#1 寂寥


時刻は夜9時、都内のとある小洒落たレストランには、ゆったりとしたジャズのBGMが流れる。
その最奥の席には、暗めの服装を身に纏った女性3人が食事を楽しんでいる。雰囲気のあるこの空間に溶け込むことができていない異様な彼女たちに、ウェイターや客は時折目を奪われる。

名前は今日、久しぶりの面々と食事に訪れていた。
目の前で他愛も無い会話を楽しんでいるのは、名前と同じ呪術師で、学生時代からの顔見知りである釘崎と真希だ。学校を卒業してもう5年が経つというのに、彼女達は相変わらず名前をこうして食事や買い物に誘ってくれる。
当時、極度な人見知りで塞ぎ込みがちだった名前。そんな名前の心へとズカズカと入り込んできた彼女達は、固く閉ざされたその心を強引にこじ開けてきた。そして、盛大に戸惑う名前の手を引き、次々と新しい世界へ名前を連れ出してくれた。
きっかけはともあれ、初めてできた女友達である2人は、今も名前にとっては掛け替えの無い親友である。

同じ職種の彼女たちとは学校を卒業してからも共通の話題が結構あり、こうして会った時には話が尽きない。とは言っても、実際に喋っているのは主に真希と釘崎で、名前はその会話を聞いて頷くか、何か問われた際に意見を言うだけだが。それでも別にいいのだと、それが名前のスタイルなのだと肯定してくれた2人に、名前は居心地の悪さを感じる事はない。

今日もいつもの様に、癖の強い補助監督の話や、可愛い術師が入学した話、高専の近くのパン屋の話に、最近話題の映画の話で盛り上がる。
そう言えばあの映画、番宣とは違って中身はただのどろどろな不倫ものだった、とつまらなさそうに映画のネタバレをする釘崎。世間では話題になっているのだろうが、あまり聞き馴染みのないその映画のタイトルを名前はこっそりスマホで検索する。確かに、これは純愛ラブストーリーの様なポスター写真だと、名前は釘崎の話に頷いた。

「なんか最近、不倫とかそういうネタ多いよな。」
「確かに、有名人の不倫とかしょっちゅうネットニュースで上がってますよね。」

食後の紅茶を飲みながらそんな会話をする2人に、名前も確かにと同意する。

「まあ夫婦って、何年も一緒にいたらそういう対象に見えなくなるって言いますしね。」

どんなに最初は好きで盛り上がっても、長く一緒に居れば段々と新鮮さが無くなっていくのだ、と釘崎は付け足す。
うんうん、と納得する2人の間に挟まれた名前は不意にその言葉に違和感を抱く。

名前はもう10年近く伏黒と一緒に居る。
しかし、新鮮さが無くなって魅力が薄れているなんて、これっぽっちも感じたことはない。
寧ろ、歳を重ねるたびに益々魅力的になっていく伏黒に、名前の心臓は追いつけていないぐらいだ。
そんな自分は異常なのか、それとも世間の一部の人だけが飽きっぽいのか。その答えは、何をどう考えても見つからない。

そんなことを1人で考え込んでいれば、名前が今何を考えているのかを見透かした真希と釘崎は目の前で嬉しそに笑っていて。

「まあ名前んとこは関係ねーだろーけど。」
「ですよね、あの名前さん命なねちっこい伏黒が別の女と不倫してるなんて、一切想像つかないし。」
「ねちっこいって…」
「でも、まあ、この間パンダが言ってたが、恵は女の術師とか高専事務員に結構人気なんだってな。アイツが既婚者って知って皆発狂するらしいぜ。」
「あ、それ私も聞いたことあります。五条先生はちょっと雲の上っぽいけど、伏黒はそうでもないとか何とかって。」
「そうでもないって…。」
「既婚者の方がよっぽど雲の上じゃねーの?しかも、その嫁は絶世の美女で、恵は嫁にゾッコンだぞ?普通に勝ち目ねーだろ。」
「ですよねー。」

今まで耳にしたことがなかった伏黒の人気っぷりに、名前は目を見開き驚く。
伏黒はいつも、今日は何があったとか、そんなたわいも無い話を名前にしてくれる。しかし、誰かに言い寄られたとか、そういう話を彼の口から聞いた事は一度もなくて。でもきっと、この会話の流れからして、結構多くの女性から言い寄られたりしているのだろう。彼はあの見た目をしている上、優しく、落ち着きもある。モテないわけがないのだと、今になって思ってしまう。

「で、実際のところどうなんですか?」
「え…?」
「え、じゃねーよ。恵と上手くいってんのか?」

気付けばニヤニヤとした顔つきの真希と釘崎が、面白がるような目で名前を見ていて。
その視線から逃げられない名前の身体は、どんどん縮こまっていく。きっと名前がどう答えるかなど、2人には分かり切ったことで。それでもわざとらしくそれを聞いてくるのは、ただ名前に伏黒との惚気話を語らせたいだけなのだろう。
2人の視線から目を背けるように、名前はテーブルに置かれているティースプーンを見つめながら小声で言う。

「まあ、それなりに。…悪くはない、と思う。」

そんな曖昧な返事をボソリと呟く名前に、真希と釘崎はニヤついた顔を止めるどころか、益々怪しげな表情になっていく。なんなのその顔は、と眉を顰めながら2人を睨めば、「相変わらず照れ屋で可愛い、名前さんは!」と訳の分からない返事をしてきて。別に照れているわけじゃない、真面目に考えた結果が曖昧なものになってしまっただけだ。そんな弁明をしたところで、この揶揄いモード全開の2人には届かないだろう。
こうなった彼女たちを止めるのはかなり困難であることを知っている名前は、抵抗を諦めたように溜息を吐く。
そして、そろそろ熱く無くなっているであろう紅茶を手に取り、カップに口をつけた。







レストランから自宅への帰り道、名前はふと真希と釘崎との会話を思い出す。

あの時2人に聞かれた、伏黒と上手くいっているのか?という質問に、名前は歯切れの悪い返事をした。それは照れ隠しだと思われ話は進んだが、実際のところ本当に上手くいっているのか名前にはよく分からなくなっていた。

悪くはない、というのは嘘ではない。そう、決して悪くなってはいないと思うが、実は最近は全然会えていないのだ。

同じ家に住んではいるものの、出張や任務が立て込み、彼これもう3ヶ月はまともに彼と話をしていない。きっと釘崎も真希もそんな伏黒と名前の事情など知らないだろう。なら、話さない方がいいと名前は思った。下手にそんな事を言ってしまえば、きっとその話はどこからかまわり回って伏黒の耳に入る筈だ。そうすれば、忙しい筈の彼は無理やりにでも名前との時間を作ろうとするだろう。しかし、名前はそんな事を望んでいる訳ではない。確かに会いたいと思うし、たくさん話だってしたい。でも、そのために彼の手を煩わせることはしたくない。
彼は学生の頃からずっと、名前に甘い。名前が少しでも我儘を言えば、きっと何彼構わず必死に叶えようとしてくれる。
だからこそ、こんな些細な寂しさなんて一々伝えるべきではないのだ。

それに、きっとあと数週間もしたらこの繁忙期は過ぎるだろう。そうしたら、また前みたいに2人で一緒に居られる筈だ。
もう少し我慢すれば、きっと。

そんな事を思いながら、最寄駅から自宅への道を歩く。
伏黒と一緒に探して見つけた賃貸マンションは、駅からはそこまで離れていない。それゆえに、きっと世間的には少し高いのだろう。しかし、お互いに給料水準の高い呪術師をしていて、しかも高い階級の術師である2人にとって、マンションの賃貸代はそこまでインパクトのある出費ではなくて。
伏黒も名前も浪費するタイプではないため、住む所くらいは便利で贅沢な所にしようと言って決めたマンションだ。
そんな我が家も、一緒に住む相手が居なければ、別に特別なものなど何もなくて。

この1週間、伏黒は出張で帰ってこない。
だから家には誰も居ない。
今日は久しぶりに非番が取れた名前は、いつも夜遅くに仕事から帰る伏黒と、せめて寝るまでの時間だけでも一緒過ごそうと決めていた。しかし、そんな名前の思惑は急な伏黒の出張の知らせとともに打ちのめされた。

家を早く出ることの多い名前と、夜遅くまで帰ってこない伏黒の生活は、いつからかすれ違っていた。だから、せめてどちらかが非番の時には、一緒にいる時間を作って過ごしていたが、今はどうだろうか。

どんどん重たくなっていく家への足取り。
伏黒は今、何をしているのだろうか。こんな時間になってもまだ必死に働いているのだろうか。気を緩めれば、そんなことばかり考えてしまう。

不意に、名前の歩く速度と同じ速度で後ろを歩く気配を感じ、その場で振り返る。
呪霊の気配はない、ならば、人間?と思いながら辺りを確かめるが、そこには誰も居なくて。

またか、と名前はため息を吐き、そして自宅のエントランスへと駆け込んだ。

実は、今みたいに誰かにつけられているような気配を感じるのはこれが初めてではない。
どうやらここ数ヶ月、名前の周りを誰かが彷徨いている様なのだ。それは、今日の様に家の前の道であったり、任務先であったり、様々で。
それだけであったなら別に無視をすればいいのだが、そのあと、誰かわからないその人間はご丁寧にも名前のスマホに写真付きのメッセージを送ってくるのだ。

ヴヴッと振動するスマホを手にとれば、そこには怪しいメールアドレスからのメッセージが表示されていて。
それを開かなくても内容はわかる、きっとさっきの道で名前が歩く後ろ姿を撮影した写真が添付されているのだ。
呪霊であれば即座に祓うのだが、人間となれば名前がどうこうできる話ではなくなる。そう、警察に調査をお願いしなければならない。しかし、警察に頼ったところできっと直ぐには解決できないだろうし、もしその人間が名前の目の前に姿を現せば、少し痛い目を見せてやれば良い。それが1番手っ取り早いのだと、名前は安直な考えでいた。

誰か知らないストーカーではなく、名前は伏黒と会いたいのだ。
左手の薬指に嵌った指輪を、右手で握る。

大丈夫、1人でこんなに心細い思いをするのもきっと今だけ。伏黒との時間が戻り、ストーカーも撃退できれば、名前の心はあの平穏で温かな日々に戻っていくはずだ。
それに、元々の名前は誰にも頼らずに1人で生きて居たのだ、今更1人が寂しいなんて、そんなことあるはずが無い。きっと気が滅入って変な不安を抱えているだけ。

落ち着け、大丈夫、何も問題はない。
そう何度も自分に言い聞かせながら、名前は今日も広くて冷たいベッドで1人横になった。








それから数日後の朝、名前はいつも通り日が昇り始める時間に目を覚ました。
重い体をゆっくりと起こしながら、ふと隣の枕へと目をやる。使われた痕跡のない枕は、昨晩もこの広いベッドに眠っていたのが名前だけだった事実を突きつけてくる。
伏黒は、昨晩も帰ってこなかったのだ。

呪術師の出張スケジュールは必ずしも正確ではない。呪霊が祓えなければその場で居続けなければならないし、別件との関連が浮上し、どんどん泥沼になってしまうことも少なくはない。それを身をもって体験している名前は、伏黒の出張が長引くことに不満は言えない。

昨晩はダメだったが、きっと今晩には帰ってくるはず。
ここ最近、そんなことを思いながらベッドから起き上がるのが名前の日課となっていた。

寝室から出て、すぐ横にあるだだっ広いリビングへと足を進める。すると、不意にソファの方から違和感を感じ、名前はそのまま視線をやった。

そこには、毛布に包まりながらソファに横になる伏黒の姿があった。
いきなり目に飛び込んできたその姿に、名前の胸は驚きのあまりドクンと跳ね上がる。

昨晩、伏黒は帰ってきていたのだ。
名前の待つ、この家に。

やっと、やっと会えた、そんな思いがいっぱいに溢れ出し、ぐっと胸を締め付ける。
足音を立てずにそっと伏黒の側まで近づけば、伏黒の小さな寝音が聞こえてくる。名前はソファのすぐ横にしゃがみ込み、伏黒の寝顔を覗き込んだ。
閉ざされた瞼からは、長い睫毛が沢山生えていて。すっと通った鼻筋に、形のいい唇、シミひとつない綺麗な肌は、名前が最後に見た伏黒のそれと何一つ変わらない。
そう思えば、益々名前の胸は高鳴っていく。

こうして改めて見ると、彼はとても格好いい。
真希や釘崎が言っていた、色んな女性が伏黒に好意を寄せているという噂は、きっと本当なのだろうと思う。
こんなに見た目は完璧で、中身も完璧な彼が、一体どうして名前なんかと結婚してくれたのだろうか。そんなことを名前は偶に思う。それを本人に直接聞くと、決まって“伏黒がいかに名前を好きだと思っているか”を語ってくれる。それを聞かされる度に、不安や戸惑いは綺麗さっぱり無くなるのだが、時間が経てばまたふと同じことを思ってしまうのだ。

そんな行ったり来たりで精一杯な名前には、巷で流行りの不倫なんて考えられない。
それに、名前は伏黒が自分を好きだと言ってくれている言葉を信じている。例えこうして会える時間が無くたって、伏黒が名前を愛してくれている事を思い出せば、何だって乗り越えられる。
伏黒によって全てが満たされている名前には、彼以外の誰かに目を向けるなんてあり得ない話なのだ。

しばらくの間伏黒を見つめていた名前は、そろそろ家を出る時間が近づいていることに気づく。
今朝はこれで見納めだと彼の顔をしっかりと目に焼き付け、そして、落ちかけている毛布をそっと伏黒の身体へとかけ直してやる。
だらりとソファから落ちている伏黒の左腕にも毛布を掛けようとすると、不意に左手の薬指へと視線がいく。
彼の薬指には、指輪が嵌っていない。
いつもは付けていたような気がしたが、どうかしたのだろうか。ふと疑問に思ってはみるが、きっと仕事中は失くさないように外しているのだろうと軽い考えで結論付け、それ以上は何も考えなかった。








そして、その次の日に名前のスマホに一件のメッセージが入る。

『あなたの旦那さん、不倫していますよ。』

寝室で1人、寝支度をしていた名前のスマホに突然入ってきたそのメッセージに、名前は思い切り眉を顰めた。どうせただの悪戯かスパムメールだろう、とあまり気にせずメッセージを削除しようとしたが、不意にそのメッセージに添付されていた写真が目に入る。

そこには、名前のよく知る私服を着た伏黒と、淡い色のワンピースを着た可愛らしい女性が手を繋ぎ、バーへと入っていく後ろ姿が撮影されていて。

名前は、思わず絶句する。
これは一体、どういうことなのだろうか。

衝撃のあまりそのまま硬直してしまう名前は、そのまま写真をじっと見つめる。

ピントは少しずれていて、しかも映っているのは2人の後ろ姿。これが伏黒だという根拠はどこにもない。
しかし、何故だか名前にはこの写真の男が伏黒であることが何と無く分かってしまう。

これは、きっと何かの間違えだ。
あの伏黒に限ってそんなこと、絶対にあり得ない。
あんなに名前のことを大切にしてくれている伏黒が、そんなことをするなんて考えられない。

あの日、2人で指輪を交わし合い、名前だけを愛すと誓ってくれたではないか。
3ヶ月前だって、名前を愛おしそうに抱きしめ好きだと伝えてくれた。

なのに、どうしてこんなにも胸騒ぎがするのだろうか。
伏黒の全てを信じているはずの名前の心が、軋むような音を立てていて。思わず唇を噛み締める。

写真の中の伏黒は、名前の知らない女の人としっかりと手を繋いでいて。
不倫ということは、この女の人と伏黒は、つまりそういう関係であるというのだろうか。
そんなことを考えれば、名前の胸は息ができないほどに苦しくなる。

伏黒が名前にくれる、あの胸が熱くなるような愛の言葉も、甘く蕩けるような接吻も、優しく身体に触れる指も、名前ではない他の女の人に向けられているなんて。
そんなことを一瞬でも想像してしまえば、胸が引き裂かれるような痛みに襲われる。

不意に、いつか真希と釘崎と食事に行った時の会話を思い出す。

『まあ夫婦って、何年も一緒にいたらそういう対象に見えなくなるって言いますしね。』

伏黒は、もう名前には興味がなくなってしまったのだろうか。
こんな無愛想でパッとしない鈍臭い女ではなく、写真の中の若くて清楚な女性に魅力を感じたのだろうか。
名前は、伏黒に捨てられてしまうのだろうか。

このまま伏黒と数ヶ月前のような関係に戻れなかったら、そんなことを想像するだけで酷く苦しくて。
ぐっと強く唇を噛み締めれば、じわりと視界が滲んでいく。

そういえば、昨日出張から帰ってきた伏黒の左手には指輪がなかった。
あの時は偶々だと思って何も気には止めなかったが、今はそういう事だったのだろうかと疑ってしまう。
そんな酷く残酷な事実だけが頭の中で上手く繋がっていくような気がして、名前の身は思わず震え上がる。

これが真実かどうか、伏黒と話をしなければならない。
でも、真実であることが明らかになるのが、怖くて仕方がなくて。

もう何を信じたら良いのかよく分からなくなってしまった名前は、スマホをベッドに転がし、すぐ側の枕へと顔を埋めた。




あの写真付きのメッセージを受け取った日から、名前はあまり眠れない夜を重ねていた。
深夜には、いつも通り日付を跨いで帰ってくる伏黒の音が聞こえてくる。それに名前は起き上がり「おかえり」と挨拶をすることもなく、布団を被って狸寝入りした。
伏黒としっかり話をしたいが、もしあの写真が本当で、名前との別れを切り出されたら…と考えれば、体は鉛のように重くなって。結局何もできずに夜が過ぎる。

あの出張以来、伏黒は名前の眠るベットではなく、リビングのソファで眠る様になった。こんなにも分かりやすく名前を避ける伏黒に、胸騒ぎはいよいよ確信へと変わっていく。

しかし、どうしてか、伏黒は寝る前には必ず名前の眠る寝室を訪れる。
彼は名前には決して近づこうとはせず、寝室の扉の前に立って「おやすみ」と一言だけ言いに来るのだ。
そのいつも通りの優しく穏やかな声色は、名前の心をぐちゃぐちゃに掻き乱す。

どうして一緒にベットで寝てくれなくなったの?
名前を避けているくせに、どうして「おやすみ」なんて態々言いに来るの?

もう名前には伏黒のことがよく分からなくて。
同じ家に住んでいるのに、どうしてこんなに遠くにいるような気持ちになるにだろうか。

じわじわと目頭が熱くなっていくのを感じ、名前は布団を頭まで被る。
そして広いベットで1人、声を殺して泣いた。




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