#2 軋轢



伏黒が出張から帰ってきてから10日が経った。
相変わらず、あの日から伏黒が名前と寝室を共にすることはなかった。朝、名前がリビングへと訪れると、彼は必ず狭いソファの上でその大きな身体を丸めて眠っていて。それを見る度に、名前は胸の中が空っぽになっていくのを感じ、思わず唇を噛み締める。

今朝も相変わらず寝不足で頭がクラクラする。
それでも、少しの間だけでも伏黒の側に居たくて、名前は覚束無い足取りで伏黒の元へ寄り、そして、彼のすぐ側へとしゃがみ込む。
いつものように伏黒の顔を眺めていれば、不意に彼の目の下に薄らと隈ができているのを見つける。

そういえば昨日、伏黒の帰りはいつもよりも遅かったな、と名前は思い返す。
きっと昨日は重い案件の対応をしていたのだろう。そういう案件に限って上は報告書の提出を急かしてくるものだ。生真面目な彼は、それを言われた通りにこなしていたに違いない。

だが、そんな尤もな理由を並べながらも、心のどこかでは『もしかしたらあの女の人のところへ行っていたのかもしれない』と疑ってしまう自分がいて。
仕事で忙しかった筈の伏黒にそんな事を思うなんて、最低だ。
無意識に伏黒を疑ってしまう自分が、名前は心底嫌になる。

もし伏黒が今この瞬間に瞼を開けて、名前の目を見て、名前を呼んで、そして名前だけが好きだと言ってくれたなら。
醜く荒んだこの心は、一体どれだけ救われるだろうか。

脳裏には、どこまでも優しい伏黒の記憶が浮かび上がってくる。
名前を甘やかす記憶の中の伏黒が恋しくて、名前はゆっくりと伏黒の頬へと手を伸ばす。

触れて、確かめたい。
伏黒が本当にあの頃と変わってしまったのかを。

しかし、その手は伏黒の頬へと触れる事なく、宙を掴んだまま止まる。
どうしてか、伏黒はもう名前が触れてもいい人ではないような気がして。
彼の妻は自分だというのに、まるで他人のものに触れるような感覚がして、思わず手を引いてしまう。

どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
目頭がじわじわと熱くなってくる。

名前は今でもこんなに伏黒のことを愛しているのに。
どんどん遠くなっていく伏黒は、もう名前の手が届くところには居ない気がして。

重く沈んでいく心に、世界が徐々に色褪せていくような感覚を覚える。
いつまでも変わらない彼への気持ちを抱えた名前は、何だか1人取り残されたような気持ちになった。







それは任務で回収した呪物を提出するために、偶々高専へ足を運んだ時のこと。
無駄に長い廊下を無心で歩いていた名前の耳に、不意に若い女性の会話が入ってくる。

「昨日も伏黒さんと行ったの?例のバーに。」
「ふふ、そうなの。昨日はちょっと遅い時間になっちゃったんだけどね。」

伏黒、という単語がどこからともなく聞こえてきて、名前の心臓は跳ね上がる。
思わず足を止め、会話をする人間がどこにいるのかを探せば、廊下の窓を挟んですぐ外の木陰で立ち話をする女性2人の姿が見えた。
きっと彼女たちだと確信した名前は、2人から見えないように柱の影に身を隠し、聞き耳を立てる。

昨日、例のバー、遅い時間、
そんな彼女たちの会話中の単語を思い返せば、名前の頭の中で色々なことが繋がっていく。

昨日、伏黒の帰りは遅かった。
それはつまり、そこに居る女性と一緒に過ごして居たからという事なのだろうか。
例のバーというのは、もしかして前に送られてきたあの写真のお店の事では?その意味深な表現からして、彼女は伏黒と何度もそこへ行っているのだろう。

確実に2人のうちのどちらかが、あの写真に映っていた伏黒の相手だ。

動揺のあまり、名前の頭は真っ白になる。
心臓が嫌な音を立てていて、思わず拳をぐっと握る。

「恵さん、お酒そんなに強くないのにいつも付き合ってくれるの。普段はクールな感じだけど、お酒が回ってくると顔が少し赤くなって、ね。」
「やだ、私も見てみたいわ。」
「ふふ、そのうち一緒に行きましょう。」

楽しそうに、そしてどこか自慢げにそんなエピソードを話す女性に、ああ本当に彼女は伏黒と昨日一緒にいたんだという実感を抱く。
彼女の言っている伏黒の姿が名前には簡単に想像できてしまい、思わず唇を噛み締める。

伏黒はもうずっと名前と会話をしていない。
それなのに、目の前の彼女とは頻繁に会って話をするそうだ。あまり得意ではないお酒を飲んで、気を許したように親しげに会話をするのだ、きっと。
名前には素っ気ない事務的なメッセージを送るだけで、電話だってしないのに。
最後に目があったのがいつだったかも、もう思い出せないぐらいで。

本当は名前が彼の妻で、彼女は他人なはずなのに。
名前は酷い劣等感を感じてしまう。

「最近、奥さんと上手くいってないんだって不満を言ってたわ。あんなに素敵な恵さんを放っておくなんて、本当酷い女よね。」
「奥さんって、そう言えばかなり高慢な人だって聞いたことあるわ。いくら特級術師だからって、それはなくない?」

彼女たちの会話の矛先は、名前へと向けられる。
伏黒が名前との関係に不満を抱いていたなんて、と思わず口に手を当てる。
薄々勘づいてはいたが、改めて言葉にして言われると、どうしようもないほど悲しく惨めな気持ちになってしまう。

伏黒はいつも不満な気持ちを抱えながら、名前のいる家へと帰って来ていたのだろうか。
名前の顔など見たくなくて、リビングで眠るようになってしまったのだろうか。仕事で疲れているのに、あんな狭くて硬いソファで寝るほど、名前のことが嫌だったのだろうか。

噛み締めた唇からは血の味が滲んでくる。だけど、今一瞬でも力を抜けば、名前はきっと崩れ落ちて動けなくなってしまう。
ぎゅっと握りつぶされるような胸の痛みを堪えるように、胸の前で服をぎゅっと掴む。

「もうとっくの昔に愛想尽かされてるのに、きっと気付いてないのよ。可哀想に。」

そう言って可笑しそうにくすくすと笑い出す彼女たち。

まるで鋭利な刃物のようなその言葉は、名前の心へと真っ直ぐに突き刺さる。
既にボロボロに傷んだ心は、それの鋭い痛みに耐えられるはずもなく、限界を迎える。

もうこれ以上、言わないで。
何も聞きたくない。
伏黒に愛されてないとか、名前の独りよがりだとか、そんなのは分かっている。
分かっていても、名前は伏黒のことが好きで好きで、どうにもできなくて。

名前は力の入らない足を前へと押し出し、必死のその場から逃げ出す。

この10年間、1秒たりとも伏黒を愛していない瞬間などなかった。
そして伏黒も、そんな名前をずっと愛してくれていた。
なのに今更、ずっと大事にしてきたこの気持ちを殺せなんて、そんな事できるはずがない。
いくら名前が人より冷たい人間だとしても、それを簡単に捨てられるほど心は上手くできていなくて。



気付けば、名前は校舎の裏側まで来てしまっていた。
人気のない石畳の階段にしゃがみ込み、溢れ出る涙を袖で拭う。
ぐしゃぐしゃに乱れた頭の中を整理しようとすればするほど、伏黒が優しくしてくれた思い出が次々と溢れて来て、名前の胸を抉っていく。

もしも、伏黒と出会った頃からやり直せたなら。
10年前のあの日、名前が伏黒の誘いを断っていれば、きっと名前は伏黒を好きになることなんてなかったし、伏黒も名前など気にかける事はなかったはず。
好きにならなければ、こんなに胸を一杯にする彼との思い出なんて無かったし、終わりを迎えることに絶望を感じる事なんて無かった。

でも、と名前は爪痕の付いた自分の掌を見つめる。

これまで名前は、死と隣り合わせの闘いの中、何度も伏黒と苦難を乗り越えてきた。
その途中で、大切な人を何人も失った。
自分達の幸せは、そんな尊い犠牲の上で成り立っていて。その事実を受け入れた上で、一緒に生きる事を伏黒と2人で誓った。
なのに、その決意を無かったことにするなんて、名前にはできなくて。

やっぱり、名前には伏黒と過ごした10年間が何よりも大切で、何があっても失いたくない。
たとえ伏黒の中で名前との10年間が薄れてしまったとしても。


止めどなく頬を伝う涙を、何度も何度も拭う。
すると、少し遠くの方から聞き覚えのある声と、バタバタと慌てたような足音が聞こえてくる。

「ちょ、名前、お前どうしたんだよ、」
「…真希、……何もない、」
「何もなくないだろ、馬鹿…!」

なんで1人でこんななっちまってんだよ。そう言いながら血相を変えて名前の近くに寄って来た真希。彼女はポケットの中からハンカチを取り出し、名前の目の周りに優しく当てる。

思わぬ真希の登場に、無意識に身体を強張らせて殻に籠ろうとする名前。
自分でも整理ができていないぐちゃぐちゃな心を他人に明かすなんて、そんなことできるわけがない。

だが、真希はそんな名前の心を汲んだのか、それ以上は何も言っては来なくて。ただ名前の隣に座り込み、優しく背中を摩ってくれる。
その優しい手つきに、名前は1人で抱え込んでいた色々な思いを無性に曝け出したくなる。

「一旦うちに来い、野薔薇も呼ぶ。話はそれからだ。」
「…何もない、もう平気、」
「平気なんかじゃねーだろ、馬鹿かお前。何年一緒にいると思ってんだよ。」

そんなことを言いつつも、真希の口調はとても穏やかで。
伏黒のことをよく知る真希と釘崎だけには、何となく言い辛かった。伏黒と名前が2人で生きることを決めたのを、誰よりも喜んでくれていたから。
不甲斐ない名前のせいで伏黒との関係が終わりを迎えそうなのだと言えば、彼女たちはどう思うだろうか。きっと2人はどこまでも名前の味方でいてくれるはず。その優しさを踏み躙っているのは、他の誰でも無い名前自身であるというのに。

落ち着くまで背中をさすってくれた真希に連れられ、名前は彼女が借りているマンションへと向かった。







夜8時、大量の発泡酒を買い込んだ釘崎が真希の家へと到着した。
目の前のローテーブルには、お酒と充が並べられていく。それを名前はぼんやりと眺めていれば、すぐ隣に座った釘崎がプシュッと音を立てて開けた発泡酒を名前へと手渡してくる。「今日は死ぬまで飲みますよ、名前さん。」と言いながら笑いかける釘崎に、名前は受け取ったお酒をぐっと煽った。

「で、恵と一体何があったんだよ。」

まだ何も言っていないのに、真希は名前が伏黒と何かある事を前提に話題を振ってくる。
どうやらこの2人にはお見通しらしい。
だが、頭の中がまだ十分に整理できていない名前は、これまでのことも今日のことも、2人にどう伝えれば良いのか分からなくて。

「…何もない、」
「何もねーくせに、何でこんなボロボロになってんだよ。」
「何もないから、こんな…、なの……ッ」

じわじわと視界が滲んでいく。
泣きたくなんてないのに、いつもみたいに平気な振りをして話したいのに、いくら歯を食いしばっても涙が止まらない。
そんな名前を責め立てることなく、2人は静かに話を聞いてくれる。

「…もう何ヶ月も、恵と話してない。」
「どういう事ですか、2人は同じ家に住んでるんじゃ…?」
「喧嘩でもしたか?」
「してない。ただ時間が合わない、出張で居なかったりして。」
「そんなのアイツに会いたいって言えばいいじゃんか。そんな悩む必要ねーだろ?」
「い、言えない…、」
「どうして?何なら私が伏黒に言って…」
「言ってはダメ…ッ!」

思わず出た大きな声に、自分でも吃驚してしまう。
はっと我に返った名前は、両手で口元を押さえる。

「名前?」

心配そうに名前の顔を覗き込む2人に、名前は言葉を詰まらせる。
もうここまで喋ったのだから、続きを言わなければならないのに。それを言葉にして誰かに伝えるのは、とても悲しく惨めな気持ちになる。
ぎゅっと拳を握り、悲鳴をあげる心に耐えながら、名前は言葉を探す。

「恵は、その……別の人と一緒に居る、から…。」

精一杯に絞り出したその言葉は、今にも消えてしまうそうな小さな声で。
しかし、その声はしっかりと真希と釘崎には届いたようで、2人とも唖然とした顔で名前を見つめてくる。

「はあ?恵に限ってそんなんあるわけねーだろ、」
「そうですよ、伏黒に限って絶対無いですって。」

そんなことは絶対に有り得ない、と名前の言葉を完全に否定する真希と釘崎。
2人がそんな反応をする事は、何となく分かっていた。2人は伏黒と名前が好き合っているのを、もうずっと長い間側で見てきたのだ。伏黒がどれだけ名前を大切に想ってくれていたかを知っていて、だからこそ、きっと信じられないのだろう。

名前はすぐ側に置いていた自分のスマホを手に取り、迷惑メールのフォルダを探す。
そして、先日名前に届いたあの写真を、何も言わずに黙ったまま2人に見せた。

写真をじっと眺めていた真希と釘崎の顔は、徐々に険しいものになっていく。
きっと、写真に映っている人物が伏黒である事に気づいたのだろう。

「なんだよこれ…」
「伏黒っぽい、けど、そっくりさんじゃないんですか?」
「うんん。…今日この女の人、見かけた。」
「どこで?」
「高専で…昨日の夜も恵と会ってたって言ってた、」

そんな名前の言葉に、驚いたように目を丸める2人。
それだけじゃない、と名前はぎゅっと拳を握りながら言葉を付け加える。

「恵、私に愛想尽かしてるって…彼女が、そう言ってた…っ」

自分でも驚くほどに声が震えて、ぐっと唇を噛む。
いつの間にか止まっていた筈の涙が、またポロポロと頬を伝ってくる。
そんな名前の言葉を耳にした2人は、あからさまに顔を歪めていて。

「あのクズ、一体何考えてんだ。」
「あー、もう本当馬鹿な男、最悪ですね。」

聞いたことのない程に低い声で伏黒を罵倒する2人に、名前は何とも言えない気持ちになる。
違う、名前は決して伏黒が悪いと言いたい訳ではない。これは、伏黒の心を繋ぎ止められなかった名前が起こした事態。つまらない名前に伏黒が興味を無くすなんて、そんなのは当たり前のことで。
だがそれを何と言えば2人に伝わるのか、言葉が見つからない。

スマホに映る写真を眺める真希は、ふと気付いたように名前に聞いてくる。

「つーか、誰だよ名前にこんな写真送ってくるやつ…知り合いか?」

その真希の質問に、名前はまずい、と口元を押さえる。
伏黒の事とは関係のない、あの例のストーカーの話をここでするのは気が引ける。もし今そのことを話せば、きっと優しい彼女達は名前のために色々行動を起こそうとしてくれるはずで。また2人に迷惑をかけてしまう。それだけはダメだ、と名前は濁すように曖昧に返事をする。

「今更もう隠し事はなしですよ。」

名前がはぐらかそうとしているのを勘付いたのか、いつの間にか2人からの厳しい視線がこちらに向けられていて。
これは、もう話すしかない。そう諦めた名前は、どう言えばいいか分からないまま短く言葉を発する。

「…ストーカーだと、思う…。」
「はあ!?ストーカーって…!?」
「数ヶ月前から、いるの。私を盗撮したが写真が送られてくる。」
「いやお前、平然と何言ってんだよ!それ完全にヤバいやつだろ…!!」
「け、警察には届け出たんですか!?」

名前からの突然の告白に、慌てた様子で身を乗り出す2人。
警察には届け出ていない、と首を横に振る名前に、真希と釘崎は溜息を吐く。

ここ最近の名前には、ストーカーだとか警察だとか、そんな事に気を遣っていられる余裕はなくて。相変わらず今も続くストーカー行為に、名前の精神が少しずつ蝕まれていることは事実だが、今の名前にはそんなの些細な事のように思えてしまう。

「名前、今日はうちで泊まっていけ。そんなキモい奴が彷徨く家に帰らせらんねーし。」
「…いい、わたしは平気。」
「平気なわけあるかよ。それに、いくら犯人が人間だっつっても呪詛師だったらヤバいだろ。」
「そうですよ!真希さん私も泊まります。」
「おう。」

そんな、これ以上は迷惑などかけられないと否定すれば、ぐっと名前を引き寄せて優しく肩を抱いてくれる真希。
もう随分とこんな風に人に触れて貰っていないことを思い出せば、その温かい腕に色々な気持ちが溢れ出す。

「恵のは何かの間違えだろ、きっと。最近あいつと話した訳じゃねーけど、あいつはそういう奴じゃないって、名前が一番よく分かってんじゃねーの?」

そう言ってくれる真希の声はひどく穏やかで。
さっきまでの自分は、酷く悪い夢の中にいたのではないかという気持ちにさせられる。
今晩だけは、2人に甘えてしまってもいいのだろうか。伏黒と向き合うのは少し怖いが、それでも彼女達が付いていてくれるなら、きっと大丈夫な気がする。

次は私の番ですから、なんて言いながら、釘崎は真希に代わり名前を強く抱きしめてくれた。

そんな2人の温かい励ましに名前の心が落ち着いた頃、伏黒へ『今晩は真希の家に泊まる。』というメッセージを送る。すると、直ぐに『わかった。』と一言返事が返ってくる。
伏黒がこの時間に仕事を終えているなんて、珍しい。
もしかしたら、今日高専で真希に見つけられずに1人で帰宅していたら、名前は伏黒と鉢合わせして居たかもしれない。
あの壊れかけた心のまま伏黒に会って、そして冷たくされたとしたら。そう考えるだけで、全身が震えそうになる。
改めて、今日名前のために時間を作ってくれた2人に心の中で感謝をした。


「で、どうします、真希さん?」
「どうするもこうするもねーだろ、まずは恵を締め上げる。」
「賛成です。」

泣き喚いたって辞めてやるつもりないから覚悟しとけ伏黒、と不気味なセリフを吐きながら目をギラリと光らせる2人に、名前は思わずぎょっとする。

「真希、野薔薇……恵には、その、暫く何も言わないで、」

そう言って、慌てて2人を止める名前。
まず最初にすべきなのは、名前が伏黒としっかり話をすること。きっと名前が伏黒から逃げたままの状態で2人が間に入ってしまうと、状況は益々悪くなってしまう。
名前だけではなく、2人も伏黒との関係を悪くしかねない。そんなのは絶対にダメだ。
ずっと俯いていた顔を上げ、これは譲れないと言わんばかりに名前は真希と釘崎を見つめる。
そんな名前の目付きに、2人はふっと優しく微笑んでくれる。

「あんま無理すんなよ。」

そう言ってポンと名前の頭に手を置く真希。その優しさに、気を緩めればまた涙腺が緩んできそうで。ぎゅっと唇を絞りながら、こくりと小さく頷いた。

「ま、伏黒よりもストーカーを締め上げるのが先ですしね。」
「だな。」

そう言って彼女達は、ターゲットを伏黒からストーカーにシフトする。3人の非番が重なる次の日曜日にストーカー撃退作戦を決行するぞと、早速作戦プランを練り始める。


これまで何もかもを1人で抱えていた名前は、この日の夜、自分の心が驚くほど軽くなっているのに気づく。誰かに話をするだけで、こんなにも心が楽になるなんて思いもしなかった。
そして同時に、これまで辛いことがあったとき、同じように伏黒に話して心を軽くしていた事を今になって気付く。

これからは、それはできなくなるかもしれないが、2人が居ればきっと大丈夫。
そんなことを思いながら、名前は真希と釘崎の間に寝転び、そっと目を閉じた。







その次の日、いつものように朝早くに真希の家を出た名前は、任務中に未登録の特級呪霊と遭遇した。
知性のあるその特級呪霊の能力は、運が悪いことに名前の術式とは相性が最悪だった。寝不足で体調が万全ではない状態で挑んだこともあり、名前はらしくない失態を敵に晒してしまう。その一瞬にできた隙を狙って、呪霊は名前に攻撃を仕掛けてきた。
結果的に名前はその呪霊を祓うことに成功したものの、酷い深傷を負ってしまった。

補助監督の新田に止血と応急処置をしてもらい、急いで高専へと戻る。
血を流しすぎたからか意識が朦朧とする中、もしかしたらこのまま死んでしまうのかもしれない、なんてらしくない事を考える。

こんな事なら、伏黒とちゃんと話をしておけばよかった。
任務なんかに行かずに、もっと伏黒と一緒に過ごせばよかった。
今まで全然口にしなかったこの想いを、もっとちゃんと伝えれていれば良かった。

瞼の裏にぼんやりと浮かんでくるのは、いつか見た優しく微笑む伏黒の姿で。
もうそれは名前のものではないのかもしれないが。
それでも名前は伏黒が好きで、そんな名前の気持ちを伏黒には分かっていて欲しい。
そんな事を思いながら、名前は緩やかに意識を手放した。



そして気がつけば、次の瞬間にはベッドの上で横になっていた。
突然目を開いた名前に少し驚いた様子の家入は、「凄いタイミングだな、たった今施術が終わったばかりだ。」と言いながらタバコを咥える。その言葉通り、名前は身体の痛みが軽くなっているのを感じ、ぐっと上半身を起こそうとする。しかし、まだ所々に激痛を感じる箇所があり、そのままベッドに倒れ込む。まだ動ける身体じゃないから安静にしろ、と家入は名前のベッドの横に椅子を構える。

「というか怪我よりも深刻なのは、お前の過労だ。どうせ働きすぎと寝不足でやらかしたんだろ?」

まだ若いくせに過労なんて、一体どんだけ高専にこき使われてんのさ。
そう言いながら、家入はふぅーっとタバコの煙を吐き出す。

「旦那に迎えに来てもらうように言ってやろうか?どちみちその傷と疲労だと明日の任務は無理だろうしな。」
「いえ、恵は今は多分任務で居ないので…。今晩は此処、お借りします。」

そう言って伏黒を呼んでくれるという家入の好意を、名前は断った。
あと数時間もすれば、伏黒が家に帰ってくる時間帯になる。だが、久々に彼と会うのに、こんなに見っともない姿をしていたくなくて。

ここへ運ばれて来るまでの微睡の中、せっかく彼と話をする決心を付けたのだ。
こんな、いかにも同情を煽るような怪我人の姿で彼と話をしたくはない。

不意に、ベッドのすぐ側に置いてあるボロボロになった名前の服から、バイブ音が聞こえてくる。
「噂をすれば、愛妻家の夫からじゃないか?」と家入はゴゾゴゾと服のポケットを漁り、名前のスマホを手渡してくれる。
伏黒からであれば嬉しいが、と少しだけ期待してしまう名前の心は、画面に映されたメッセージを見て凍りつく。

『怪我は大丈夫?無理はしてはいけないよ。君は僕の大切な人なのだから。』

そのメッセージと共に添付された写真は、新田が名前へと必死に応急処置をしてくれているところで。
あの現場に、こいつも居合わせていたのだ。
名前をまるで我が物ように心配するそのメッセージに、思わずゾクリと鳥肌が立つ。

あまりに深刻そうな顔をしている名前に、家入は「どうかしたか?」と心配してくれる。
それに、すぐに平気そうな顔を作り何でもないと家入に告げる。そして名前は、スマホを置いて枕へと顔を埋めた。

伏黒に今日は帰らない事を連絡をしなければ。
そう思うものの、体は重くて言うことを聞かない。

結局、名前は伏黒にメッセージを送る事はできず、そのまま2日間目を覚ますことなく眠り続けた。



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