ほつれる吐息と淡い残存

※モブ視点のお話です。ご注意願います。



この世は腐り切っている。
楽しいことなど一つもない。何かを期待したって、すぐに裏切られて終わる。いつもいつもそうだ。この世には人をゴミ屑以下だと蔑む下等生物ばかりが蔓延っていて、だから僕は何も信用せずに生きてきた。
そう、あの白くて温かい手を差し出されるまでは。


「その腕、一体どうされたんですか…?」

清潔感のある空間に、美しい声が優しく響く。
僅かに香る薬品の匂いが鼻を擽ぐるここは、彼女が住まう白亜の城だ。

「名字先生…!こ、これはその、マグロ捌こうと思ってたら腕を切ってしまって……」

眼鏡越しには、心配そうにこちらを見つめる彼女の姿が見える。ああ、なんて美しくて優しい人なんだ。心臓がギュンとなる。……ちなみにギュンというのはキュンよりもかなり激しい感じのやつだから、実は結構痛い。
慌てて診察室へと僕を通した先生は、丁寧に袖を捲って僕の傷口を診て言った。

「随分と深い傷ですね……でも傷口は綺麗そうなので、あまり酷い跡にはならないと思います。……少し準備をしてきますので、そのまま掛けてて下さいね。」

そう言うと、彼女は道具を取りに部屋の外へと消えていった。
彼女のいなくなった診察室は、ただ柔らかい静けさを帯びた空虚となる。ほんの僅かに感じる彼女の残滓に心を震わせながら、一つ扉を挟んだ向こう側で準備をする彼女に思いを馳せる。
今日この日のために、僕は入念に準備をしてきた。今日こそ彼女との関係を、「先生と患者」というありふれた何でもないものから一歩先へと進めるのだ。そう意気込んでここまできたが、どうやら今のところは順調にことが進んでいるようだ。
あとは怪我の治療をしてもらって、そして自然な感じで巷で噂の甘味処の話をする……そして、彼女をデートに誘うのだ。よし、計画は完璧だ。あとは、いかに自然な感じで彼女と会話ができるか、に掛かっている。幸いなことに、さっきよりも痛みや緊張を感じない。妙な落ち着きすら生まれているのは、きっと頭がハイになっているからだろう。

「お待たせしました。……麻酔は、あまり身体に合わないと前におっしゃっていましたよね。少しだけ痛みますが、すぐに終わりますので辛抱してくださいね。」

薄い手袋越しに、彼女の少し冷たい手が腕に触れる。慣れた手つきで傷口を綺麗にする彼女は、若そうな見た目の割にはどこか熟練した何かを感じる。治療中は時折りズキズキとした痛みが駆け巡るが、それすらも何だか愛おしく思えてしまう。

最初に会った時も、そうだった。
多分、一目惚れというやつなのだろう。


あの日は、類希なる災難な日だった。何だかよく分からないまま次郎長一派の勝男とかいうチンピラに、俺は襲われていた。コーヒー牛乳を持ったまま、少しうたた寝していただけなのに。何故か酷く痛めつけられていた俺を、彼女は助けてくれたのだ。「ええか、今日は名前先生のツラに免じて見逃したるけど、次はないからな!その貧相な頭ン中によう叩き込んどけよコーヒー牛乳ぶち撒け野郎。」なんて言葉を吐き捨てて、チンピラ達は何処かに消えていってしまった。殴られた痛みで地面に這いつくばっていた僕には、一体何が起こったのかよく分からなかった。分からなかったが、すぐ目の前に男物の袴の裾が見えた時、また殴られるのだと咄嗟に身構えた。
しかし、いつまで経っても痛みはやってこない。それどころか、「大丈夫ですか?」という柔らかい女性の声が頭上から降ってきた。何かがおかしい。そう思って、恐る恐る顔を上げる。すると、そこには地味な袴に身を包んだ女性が、その白い手をこちらに向けて差し出していた。
一瞬、ここは死後の世界なのではないかと、そんな思考が頭を過った。そう、それほどまでに彼女はとても美しくて、そして優しい雰囲気であったのだ。
彼女の手を借りてその場に身体を起こす。所々に古い傷のある小さい手は、存外力強かった。そのまま彼女は持っていた医療用のカバンをあけ、チンピラ達にやられた傷を丁寧に治療してくれた。聞けば、彼女は町医者であるというのだ。
チンピラ達を手懐ける、美しくて優しい医者……そんな人間が、この世に存在するだろうか。もしかして、彼女は本物の女神様なのではないだろうか。そんな淡い期待がほんのりと胸を熱くする。
歌舞伎町とは嫌な街だ。隣町に住んでいる僕は、この秩序のない馬鹿な人たちが蔓延る街が大嫌いだった。だけど、その日から僕にとっての歌舞伎町は、あの人が住む神聖な街という認識に塗り替えられた。




「これでよし、と。………刀傷の本当の理由は聞きませんけど、危ない事なら程々にして下さいね。」

治療が終わり、包帯をテープで留めた彼女はそう一言呟いた。心臓がドクンと跳ね上がった。なぜなら僕は一言も、腕を刀で切ったなんて言っていないからだ。マグロを捌いていたと言ったのだから、普通は包丁を思い浮かべるはずなのに。どうやら彼女にはこれが刀傷であることなどお見通しらしい。もしかしたら、意図して自分でつけた傷だということも、彼女は気付いてしまっているのだろうか。

嫌な緊張が胸の中を駆けずり回る。しかし、もう後には戻れない。いつものように待合室で待つよう告げる彼女に、今しかないと意を決して口を開く。

「先生、あの「ウーッス、名字せんせぇ〜?邪魔すんぞ〜?……ってアレ、いねぇの?」

緊張の中、どうにかして発した言葉は、どこからか聞こえてきたやる気のない声に見事に遮られてしまった。
くそ、こんな大事なときに水を差しやがって、一体誰だ僕の邪魔をするのは!!他の患者と出会さないよう、わざわざ平日の昼間を狙って来たというのに…!ニートか、ニートなのか?!そう荒れ狂う気持ちを唇を噛み締め何とかして押さえつける。

「んだよ、せっかく美味そうな団子貰ったから寄ってやったのによぉ。」

銀さん一人で食べちゃうよ?冷蔵庫のいちご牛乳も一緒に飲んじゃうからね??
待合室をうろうろと徘徊する足音と共に聞こえてきたのは、そんな意味のわからない言葉で。いや、ここ診療所なのに団子ってなに??つーか冷蔵庫のいちご牛乳ってどういうこと?!

「……もう、仕方のない人。」

計画が潰されたのと、意味のわからない人物の登場で頭が激しく混乱する。そんな最中、すぐ側から聞こえて来たのは何でもない呆れたような一言で。不意に、声の方へと視線をやった。彼女の横顔は、閉じたままの待合室へと繋がる扉をただじっと見つめいて。
いつも微笑んでくれる顔とは違う、どこか気の抜けた柔らかい表情が目に留まった。
それは、僕の知らない彼女の顔だった。
頭の中が真っ白になる。

「お団子にいちご牛乳は合わないと思うけど…?」

扉を開けた彼女は、まるで当然のことのようにそんな返事を扉の向こうにいる誰かに返した。
そんな気さくな会話を、僕はただの一度たりとも彼女と交わたことはないのに。くそ、くそ。一体誰が扉の外にいるというのだ。

彼女の背を追いかけるように診察室を抜け出す。そこには、目の赤い銀色の髪の男の姿があった。

「なんだ、いんじゃねーかよ……ってなに、患者来てたのか。てっきりまた久兵衛んトコのジジイに呼び出されたのかと思ったわ。」
「敏木才様のところには昨日行ってきたからね。」
「ったく、あのエロジジイも懲りねぇな。」

そう言うと、まるで自分の家のような態度で待合室の椅子に腰掛けた男は、おもむろにジャンプを捲り始めた。
何なんだ、この男は…!先生の知人か友人か?!馴れ馴れしい奴め。…しかし、そう思っているのはどうやら僕だけのようで、彼女は男に嫌な顔一つ見せず、まるで当然のように男のことを受け入れる。

「ごめんなさい、彼のことは気にしないで。請求書と処方箋をまとめるので、少し掛けて待ってて下さいね。」

そう言うと、彼女は作業をするために奥へと入っていった。その後ろ姿が見えなくなるまで見つめると、ジャンプを読む男の向かい側の椅子に掛けた。
白色の着流しを片方だけ掛け、気怠げに脚を組む。時折り小指を鼻に突っ込むこの男が、あの清廉潔白な彼女と顔馴染みであるとは思えない。見た感じ、頭以外は治療の必要が無さそうに見えるこの男に、悶々とした感情だけが胸を覆う。

「……せ、先生と随分仲が良いのですね。」

しかし僕はこのまま終わるわけにはいかない。意を決して、男と彼女の間柄に探りを入れようと試みる。
すると、手元のジャンプを見つめていた視線が、ちらりとこちらを向いた。死んだ魚のような目は、一瞬だけギラリと光った気がした。

「あ?まあな。」とさらりと返ってきた返事とは裏腹に、何やら含みのある眼差しが僕に向く。

「兄ちゃんアンタ、ここらじゃあんま見ねぇ顔だな。」
「ええ、まあ……家は隣町なので。」

そうかい、そりゃ態々こんな小さな診療所までご苦労なこったなァ。
気の抜けた声で呟いた男は、その緋色の瞳を僕から逸らし、手元にある鞄へと向ける。

「ところでその鞄、一体何が入ってんの?」
「!?」
「……まだ新しい血の臭いがぷんぷんすんだけど。」

ぞくり、と背筋が凍てつくような感覚を覚える。
そう、鞄の中には確かに血の付いた小刀がある。勿論、僕が自分の腕を切ったときの物だ。しかし、そうだとしても、どうしてそれが分かるというのだ。この男は一体何者なのだ。
僕と先生の邪魔をするいけ好かない奴だと思う一方で、生物としての本能はこの男に近付くなと警告を鳴らす。
どうやら僕は、とんでもない人間に目を付けられているのかもしれない。

「悪い事は言わねぇ、面倒事抱えてんなら今度から他所の病院に移ってくんない?」
「ぼ、僕はそういうんじゃない…!」
「へぇ、じゃあ隣の空き地でわざわざ自分の腕ブッ刺して、ここに治療して貰いに来たってか?」
「なッ何でそれを…ッ!」

しまった、と自分の失言に気付き口を塞いだところで、もう遅い。やはりか、なんて納得する顔を見せるわけでも無く、当然のことのように淡々とする男の様子が、焦る心を更に煽る。

「そりゃオニーサン、空き地からここまであんな血痕が残ってりゃ誰だって気付くでしょーがよォ。」

ハッとなって、つい先ほど彼女に治療してもらった腕を見た。傷口は手拭いで強く押さえつけていたけれど、それでも気付かぬうちに血が零れ落ちていたのだろう。
くそ、なんてことだ…!上手くいったと思っていたのに、よりによってこんな男に気付かれるなんて。言葉にしようもない悔しさに、ギリギリと歯を噛み締める。そんな僕に、男は声のトーンを更に落として言った。

「自殺なら他所でやんな。……それとも、もしアイツに気があってやってんなら、そういうの気持ち悪ぃからやめとけよ。ヤンデレとか今どき絶対流行んねぇから。」

尤もな言葉を真正面から投げつけられ、酷く心臓が飛び跳ねた。認めざるおえない、図星だった。全くもってその通りで、彼女に気があるからやったのだ。普通の人間は、この距離の縮め方は異常だと言うだろう。しかし、僕の思考回路にはこれしか方法が存在しない。これが僕の普通であって、いくら気持ち悪いと思われようとも、他人の意見なんてどうだっていいのだ。

「だ、大体、君は何なんだッ!さっきだって馴れ馴れしく名字先生に話しかけたりして…!!先生は君のモノだとでも言いたいのか…っ!」

震える声を、目一杯に張り上げた。本能はこの男に逆らうなと言っているが、それを振り切ってまで声を上げる理由が僕にはあった。そう、どうしてもこの勘違い男に一言言ってやりたかったのだ。
しかし銀髪の男が狼狽える様子は一つもなく、それどころか、口角を僅かに上げて余裕そうにこちらを見つめて言った。

「あ?なんだオニーサン、ちゃんと解ってんじゃねーの。」
「!?」

ぎらりと、緋色の瞳が光を帯びる。まるで獲物を捉えた捕食者のような危険で恐ろしいその光に、無意識のうちに全身の毛が逆立つ感覚を覚える。

「名前は俺のだ、十年以上前からな。……だから、あんまそういう気色悪ぃことすんの、やめてもらっていい?」

アイツそういうのには昔から引くほど鈍感だからな、ホント。そう言って後頭部を掻く目の前の男には、先ほどの気迫もなければ威圧感も無い。ただ、誰か大切な人を思っているのだろう、無表情の下に隠れた優しい顔がほんの僅かに目に映った。

ああ、この男にはきっとどうしたって叶わない。
自分なんかよりもずっと前から、ただひたすらに彼女だけを愛し続けている。こんなやる気の無さそうな態度で、間の抜けた口調で、彼女に仕方のない人だと言わせる男は、こうして彼女の居ないところでずっと彼女のことを守り続けて来たのだろう。
悔しいなんて言葉も出ない。それほどに圧倒的な敗北を感じて、項垂れる。

ほら、やっぱりこの世は腐り切っている。
ただほんの少し期待に胸を膨らませただけなのに、それすらも驚くほど呆気なく終わってしまう。結局、俺はこの腐った世界で漸く見つけた彼女という光を、手に触れることすらできずに失った。




◇◆◇





男が去っていった後、ジャンプを開き直してワンパークを読み直す。アイツはナミィやロビソのように色っぽい妖艶な美女なんかではない。ただ、よく見るとその顔立ちは端正で所作がとても美しい、それだけの何処にでもいる普通の女だ。それなのに、寄ってたかるハエは後を絶たない。それはきっと、浪人だろうとバラガキだろうと分け隔てなく優しく接するアイツの日頃の行いがそうさせているのだろう。

「お待たせしました、請求書と処方箋……って、あれ?いない……」

奥の部屋から戻って来た名前は、首を傾げて待合室を見回した。きっとさっきのイカレ野郎のことを探しているのだろうが、もう遅い。アイツは多分二度と此処には戻ってこないだろう。
困ったように眉を下げる彼女に、ジャンプをパタリと閉じて言う。

「あの野郎なら財布忘れたとか何とか言って出ていったぞ。ったく、絶対ぇ治療費ちょろまかす気だぞアイツ、二度と診察なんざしてやるな。」
「そうなの?…でも、そんな、ちょろまかすだなんて銀時じゃないんだから。」
「えっ?ちょっと、なにそれどーゆー意味ですか先生??」
「どうもこうもないよ。銀時が何ヶ月も家賃ちょろまかすから、今度銀時の治療するときは臓器の一、二個抜き取っといてくれってお登勢さんに頼まれてるんだよ。」
「オィィイイイ!!何怖いことコイツに吹き込んでくれてんだあの糞ババア…ッッ!!臓器の一、二個ってそんな軽い感じで抜き取るモンじゃねぇから!!一気に二個も抜いたら間違えなく死ぬからね!!つーか家賃どんだけ値上がりしてんだよ!!」

糖尿病の銀時の臓器がどこまで高く売れるのか分からないけどね。なんて呑気に笑うこの女もこの女だ。臓器摘出する気満々じゃねーかよ。大事な幼馴染殺す気満々じゃねーかよ。
そう言って不貞腐れていると、彼女はくすくすと笑いながら「冗談は置いといて、お団子に合いそうな抹茶ミルクならすぐに注いであげられるけど、飲んでいく?」と首を傾げて尋ねてくる。
ああ、この女は、本当に。俺の扱いを完璧に理解してやがるな、コンチクショーが。

「上等だコラ。イチゴ牛乳とどっちが合うか、しっかり分からせてやるよ。」
「ふふ、すごい気合いだね。」
「ったりめーだろ。イチゴ牛乳が何にでも合うこと、俺が証明しなくて誰が証明するってんだよ。」
「確かに、銀時にしかできないね。」

本当に仕方のない人。
そう言って笑う彼女の頭の片隅にすら、もうあの野郎の面影なんざ一ミリも残っちゃ居ないのだろう。
そうそう、それでいい。あんな野郎のことで、こいつが一喜一憂する必要なんてどこにもないのだから。他の野郎のことを考える時間があるのなら、俺のことだけを考えて、俺のことだけで一杯一杯になっていて欲しい。そんな醜い独占欲が渦巻く胸の内は、きっとあの野郎と大差ないのだろうが。
それでも執念に、長い時間をかけてゆっくりと彼女の懐に入り込んできたのは俺の方なのだ。簡単に横から掻っ攫って行かれちゃ、こっちだって困る訳で。

そんな俺や野郎の葛藤など一つも知らない彼女は、今日も変わらない横顔で笑っていた。





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