#17 濫觴

一体どうしてこんなことになったのだろう。
冷たい小屋の中で一人膝を抱えて考えたのは、せいぜい冬が過ぎるまでだった。
幼い心に忍耐力など存在しない。霜焼けの酷い手を地面について、傷だらけの足で立ち上がる。涙の枯れた瞳が映した世界は、絶望の色に染まっていた。



それは遠い昔、20年以上も前の話だ。とある由緒正しき家の一人娘として生まれた私は、何もかもが恵まれた裕福な暮らしをしていた。町で一番大きな屋敷に住んでいて、いつも身の回りの世話をしてくれる女性が側にいた。色鮮やかな美しい着物に袖を通し、毎日お腹いっぱいのご飯を食べる、そんな贅沢な日々を過ごしていた。
私の両親は、この国の偉い方の縁者だそうだが、その肩書きに似合わないほど平凡な人だった。屋敷で働く女中や家臣の人達ともまるで家族のように近しく接する人達で、そんな彼らを見て育った私もまた、平凡で何でもない人間に育った。

だが、そんな生活はとある人物らを招き入れたことにより一転する。

彼らは、私の母の親族の遠い親戚だと言ってこの地へとやって来た。母は身に覚えのないその名前に首を傾げていたけれど、父は困っているならと言って彼らを屋敷に招き入れた。

彼らには、私と同じ年頃の娘がいた。名は、愛麗と言った。
愛麗の父は彼女を女中見習いとして私の側に置くことを提案した。当時、歳の近い友達が一人もいなかった私は、それはそれは喜んでその提案を受け入れた。
そうして始まった彼らとの生活は、最初はとても良好のように思えた。愛麗の両親はいつもニコニコとした笑みを浮かべ、私にとても優しく接してくれた。愛麗は人見知りが激しくて、周りの大人とは頑なに口を聞こうとしなかったが、私にだけはその噤んだ口を開いてくれていた。

「名前さまのそれ、それとても綺麗ね。」
「?この簪のこと?」
「うん、愛麗もそれ欲しいなあ。」

最初は、そんな無邪気な会話からだった。キラキラと光る彼女の目は、とても物欲しそうに私の髪に刺さるそれを眺めていて。簪は他にも幾つか持っていたため「それなら、これは愛麗にあげる。」と彼女に簪を手渡した。

しかし、それから日を追うごとに愛麗のそれは段々とエスカレートしていった。ある時は私の甘味を全て譲れと言って来て、またある時は父から貰った大切な帯紐を譲れと言って駄々を捏ねた。流石に誕生日などの特別な贈り物は譲れないと、泣き喚く彼女に代わりのものを買って贈ることを約束したりもした。
普段は優しい女中達が、毎日のように彼女の文句を言っていた。そんなに優しくする必要はないのだと、私に進言してくれた者もいるけれど、私は首を横に振った。きっと彼女は一人で寂しいだけなのだと、そう思っていたからだ。それに、そんな我儘放題の彼女でも、自分だけに口を聞き甘えてくれていることがどこか愛おしいと感じていた。
それが温室で育った世間知らずの私の、とんでもなく愚かな考えであったことに気づいたのは、彼女がここに来て一年を数えた頃だった。

とある日の夕暮れ、母に贈り物がしたいと隣町まで買い物に行った帰り道、私の目に映ったのは轟々と音を立てて燃え上がる自身の屋敷だった。赤い炎の中には、可笑しな笑い声を上げる悪魔のような姿。その直ぐ側には血飛沫を上げて崩れ落ちる人影が見えた。その人が着ている着物は、父のとよく似た柄だった。

その翌日、一緒に街へと出かけた女中が燃えずに残った離れの物置で遺体で見つかった。あの悪魔の姿を、愛麗の父親が当主であった私の父を殺すところを見てしまったからだと、幼い私は勘付いた。
もちろん、私も無事では済まなかった。鎖で馬小屋へと繋がれて、身に覚えのない罪を擦りつけられ酷い目に遭わされた。泣き叫ぶ気力を早々に失った私の心は、すっかり壊れてしまっていた。
それから暫く経った頃、編笠を被った黒装束の男達が現れて、私を小屋の外へと連れ出した。久々に瞳に差し込む陽の光があまりに眩しくて、視線を地面へと落とす。すると、不意におろしたての真っ白な足袋と豪華な装飾の付いた美しい草履が目に留まった。

「いい気味ね、いつも偉そうな顔で私を見下していた貴女が、下衆人に成り下がって私に頭を垂れるなんて。」

どこか聞き覚えのある声が、頭上から降ってきた。虚な瞳のまま視線を上げると、そこには色鮮やかな着物を身に纏った少女がこちらを見下げていた。
見たことのあるその美しい着物は、いつか大事な親戚と会うときに着るのだと、母が私のために大切に仕舞っていたものだった。

「愛麗っ、…なにを、しているの…ッ?」
「声を出せと言った覚えはないのだけど?」

バサリと開いた扇子を口元に当てがった彼女は、何か忌むものを見るような目で私を見る。

「穢らわしい。卑しい下人の分際で許可なく私に話しかけないで頂戴。」

冷たく言い放った彼女は、従者を付き従えながら離れの方へと消えていく。
一体何が起きているのか、ましてや、これが夢なのか現実なのかも分からない。ただ呆然と彼女の後ろ姿を見つめることしかできなかった。

その後、編笠の男達に連れて行かれた先で地獄のような日々を過ごした。どこまでも終わりの無い闇の奥で、何の意思もなく誰かを殺めて生き延びる。気が付けば、誰のものかも分からない血で両手は汚れていたけれど、そんなことは別にどうだって良かった。
この時の私は、生きているというよりは死んでいないだけだった。

そうして飼い慣らされ、奴らの中で漸く私が使い物になった頃、愛麗から呼び出されては命令をされた。それは、下女の真似事のようなことから影武者、人殺しまで様々だった。

悔しい、悲しい、憎い。
痛い、辛い、気持ち悪い。
それを感じるための心は、とっくの昔に壊死していた。いや、きっと何も感じない方が楽だと気付き、自ら殺したのかもしれない。
そうして気が付けば、感情も言葉も何も持たない傀儡のような人格が私の中に出来上がっていたのだ。


それから数年後、彼女の影武者として出向いた先で松陽先生に拾われて、私の人生は一転する──────





◇◆◇






遠ざかっては近づいて、また遠ざかる。揺蕩う意識の淵に一人ぽつねんと浮かんでいる。
ゆっくりと息を吸い込むと、胸が痞えるような苦しさを訴える。痛い。苦しい。辛い。息苦しくて堪らないのに、いくら空気を吸い込んだって上手く肺が膨らまない。きっと肋骨が折れているのだろう。何となくそう思った。
ゆっくりと意識が身体と馴染んでいく、その沈むような不思議な感覚を静かに感じた。埃臭く湿ったにおい、ひんやりと冷たい床、手足に絡みつき自由を奪う何か。鉛のように重たい身体はそう簡単には動かない。それどころか至る所がズキズキと酷い痛みを訴えていて、身体を動かす気にもなれない。

ゆっくりと瞼を開き、霞む視界の輪郭を追う。段々はっきりと見えてくるその景色には、どうも身に覚えがなかった。目の前には冷たく視界を覆う鉄格子、その奥には蝋燭の灯火が揺れていて、それ以外には何も無い。だけど、ここが牢であることは明白だった。

一定の間隔で地面が小さく揺れている。この浮遊するような感覚は、乗り物……きっと船の上にいるのだろう。
ということは、もう江戸を離れたのだろうか。
窓もない牢の壁を眺めながら、ふと考える。

もう二度とあそこに帰ることはない───いや、『帰る』なんて表現は多分相応しくない。私は元々そこにいた訳ではないし、どこかに帰る場所がある訳でもない。ただ、優しいあの人の同情を煽って側に置いて貰っていただけなのだから。

あそこは、歌舞伎町は私には眩しすぎる場所だった。他所者である私を拒む事なく受け入れて、優しく溶かして馴染ませてくれる。温かい人達に、賑やかな日常。すぐ側には大切な人が笑っていて、そのすぐ側には大切な人の大切な人が笑っている。そしていつの間にかその人達も自分の大切な人になっている。
それが当たり前のように織り成されるこの街で、気付けば美しい思い出ばかりがたくさん胸の中に積もっていった。もうこの身に抱え切れないほどいっぱいで、充分過ぎるくらいで。

そんな美しい記憶と共に地獄に堕ちるのだから、きっと私は誰よりも幸せ者だろう。
一つ息を吐き出して、静かに瞼を伏せた。


錫杖を付く音を耳の奥で聞いた時、予感は確信に変わっていた。辺りに漂う異様な空気は、深い闇がすぐそこまで迫っているのを知らせているようだった。
桂くんの元を去り診療所に辿り着いた私を、それは音も無く囲っていた。よく見知った黒装束に、編笠。ぞくりと、背筋に何かが走った。
逆らえない、逆らってはならない───その思考は、もはや反射のようなものだった。幼い頃に植え付けられ、深く深くに根を張ったそれは自分ではどうにもでない。
無意識のうちに、手が震えた。
違う、そうじゃない。もう怯える必要なんてどこにも無い。だって幼い日にあの人が、あの人達が、絶対に大丈夫なのだと教えてくれたのだから。
短刀を、強く強く握りなおす。

降り掛かる錫杖の雨が身体中を掠める。誘い込まれるように避けた先には鋭く光る刃があって、身体を捩り何とかそれを短刀で受け流す。ああ、そうだ。このやり口を、私はよく知っている。しかし、いくらその動きを知っていても、間合いを詰めて相手の懐に潜り込める余裕なんて微塵も無い。それに、そうやって一人斬ったところで相手はあと何人いるのだろう。

気が遠くなりそうになる。
それでも、むざむざとここで全てを終わらせるわけにはいかなかった。

このまま捕まり痕跡を残せば、あの人が、大切な人達が、また要らぬ心配をしてしまう。その辺の奴らが相手なら、まだいい。しかし、今回はそうではない。相手は暗殺に長けた集団で、刀を抜けば絶対に無事では済まないだろう。その血を流して得られるものが私では、何の釣り合いも取れはしない。

だから、一つたりとも痕跡を残さぬように、消えなければならなかった。せめて江戸の外までは逃げ切らなければならなかったのに。このままでは江戸どころか、この庭の外に出ることすらも叶わない。

いくら足を踏ん張っても力の差は歴然で、次第に庭の奥へと追いやられていく。分かっている、真っ正面からでは部が悪すぎる。だけど、他にどうすることもできなくて。

斬撃を受け切れず、弾き飛ばされた身体は外壁に強く打ち付けられる。受け身を取り損ねた身体のあちこちが悲鳴を上げた。

じわじわと、視界を赤が覆っていく。
その中に、ぼんやりとした白い影が浮かんでくる。

馬鹿だな。何でこんな時に、思い浮かべてしまうのだろう。
彼に傷付いて欲しくなくて、こうして一人で戦うことを選んだのに。
最後にあの白い背中に触れたくて、必死に手を伸ばしてみる。
だけど、それは瞬き一つで消えてしまう。

段々と身体が重くなり、視界がぐらりと傾いていく。手足に走る痺れの存在に気付いた時には、もう手遅れだった。
身体から力が抜けていき、一気に膝から崩れ落ちる。錫杖の刃に仕込んであった神経毒が、いつの間にか身体中を巡っていたらしい。
残る力を振り絞り、突き付けられる錫杖を払い除けようとするけれど。上手く握れない短刀は、そのまま弾き飛ばされてしまう。

まだだ、こんなところで終われない。
そんな意思とは裏腹に、殆ど感覚の残っていない身体は地面に倒れてしまう。霞む視界の向こうには、何処にもいない白い影がゆっくりと消えていく。

深い闇に堕ちるように、意識を静かに手放した。



そうして次に目覚めた時には、ここに繋がれていたのだ。

錫杖と編笠の集団────それはかつて私を飼っていた組織であり、そして松陽先生を死に追いやった元凶でもあった。末端も末端だった私には、それが何を目的とした集団であるかは分からない。ただ、その異様さは十分理解できたし、もう二度と関わりたく無いと思っていた。
どうして奴らは今になって私を襲ってきたのだろうか。奴らは随分と前から私が生きていることを知っている。知っていて今の今まで全くの野放しだったのだ。ただ、こうして生捕りにしたからには、きっと私に何かをさせるつもりなのだろう。
いや、奈落そのものが私を利用したいわけでは無い。きっと、それを奈落に持ちかけた人間がいるのだ。そんな人物など、一人しか心当たりがない。

不意に、静かな牢獄に複数の足音が聞こえてきた。その中の一つには、女性の草履の音がする。
段々こちらへと近づいてくる気配の中には、明らかに異様なものが混じっている。

途端に、忘却の海へと沈めていた情景が脳裏に浮かんだ。
轟々と音を立てて燃え上がる炎、その中で笑う黒い悪魔。
残った灰色の屋敷と、手足に絡まる冷たい鎖。
こちらを見下ろし笑う声は、いつも嘲りを含んでいた。

目の前で立ち止まった影に、ゆっくりと顔を上げた。
汚れなんて一つもないおろしたての綺麗な草履、緋色に金が散りばめられた豪勢な着物、そして────


「ふーん、まさか本当に生きていたとはね。」


薄暗い牢には似合わないソプラノの声が、辺りに響く。
鉄格子の向こうには、黒曜の大きな瞳がただこちらを見つめていた。

ぞくりと、全身の毛が逆立つのを感じる。
心臓は早鐘を鳴らし、無意識のうちに身体が震える。それは思考ではない本能が、危険を訴えているかのようだった。

「────愛麗、」

随分と久しく発するその音は、嫌に口馴染みがあって、酷く困惑した。心からも、記憶からも、何もかも消し去ったつもりでいた。だけど、きっと私はそうやって忘れた振りをしていただけなのだろう。

一人の付き人が牢屋の鍵を外し扉を開く。錆びた金具が擦れ合う音を耳の奥で聞いた。
躊躇いのない足取りで中へと入ってきた彼女は、まるで友人にでも話しかける声色で鎖に繋がれた私に言った。

「久しぶりね、元気にしてたみたいで嬉しいわ。」

綺麗な笑顔が目の前で色鮮やかに綻ぶ。
しかし、彼女の纏う冷たい空気は全く逆のことを伝えていた。

「………目的はなに?奈落まで使って私を捉えて、一体何をするつもり?」
「あらまあ、少し見ないうちに随分と偉そうな口をきくようになったじゃないの。」

するりと伸びてきた華奢な手が、私の顎を乱暴に掴む。整えられた長い爪が態とらしく頬へと突き立てられる。

「────ねぇ、ルビ?私を愛麗なんて名前で呼ばないで頂戴。だって私が本物の名前なのだもの、分かるでしょう?」

歪────その名前に、肩が僅かに跳ね上がる。
その反応に彼女は嬉しそうに目を細めた。

「愛麗は貴女。これまでだって、ずっとそうしてきたでしょう?」

まるで幼子に言い聞かせるかのような、穏やかで優しい声色。
そうやって彼女はいつも私に命じてきたのだ、身代わりも、人殺しも、何もかもを。
それに従うよう擦り込まれたこの身体は、嫌でもそれに反応する。今はもう彼女の言葉に従う必要は無いのに。何年経っても、忌まわしい過去の記憶に囚われ続ける。
そんな自分に争いたくて、まだ痺れの残る拳をぎゅっと握り締めた。

「……今さら私になったところで、一体何になるというの。」

屋敷も財産も権力も、今の私には何もない。彼女が欲しがる物なんて、何一つとして持っていないのに。
それでも彼女が私であり続けることにこだわるのは、どうしてなのか。
すると、まるで愚問だとでも言うかのように、愛麗は短く鼻で笑った。

「本当、貴女のそういうところが昔から大嫌いだったわ。」
「……、?」
「いつもいつも普通の人間みたいに振舞って、普通の人間であろうとする………自分が特別だって分かっていて、そうやって他人を馬鹿にしているのでしょう?」
「何を言っているの…?別に私は何も特別なんかじゃ……」
「じゃあ一体何だって言うの?」

彼女の静かな苛立ちが肌を伝ってくる。気に食わないものを眺めるようなその瞳は、私を心底嫌っていることが窺えた。

私は何も特別などでは無い。少なくとも、他人を馬鹿にできるほど、何かを持っているわけでは無い。家族も居なければ、友人だと思ってくれている人もほんの僅かにしか居ない。そんな人たちにすら、後ろめたい過去を隠して生きてきた。
こんな私の、一体何を特別だと言うのだろう。
何を思ってそんな言葉を吐いているのか。

しかし、私の全てを拒む彼女の姿勢は、ちょっとやそっとの言葉では何も変わらない。これ以上の会話は無意味だと悟り口を噤めば、彼女は私の頬から手を離した。

「まあいいわ。歪、貴女を呼んだのは他でも無い、最期の大仕事をして貰うためよ。………勿論、しくじれば天導衆があの坂田銀時とかいう男を始末する手筈になっているわ。」

ゆっくりと彼女の口角が上がる。
天導衆、坂田銀時、始末する───それらの単語が耳に入った途端に、身体中の毛がぶわっと逆立つ感覚を覚えた。

「困るわよね?坂田銀時は貴女の大事な人なのでしょう?……まあ尤も、むこうはそう思ってないかもしれないけど。」
「なッ、ふざけるなッ!!銀時に手を出してみろッ、ただじゃ済まさない……ッ!!」
「それは貴女次第でしょう?」

目の前が真っ赤に染まっていく中で、全身の血が沸騰するような憤りを覚えた。くすりと笑うか細い喉を掻き切ろうと、衝動的に手を伸ばすけれど、手首を繋ぐ鎖がそれを邪魔する。

嫌だ、やめろ。お願いだから、銀時には手を出すな。
そんな心の内を嘲笑うような声が、耳鳴りのように頭の中で反響する。
不意に脳裏に過ぎるのは、あの時の、大切なルビを殺める選択を強いられた白い後ろ姿だった。
あれからずっと何年も経った今、漸く彼は幸せになろうとしている。大切な仲間や恋慕う人と共に、あの素敵な街でこれから先もずっと一生笑って生きていくのだというのに。
また、彼をあの暗い闇の底へと引き摺り落とすと言うのだろうか。
そんなことが、許されるとでも思っているのか。

否、天導衆も私も、これ以上彼から何も奪ってはいけないのだ。

鎖を無理やり振り解こうとする度に、ガチャンッと何度も大きな音が響く。手首が痛みを訴えるけれど、そんなことはどうだって良かった。彼女の喉笛に食らいつこうと足掻く私に、付きの男達が慌てて私に槍を向ける。
そんな私に顔色一つ変えることなく、愛麗は淡々と言葉を続ける。

「それじゃさっさと準備をして頂戴。二日後には江戸城に行かなきゃいけないしね。」
「一体、何をするつもり……?」
「そんなの決まっているでしょ、私はお姫様なのよ。」

さらりと長い黒髪を指で弄びながら、彼女は得意気な笑みを浮かべて言った。

「私は名字 名前として将軍……徳川茂茂様と婚約するの。それで、私を貶めた下渡愛麗は幕府の名の下に打首にされる………どう?とても良い筋書きでしょう?」

首を傾げて楽しげに微笑む彼女に、目を見開き固まった。
彼女は、今何と言ったのか。
将軍、婚約、打首───何一つとして繋がらないその言葉を、ただ愕然としながら繰り返す。

「将軍様と婚約…?一体何を言っているの…?」
「まさか貴女、あの噂を知らないないの?」
「あの噂……、」
「呆れた、貴女ってば本当に何も知らないのね。……いいわ、教えてあげる。将軍様は今、遠い親戚である名字 名前を探しているのよ?自分の伴侶とするためにね。」

将軍様の遠い親戚───
伴侶とするため、私を探している───
思いもよらないその事実に、理解が一つも追いつかない。

そう言えば、いつか母が言っていた。私達にはとても偉い親戚がいるのだと。その人と会っても失礼にならないように、とびきり綺麗な着物を箪笥に仕舞っているのだと。

しかし、そんな事があり得るのか。何の後ろ盾もない没落した家系の娘を、今さら将軍様が伴侶に望むなんて……しかも一度も会った事がない、生きているのかすら知れない女を、将軍家に迎え入れるなんて、どうかしている。当然、何か裏があるとしか思えない。

それに、もしそれが本当だったとして、下渡愛麗───これは私のことになるのだろう───が打首になるということは、つまり私が彼女の代わりに死ぬという事だ。それ自体は、ここに連れて来られた時点で既に覚悟は決まっていた。しかし、江戸で打首になるということは、その首を歌舞伎町の人たちの前に晒すこととなる。そうなれば、きっと────

そこまで考えたところで、その続きを考えるのをやめた。
まるで誰かに悲しんでもらうことを望んでいるみたいで、何だか嫌だった。

「そもそも、こんな見え透いた嘘で本当に幕府を騙くらかせると思っているの?」
「ええ、もちろんよ。勝算がなきゃこんなことはしないわ。だから貴女は安心してその首を差し出せば良いわ。」

偉く余裕のある態度を見せる愛麗は、決して自信過剰なタイプではない。昔から賢く、計算のできる女であった。故に、奈落や裏の人間とそれなりに上手くやってこれているのだろう。

そう、つまり、今回の件もそういうことなのだ。
きっと幕府の中に彼女の後ろ盾が、奈落の息の掛かった連中が潜んでいるのだ。奴らはきっと、愛麗という手駒を将軍の懐に忍ばせるのが目的なのかもしれない。
彼女の考える『勝ち筋』を理解した途端に、強張っていた身体から徐々に力が抜けていく。

そういうことなら、今更私が何かを考えたところで、結末は何も変わらない。

己の無力が情けなく、腹立たしくて仕方がなくて。
乾いた笑いが、音もなく口から零れ出た。

それを見てもう十分だと悟った彼女は、勝ち誇った表情のまま踵を返して言った。

「それと、変な気は起こさない方がいいわよ。坂田銀時が多少腕が立つ男なのは知っているわ。でも、天導衆の異常さは貴女もその身を持って理解しているでしょう?」

ぞくりと背筋が凍りついた。
感情を根こそぎ奪われて、人としての権利を剥奪される、あの恐ろしく冷酷な集団を前に、大切な人の亡骸が積み重なる───そんな最悪な想像が、容易にできてしまったからだ。

「例の手筈の通りに。」
そう従者に告げた彼女は、ひらりと手を振りその場から去っていく。その後すぐに牢屋へと入ってきた男たちは、私を鎖に繋いだまま乱暴に何処か別の部屋へと移送した。

そこで髪を漆黒へと染められ、色の入ったコンタクトを両眼に装着させられる。それれらは愛麗の髪と瞳の色そのもので、鏡に見えた自分の姿は、あの頃の、傀儡として生きていた哀れな少女と何一つとして変わらなかった。





◇◆◇





そして二日後の朝、カラッと晴れた青空の下、私の身柄の引き渡しは呆気のないほどに淡々と進んでいった。すり替えられたDNAの判定結果は、役人達の信用を得るには十分過ぎる情報だった。縄に繋がれ地面に押さえつけられる私の横で、彼女はか細い身体を震わせる。手入れの行き届いた美しい髪を肩に落とし、儚げな涙を目尻に浮かべるその姿は、とても悪人などには見えない。
一方で、痛む傷口と身体に残る神経毒の心地悪さに顔を歪める私の方は、どう見ても人相の悪い悪人にしか見えないのだろう。

愛麗はそのまま丁重に持て成されながら城へと上がり、そして私は何本もの槍を向けられながら地下の牢獄へと向かった。



冷たい地面に座り込み、その場で静かに膝を抱く。
心臓が、さっきからずっと強く鼓動を打っている。それはまるで、もうすぐその役目を終えることを悟っている様だった。

死が、音もなく迫ってきている。
だけど、不思議と何も感じない───否、感じたくないだけかもしれない。
余計な期待も、不安も、戸惑いも。全部全部、無意味だと知っているから。できる限り思考の隅へと追いやりたかった。でなければ、後悔ばかりが頭の中を支配する。

あの日、遊郭で見た愛しい人の最後の姿。
すっかり嫌われてしまっていて、視線も何も合わせて貰えなかったけれど。
あれが最期になるのなら、あの夜のことをちゃんと謝っておけば良かった、なんて。そんなことを思ったところで全て無駄だと分かっているのに、思わずにはいられないのはどうしてか。



「あれが名字家の者を惨殺して富と権力を貪り生きてきたっていう、噂の女か?」
「ああ、そうらしい。相当イカれてるっていう噂だぞ。」
「そうなのか?結構大人しいし、よく見るとまあまあ美人じゃねぇか。」
「そうやって人に漬け込んで、何十人も殺してきたような血も涙もねぇ女だぞ。気をつけろよ。」
「ま、マジかよ。怖ぇこった……。」

こちらに燈を向けながら立ち話をする牢番達。それを鋭い眼差しで一瞥すれば、再び牢には静けさが戻る。

夜の湿った匂いが鼻を擽ぐる。
あの頃の様に全てを感じなくなれるようにと、ゆっくりと瞳を閉じた。





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