#3 嚥下



「俺はもう名前との関係を、禪院家や五条家に振り回されたくない。」

いつか名前との結婚の話を切り出した伏黒は、真剣な眼差しでそう言った。

御三家の一つである禪院家の血筋で、その相伝の術式『十種影法術』を継いだ伏黒。そして同じく、五条家の分家の生まれで、五条家相伝の術式を継いだ名前。
そんな望んでもない才能を持って生まれてきた2人の背後には、いつも禪院家や五条家の存在があった。
大昔から不仲で有名だった禪院家と五条家。その間にある溝は限りなく深く、これまで幾度となく2人の関係を引き裂こうとした。

特に名前の両親は、最悪だった。
禪院家の血を引く伏黒と自分の娘が只ならぬ仲である事を知った彼らは、名前を蔵へと閉じ込めたり、伏黒を暗殺しようと企てたり、それはもう酷い狂いようだった。結局、散々暴れ倒した両親の元へと五条悟が出向き、名前と結婚しない事を説得すると、彼らは漸く気力を失ったように項垂れ鎮まった。
そしてその後、名前が実家と縁を切ることで事態は収集した。

だが、その一件以降、名前はずっと伏黒を殺そうとした両親のことが許せなかった。
高専に入るまでは、名前にとって両親の言葉は絶対だった。彼らの言う事を守らなければ生きている意味を失うとさえ思っていた。
だが、今となっては、彼らの言葉など耳障りで不快な雑音にしか聞こえなくて。そう思う度に、過去の自分は井の中の蛙で、こんな碌でもない大人にずっと縋っていたのだという現実に気付かされる。

そんなある日、伏黒は何の前触れもなく突然、名前の両親の元へと挨拶に行くと言い出だした。それに名前は心底驚き、「あり得ない、」と言って伏黒を引き止めた。そんなの死にに行くようなものだ。
しかし、そんな名前の制止を強引に押し切った伏黒は、名前の実家を訪ねた。当たり前だが、そこで伏黒は何度も門前払いを食らうことになった。
だが、それでも名前の両親を何度も訪ね、名前と婚約することを説得してくれたのだ。

名前はもう両親とは縁を切ったのに、どうしてそこまでして彼らを説得しようとするのか。
いつかの帰り道に、名前はずっと疑問に思っていた事を伏黒に尋ねた。すると、彼は長い睫毛を伏せながら静かに言った。

「このままご両親の納得なしに結婚して、もしまた名前が五条家のいざこざに巻き込まれたらどうする。俺はもう2度とそういうので名前を悲しませたくない。」

まるでこれまで名前を苦難に晒してしまったことを悔やんでいるかのように、伏黒は苦しそうな顔を浮かべていて。
そんな伏黒の表情や紡がれる言葉からは、彼の真っ直ぐで強い想いが伝わってきて、名前の胸はいっぱいになる。

彼はただ、名前を守ろうとしてくれていたのだ。

その身を危険に晒す事など顧みず、自分を殺そうとした名前の両親に何度も何度も頭を下げて。散々嫌味を言われ、手を上げられたりもしたが、それでも諦めずに、伏黒は両親を説得してくれた。
こんな名前なんかのために。

目頭がどんどん熱くなっていく。
胸の中一杯に溢れ出す感情に、名前は何も言えなくなってしまう。
こぼれ落ちそうな涙を必死に耐えながら、込み上げる気持ちを噛み締める。

この時名前は、この先何があっても彼と一緒にいる事を誓った。
彼だけに、名前の全てを捧げようと、そう心に決めた。



そんな遠い日の記憶を、夢に見た。









重い瞼をぐっと上げれば、すぐ側にある窓からは沈みかけの夕日が見える。今は夕方なのだろうかと考えながら、枕元にあるスマホを手に取る。
そして、その画面に映し出された日付を見た瞬間に、名前は思わず飛び起きた。
あれから2日も経っているではないか、と。

不意に名前は、寝落ちる前に伏黒に連絡をしてなかったことを思い出す。これまで彼に何も告げずに2日も家を空けたことなどなかった名前は、焦りと戸惑いで手元が震える。動揺で張り裂けそうな胸を抱えながら、スマホに届いたメッセージを一つずつ確かめる。

伊地知からの仕事を暫く外したという連絡、真希と釘崎からの怪我を心配するメッセージ、そしてストーカーからの大量の嫌がらせメール…。
一通り見終わった名前は、伏黒から一通も連絡が入っていないことに気付く。
もしかしたら伏黒は名前の身を案じてメッセージをくれているかもしれない…最後の一通を確認するまで、そんな仄かな期待を抱いていた。
そうであって欲しかった。
だが、そんな期待は崩れ落ち、名前の心は深い闇の底へと沈んでいく。

名前が家に帰るかどうかなんて、伏黒にとってはもうどうでも良い事なのかもしれない。
何て愚かな期待をしてしまったのかと、名前は居た堪れない気持ちになった。

新田の応急処置と家入の治療のお陰で、特級呪霊にやられた傷はもう完全に塞がっている。だが、まだ所々痛みを感じるところがあって。
それでも、今日はちゃんと家に帰らなければ。そう頭の中で言い聞かせながら、名前は痛む身体に鞭を打ちゆっくりと立ち上がる。

ベッドのすぐ側には、家入が用意してくれたのであろう着替えが置いてあって。その好意に甘えて服を着替えた名前は、急ぐ様にその場を後にした。







自宅の方面へと向かう電車に乗り込んだ名前は、電車に揺られながら考える。
もしかしたら今晩、早速伏黒と顔を合わせる事になるかもしれない。あれほど待ち望んだ伏黒との再会なのに、今の名前は素直に喜ぶことなどがなくて。
緊張で張り裂けそうになる胸をぐっと抑える。

大丈夫、落ち着け。やっと伏黒と話ができるのだ。
例えそこで何を言われたって、名前はその言葉を受け止め、そして名前の今の想いを彼へと伝えればいい。
上手くいかなければ、その時はまた真希や釘崎に相談すれば良いのだ。
今の名前は1人ではないのだから。

いつものように自宅の最寄り駅で電車を降り、そして帰り道を歩き出す。
気がつけばもう日は完全に沈んでいて、辺りは暗くなっていて。ぽつりぽつりと街頭の灯るその道を足速に歩く。

漸く自宅のマンションが視界に入ったところで、いつも通り名前は背後に人の気配を感じる。
しかし、その気配はいつに無く不快なものに思えて。
名前はその場で足を止め、後ろを振り返る。

するとそこには、いつもは物陰に隠れるはずの姿が、堂々と名前の背後に立っていて。
ぶわっと全身の毛が逆立つ感覚に襲われる。

ここ数ヶ月、毎日のように名前に不快な思いを与えていたのは、今目の前にいるこの男なのだ。
名前はギッと男を睨みつける。

どこか見覚えがある、その男の顔。だが、どうしても思い出せない。黒い服に帽子を被り、こちらを見てにっこりと微笑む男は、まるで人とは思えないほどに不気味で気持ちが悪い。
名前は一歩後ずさるように男から距離を取り、そして、怒りを含んだ低い声色で言った。

「…あなた、いい加減にして。」

そんな男を拒絶する名前の言葉とは裏腹に、男は一層嬉しそうに微笑んでくる。何を考えているのかが分からないその男の反応に、名前は思いきり眉を顰める。

男に殺意は見られず、一般人以上の呪力も感じない。見たところ丸腰の様だ。きっと名前が呪力を込めて男を殴れば、簡単にぶっ飛んで行くだろう。呪力を使った一般人へ暴行は規定違反だが、これは身を守る為の自己防衛。罪は不問となる筈だ。
頭の中でそんな事を考えていれば、男は嬉しそうに目を細めながら口を開く。

「怪我はもういいんだね、心配したよ。」
「…心配される筋合いはない。」
「つれないね。僕はいつも君のことだけを考えて、こうしてずっと見守ってあげてたっていうのに。」

誰がいつそんな事を頼んだのだと言ってやりたいところだが、きっとこの男に何を言っても無駄だと考えた名前は、ぐっと言葉を飲み込む。

「ほら、あの時君は僕を助けてくれただろ?だから、僕も君を助けたいと思ったんだよ。」

嬉しそうに男は語る。
一方で、男の言葉に引っ掛かった名前は、あの時…?と眉を顰める。

確かに、言われてみればどこかで見たことがある男の容姿。そして、聞いたことがあるような声。男が名前に付き纏い始めたのは、丁度今から3ヶ月前ぐらいで…。
そこまで考えたところで、名前はふと3ヶ月前のとある任務で命を助けた男の事を思い出す。
もしかして…いや絶対にそいつだ。
男の全容が漸く見えてき始めた名前は、ハッとした顔で男を見る。すると、男は嬉しそうに満面の笑みを返してくる。

「ああ、やっと思い出してくれたんだ?遅いよ。君はいつも少し鈍感なところがあるからね。まあそこも可愛いからいいんだけど。」

まるで知った口で名前を語る男に、思わず鳥肌が立つ。一体何なんだ、この男は。
名前はあの時、この男に親切にした覚えなどないし、言葉を交わしたのだってほんの僅か。なのに、こんなにも執着されるなんて、どう考えたって可笑しい。

もうこれ以上この男の戯言を聞くのは沢山だ。
男の顔面へとキツい一発をお見舞いし、全て終わりにしてやろう。そう思い名前が拳に呪力を込め始めれば、男は少し悲しげな顔を浮かべて言う。

「家に帰るの?辞めときなよ、あんな浮気男のいる家に帰るのなんて。」
「…、」
「だってアイツ、他の女ばかりで君を一つも気にかけやしないじゃないか。」
「…黙れ、」
「君が怪我して辛い時だって、逢いに来てくれたかい?仮にも君の夫だろ?」

優しく問いただす様な男の言葉に、握られた名前の拳がピクリと震える。

不快で仕方がないその言葉に何か反論したいのに、それを否定する言葉が思いつかない。男の言っている事は、間違えではないのだ。
だが、誰かにそれを言い当てられてしまうのは、名前が一人で思っているよりずっと耐え難いもので。

激しい動揺と胸の痛みに襲われれば、名前の身体は無意識に硬直し、その場から動けなくなってしまう。
そんな名前に追い討ちをかける様に、男はゆっくりと名前へと近づいてくる。

「きっと君の夫は昨日もあの女と会って、朝まで過ごしていたんだよ。可哀想な僕の名前。」

男は囁くようにそう言えば、じわじわと名前へと詰め寄ってくる。
嫌だ、こっちに来るな…っ
男と距離を取るために足を動かそうとするが、固まった身体は1ミリも動かない。それどころか、脳裏には伏黒とあの女の人と一緒に居るところが浮かび上がり、胸が痛くて堪らなくなる。

生温かく気持ち悪い手が名前の腕を掴む。
その瞬間、ぶわっと全身に虫唾が走って行く。
そんな名前など気に留めることなく、その手はベタベタと不躾に名前の腕に触れ、そして指を絡めようとしてきて。今すぐそれを振り払いたいのに、身体が全然言うことを聞かない。
力の入らない身体をどうすることもできずに、名前は歯を食いしばりぎゅっと目を瞑る。

助けて、お願い。
そう願いながら、咄嗟に頭に浮かんたのは伏黒の姿で。
未だに彼が来てくれると思っているなんて、本当にどうかしている。
それでも、名前には縋り付く相手など伏黒以外思いつかなくて。

ゆっくりと指の間に入ってくる、知らない形の男の指。
男の手が名前の手をぎゅっと握ろうとした、その時だった。

「おい、人の妻に何してやがる、この下衆野郎。」

気がつけば、酷く愛おしい声が名前の鼓膜を揺らす。
それが聞こえたのと同時に、不快な男の手の感覚が消えていって。
代わりに、酷く落ち着く温もりに肩を抱き寄せられる。

この温もりを、名前は知っている。
名前はそれを、随分前からずっと焦がれていた。そして、もう二度と感じることはないのだと本気で思っていた。

ぎゅっと瞑っていた瞼をそっと開けば、そこには片腕で名前の肩をしっかりと抱き締め、そしてもう片の手で男の腕を捻上げる伏黒の姿があって。
名前は目の前の状況が信じられず、思わず何度も瞬きをする。

「ひ、痛い…、は、放せ!」

伏黒にあらぬ方向に捻られている腕が痛いのか、男は悲鳴を上げる。
そんな男に容赦ない冷たい瞳を向ける伏黒は、これまで見たことがないほど気が立っていて。伏黒に睨まれた男はその身をぶるりと震わせる。

「失せろ、もう二度とコイツに近づくな。次現れたらマジで殺す。」

恐ろしいほど低いその声に、名前は思わず伏黒を見上げる。まるで脅しには聞こえないその声色に、男は「ひ…は、はい…ッ!」と酷く怯えた顔のまま返事をする。
そして、伏黒から解放された手を抱えながら、ふらふらと暗い夜道を走り去っていった。

そんな男の後ろ姿を、名前はただ呆然と見つめる。
これで終わったのだ、あの不快で仕方がなかった帰り道も、毎日送られる悍ましい写真付きのメッセージも。
あの伏黒に対する恐れ様からして、男はもう二度と名前に近づくことはないだろう。
あんなに何ヶ月も名前を蝕み続けたというのに、何だか呆気の無いものだ。

男の姿が見えなくなったところで、名前はふと頭上から注がれる視線に気付く。何だか嫌な緊張を覚え、ゆっくりと伏黒を見上げる。
そこには、まだ冷たい表情を浮かべたままの伏黒が名前を見下ろしていて。
名前の心臓はドクリと跳ね上がる。

ああ、助けて貰ったことで、すっかり勘違いをしていた。
やっぱり伏黒は、もう名前のことなど好きでは無いのだ。

これまで一度も向けられたことなどなかった、名前を睨みつけるようなその視線に、息ができなくなるほど胸が苦しくなる。
名前はどうやら自分が思っているよりもずっと伏黒に嫌われてしまっていた様で。頭の中が真っ白になる。

「…来い。」

そう静かに低く言い放った伏黒は名前の手首をぎゅっと掴み、そしてマンションの方へと無言で歩きだす。
ぎゅっと力強く掴まれている手首が痛いはずなのに、彼の苛立ちを感じ取った名前は動揺で何も感じることができなくて。

伏黒は、どうしてここまで怒っているのだろうか。名前は不安で押し潰されそうな心を抱え、必死に考える。
2日も無言で家を空けてしまったから?でも、それなら彼は名前に一言連絡をくれた筈。
なら、さっきのストーカーの事で彼の手を煩わせてしまったから?いや、それなら彼は態々名前を助けなくても良かった。

何をどう考えても、こんなにも伏黒を怒らせてしまった理由が名前には思いつかなくて。

そんな事を考えているうちに、2人の乗ったエレベータは最上階へとたどり着く。
エレベーターの扉が開くのと同時に、名前の手首を引き、早歩きで自宅まで進む伏黒。
そして玄関の扉を開け、家の中へと入れば、靴を脱ぐ時間さえ与えてくれないまま、リビングを素通りし、寝室へと直行する。

そして力強く腕を引っ張られた名前は、そのままベットへと放り込まれた。



=
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -