#8 綢繆



夏の終わりのとある日、炎天下のグランドに集められたのは東京都立呪術高専の1、2年の学生達。彼らはその額に汗を浮かべながら、自分たちを此処に呼びつけた張本人である五条悟が現れるのを待っていた。

約束の時刻から彼これ5分は過ぎている。
いつも通り定刻に現れることはない五条に、生徒たちの不満は膨らんでいく。

照りつける日差しの暑さを黙って耐える伏黒の横では、釘崎が夏服がないことや五条の無責任さを延々と愚痴っていて。それをパンダ達が宥めている。そして、そのすぐ目の前では、猛暑の中でも相変わらず元気な虎杖が、暇を持て余した真希と組手を始める時末。これはこれで見ていて暑い。

そして、と伏黒はグランドの端にある唯一の木陰に目をやる。
少し離れたその場所へと座り、涼しげにペットボトルの水を煽っているのは、今回珍しく伏黒達と一緒に招集された名前だ。彼女はいつも通り皆の中には入って来ずに、静かに1人の時間を過ごしている。
虎杖や釘崎に関しては、きっとあそこに名前が居ることにすら気付いてないだろう。彼女も自由だが、虎杖と釘崎もマイペースな人間だ。

伏黒は不自然にならない程度に何度か名前を盗み見る。木陰にちょこんと座る彼女の姿は、何というか、普通に愛らしい。
この暑さに耐えかねたのか、最近彼女は夏服を身に纏っている。ただ、夏服とは言えど、露出は少なく、控えめでおとなしいデザインのもので。あまり派手ではない彼女にぴったり似合っていると思う一方で、これがニヤニヤしたあの男の趣味だと思うと何だか胸糞悪くなる。

まるでこちらには興味がない様な素振りで本を読み始める名前に、この様子では暫く目は合わないだろうなと、伏黒は1人残念に思った。

そして、約束時刻から7分半が経過しようとしていたその時、校舎の方からこちらへと歩いて来る人影が現れる。この微妙な遅刻時間、間違えなく五条だ。
炎天下の中、疲れ果てた顔をした生徒たちの前に、何食わぬ顔の五条が鼻歌を歌いながらやってきた。

「あれ?みんなどうしたの、そんな疲れた顔して。夏バテかな?」

誰のせいだよ、と言いたげな全員の視線が五条に集中する。当の本人は頭にハテナを浮かべながらヘラヘラと笑っていて、待たされた全員がそれに煽られ苛々を積もらせる。

そんなやり取りの中、いつの間にか木陰から出てきた名前は、腕を組みながら皆の少し後ろに集合していた。彼女が集合したのを横目で確認した五条は「うん、全員いるね。じゃあ始めようか。」とパンっと手を合わせる。

「って事で、この度めでたく1級術師に推奨された君達は、これから1級術師の七海や名前と沢山任務をこなして貰います。」

何が始まるのかと思い身構えていれば、突然の話題に全員が「なんだ?」と唖然となる。
だが、五条が突然訳のわからない事を言い出すのはいつものことで、まあいいかと全員がすぐに開き直る。

「でもほら、やっぱ術師としての相性って大事だよね。大人な七海はともかく、名前は基本、誰とも相性良くないしね。いろんな意味で。」

そんな失礼極まりのない言葉を言いながら、ふらりと名前の元へと歩いていく五条は「ね?」と名前の華奢な肩に大きな手を乗せる。そんな五条を真正面から堂々と睨みつける名前は、きっと揶揄われている事を不快に思っているのだろう。
このセクハラ教師が、いつまで肩触ってんだよ。と心の中で悪態を吐く伏黒だが、それをこの場で言い出すこともできず。腹立たしい気持ちをぐっと抑え、いつもの通りの澄まし顔を演じる。
「名字先輩、ゴミを見るみたいな目で五条先生のこと見てるよ…。」と隣で怯える虎杖に、問題はそこじゃねーだろ、と思わず突っ込みたくなった。

「と言う事で、今回名前の任務に同行する人をくじ引きで決めようと思いまーす!」
「なんだ結局くじ引きかよ。」
「全然相性関係ねーじゃん!何だったのさっきのくだり!?」
「つーか、何でこんな炎天下でわざわざくじ引きすんだよ。」

どこからともなくくじ引きの用意を出してきた五条に、激しいバッシングの嵐が飛び交う。
そんなに嫌かな?と首を傾げる五条は、ん〜と何かを考える素振りをする。そして、何か良い事でも思いついたかの様に人差し指を立て、提案する。

「じゃあ、名前に直接指名してもらう?」

そう言って、真っ直ぐに伏黒を見る五条。ぱちりと視線が合えば、何やら全てを分かっているかのような顔で五条は頷いてきて。なんの顔だよそれは、と思わず伏黒の顔が歪む。

「…なんでこっち見んすか。」
「いや〜?恵は特に術式的に相性良くないから、お勧めしないけどね。どうしてもって言うなら…」
「別に立候補してないんすけど。」
「あ、そう?」

そんな味気ない返事を返してきた五条は、次の瞬間には何事もなかったかの様にくじ引きを作り始めていて。
何だったんだこの人は、と伏黒は顔を顰めたままくじ引き作りに夢中な五条を見る。

この男は、何を隠そう伏黒と名前の関係を知っている唯一の人間。伏黒と名前が仲良くなる前から、2人の仲が進むように色々と仕組んで………手助けをしてくれたのだ。

複雑な事情により、名前との関係を皆には内緒にしている伏黒。そんな伏黒を、この大きな子供の様な人は偶に揶揄ってくる。それも結構際どいやり口で。これまで幾度となくその五条の悪戯に付き合ってきた伏黒は、今更それに取り乱すことはない。しかし、今日は珍しく名前が側にいる事もあり、何故だか嫌な緊張感に見舞われている。
もしも下手な事を言い返してしまい彼女を傷付けてしまうことがあれば、それこそ伏黒にとっては最悪な事態。
目の前の男は、恐らくそれを楽しんでいるのだろう。本当に嫌な大人だ。

そんな伏黒の内心など誰も知らないまま、五条のくじ作りは進んでいく。
その途中、すっと利き手を挙げた虎杖は、ハキハキとした声で五条に質問する。

「はい、先生!質問です!」
「はい、悠二くん。」
「名字先輩の術式ってどんなやつなの?」

そんな虎杖の質問に、ああそういえば虎杖と釘崎はまだ名前と任務に行ったことなかったなと伏黒は気付く。
カメ○メ波とか螺旋○とか、凄いやつですか?でもそれ伏黒との相性そこまで悪いかな…。と言いながら虎杖は「教えて先生」と懇願するようなキラキラした目を五条へ向ける。

「名前の術式はちょっと複雑だからね。きっと説明するより見たほうが早いよ。」

そう言って完全に説明を面倒くさがった五条に、その場にいた全員が苦笑した。確かに名前の術式は大変ややこしいのだが、よく説明をサボる五条がそう言うと、どうしても面倒くさがっている様にしか見えない。

そして、いつの間にか完成したくじ引きの箱を、じゃじゃーん、という効果音を付けながら名前の目の前へと突き出す五条。これを引くのは自分なのかと顔を歪める名前だが、そんなことはお構いなしに五条の話は進んでいく。

「はい注目〜!これから名前と2人っきりで任務に行ける幸福者を決めたいと思いまーす!」

そう言って、早くくじを引いてと急かす様に名前へとボックスを突き付ける五条。名前は煽られるままにその怪しげなボックスの中へ手を入れて、くじを引く人特有の中で混ぜたり躊躇ったりを一切する事なく、中から折り畳まれた紙を1枚引き抜く。
そして、紙を広げてそれに記載された文字を静かに読んだ。

「…虎杖、悠二」
「おめでとう!今回の幸福者は虎杖悠二くんに決定でーす!」
「うえーーー!お、俺!?」

五条の盛大な拍手の中、見事に名前に名前を引き抜かれた虎杖は盛大に驚いていて。自分を指差しながら周りをキョロキョロする虎杖を、名前は無表情で見つめている…いや、これはちょっと緊張してる表情だ。分かりにくいその彼女の表現に気付いた伏黒は、なんで虎杖相手に緊張してんだ、と思わず笑ってしまいそうになる。

「良かったね。いや〜実は僕も、この中じゃ悠二が1番名前との相性がいいって思ってたんだよね。」
「マジで!?」
「マジマジ。」

ニッと笑う五条につられて笑う虎杖も、恐らく少し緊張している。
虎杖は普段から名前の見た目を絶賛するものの、掴み所のない雰囲気や冷たそうに見える視線が少し苦手な様だ。
「大丈夫かな俺で…」と伏黒の隣でボソッと呟く虎杖に、不意に伏黒が初めて名前と任務に行った日のことを思い出す。そうだ、自分もあの時はこんな感じだったなと思い出し、大丈夫だという意味を込めて虎杖の肩をポンポンと叩いてやった。

「つーか、何でこのクソ暑い中グランドで抽選会したんだよあの馬鹿。」
「別に馬鹿が悟のことだとは誰も言ってないけどな。」

そんな愚痴が周りから溢れながらも、第一回目の名前の任務同伴決め大会は幕を閉じた。








その日の午後、虎杖は早速名前と共に任務へと出かけてしまった。
残された伏黒と釘崎は、近く迫ってきた期末試験の勉強をクーラーの付いた教室で行っていた。試験勉強が1番やばいのはここに居る伏黒でも釘崎でもなく、虎杖だというのに。

よく考えると、あんなに名前に対して苦手意識のある虎杖が、わざわざ名前と共に任務に行くことはなかったのではないだろうか。
きっと今晩もめそめそした虎杖に名前が怖かったという話を聞かされながら晩飯を共にする羽目になるのだろう。

伏黒からすると、虎杖が勝ち取ったのは幸福以外の何物でもない。
できることなら伏黒が任務に同行したかったし、何なら適当に理由をつけて任務後に夕食を食べに行ったりしたかった。あの五条のことだ、きっと伏黒には当たらない様に何か細工を施していたに違いない。それでも、普段あまりない名前との任務のチャンスが、一級に推薦されたことにより巡ってくるようになったのだ。
少しくらいは、期待もする。

もうこんな時間か、とペンを止めた伏黒は、いつの間にか目の前の席で寝落ちていた釘崎を起こす。寝起きの悪い釘崎は、伏黒へと散々な悪態を吐いてくる。何でこんなに寝起き悪いんだこいつ。と伏黒は溜息をつく。
しかし、この後もっと散々な愚痴に付き合う羽目になるのだと思えば、何でも良いかと思えてしまう。

それもこれも全部終われば、伏黒は名前の部屋に潜り込み、彼女と一緒にくっついて居られる。そう自分を元気づけながら、重い足を自室へと進めた。

 
そしてやってきた夕食時、すぐ横に座る虎杖の表情は案外悪くなかった。…いや、寧ろ心なしか嬉しそうだ。
夕飯までの間に何か良いことでもあったのだろか。少し安堵する伏黒だが、それも束の間、隣から静かに放たれる虎杖の言葉に、伏黒は言葉を失ってしまう。

「なあ伏黒、」
「ん、なんだ?」
「あのさ、俺今日の任務で気づいたんだけどさ、」
「ああ、」
「………名字先輩って、実はすげー可愛い人だったんだな。」
「ああ……って、はあ!?」

つい先程まで緊迫した表情の虎杖の顔が、一瞬のうちに蕩けるような笑みに変わる。
思いもよらない虎杖の言葉に頭が真っ白になる伏黒は、柄にもなく盛大に驚いてしまう。
おい嘘だろ…こいつ、一体今何て言った…!?
そんな伏黒の驚きを別の意味に捉えたのだろう、虎杖は「いやー、俺本当に今まで嫌な誤解してたわ。」なんて呑気に頭を掻いていて。

まさか虎杖は名前の魅力に気づいてしまったというのだろうか。だとしても、たった1回任務を共にしただけで気付くなんて、そんなことがあり得るのか。
そう考えたところで、不意に伏黒は、虎杖の地元の女子が東京に来た時のことを思い出す。彼女は凄く痩せていて誰かわからない程見た目が変わっていたにも関わらず、虎杖は一目で彼女だと見抜いたのだ。
もしかしたら、虎杖は一見疎そうに見えて、実はかなり鋭い感覚の持ち主なのではないだろうか。

しかも、以前から虎杖は名前の見た目を凄く気に入ってた。
それを思い出せば気が気では無くなり、伏黒の眉間にはどんどん皺が寄せられていく。

「あはは、やっぱ伏黒信じてねーな。そうだよな、名字先輩、結構雰囲気あるからな!」

いや、そうじゃない。そうじゃないが…と何も言えなくなる伏黒。
何なら伏黒は虎杖よりも何十倍も名前の事を知っている。彼女の顔を見れば大体思っている事だって分かるし、どんな顔で照れたり笑ったりするのかも知っている。
でも、彼女との関係を秘密にしている以上、ここで張り合うことなどできない。
本当は、名前はもう自分の恋人だから諦めろとか、あんま近づくなとか言ってやりたい。そんな思いをぐっと押し殺し、伏黒は何食わぬ顔を作り出す。

「…つーか、なんでそう思ったんだよ。」
「ああ、それが今日の任務でさ、」

そうノリノリに語り出した虎杖は、恐らく誰かに話したくてうずうずして居たところなのだろう。
いつになく興奮した様子で、今日あった出来事を話し出す。そして、「あの人あんな冷たそうだけどさ、実は結構一生懸命合わせてくれる人なんだって気づいたんだ。」と嬉しそうに彼女を語る。

「何も言わずに颯爽と庇ってくれるし、絶対一人で倒せる敵なのに援護に回ってくれたり。なんて言うか、自分の役割を果たそうとずっと意識している感じが伝わってきてさ。あれ、実はこの人、ただ自分のこと表現するの苦手なだけなんじゃない?って気づいたんだ。」

それを聞いて、伏黒は虎杖が彼女の本質を完全に理解していることを確信する。こんな事は初めてで、思わず言葉を失ってしまう伏黒。ドクリと嫌な音を立てる心臓に、全身からは嫌な汗が吹き出してくる。
そんな伏黒の目の前では、嬉しそうに曇りない笑顔を浮かべる虎杖がいて。

「あ、あとさ。報告書で俺のことちょっと褒めてくれてたんだ。それ見て、もう俺イチコロだったわ。」
「……へえ。」
「な、めちゃくちゃ可愛くないか?もう俺そのあと先輩が何してもキュンキュンしちゃってさー。」

そう名前を真っ直ぐに褒める虎杖の声や表情からは、本当に彼女が好きなんだという気持ちが伝わってきて。伏黒は思わず拳をぎゅっと握り締める。
「ま、伏黒もそのうち分かるって!」とぽんぽんと伏黒の背中を叩く虎杖の横で、伏黒は味気を失った夕食を何とか胃へと押し込んだ。







その日の夜、伏黒は予定通りに名前の部屋へと足を進める。
夕食以降、伏黒の頭の中ではあの虎杖の言葉が巡っていて。

真っ直ぐでキラキラとした目つき、人懐っこい笑みに、名前が可愛いのだと愛しそうに褒める口調。
虎杖の一つ一つの言動が、どうしても自分よりも幾分も優れて見えてしまって。今まで感じたことのない動揺が伏黒を襲い、嫌な胸騒ぎさえしてしまう。

昨日まであんなにも一途な視線を伏黒に向けてくれていた名前。
まさか、彼女に限ってそんな事はあるわけ無い。だが、それを裏付ける確信なんて今の伏黒は持ち合わせていない。
不意に、虎杖の隣で照れ笑いをする名前の姿が頭に過る。そんなことは絶対にあり得ないのに、どうしてか胸が張り裂けるような痛みに襲われる。

ああ、早く名前と会って、それがくだらない妄想であったことを確信したい。
そして彼女を抱きしめ、彼女が伏黒のものであることを確かめたい。

やっと着いた名前の部屋の前。伏黒は迷うことなく速やかに部屋の鍵を開けて中へと入る。不安で一杯な胸を抱えた伏黒は、早速ベッドの端にちょこんと座っている名前の姿を見つける。昨日会った時と変わり映えしない彼女の容姿に、少しだけ安堵する。

しかし、それも一瞬で、すぐに伏黒は彼女が微妙な顔を浮かべている事に気づき、ドキリとなってしまう。想像もしていなかったその様子に、彼女を抱き締めようとばかり考えていた伏黒の足は完全に止まる。

伏黒は知っている、この顔は彼女が疲れている時によくする表情である事を。
どうしたのだろう、何かあったのだろうか、と彼女が心配になった伏黒は、徐々に冷静さを取り戻す。

彼女は自室に入ってきた伏黒を見上げ、それはそれは困った顔を浮かべながらボソリと呟いた。

「……なんなの、あのひと。」

これは相当参っているようだ。
一瞬でそう理解した伏黒は、名前の座るベッドの端へと自分も腰掛ける。

「虎杖ですか?」

そう伏黒が尋ねると、名前の表情は益々歪んでいく。どうやら当たりだったようだ。
あまりにも嫌そうな顔をする名前に、伏黒はなんだか心の中が晴れていくのを感じる。
彼女はどうやら虎杖の好意を不審に思い、受け止めていない様だ。今回ばかりは、人を素直に受け入れる事が不得意な彼女の性格に助かった。
ホッと胸を撫で下ろせば、今までの嫌な胸騒ぎが嘘だったかのように穏やかな気持ちになっていく。

「相当気に入ってましたね、名前さんのこと。」
「なんで」
「何でって、」

そう言われても、と伏黒は困った顔を返す。
たしかに、さっきまで伏黒はそれを散々聞いていたのだが。しかし、自分の口から、他の男がいかに名前の事を気に入っているのかを伝えるのは少し嫌だ。
しかも、相手はあの虎杖で。伏黒が心から認める善人、本当に良いやつで、そんなやつと態々競いたいとは思わない。

「…名前さんはどうなんですか?」
「どうって、なにが?」
「虎杖の事ですよ。どう思ってるんですか?」

逆にそう名前へと問いかけてみれば、意表を突かれたかのように彼女は少し目を丸め、そして、考える様に顎へと手を当てる。そんなにじっくりと考える事なのか。「別に何も思ってない」とひと蹴りされると思っていた伏黒は、意外にも考え込んでしまった彼女に何だかどきどきしてしまう。
そして、すっと視線を上げた名前の瞳が、伏黒の視線と絡まり合う。

「…変な人、元気な人、足凄く速い人。怪力。」

そう、ぽつぽつと言葉を口にした名前。
あれだけ考える間をとった割に、出てきた言葉はかなりシンプルなもので。伏黒は思わず唖然としてしまう。
しかし、彼女は自分の導き出した答えに満足しているようで、涼しい顔で伏黒を見上げていて。

虎杖のあの熱い熱弁と、彼女のもう少し何かあるだろうと思ってしまうようなシンプルな言葉。その差に、伏黒は思わず笑いが込み上げる。

そうだ、彼女はこんなひとだ。
そう思えば、彼女の心が虎杖に奪われてしまうのではないか、とさっきまで不安に思っていた自分が馬鹿らしく感じてくる。

急に笑い出した伏黒に、何が起こったのか分からず名前はきょとんとした顔で伏黒を見詰めていて。

「何で笑うの?」
「いや、名前さんっぽかったので、つい。」

どこが、と言いたげな不満そうな顔を浮かべる名前。
そんな彼女の腰を抱き、ぐっと自分の側へと引き寄せる。抵抗する様子もなく引かれるがままに伏黒へと倒れ込む名前を、ぎゅっと抱きしめる。柔らかい身体、甘い匂い、彼女の全てが自分のものなのだと思えば、どうしようもないほど愛おしいという気持ちが溢れてくる。

名前が好きだ。
名前が好きすぎて、おかしくなりそうだ。
彼女が長期任務から帰ってきてからは毎日のように会っているのに、それでも愛しいという気持ちは全然落ち着く事はない。それどころか、日を追うごとに強くなっている。
果たして、この恋心は正常だと言えるのか。他の人と恋人になったことの無い伏黒には、何が普通かはよく分からない。ただ、そんな伏黒を名前が好きだと言ってくれているなら、それでいいと思っている。

彼女の柔らかい髪に指を絡め、頭をゆっくりと撫でる。
そして、彼女の耳元まで近づき、小さな声で問うてみる。

「…俺は?」
「?」
「俺のことは、どうですか?」

明らさまに動揺したかの様にピクリと反応する名前。相変わらずの可愛い反応に、伏黒の口元は緩んでいく。
抱きしめていて顔が見えないのが残念だ。だが、きっとこういうのは顔を見ない方が素直な答えが返ってくる筈。
伏黒は抱きしめる腕の力を緩めずに彼女の答えを待つ。

「…そ、そんなの言わなくても分かるでしょ?」
「いや、分からないんで言ってください。」
「分かる」
「分かりません。」

一歩も引かない伏黒に、名前はうっと言葉を詰まらせる。それに追い討ちをかけるかの様に、伏黒は告げる。

「俺、虎杖と名前さんが急に仲良くなって、ちょっと焦ったんですから。」

実際は「ちょっと」ではなく「物凄く」焦ったのだ。
それをどう言っても、きっと上手く彼女には伝わらないだろう。虎杖に嫉妬していたなんて、誰かに嫉妬などしなさそうな彼女には言えない。

「べ、別に仲良く無い。あの人、なんか距離が近いから…」

そう伏黒の腕の中で弁明をする名前に、虎杖は距離が近かったのか、なんて余計な事を想像してしまう。きっと彼女のパーソナルエリアが虎杖のそれと違ったため、距離が近いと感じたのだろうが。それにしても、あまりいい気はしなくて、抱きしめる腕に力が入ってしまう。

「ほら、言ってください?」

答えを急かす様にそう言えば、名前は小さな声で困った様に唸りながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「恵は、変なひと。」
「変なひとって…それだけですか?」
「や、優しい……」
「うん、」
「大人しくて心地が良くて、」
「うん、」
「私のこと分かってて、」
「うん、」
「…嫌いじゃない、」
「そこは好きって言うところですよ。」

名前らしい最後の言葉に、伏黒は思わず笑ってしまう。

虎杖の時とは全く違うどこか気恥ずかしそうな声色は、まるで彼女が伏黒のことをとても好きだと言っている様で。胸の中がぶわっと熱くなる。
普段、名前が素直に好意を伝えてくれる事はあまりなく、そして、伏黒から尋ねたりすることもない。
故に、伝え方が何であれ、その気持ちを口にしてもらえるのが嬉しくて、天にも昇る気持ちになる。

「…虎杖より俺の方が、断然名前さんのこと好きですからね。」
「わ、私だって恵以外の誰かとなんて、考えられない…」

「恵がいいの、」そう小さな声でボソリと呟く名前に、伏黒の心臓は跳ね上がる。

ああ、くそ。いきなりなんて事を言うんだ、この人は。
しかもこんなに恥ずかしそうに言うのは反則だろ。

一気に顔に熱が集中していくのを感じれば、今は絶対に彼女に顔を見られたくない、と抱きしめる腕に力が篭る。

「…本当、そう言うところですよ。」
「な、なんの話?」
「名前さんが魔性の女だって話です。」
「ま…っ!」

何でそうなるの、と訳がわからなそうに呟く名前。誰がどう聞いたって今のは狡いと思うが、肝心の本人には自覚がない。そして、それを説明できるほどの余裕は伏黒にはない。

少し腕を緩めれば、ぱっと顔を上げた名前と目が合う。今照れているのは伏黒なはずなのに、彼女は何故か耳まで真っ赤にしていて。なんでこんな可愛いことになってんだ。
真っ赤に染まった彼女の耳へと口を寄せて、舌先で耳を突くように舐めてやれば、「ひゃ…っ」と甘い声がこぼれ出てきて。その声に、完全に伏黒のスイッチが入ってしまう。
耳が弱い彼女は伏黒の舌から逃げるように身を捩らせようとするが、そうはさせないと小さな頭を固定してやる。そして、そのまま耳の形に沿って舌先をねっとりと滑らせていけば、その度にぎゅっと身を縮こませてピクリと反応する。

普段は涼しい顔で無敵そうに見える彼女だが、耳を含めて、それはもう色々な所が弱い。
だが、それを知っているのは伏黒だけ。
そこに触れられるのも、伏黒だけ。

少し意地悪が過ぎただろうか、と彼女の頭を固定する手を退けてやれば、名前はするりと伏黒の胸へ潜り込み、そして耳を触れないように塞いでしまう。
こういう意地らしいところも、可愛いひとだ。思わず口角が上がっていく。

「名前さん、こっち向いてください。」
「イヤ…、恵、変なことするでしょ…?」
「それはしますけど、」
「じゃあダメ、」

名前はどうしても伏黒の方へは向いてくれないらしい。「そうですか、それは残念です。」と態とらしく落ち込んだ声で言ってやれば、耳を塞いている彼女の指がピクリと動く。
そして、少し考えるように動かなくなった名前だが、次の瞬間には様子を伺う様にチラリとこちらを見ていて。
伏黒を心配して覗き込むその顔に、何だかとても大切に想われているような感覚を覚える。

「虎杖にはそんな顔、しないでくださいね。」

そう一言告げれば、名前は何故そうなるのだと眉間に皺を寄せていた。



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