、高専の敷地の中で帰ったってメッセージするののどこが前もった連絡なんですか。」

レンジから皿を取り出して名前の目の前に置けば、おかずもご飯も瞬く間に彼女の口の中へと消えていく。本当にお腹がすいていた様だ。自分が作った質素な料理をこんなにいいペースで食べて貰えるのは、伏黒としても嬉しい。
同時に、自分がこの夜食を用意しなかったら、彼女は何も食べないつもりだったのだろうか?と疑問に思う。もちろん、2ヶ月間も不在だった彼女の部屋の冷蔵庫は空っぽですぐに食べられるものなどない。

1級術師で普段サバサバしている彼女はしっかり者だという印象を受けがちだが、どこか危ういところがある。
たった一人それに気付き踏み込んだ伏黒は、気が付けば名前の虜になっていた。
知れば知るほど、愛おしくて堪らなくなる。
彼女は麻薬の様なひとだ。

「疲れてますね。」
「…別に。」
「…疲れてますよね?」
「…ちょっとだけ。飛行機が長かった。」

食事を終えて、シャワーの準備をする名前の手が時々止まるのを見て、相当疲れているのだなと感じる。だけど、一つも弱音を吐かない彼女はいつもそれを内に秘めたまま過ごすのだ。それがもどかしくて、わざと伏黒は彼女の本音を聞き出そうとしつこく聞く。
彼女は押しに弱い。故に、本音を聞き出すコツさえ覚えていれば、今日の虎杖の様にこの人難しいと嘆くこともないのだ。

「おつかれさまです。」

そう言って彼女の肩を後ろから揉んでやれば、シャワーの支度をする手が完全に止まってしまう。伏黒のマッサージを全力で感じにくる彼女が可愛い。年上にこう思うのも何だが、本当に仕方のない人だと、思わず笑みが溢れる。

「恵、」

マッサージの途中でくるりと振り返り伏黒を見た名前は、「はい」と手に持った紙袋を伏黒へと突き付ける。突然どうしたのだと驚きながらもその紙袋を受け取り、中を確認する。そこには、英語で書かれた色々なものが入っていた。

「お土産、ないんじゃなかったんですか?」
「これは土産じゃない、ご飯のお返し。」

またこの人はそんな訳の分からない照れ隠しを…。自分のために買い物をするのが苦手なくせに、こんなにも色々買ってきてこれは貴方へのお土産じゃなかったけどまあいいやあげる、なんて。どう考えても不自然だ。
だが、まあそういう事にして、素直に彼女からのお土産を受け取る。

「ありがとうございます。」

そう伏黒が柔らかい笑みでお礼を告げれば、ふいっとそっぽを向いてしまう名前。
なんだ急にどうしたのだ、とそっぽを向く彼女の顔を覗き込めば、こっち見ないで、と怒られる。何故だか分からなかった伏黒だが、彼女の赤くなった耳が目に入れば、ああそういうことか。と大体のことを察してしまう。
本当に一体この人はどれだけ人の心を揺さぶれば気が済むのだろうか。ただでさえ皆の前と2人きりのときとで大きなギャップがある彼女に、伏黒はこれでもかと言うほどときめいているというのに。
彼女は素でこういうことをするのだ。
彼女は本当に危険なのだ。

「…ごはん、おいしかった。」
「それは良かったです。」

本当にどこまでも愛らしい彼女はこの2人の時間を終えれば、また他人の顔をして1人きりになる。
なら、2人きりの時間だけでも彼女の癒しになる様にと伏黒は目一杯彼女を今日も甘やかすのだった。





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