#5 蟄居



時刻は朝9時、綺麗に整頓された伏黒家の調理台には次々と食材が並べられていく。パンやソーセージ、野菜、果物などが揃えて置かれた台の上を一通り眺めた伏黒は、朝食の献立を思い浮かべながら調理の段取りをしていく。まずは、と先日近所のスーパーで買った野菜を手に取り、食べ易い大きさへと切り揃える。トントンとリズム良く包丁がまな板に当たる音がする中、直ぐ横のリビングからはいつものテレビ番組が今日の運勢を告げていて。それに少し耳を傾けながら、伏黒は手際良く2人分の皿をテーブルに並べていく。
自分と、まだ隣の寝室で眠っている名前の分だ。

ふと、伏黒は今朝ベットから出た時の彼女の寝顔を思い浮かべる。気持ち良さそうに眠っているその寝顔が可愛くて、伏黒はいつも起き上がる前にじっと彼女の寝顔を眺めたり、頬や額に軽く口付けをしたりする。セックスをした次の日の朝は疲れているのか、伏黒がこうして触れても彼女が目を覚ますことはない。そんな眠ったままの彼女を存分に堪能するのが、何年も前から伏黒の日課だった。
だが、そんな幸福なひと時に限って時間はとても早く進んでいく。すぐ側にある時計を見れば、既に起きなければならない時間を示していて。名残惜しい気持ちを殺しベットから立ち上がった伏黒は、寝室を後にしたのだ。

きっと、彼女はまだ当分起きては来ない。昨晩は少し無理をさせてしまったからなと、伏黒は昨晩の事を思い出し反省する。…そう、毎回こうして反省はするのだが、結果はいつも伴わない。毎朝のように同じ反省を繰り返す伏黒は、何も学んで無いなと自分に呆れてしまう。
彼女の身体を気遣って、始めるときは今日は絶対に1回だけだと自負して挑むのだが、彼女があまりにも可愛すぎて、いつも調子が狂ってしまう。平気だから辞めないでと伏黒にしがみつく彼女が愛しくて堪らなくて。あんな風に言われたら男なら誰だって盛り上がってしまうだろうとつい自分に言い訳をしてしまう。こうして少し思い出すだけでも、下半身がぐっと熱を帯びてくるのに。彼女は素で伏黒をあんなに盛大に煽ってくる、本当に危険な人なのだ。その彼女の誘惑にいつも耐えきれなくなる伏黒は、事を1回で終わりにさせることが出来ず、結局彼女に無理をさせてしまう。
こうしていくら反省しても、きっと彼女の誘惑に耐えられる忍耐力なんて得られそうには無いのだが。

そんな彼女も、恐らく1、2時間もしたら起きてくるだろう。そしたら彼女と一緒に朝食を食べて、食器を片付けて。そのあと、今日は何をして過ごそうか。彼女はやりたい事はあるだろうかと考える。

伏黒と名前は、今月から2ヶ月間休暇をとっている。
それは先月、自分達の身に降り掛かった出来事をきっかけに、2人で話し合って決めた事だ。

先月までの3ヶ月間は例年よりも忙しい繁忙期となり、2人は殆ど休日のない日々を過ごしていた。呪術師とはこういう仕事なのだと割り切り、伏黒は当たり前のように毎日遅くまで働いていた。そして、気が付けば何よりも大切な名前との時間を失い、2人の仲に亀裂を入れてしまっていたのだ。
伏黒に「奥さんが別の男と居る」なんてあり得もしない嘘を巧みに吹き込んでくる女や、逆に、伏黒が不倫をしているというメッセージを名前に送るストーカー。もし毎日少しだけでも顔を合わせ、会話をしていれば、きっとそんな胡散臭い奴らの言う事なんて伏黒も名前も信じなかっただろう。だが、仕事に明け暮れ「繁忙期が去れば」なんて理由を付けて2人の時間を二の次にしてしまった伏黒達は、お互いの為だと思って誤った道を進み、悪い噂に最悪な想像をして、結果、伏黒は酷く名前を傷付けてしまったのだ。
こんな事になるのであれば、もっと2人でいる時間を作れよかったと後悔し合った伏黒と名前は、もう2度とこんな事が起きないように、2人の時間を大事にしようと、これまで使う機会がなく溜まっていた休暇を全て注ぎ込み、2人一緒に2ヶ月の長期休暇を申請したのだ。

伊地知には何度も「2ヶ月…2週間ではなくて、2ヶ月ですよね?」と聞き直された。それはそうだ、高専所属の特級呪術師が2人も同時に長期休暇をとるのだ。だが、まあ繁忙期も過ぎたので何とかなるだろう。伊地知には申し訳ないが、2週間ではなく2ヶ月だと言い張り、申請を受理してもらった。

そして始まった長期休暇の1週目で、伏黒達はまず最初に家を引っ越した。
それには色々な理由があったが、主な理由は、あのストーカーに知られていない家に引っ越したかったのと、もっと人気や街灯の多い安全なところに引っ越したかったのだ。もう2度と不躾な輩が名前に近付かないように、とにかく近辺が安全で家のセキュリティが厳重なところを血眼になって探した。当の本人は、もうあんな事は2度と起きないし、あったとしても次は絶対に伏黒に相談するから平気だと言い張っていたが、伏黒は決して首を縦に振らなかった。何処の馬の骨かも分からない男の手がベタベタと名前に触れるなんて、もう2度と御免だったからだ。

また、前の家は2人で住むにはあまりにも広く、孤独を感じることが多かった。だから次はもう少し2人暮らしに丁度いいサイズの家にしようと、何件も下見をした。

そしてつい先日、伏黒達はそんな理想の家へと引っ越してきたのだ。

引越しの次の日、早速辺りを2人で散歩したり、近くのショッピングモールで必要な物を買い集めたりした。
今でもよく釘崎の買い物に連れ回される割には、自分の欲しいものを中々選べない名前。うんと難しそうな顔で悩む彼女に、店員が色々な商品を薦めてきて。それをどう対応すればいいのか分からずに慌てる彼女に、伏黒は何度も笑ってしまった。

そしてそのあと、2人で近所のスーパーに行き、お互いに好きなものを沢山買った。
この数ヶ月は仕事が忙しく料理をする暇など殆どなかったため、前の家の冷蔵庫はいつも空っぽだった。
しかし、伏黒達はこれから暫く休暇であり、その間お互いのために毎日料理をしたいと思っていて。残りの休暇を丸々引きこもる勢いで食材を買えば、冷蔵庫の中は前とは比べ物にならないほどパンパンになった。少し買いすぎた気もするが何だか生活感があって良いなと、冷蔵庫の中を見て2人で満足気に笑い合った。

それは、きっとどこの夫婦でも当たり前の様な光景なのだろう。しかし、そんな当然のような日々がいつからか2人には欠落してしまっていた。
忙しさに埋もれて見失ってしまっていたその当たり前の幸福を、伏黒達は今必死に取り戻そうとしているのだ。

電気ケトルがカチッと音を立て、お湯の準備が万端となったことを知らせる。インスタントコーヒーのパウダーをいつも通りに掬って、テーブルに並べたお揃いのカップの片方だけに入れる。そこに沸きたての熱いお湯を注いでいけば、香ばしいコーヒーの香りが部屋中に広がる。
そしてその直ぐ側に、さっき作ったサンドイッチにサラダ、スープ、フルーツを並べていく。
これで一先ず朝食の準備は整った。あとはゆっくりとコーヒーを飲みながら彼女が起きるのを待つだけだ。一息付こうと椅子へ腰掛けた伏黒は、いつものようにテレビを見ながらコーヒーを啜る。

すると、ガチャっという音と共に寝室の扉が開き、中からは眠そうな顔をした名前が目を擦りながら出て来る。彼女が起きる時間にしてはまだ早いはずだが、と時計を見る伏黒。今日はどうやら少し早めの起床らしい。ゆっくりとこちらに近づいて来る名前に、伏黒は柔らかく微笑む。

「おはよう、名前。」
「恵……わたし、また寝坊した…。」

テーブルに並んだ出来立ての朝食を見ながら、そうボソリと呟く名前。そんな事はない、寧ろ伏黒が想定していたより1時間以上も早い目覚めである。だが、きっと彼女は「今日こそは早く起きて自分が朝食の準備をしたかった」なんて事を思っているのだろう。
伏黒からすると、昨晩彼女に散々無理をさせたのは自分なのだから、彼女が起きる前に朝食の準備をするなんて当たり前のこと。しかし、彼女はどうせ、自分だけが暢気に惰眠を貪り何もしていない、なんて考えているに違いない。彼女と伏黒とでは翌日の負担が全然違うのに、彼女はそれをまるで分かっていない。彼女がどれだけ伏黒の心と身体を回復させているのか、また今度諭さなければ。

目の前でしょんぼりとする彼女の髪を掬い、そして耳へと掛けてやる。
そしてそのまま名前の頬へと手を添え、額へ軽く唇を当てる。

「眠いならまだ寝ててもいい、どうせ今日は天気も良くないしな。」
「ダメ…恵と一緒にいる、じゃないと勿体ない。」

そう言って添えてある伏黒の手に頬を擦り寄せてくる名前。寝起きであまり頭が働いていないのか、ぼーっとした表情で甘えて来る彼女が何とも言えないぐらい可愛くて。伏黒の表情は完全に緩みきってしまう。
ああ、今日は一日中ずっと彼女を甘やかしてやりたい。そう思いながら伏黒が名前の頬へと口付けをすれば、彼女の目は徐々に大きく開かれていく。
頭が起きてきたのか、彼女は今になって自分が放った言葉を理解した様で、かあっと頬を染めて伏黒から目を逸らす。そして、「か、顔洗ってくる…っ」と言って逃げる様にその場を去っていってしまった。

その場に残された伏黒は一人、どうしようもなくニヤけた顔を手で覆い隠す。
何なんだ、何で朝からあんな可愛いことするんだあの人は。それに、何年ああやって照れれば気が済むんだ。
顔に熱が籠っていくのを感じて、伏黒は思わず手の甲で頬を抑える。

実は名前はあの一件以降、こうして恥ずかしがりながらも少しずつ自分の思っていることを言葉にしてくれる様になった。伏黒は10年も彼女と一緒に居ることもあり、彼女の顔を見れば何となく言いたい事や思っていることが想像できる。でも、やっぱり彼女から直接言葉にしてもらえるのは嬉しいもので。
それに、言葉にされる度に、彼女はこんなにも伏黒のことが好きだったのかと改めて驚かされる。その度に、もう何年も前から夫婦なはずなのに、まるで付き合い始めた頃のような胸のドキドキが伏黒を襲ってきて。また彼女に心を骨抜きにされるのだ。
こんなにも彼女を愛している自分は異常だと分かっているが、もはや伏黒でさえこの気持ちを止めることはできない。
愛しくて愛しくて堪らないのだ。

名前が去った後、伏黒はテーブルに並ぶ彼女のカップを手に取る。熱い飲み物が苦手な彼女がすぐに飲めるよう、自分のカップに注いだコーヒーを彼女のカップへと移し替え、再びお湯を沸かし始める。そして彼女の好きそうな朝食をできるだけ彼女の席の方へとセットすれば、準備は万端だ。
電気ケトルが沸騰の合図を鳴らすのと当時に、名前が洗面所から戻ってくる。ゆっくりとこちらに近付いてくる彼女は、少し恥ずかしそうに鎖骨付近を摩っていて。どうかしたのだろうかと彼女の鎖骨付近に視線をやれば、伏黒はすぐに昨晩そこに沢山痕をつけたことを思い出し、ああと納得する。
伏黒は名前に痕を残すのが好きだ。それは醜い独占欲の印なのだが、彼女の綺麗な肌に自分がつけた痕が散っているのを見ると、とてつも無い満足感が湧き上がる。
それに、何より彼女の反応がとてもいい。ほぼ毎回と言ってもいいほど伏黒は彼女のどこかしらに痕を残すのに、彼女は必ず次の日に戸惑ったような顔で恥ずかしがるのだ。前に一度、いい加減慣れないものなのか?と彼女に尋ねてみたことがあった。すると、彼女は朝見るたびに昨晩の事を思い出すのだから、これは慣れる慣れないの話ではないのだ、と言っていた。
なら昨晩の事を思い出すのを慣れればいいとも思ったが、まだ伏黒の前で服を脱ぐ事すら恥ずかしがる彼女には無理かと言葉を飲み込む。
伏黒は恥ずかしがる彼女を見るのがこの上なく好きなのだ。もし慣れた方が良いなんて余計な事を言えば、彼女は十中八九それに慣れる努力をし始める。そうすれば、セックスの翌朝の楽しみが一つ取り上げられてしまうことになる。そんなのは伏黒としても御免だ。
目の前でキスマークを過度に気にする可愛らしい彼女に伏黒は何も言うことなく、彼女の席の椅子を引き、朝食の席へと誘う。

テーブルの上にはいつもと変わり映えしない朝食が並んでいる。それでも、彼女はそれをキラキラとした目で見つめていて。
そんな彼女に温かい気持ちを感じながら、伏黒も向かいの席へと腰を下す。

「おいしそう…これはなに?」
「ん?ああ、それは昨日買った鶏の生ハム。チーズと合うなと思ってサンドイッチにしてみたんだ。」
「…うん、絶対あう。」
「味見してないから保証はしないけどな。」
「恵が作ったのは全部美味しい。」
「全部は言い過ぎだろ、」

うんうん、と頷きながら興味津々にサンドイッチを見つめる名前。伏黒の料理を盛大に買い被る彼女の反応に、伏黒は思わず苦笑してしまう。しかし彼女の目はどこまでも本気で、全部美味しいのだと主張していて。そこまで真面目に褒められると何だか小恥ずかしい気持ちになる。
伏黒は普段から調理方法を調べて無難なものしか作らない。そのため、美味しく無い料理は中々ないのだが、美味しいという料理もレアだ。要するに、殆どが普通の味なのだ。だが、彼女は偽りない表情で何でも美味しいと言って食べてくれる。本当に、そういうところも含めて全部が愛しくて堪らない。
2人で手を合わせていただきますを言えば、彼女は早速生ハムのサンドイッチへと手を伸ばす。はむっと口に頬張った彼女は、何だかとても嬉しそうな表情を浮かべながらサンドイッチの中身を覗く。

「すごくおいしい、」
「まあ元々美味しいものをパンに挟んだだけだしな。」
「…そんな次元じゃ無い、恵も食べて。」

そう言って皿から同じ具のサンドイッチを掴み、伏黒の方へと差し出す彼女。一体どんな次元の食べ物になったのだと思いながらも、急かされるままに伏黒はそのサンドイッチを口にする。
しかし、そんな伏黒をあまりにも真剣な目で見つめてくる彼女が可愛くて、サンドイッチの味に全然集中できない。彼女からの熱い視線にどくりと胸が跳ね上がり、慌てて視線を逸らしてサンドイッチを見る。
もう10年も一緒に居るのに、未だにこんなに彼女にときめいているなんて、自分でもおかしいと思う。釘崎や真希が知ったら、完全に生暖かい目で揺すられるやつだ。あの2人は名前が可愛くて仕方がないらしく、それ故に伏黒に若干冷たい時がある。
サンドイッチの感想が伏黒から中々返ってこないことが心配になったのか、目の前にある彼女の顔は少しずつ険しいものになっていて。ああ、まずい。そう思った伏黒は慌てて「悪くないな。」と返事をする。すると、彼女は自身の顎に手を当て、「ん…」と微妙な声色で小さく唸る。

「…恵は、津美紀の手料理で舌が肥えてるって前に悟様が言ってた。」
「なんだそれ、別に普通だろ…。ていうか、あの人の言うことあんま鵜呑みにすんな、どうせ揶揄って言ってるだけだ。」
「…特に愛が入ってるかどうか一発で見抜いてくるから気をつけろって言ってたけど…」
「いや、一体どんな人間だよそれ。」

完全に五条に揶揄われている彼女に、伏黒は思わず苦笑してしまう。確かに名前はこの類の話に関しては疎く、そして自分が疎い事を自覚しているため、何も迷う事なく五条の言葉を信じてしまうのだろう。
全部嘘だったということに今更気づいた彼女は、きょとんとした顔で伏黒を見つめていて。普段、仕事中は誰もが賞賛する程しっかりとしているのに、オフになった途端、どうしてこんなことになるのだろうかと、伏黒は一人笑ってしまう。

そんな会話が耐え間なく続けば、朝食の時間はあっという間に終わりを迎える。名前と一緒に食器を後片づけしていると、不意にズボンのポケットに入れていた伏黒のスマホが振動する。こんな時間に電話を掛けてくるなんて、一体誰だろうか。伏黒達は今は休暇の真最中なので高専関係者ではないはずだが、とスマホを手に取り画面を確認する。すると、そこには今でも親しく連む友人の名前が表示されていて。
電話を受ける前に伏黒はチラリと名前の顔を見る。すると、彼女は穏やかな表情でコクリと頷いていて。それを合図に、伏黒は通話ボタンを押して電話に出た。

『あ、もしもし?伏黒?』
「虎杖か、どうした?」
『いや〜、伏黒元気かなって。…って、まあ元気じゃない訳ないよな。聞いたぞ、名前さんと2ヶ月休み取ってるんだって?』
「…五条先生か。」
『お、当たり。あと伊地知さんが泣きながら言ってた。』
「泣きながらって…もう繁忙期も過ぎたし今そんなに人手は要らねぇだろ。」
『でもなんかさ、特級術師の中でも伏黒と名前さんみたいに真面目な人は希少だから、抜けられると困るんだって。』
「それ単純に任務頼み易いだけだろ……。」

あはは、そうかもな。なんて電話越しに笑う虎杖は、学生の頃から何一つ変わらず、今でも伏黒の親友だ。お互い特級術師になってからは任務を共にすることは無くなったのだが、偶に食事や買い物に行ったりするぐらいプライベートでの仲はそのままだ。そんな虎杖が電話をかけてくる事は、伏黒にとって特に珍しいことではなくて。

「で、なんか用事か?仕事は受けねぇぞ。」
『そんな野暮なことしないって。実は今日、釘崎と偶々任務が一緒でさ、終わったら伏黒の新居にお邪魔したいなーなんて。…どう?』
「絶対に嫌だ。」
『えー?なんで!?』
「面倒臭ぇ。」
『酷い!まあ、でも伏黒ならそう言うと思ってたけど……え?なに?釘崎が名前さんに聞いて、いいって言ってる?じゃあ俺、伏黒に聞かなくてもよかったじゃん!』

虎杖と釘崎がうちに来るなんてきっと碌なことが起きやしないと思ってキッパリと断った伏黒だが、虎杖の言葉を聞いてすぐ側の名前へ視線をやる。
すると、彼女はスマホを片手にちょうど伏黒に何かを言い出そうしていた所で。くそ、あいつ本当に抜かり無いな。悪そうに笑う釘崎の顔が頭に浮かんできて、伏黒は思わず苦笑してしまう。

「恵、今晩 野薔薇と悠二がうちに…」
「断ってくれ…」
「折角来てくれるのに、断るの…?」

え、と悲しそうな表情を浮かべる名前に、伏黒は酷い罪悪感を覚える。くそ、こんなの断れる訳ねぇだろ。だが、せっかくの名前と2人きりの休日をアイツらに邪魔されたくないというのが伏黒の本音で。2ヶ月も一緒に居るのだから1日ぐらいは良いだろうと思いたいところだが、伏黒の心は素直にそう思えない。我ながらつくづく心の狭い男だと呆れてしまう。
だが、残念そうに釘崎にメッセージを打とうとしている名前に、心を鬼にすることなどできなくて。伏黒は彼女の手を優しく握り、「いや、やっぱり断らなくていい。」と首を横に振る。
すると、名前は手元のスマホからぱっと視線を上げて、そして嬉しそうに伏黒を見て頷く。彼女のその顔を見ると、もう何でもいいかと思ってしまう自分がいて。なんて単純な奴なんだと改めて思ってしまう。

電話越しにその一連のやり取りが聞こえていたのだろうか、手元のスマホからは虎杖と釘崎の笑い声が聞こえてきて。それに何だか悔しくなって、虎杖に何も告げることなく伏黒は通話終了ボタンを押してやった。







時刻は夜の8時、伏黒が名前とひっつきながらソファで寛いでいると、ピンポンという呼び鈴の音が聞こえてくる。その音に伏黒達は顔を見合わせ、きっと虎杖達だなと言う会話を交わしながら玄関へと足を進めた。
玄関の扉をガチャリと開ければ、そこには予想通りの2人が立っていて。伏黒にとっては久しぶりでも何でもない2人はどうやら相変わらずの様で、家主からの「どうぞ」の一声も聞かずに「お邪魔しまーす」と中へとズカズカ入ってくる。そんな2人に伏黒はちょっとは遠慮しろよ、といつもの様に言い放つ。

玄関で靴を脱ぐ2人に「いらっしゃい」と言いながら新しいスリッパを下ろす名前。そんな彼女の元へと、釘崎は両手を大きく広げて近付いていく。

「名前さん、会いたかったわ…!」
「うぁ…っ」

勢いを止める事なく名前をぎゅっと抱きしめる釘崎に、名前はされるがままにぐらぐらと揺れていて。そういえばこの光景久しぶりに見たかもな、と伏黒は何だか少し懐かしい気持ちになる。
いつだって釘崎と真希は本当に名前の事を慕っていた。自分の気持ちを二の次にする名前の代わりに、いつも彼女達は名前の気持ちを大事にしてくれていた。そんな名前を大切に想ってくれる彼女達もまた、伏黒にとっては掛け替えの無い存在であって。
出会い頭にじゃれ合っている釘崎と名前を横目に、伏黒はキョロキョロと家を散策し始める虎杖の後を追う。

「良い家だな!前んところも良かったけど、此処もすげーいい!」
「おい、人ん家の収納開けまくんな。」

有りとあらゆる扉を開け始める虎杖の頭をペシッと軽くしばけば、えへへと悪戯をした子供の様な顔で笑う虎杖。「やっぱ伏黒ん家はいつも整理されてて気持ちいいな。」と扉を閉めていく虎杖に「本当、数日前に引っ越してきた家とは思えないわね。」とまた扉を開け始める釘崎。こいつら人の家なのに全然遠慮ないな、と呆れて溜息を吐く伏黒。その横では、名前が楽しそうな表情を浮かべていて。彼女が嬉しいならまあ何でも良いかと途中で吹っ切れた伏黒は、そっと彼女の髪を撫でた。

一通り家中を探検した虎杖達を、伏黒はリビングへと通す。
すぐ目の前にあるテーブルの上には、今さっきまで名前と準備していた夕食が並んでいて。それを見るや否や、虎杖と釘崎はキラキラとした目を向けながら料理の前へとやって来る。

「すげー美味そう!これってもしかして名前さんの手料理…!?」
「…恵が作った、」
「いや、半分は名前が作ったろ。」
「…でも恵が作ったって言った方が、美味しそう。」
「逆だろそれ、俺より名前が作ったって言った方が絶対良い。」
「あはは、相変わらずラブラブだな、伏黒と名前さんは。」
「本当やめてくんないかしら、気安く私の名前さんとイチャつかないで欲しいわ。」
「いつからお前のになったんだよ。」

そんないつもの冗談を交わしながら、虎杖と釘崎は椅子へと座る。イチャついたつもりなど一切ないのであろう名前は、伏黒達の会話に少し慌てている様子で。そんな彼女を見て、3人はまた顔を見合わせて笑う。この感じは何だか懐かしい。
伏黒も席に座ろうと椅子を引けば、その隣に座る虎杖が思い出したかの様に紙袋を此方へと差し出してくる。「そういえば、これ差し入れ。」と言って手渡された紙袋には、有名な銘柄のシャンパンが入っていて。保冷剤で冷えているため直ぐに飲めそうだと、伏黒はそのまま貰ったシャンパンのコルクを開け始める。それを見ながら、このシャンパンは美味しいのだと釘崎は語り始める。テーブルには既にシャンパングラスが用意されていて、名前は釘崎がシャンパンを手土産にして来る事を予想していたんだろうなと、伏黒は何となく思った。
準備されたグラスにシャンパンを注ぎ終われば、皆でグラスを当てて乾杯をする。そして、目の前の料理を頬張りながら虎杖と釘崎はいつもの様に最近あった出来事などを話し始める。伏黒も名前も自分から話をするタイプではないため、いつもの様に2人の話題に相槌を打つ。

「そう言えば、伏黒達の休暇って2ヶ月だったよな?」
「ああ、今月からな。」
「じゃあまだ1ヶ月半以上休みじゃん。2人はこれからどうすんの?」
「別に、特に何も決めてない。」
「え、なにそれ勿体無いわね、それなら私に休暇と名前さん譲りなさいよ。」
「何でそうなんだよ。」
「じゃあ俺、休暇はいいから名前さん頂戴!」
「絶対ェ無理、死んでもやらねぇ。」
「だよな、やっぱり無理か。」

そうやって冗談気に笑う虎杖に、名前はいつものように不審な顔を浮かべている。
虎杖は学生の頃から名前を大層気に入っていて、相変わらず今もそんな冗談を口にする。しかし、名前は未だに虎杖の好意を怪しんでいて、いつも素直に受け入れない。そんな2人のやり取りをもう10年も見続けいる伏黒と釘崎は、今更それに不満を抱く事はない。
それに伏黒は虎杖を心から信頼している。自分と名前が付き合っている事を告白した時だって、結婚しようと思っていることを相談した時だって、虎杖はいつでも自分の事のように喜び、そして応援してくれたのだ。そんな彼が今更名前に手を出すなんて考えられない。だから、別に虎杖の名前への好意を伏黒が阻害する理由はないのだ。

虎杖と釘崎の空いたグラスに、綺麗な所作でシャンパンを注いでいく名前。それを見ながら、釘崎は名前の顔を覗き込むように尋ねる。

「名前さんは、どこか行きたいところとかないんですか?」

いきなり自分に話題が振られ、名前は小さく驚いた声を発する。そして、少し考えてるような素振りを見せ、小さくコクリと頷いた。

「うん…恵と一緒なら何でもいい。」

そう短く答えた名前に、伏黒は何だかとても胸の中が熱くなるのを感じる。
はっきりとそう発言した彼女だが、次の瞬間には恥ずかしそうに釘崎から目を逸らし、そして手元にあるシャンパンを見つめていて。俯いている彼女の耳はほんの少し赤くなっている。ああ、この人はまた自分で言っておきながら、何でこんな事になってるんだ。可愛らしい彼女のその反応に伏黒が打ちのめされていれば、どうやら釘崎と虎杖も同じ事を思った様で、「10」と書いた札を2人して挙げていて。ていうかそれ何処から出してきたんだと伏黒は何となく疑問に思う。

「名前さん可愛い…!ほんと、伏黒が名前さんを泣かした時は、マジで暫く外歩けないぐらい痛めつけてやろうと思ったわ。」
「いや、もう釘崎からは鳩尾に痛いやつ食らっただろ。あれはマジで痛かった。」
「そうだったかしら?」
「確かにあれは痛そうだったよな…五条先生、隣でゲラゲラ笑ってたけど。」

そんなまだ記憶に新しい出来事が話題に上がる。
それはつい先日、釘崎から高専に呼び出しを食らった伏黒が、彼女と会うや否や鳩尾を力一杯殴られたというエピソードで。釘崎からの突然の呼び出しなんて、絶対に名前の事を怒られるのだろうなと薄々予想をしていた伏黒。しかし、それでも完全に不意をつかれてしまい、たっぷりと呪力の籠った彼女の拳を鳩尾にキメ込まれてしまったのだ。突然のことで呪力の保護が完全に遅れた伏黒は、その拳をまともに食らってしまい、それはもうかなりの激痛を味わった。骨が折れたのではないかと何度も心配したぐらいだ。
できればもう2度とあれは食らいたくないと、伏黒は思わず顔を歪める。
そんな伏黒の目の前では、その事を知らずにいた名前が目を見開き固まっていて。

「…恵、その…ごめん……」

口元に手を翳し、酷く動揺した様に伏黒の鳩尾を見つめる名前。殴られたのはもう数日も前の話で、今は痛くも何とも無いが、名前は悲しそうな顔を浮かべていて。

「謝るな。実際に俺は殴られるような事を名前にしたし、釘崎は名前の代わりに俺を殴っただけだ。寧ろこれだけで許されるなんて甘いと思ってる。」
「そんな…」

そんな事を望んでいた訳ではない、と言いたげに険しい顔をする名前。あんなに酷い事をした伏黒を何一つ責めない彼女は、本当に優しすぎる。いっその事、思いっきり殴ってくれれば伏黒の心は少しは楽になっただろう。だが、彼女は絶対にそうしない事を伏黒は知っている。
しんと静まり返ってしまいそうな空気を濁そうと、「まだ真希さんじゃなかっただけマシだよな」と笑う虎杖。だが、伏黒からすると真希が自分に鉄槌を下さないなんてあり得ないことで。次会ったら絶対にボコられる、と随分前から覚悟を決めている。しかし、それを言えば絶対に名前は悲しい顔をするはずだと、伏黒は敢えて何も言わずに黙り込んだ。

「でも、こうしてまた幸せそうな名前さんを見れて、本当良かったです。」

そう言いながらニッと微笑む釘崎に、名前は少しだけ目を見開く。
そして、釘崎を真っ直ぐに見つめた名前は小さく言葉を紡ぐ。

「…ありがとう、野薔薇。」

溢れてくる感情を抑える様に、ぎゅっと拳を握りしめながらお礼を口にする名前。
きっと伏黒やストーカーの事を相談した日の事を思い出し、色々な気持ちで胸がいっぱいになっているのだろう。それを見た伏黒は、彼女が辛くて苦しい時に釘崎達は彼女の側に居てくれて、そして心の支えになってくれたのだと、改めて感じる。
そっと名前の髪を撫でながら「こんな男なんて捨てて、私にしたらどうです?」と冗談気に笑う釘崎に、「…恵がいいの」と照れる様に名前が笑っていて。何だか胸がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚える。

「よし、今夜はじゃんじゃん飲むわよー!」と吹っ切れた様にシャンパンを皆のグラスへと注いでいく釘崎。この調子だと、釘崎も虎杖も今晩はここで泊まっていく羽目になるのだろうと、伏黒は薄々覚悟を決める。
不意に、伏黒は自分の目の前に水の入ったグラスが置かれているのに気付く。きっとお酒が得意でない伏黒を気遣い、名前が注いでくれたのだろうと一瞬で察する。

本当にどこまでも良くできた優しい彼女を、もう2度と傷付けたくはない。
何があっても一生大事にしようと、伏黒は心の中で何度も誓いを立てた。



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