#9 隘路



雲ひとつない空の下、ジリジリと蝉の鳴き声が辺り一体に響いている。
ここは高専から車で2時間半のところにある、とある山の中。
今日から3日間、東京都立呪術高専1、2年の合同合宿が行われることになっており、朝早くから校舎裏に招集された学生達はこの大自然の中へと連れられた。

先輩達の話によれば、これから3日間、伏黒達はこの逃げ場のない山の中で様々なトレーニングを強いられハードに扱かれるらしい。とはいえ、普段からそれなりに2年に扱かれている1年にとって、場所が山の中になったということ以外は特にいつもと変わらない気もするが。

「おやつは500円まで!花火は最終日にするから各自で用意するように!」と合宿の目的を完全に履き違えた大人が伏黒のクラスの担任をしており、それに乗せられた虎杖と釘崎は昨日まで完全に心躍るキャンプ気分で過ごしていた。
しかし、当たり前だが、彼らのその楽しい気分は初日の早い段階から打ちのめされることになる。

足場の悪い山の中、過酷なトレーニングは初日の朝からガッツリ始まった。
きっと東堂のような体力馬鹿が考え出したのであろう合宿中のトレーニングメニュは、いつからかこの合宿の定番になっているらしい。
午前中のメニュが終わったタイミングで、虎杖以外の全員がぜぇぜぇと息を切らしながらその場にへたり込んだ。

「…嘘、これあと2日も続けんの?信じらんない…。」
「去年もやったが、流石にキツイな。」
「シャケ…」
「つーか悠二のやつ、何であんな平気なんだよ。」
「呪力使わないであの身体能力は、マジで化け物だな。」
「高菜、」

苦しげに息を切らしながらそんな会話を交わす釘崎と先輩達。そのすぐ横で地面へと座り込んだ伏黒は、静かに息を整える。
普段の運動では使わない筋肉が悲鳴をあげている。きっと明日はひどい筋肉痛に襲われるだろう。それはつまり、明日は今日とは比べ物にならないほど過酷なトレーニングになるという事。それに気付いた伏黒は、最悪だと言わんばかりに溜息を吐いた。

そんな伏黒から少し離れた場所には、苦しい表情を隠すように顔を強張らせた名前が静かに水を飲んでいる。きっと彼女も相当疲れている筈だと伏黒は思う。名前は呪力量と呪力操作で言えばこの中では頭一つ飛び抜けている。だが、呪力禁止というルールの元では並の術師とそう大差はない。寧ろ呪力を使わないことを意識する分、彼女には相当なストレスが掛かっている筈だ。それでも弱音は一切吐かず、辛そうな顔を隠す彼女は、本当に美しくて儚い人だと思う。
そんな彼女の姿を見る度に、伏黒は自分が彼女を守らなければという気持ちになるのだ。
まあこのトレーニングから守ってやることはできないが、帰ったら彼女の好きなマッサージでもしてあげようと、密かに考えていた。







「伏黒ってさ、実際どんな女の子がタイプなの?」

夜、コテージのキッチンで夕食の食器を洗っている最中に、虎杖はそんな質問を伏黒へと投げかけた。何の前触れもないその突然な質問に、不意に嫌な先輩の顔が浮かんだ伏黒は思わず顔を顰める。

「お前、東堂先輩みたいなこと聞くなよ。」
「ええー…、俺純粋に気になって聞いただけなんだけど…、」

東堂、おまえ…と呟きながらしょんぼりする虎杖。確かにそれが普通の質問だと言われればそうなのだろうが、あのインパクトのある初対面でのやり取りを伏黒はどうしても思い出してしまう。
ガシャガシャとシンクの中の食器が擦れる音がする中、皿を拭き棚にしまう係の釘崎がシンクの前までやってくる。

「確かそれ、前に東堂に聞かれてたわよね。あん時アンタ何て言ってたっけ?」

また余計なことを、と伏黒は途中から入ってきた釘崎に内心、悪態を吐く。
「あ、そうそう。その人に揺るがない人間性があれば、それ以上は何も求めません。とか言ってたのよね。格好つけちゃって。」と伏黒が過去に言った言葉をしっかりと思い出す釘崎は、次の瞬間には人を揶揄う目つきに変わっていて。
ああ、やばい。これは面倒な絡まれ方をするやつだ、と伏黒の顔はどんどん引き攣っていく。

「伏黒、お前ほんと格好いいな。」
「何だよ急に、そういうのやめろ。」
「いいじゃんか。ってか俺はそういう格好いいのじゃなくて、普通に伏黒の好みが聞きたいんだって。」

髪は長いのが好きとか、顔は可愛い系より綺麗系とか、そういうやつ。そう補足する虎杖は、興味津々な瞳をまっすぐに伏黒へ向けてくる。
そんな具体的な女性の理想など伏黒には無いのだが、強いて言うなら…と想像してみると、自分でも驚くほどに名前の容姿しか出てこない。これはどう考えてもまずいだろと何も答えずにいれば、2人の会話は先へと進んでいく。

「ムッツリには答えにくいわよね。」
「誰がムッツリだ、おい。」
「伏黒って結構面倒見いいし、やっぱ明るい子とかよく笑う子とか好きそうだよな。」
「確かに、根暗な伏黒には丁度いいわね。」
「誰が根暗だ、つーか人の好み勝手に決めつけんな。」
「え、じゃあどういう子が良いの?」

そして質問は振り出しに戻る。
食器を片付ける2人の手は完全に止まっていて、代わりに熱い視線が伏黒へと向けられる。これは絶対に何かを答えないといけないらしい。
無難な回答を頭の中で必死に考え、伏黒は1人皿を洗いながら答えた。

「別に、見た目も中身も特にこだわりはない。一緒にいる時の雰囲気とか、そういうのの方が大事だろ。」
「ふーん、じゃあ見た目は真希さんでも名字先輩でもいいってこと?」
「え、名字先輩は見た目も中身も完璧じゃん。俺彼氏になりたいもん。」
「アンタに聞いてない。」
「ア、ハイ、スミマセンデシタ。」

そんな虎杖の真っ直ぐな名前への好意に、彼氏である伏黒は少し複雑な気持ちになる。伏黒もこれぐらい真っ直ぐに名前が好みなのだと言えれば…、なんて心のどこかで思ってしまう。
何食わぬ顔を浮かべながらどっちでもいいと頷けば、釘崎からは更なる質問が返ってくる。

「ね、どっちかというと、どっちの見た目が好みなの?」

まるで、次は曖昧な答えで逃げようとすんなよ、と言わんばかりの釘崎の視線が伏黒を射抜く。コイツ…分かってはいたが、マジでこういう時の責め方怖すぎだろ、と伏黒は内心ゾッとする。
そんな伏黒など気にする様子もない釘崎と虎杖は「真希さんも中々の美人よね。背も高くて格好いいし。」「あと、巨乳だしな。」「名字先輩は、怖いぐらい美人よね。無口でニコリともしないけど。」なんて両者について語り出す。
どっちだと言っても問題大有りなこの恐ろしい質問に、伏黒は頭を抱えたくなる。

「…それぞれ良いところがあるし、どっちも同じぐらいだ。ていうか先輩を2択にして選ばせようとするな、答えに困るだろ。」
「はー、つまんない男ね。」
「な…っ、悪かったな。」
「じゃあさ、伏黒は一緒にいてどっちの雰囲気が好みなの?」

まだまだノリノリな虎杖から来る質問に、いつまで続くんだこれはと伏黒の顔が歪んでいく。

「名字先輩とはそんなに一緒にいたことないし、よく分かんねえ。」

そんな嘘がスラスラと口から出てきた事に対し、我ながらどうしたものかと苦笑したくなる。
本当はここに居る誰よりも名前と一緒に時間を過ごしているし、誰よりも彼女のことを理解しているつもりだ。
だが、それは決して伏黒の口からは言えない。

「何か伏黒と名字先輩ってどっちも高慢で相性最悪そう。」
「おい、普通に失礼だろそれ。」
「釘崎、分かってねーな。名字先輩のアレは高慢なんじゃなくて、恥ずかしがってるだけなんだって。」
「あんな冷たい目で恥ずかしがる人間がいたら、そいつの育ち疑うわ。」

虎杖の言葉に失礼極まりない台詞を口にする釘崎。失礼ではあるが、正論にも捉えられるのが何とも複雑だ。

だが伏黒からしてみれば、そんなのはいつもの事で、特に気に留めるような事では無い。問題はそこではなく、寧ろその少し前に釘崎が言った「相性最悪そう」という発言だ。
伏黒と名前は周りからそんな風に見えているのか、と内心ショックを受ける。

虎杖の言う通り彼女は決して高慢ではなく、何なら実際はかなり謙虚な人だ。伏黒が高慢かどうかの議論はこの際置いておいて、そんな彼女と自分はそこまで似合ってないのだろうか、と少し動揺してしまう。
伏黒自身は彼女との相性はいいと思っている。ずっと一緒にいても別に居心地が悪いと感じることはないし、寧ろ心地良過ぎていつも離れるのが惜しいと思うほどだ。
それに、彼女も伏黒に対して同じ思いでいると以前言ってくれていた。
そんな伏黒は名前以上に相性の良い相手なんて想像できないし、自分よりも名前と相性の良い人間が居るというのなら、それは由々しき事態だと思う。
だけど、ならどんな奴が名前と相性が良いのだ、なんて釘崎に聞くことなど到底できない。伏黒は心に微妙な蟠りを残したまま、最後の皿を無心で洗う。

伏黒達がそんな会話をしていると、直ぐ隣のダイニングから真希、パンダ、狗巻がやって来る。

「なんだ、盛り上がってんな1年ズ。」
「シャケ」

続々とキッチンへとやってくる先輩達。どうやら伏黒達の食器洗いの時間が長引いているのが気になり、様子を見にきたらしい。
またややこしいのがやってきた、頼むからこの話題は終わってくれ…と切実に願う伏黒の思いは釘崎の言葉に砕け散る。

「それが先輩、今ちょうど伏黒の性癖の話をしてたんですけど、」
「おいその言い方やめろ、普通に違う話になってんだろ、」
「…恵の性癖って、そんなヤバいのか?」
「すじこ?」
「んなわけないですから、話膨らまさないで下さい。」

ププっと意地悪く笑う釘崎を睨みつける。しかし、その周りには伏黒へと不審な目を向ける先輩達がいて、最悪だこれは1番面倒臭い状況だと伏黒は思わず顔を顰める。
彼らは完全に釘崎の発言に乗っかり伏黒を弄ろうとしている。全員揃って締まりのない顔をしているのが何よりの証拠だ。何でこんな事に、と伏黒は心の底から溜息を吐く。

そんな不穏な空気の中、釘崎は「あ、そうだ、」と何かを思い出したかのようにパンダと狗巻を見て言った。

「ぶっちゃけパンダ先輩と狗巻先輩って、名字先輩はアリですか?」
「おう、いきなり凄い質問ぶっ込んでくるな、」
「こんぶ…」
「お前ら皿洗ってる間に一体どんな話してたんだよ、」

そんな突拍子もない釘崎の質問に、2年は3人揃って動揺したように顔を引き攣らせる。
それはそうだ、もし伏黒が誰かに「釘崎はアリか?」と突然聞かれたら、今の彼らと同じ顔をする。伏黒と釘崎はそこそこ冗談が通じる仲だが、先輩達と名前の間には微妙な距離があり、普通に答えにくいと思う。
そのすぐ横から「俺もそれ聞きたい!」とノリノリに手を挙げる虎杖は、きっと先輩達が名前をどう思っているのか興味津々なのだろう。
恐らく微妙な答えが返ってくるだけだろうと、伏黒は何食わぬ顔をしながら彼らの返事を待った。

「…名前は、そうだな…。顔は美人だし、普通に悪いやつじゃないからな。向こうが気を許してくれるんなら俺は全然アリだと思うけど?ま、俺パンダだけど。」
「シャケシャケ。」
「でも、まあアイツが誰かに気を許すところなんて、今まで一回も見たことねーけどな。」

あの悟にもあんな他人行儀なんだぜ、あれは筋金入りだぞ。と冗談げに笑う先輩達。
絶対に無いわ、そんな短い否定の返事がパンダと狗巻から返ってくるものだとばかり思っていた伏黒は、彼らの答えに少し唖然となる。
普段の様子から、彼らは名前を特別嫌っているような感じでは無かったが、普通に苦手なのだろうなと伏黒は思っていた。しかし、今伏黒の目の前で『名前はこんな奴だ』と言い合い笑う先輩達は、とても彼女のことを苦手だと感じているとは思えなくて。
不意にちらつく先輩達のどこか寂しそうな表情に、伏黒はまさか…と口に手を当てる。

パンダも狗巻も真希も、きっと両手を広げながらずっと待っているのだ、名前が覚悟を決めて歩み寄ってくるのを。

それに気づいた瞬間、伏黒はどうしようもなくもどかしい気持ちになった。
完全にすれ違っているのだ、先輩達と名前は。それも、恐らく相当前から。

本当は寂しがり屋で他人想いな優しい名前。実家からの圧力のよりずっと1人でいる彼女が、自らパンダ達に歩み寄ることなど絶対にない。
しかし、それを知らない彼らは、名前が自ら心を開く決意をするのをずっと待っているのだ。

どうして、彼女の周りはいつもこんなにうまく噛み合わないのだろう。
彼女の孤独も、先輩達の寂しさも、伏黒は全部を知ってしまった。なのに、きっと伏黒が今彼女にしてあげられる事は何もなくて。
全てを内緒にすると彼女と約束した、無力な自分が歯痒くて溜まらない。

不意に、顎に手を当てた釘崎は、んーと唸りながら疑問を溢す。

「…でも名字先輩って、何でそんなに誰かに気を許さないんですか?」
「さあな、アイツは実家が五条家の分家だから、まあ色々あんじゃねーの?」
「え!?ってことは、名字先輩って五条先生の親戚なの!?」
「なんだ、お前そんなことも知らなかったのかよ。」
「おかか…」
「シリマセンデシタ…。」

あんなに名前のこと気に入ってるとか言っておきながら…、と真希の呆れた声に、虎杖は身を縮めていく。
そして、肘でツンツンと伏黒の腕を突きながら「なあ、伏黒も知ってた?」と小声で聞いてくる。それに、「ああ、あの人任務で五条家相伝の術式使ってたしな。」と適当な返事を返す。本当は五条に教えてもらったのだが、それを言うと話がややこしくなりそうな気がしたので、敢えて言わないでおいた。

「まあでも、最近はまだ良くなったと思うぞ。話しかけたら返事してくれる様になったしな。」
「たしかに。そういえばアイツ、2年になってから雰囲気マシになったな。」
「シャケシャケ。」

何かあったのか?とハテナを浮かべる先輩達に、伏黒は思わず目を逸らす。
それはきっと名前が伏黒と付き合いだしたからだ、なんて事は口が裂けても言えなくて。
伏黒はいつものように何も知らないふりをした。

そして、随分と盛り上がった名前の話題は程なくして終わりを迎え、明日もやばいトレーニングが沢山あるから早めに休めよ、という2年の声に皆其々が自室へと戻っていった。







その日の夜、すっかり目が冴え眠れずにいた伏黒は、その身をそっとベッドから起こす。日中の激しいトレーニングのせいで身体は疲れ果てているのに、脳が全く眠ろうとしない。こう言う時は読書に限ると、伏黒は鞄の中に入れてある読みかけの本を探す。そして、窓の側にあるテーブルランプの灯をつけ、本を読み始めようとした丁度その時だった。
ふと窓の外へと視線をやると、そこには暗い森の中へと1人歩いていく後ろ姿があって。それが見えたのはほんの一瞬だけだったが、伏黒にはそれが誰の後ろ姿であるのか何となく分かってしまう。

あの人、こんな時間に一体どこに行くんだ…。しかも、あんな薄着で。
森へと消えていく彼女の姿を見てしまった伏黒は、もはや読書どころではなくて。本をぱたりと閉じ、椅子にかかる自分のパーカーを掴み取った伏黒は、スマホの明かりを頼りに彼女の歩いて行った方へと足を進めた。


確か彼女はこっちの方に歩いてたなと考えながら森の中を歩いていけば、急に開けた場所へと辿り着く。
そのすぐ先には、倒れた木の上に座り静かに空を眺める名前の姿があって。見つけた、と心の中で呟いた伏黒は、静かに名前へと近づき、名前を呼んだ。

「名前さん、」

その声に驚いたような顔をしてこちらを振り向く名前。お互いに視線が絡み合えば、彼女は少し嬉しそうに目を細め、透き通る声で「恵、」と伏黒の名前を呼んだ。
そのいつになく嬉しそうな彼女の様子に、伏黒は少しだけ違和感を感じる。

「眠れないんですか?」

そう言って彼女のすぐ側へと座ると、彼女はこくりと静かに頷いた。
今日一日、ずっと賑やかな面子と居たせいか、彼女の隣は酷く落ち着く。伏黒は名前と一緒にいる時に感じる、この胸が温まるような感覚がとても好きだ。
それは言葉では言い表せないほど心地が良くて、こんなに側にいるのに、もっと近くで感じたいと思ってしまう。
今すぐに彼女を手繰り寄せて、ぎゅっとその身体を抱きしめたい。そう思う気持ちをぐっと抑えて、手にしている自分のパーカーを彼女の後ろから掛けてやる。

「これ、着ててください。今晩は冷えますから。」

そう伏黒が言えば、何も疑うことなく言われた通りにパーカーに袖を通し、チャックを上まで引き上げる名前。それは昼間見た感情を取り繕う彼女とは全然違い、何というか素直でとても可愛らしくて。伏黒の口元は徐々に緩んでいく。
伏黒が普段ゆったりとしたスタイルで着るそのパーカーは、当たり前だが彼女には少し大き過ぎるみたいだ。袖は大幅に余り、首筋や肩は全然隠れていない。これはこれで危険な姿になってしまったなと、伏黒は思わず息を呑む。
そんな伏黒の気など知らない名前は「あったかい、ありがとう…」と照れたように小声でお礼を言ってきて。
なんでこの人一々こんな可愛いんだ、くそ。
名前に触れたくて耐えきれなくなった伏黒は、彼女の肩へと腕を回し自分の方へと引き寄せる。そんな伏黒の腕に抗う事なく、名前は自分の頭を伏黒の肩へと預けてくる。
その瞬間にふわりと香る匂いがいつもと違うくて、彼女は旅先ではこんな匂いのシャンプーを使うんだなと一人で何となく考える。

「ここ、星が沢山見える。東京じゃないみたい。」
「まあここ、神奈川ですからね。」
「…そう言うことじゃない。」

彼女の言葉に態と揚げ足をとり揶揄ってみれば、彼女はむっとした不満げな顔で伏黒を見つめてくる。そんな想像通りの彼女の表情に、伏黒は思わず笑ってしまう。
冗談です、と名前のこめかみに軽く唇を落とし、そのまま空を見上げれば、そこには零れ落ちてしまいそうな程沢山の星がキラキラと輝いていて。
想像以上のその光景に、伏黒は思わず目を見開く。

「…綺麗ですね、本当に。」

その言葉に、名前も小さく頷く。
高専の敷地からも星は多少見えていたが、街が近いからか、ここまで多くの星は見えなかったし、月もこんなに明るくはなかった。

それに、と伏黒は思う。
伏黒は名前と付き合い始めてから、高専の外で彼女と2人きりで過ごす機会など殆どなかった。それは、自分達が恋人同士である事を誰にも知られないようにと、態とそうしてきたのだ。
だから、こうして彼女と外で星を眺められる機会がやって来るなんて、思っても見なかった。
今の伏黒の中では、きっとそっちの感動の方が大きい。
ただ合宿に来ているだけなのに、まるで彼女と2人で星を見に来たような気持ちになって、どうしようもなく嬉しくなる。

しばらくの間、伏黒は黙って星を見上げていれば、不意に名前の手が伏黒の指をぎゅっと握ってくるのを感じる。
突然のその感覚に、伏黒は思わず腕に抱いている彼女へと視線を落とす。

「どうかしましたか?」

伏黒がそう問いかければ、名前はハッとした顔をして伏黒の指から手を離す。そして、彼女はその手を自分の胸の前まで持ってきて、ぎゅっと拳を握りしめる。
それを見た伏黒は、ああしまった、と名前に声を掛けたことを後悔した。

彼女の方から伏黒に触れてくるのは、かなり珍しい。2人で居る時に触れたりキスをしたりするのは、いつも伏黒の方からで。彼女はそれを拒むことなく受け止めてくるが、伏黒が強請らなければ決して自分からすることはなかった。
だから、何の前触れもなく彼女が自分の指に触れてきてくれたことに、伏黒は少し驚いてしまった。
さっきまで彼女が触れていた指先が、仄かに熱を持ち始める。後を追って押し寄せてくる膨大な嬉しさに、伏黒の胸は一杯になる。

しかしその一方で、彼女にしては珍しいその行為に、何かあったのではないかという心配が頭に浮かぶ。
不意に伏黒は、ここに来た時に見たいつになく嬉しそうな名前の表情を思い出す。いつもの彼女とは違う様子に、これは絶対に何かあるなと確信した伏黒は、胸の前で握られた名前の手を覆うように優しく握る。

「名前さん、今日何かあったんですか?」

さっきよりもずっと穏やかな声色でそう問いかければ、名前は一瞬だけピクリと反応し、そして首を横に振った。

「…別に、何もない…。」
「何もなくないでしょう?」

しらを切り通そうとする名前に、負けじと伏黒は尋ね続ける。
すると、名前は困ったような顔を浮かべ、俯いてしまう。そんな彼女の反応に、伏黒は名前が今自分の気持ちを上手く言葉にできずにいる事を何となく察する。

名前は、自分自身のことになるといつも鈍くなる。痛みや悲しみを沢山抱えているはずなのに、伏黒が揺すらなければ何一つ吐き出そうとはしない。そのくせ、自分以外の人の痛みには敏感で、伏黒や他人が少しでも落ち込んでいれば、自分は何をしてあげられるのかを必死に考えている。仲間が少しでも危険な目に晒されれば、自分を犠牲にしてでも助けに行く。
しかし、残念なことに、口下手で自分を表現するのが苦手な彼女は、その優しさを殆どの人に気付いてもらえない。
そうして彼女も他人に見返りなど求めたりしないため、結局彼女の優しさは全てが無かったことになってしまう。

だから誰も彼女を大切にしないし、彼女を心配したりしない。
そして自分の気持ちを他人に伝える機会を失い続けた彼女は、未だに自分の感情をどう伝えればいいのかよく分からなくなってしまうのだろう。

俯きながら、ずっと何かを考えるように黙り込む彼女。
そんな彼女を見つめる伏黒は、もしかしてと頭によぎった言葉を口にする。

「…寂しかった?」

伏黒のその言葉に、名前は弾かれるように伏黒を見上げる。
まん丸に見開かれた彼女の目からは、「何でそれを、」というような驚きが伝わってきて。伏黒は、やっぱりそうだったのかと確信する。
だから、伏黒がここに来た時にあんなに嬉しそうな顔をしたのか。だから、自分から伏黒の手を握ろうとしてくれたのか。
今日の彼女の不自然な行動がやっと腑に落ちた伏黒は、次の瞬間には、彼女を目一杯甘やかしてやりたい気持ちに襲われる。
この人は、何でそんな簡単な一言がここまで出てこないのか。
だが、きっとそんな彼女だからこそ伏黒は誰よりも大切にしたいと思うし、傷付かないように守りたいと思うのだ。

彼女の拳を覆う手をそっと離し、そのまま優しく彼女を抱きしめる。伏黒の腕に簡単に収まってしまうほど小さいその身体は、彼女に突き付けられる沢山の理不尽を背負うにはあまりに頼りなくて。彼女を掻き抱く腕に力がこもる。

すると、伏黒の背中にはゆっくりと彼女の腕が回されてきて。ぎゅっと伏黒を抱き返す。
まるで伏黒を離したく無いと言わんばかりにしがみついてくる彼女が愛おしくて、伏黒の胸がぎゅっと締め付けられる。

「大丈夫です、ずっと側にいます。」

穏やかな声色でそう言えば、伏黒の腕の中で名前は小さく頷き、伏黒の胸へと頬を擦り寄せる。
そんないつもより素直に甘えてくる彼女が、可愛くて仕方がなくて。ずっとこの時間が続けばいいのに、なんて叶いもしない希望すら抱いてしまう。

「わたし、恵に甘えてばかり…」
「いや、何言ってるんですか。寧ろ全然足りてないです、もっと甘えてください。」

腕の中で申し訳なさそうに呟く名前の言葉を、伏黒はバッサリと否定する。
彼女の中ではきっとこれが目一杯の甘えなのだろうが、伏黒からしてみると、こんなの甘えでも何でも無い。もっと我儘に色々言えばいいし、何でもすればいいのに。別れの言葉以外なら、伏黒は名前の我儘を嫌がる事なんて絶対にない。寧ろ、何だってしてあげたいと思うぐらいなのに。
彼女はそれを、全然分かってないのだ。

「もう凄く甘えてる、」
「そんな感じはこれっぽっちもしないんですけど。」
「…恵はおかしい、」
「おかしいのは名前さんの方ですよ。」

絶対に甘えている事を譲らないくせに、伏黒がしつこく言い返せば、彼女はうっと躊躇いを見せる。そんな憎めない彼女の愛らしい反応に、伏黒は少し笑ってしまう。
名前のこう言うところが、また更に伏黒の気持ちを奪っていくのだ。そんな名前がタイプだと、いつか釘崎や虎杖に言ってやりたいくらいだ。

「ありがとう、恵。…明日も頑張れそう、」
「こちらこそ。俺も名前さん補充できたので。」

もう遅いですし、戻りますか?
そう提案すれば、彼女は静かにコクリと頷く。
名残惜しくてたまらない気持ちを抱えながらも、伏黒は彼女を抱くその腕を開放する。伏黒の背中からスルスルと離れていく彼女の腕に、急に寂しさを感じる。

明日になれば、きっと彼女はまた一人で黙々とトレーニングをして過ごすのだ。夕食の会話にも入らず皆と距離を置くのだろう、不意に感じる寂しさを押し殺しながら。
伏黒にできることは、皆の目を盗んで名前に話しかけたり、アイコンタクトを送ったりすること。今はきっとそれでもいい。また彼女が寂しさを感じるようであれば、こうして抱きしめて過ごせばいいのだから。

そんな事を考えながら、伏黒は名前の手を握りながらコテージの方へと歩き出した。


そんな2人を影から見つめる姿があることに気づきもせずに。




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