#16 飛花

その雨は、酷い胸騒ぎを連れてきたまま明け方まで降り続いた。湿気の中に僅かに混じる鉄の匂いは、帰路を歩く足を止める。この肌がピリつく不快な感覚を、俺はよく知っている。
辺りを見回せば、こちらを伺う影が幾つか暗い闇の奥から見えた。
嫌な予感ほどよく当たる。
そんな言葉を世に落としたのは、一体どこのどいつだろうか。しかし、まぁどうやらそいつを締め上げるよりも前にコッチを片付ける必要がありそうだ。

「お宅らさぁ、なに?吉原から上がってきたヤツ皆んなにイチャモンつけてんの?遊女と遊ぶ金がねぇから羨んでるんですかコノヤロー!」

そんな金、俺だってねーわ。何なら先々月の家賃ですら未だ払えてねぇってのに、そんなことを僻まれる義理なんざどこにもねぇよ。寧ろ一文無しの可哀想な銀さんにお小遣いでも置いてって欲しいぐらいだわ、マジで。

腰に差した木刀に手をかけ、神経を尖らせながら辺りに潜む奴らの位置を正確に探る。
コイツら、一体何者だ。夜明け前の一際暗い闇に紛れるその手腕といい、応戦も逃亡も容易くできる位置で構える手練れさといい、どれ一つとってもその辺の輩ではないことが伺える。
チッ、こんな野郎どもに狙われる様なことした覚えはない……とは言い切れないが、この状況はちとやり過ぎなような気がする。少なく見積もって5人、それもこのレベルの奴らを一度に相手するのは流石に分が悪い。

さて、一体どうしたものか。
木刀を握る右手に力が籠る。どんな目眩しをして撒いてやろうか……そんな算段を立てていると、今にも斬りかかってきそうな殺気は一瞬にしてぴたりと止んだ。
そして、さっき迄奴らがいた場所からは、どんどん人の気配が消えていく。

オイオイ、こりゃ一体どういうことだ…?
訳のわからないまま、散り散りに去っていく奴らの気配をただ呆然と見届ける。
人違いだったのか?それとも急用?アニメの録画とかし忘れちゃったやつ?つーか、人様にあんな殺気飛ばしときながら黙ってどっか行くなんて、どう考えても失礼過ぎるだろーがオイ。人違いだったんなら、せめて慰謝料ぐらいは置いていけよコンチクショーが。

……と、まあそんな冗談はさておき、アイツら一体何者だ。あの血生臭い殺気と気配は、お世辞にも忍者とは言い難い。それに、まるで俺のことを試すようなやり口が、どうも胡散臭くて気に食わない。
また変なやつに目付けられちまったもんだぜ、全く。こっちとら、まだ厄介ごとの一つも片付いちゃいやしねぇのに、次から次へと一体何なんだ。

そのまま暫く用心しながら歩いたが、それもどうやら要らぬ苦労だったらしい。何事もなく家まで到着し、潜り込んだ布団の中で考える。
あの変な奴らのことは、この際どうだっていい。明日起きたら、今度こそはちゃんと彼女の元へ行こう。そこできちんと話し合って、将軍のことは対処しよう。
例えどんな言葉で突き離されたとしても、構わない。彼女が心から笑って過ごせるのなら、もう何だっていいのだから。





◇◆◇





淡く漂う何かがぷつりと弾けるような、そんな音を耳にした。

───そういえば、いつ頃だっただろうか。
いつも松陽の隣にばかり引っ付いていたその影が、俺の側に引っ付き始めたのは。何か言葉を交わすわけでもなく、ただ黙って半歩後ろを付いてきて、偶に適当なことを話しかければ、頷いたり首を振ったり短い言葉を返してくる。松陽はそんなアイツのことを大層可愛がっていたが、俺はそれを鬱陶しく思ったこともある。それでも辞めろと言って突き離さなかったのは、アイツが一人でいる時の顔の方がずっと鬱陶しく思えたからだ。

まだ松陽が寺子屋を始めたばかりの頃、人見知りのアイツは当然のように毎日ガチガチに固まっていた。松下村塾に通う子供も増え、俺なんかより他の人間と慣れ合う方が良い、そう思って何度かアイツを一人置き去りにしたことがあった。しかし、彼女はいつだって誰とも打ち解けることはなく、一人縁側に座って俺が帰ってくるのをずっと静かに待っていた。色をなくした表情で、何処を見ているのかも分からない空な瞳で、ただじっと座っていた。それを見た時、俺は自分の選択が間違いだったことに気付いた。

考えてみれば、こんな大きな傷を負った奴に、籠を開けてやるから自由に外に飛び立てなんていうのは、端からおかしな話だったのだ。

それに気付いてからは、サボりでも何でもとにかく便所や風呂のとき以外は彼女のことを側に置いた。会話は相変わらず俺からの一方通行だったけど、それも毎日続けていると然程気にならなくなった。そうやって共に時間を過ごすうちに、彼女がどんな人間なのかを少しずつ知っていった。好きなものや、苦手なもの。瞳や口元のほんの僅かな動きが語るそれは、一度理解すればとても単純なものだった。
アイツ何も喋んねーのに、なんでアイツのこと分かんだよ。───そんなことをよく聞かれたが、絶対に誰にも教えてはやらなかった。ただ何となく、他の奴らが俺と同じように彼女のことを理解するのは、癪に障る気がしたからだ。
アイツを理解できるのは俺だけで、俺はアイツにとって特別なんだ。その事実が、俺の中の何かを満たしていた。

しかし、それは高杉やヅラと連み始めて一転する。彼女は、いつらから自分の意思を少しずつ口にするようになった。そして、俺や松陽以外の人間とも話をするようになった。
ヅラは、俺なんかよりずっと上手にアイツの話を聞く。高杉は、アイツをよく稽古に誘う。俺以外の奴らが、どんどんアイツの意識の中に入っていく。それが、心底面白くなかった。
だけど、アイツは最後には必ず俺の隣に戻ってくる。「銀時」と柔らかい声で俺の名を呼び、聞いてもないのに今日は誰と何をしたのかをぽつりぽつりと話し始める。思えば、この頃にはもう俺とアイツの会話は一方通行などではなくなっていた。

「名前」

こちらを見上げ、首を傾げて俺の言葉を静かに待つ。
その沈黙は、決して居心地の悪いものではなくて。不意に絆創膏の貼られた小さな手が目の止まり、何となく自分のそれをそっと重ねた。彼女は不思議そうに俺の手を見て、そして一言だけ呟いた。

「手、あったかいね。」

その時、俺は初めて自分の中に潜む感情を認識した。







ピンポーン───………
ピンポン……ピンポン…ピンポン…ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン

「うるせェェエエッッ!!!」

鬼のようなチャイムの音が家の中に鳴り響き、思わず布団から飛び起きた。ついさっき漸く寝付けたばかりだというのに、一体誰だこんな嫌がらせをしてくる奴は。枕元の時計の針は6時半を示していて、辺りはまだ薄暗い。新聞配達か何かかコラ、だとしても鬼ピンポンは非常識にも程があんだろ。一体どんな用事があればこんな非常識なことが許されんだよオイ。
「誰アルか……」と眠そうに目をこすりながら押し入れの扉を開く神楽を横目に、玄関へと大股で進む。
勢いよく玄関の扉を開き、その向こうに立つ人間の胸ぐらへと飛びかかった。

「おいコラ、テメェ今何時だと思ってんだ…ッ!」

掴んだ胸ぐらを勢いのままに引き寄せる。目の前でさらりと揺れる黒髪には、嫌というほど身に覚えがあった。
しかし、よく見るとその面は見たことも無いほど血の気の失せていて。思わず胸ぐらを掴む手から力が抜けた。
ここまで全走力で走ってきたのか、大きく肩で息をしている。いい歳こいた野郎が朝っぱらから全力疾走とは一体何ごとだオイ。
しかし、乱れた息など一つも気にする様子のない野郎は、俺の胸ぐらを力強く掴んで言った。

「銀時、名前は…ッ!!名前は、お主のところに来ておらぬか…ッ?!」

取り乱し焦燥に駆られる声が響く。
彼女の名前を紡ぐその切羽詰まった声色に、只事ではない事態なのだと理解する。

「おい、ヅラ…ッ!名前に何かあったのか!?」

眉を顰めて、静かに問う。
その問いかけに、彼女はここには居ないことを察したのか、悔しそうに表情を翳らせたヅラは俺の胸ぐらから手を離した。

「くっ、こんなことになるのなら、もっとちゃんと見張っておくべきだった……っ、」

零れ落ちたその一言に、もどかしさと苛立ちが湧き上がる。
不意に脳裏に浮かんだのは、昨晩見た逃げ去るような彼女の後ろ姿だった。
アイツの身に、一体何があったというのか。
心臓が、やけに大きな音を立てる。ずっと感じていた嫌な予感が、ここにきて一気にその存在感を高めていく。

「おいコラ、テメェだけで解決してんじゃねぇ…ッ!!一体何があった?知ってること全部吐け…ッ!!」

焦る感情を剥き出しにしたまま、ヅラの胸ぐらを掴んで揺すった。
もう手遅れかもしれない、そう訴えかける野郎の顔が酷く気に食わなかった。

──くそ、一体何だっていうんだ。昨日からずっと、誰も彼もが口を開けば名前のことばかり。しかも、口裏を合わせたかのように不穏なことばっか言いやがる。

頭に血が逆流しているのが自分でも分かる。しかし、それをどうにかする術を俺は知らない。
こういう時は、決まってアイツのところに行く。
アイツの顔を見れば、大体のことは上手くいくことを知っていたからだ。
それが、今はどうしたって叶わない。

不意に、ゆっくりと階段を上がってくる足音が耳に入る。殺気も何も感じないその気配は、呑気な声と共に姿を現した。

「あれ、おはようございます、銀さん。またこんな時間に朝帰りですか?………って、それ桂さんですよね?ちょっと、二人して一体何やってんですか…ッ!!」

ヅラの胸ぐらを掴む俺の様子が、いつものそれとは違うことを察したのだろう。新八は慌てて階段を駆け上がり、俺とヅラを引き剥がした。
そうこうしているうちに、家の中からは眠そうに目を掻く神楽が出てくる。

「何アルか、朝っぱらから煩くて二度寝も碌にできないネ。」
「そうですよ、一体どうしたんですかこんな朝早くから…!」

視界の端には、不安気な様子でこちらを見上げるガキどもの瞳が見えて、思わず内心舌打ちをした。
──ったく、そうじゃねぇだろ。落ち着け馬鹿野郎。
とっ散らかった心情を誤魔化すように頭を掻く。
「……まァなんだ、ここだと近所迷惑だし詳しいことは中で話すぞ。」と提案すれば、3人揃って静かに頷き肯定した。





「……名前が何者かによって攫われた。」

新八が出した茶を眺めながら、神妙な面持ちでヅラは言った。
静かに、ゆっくりと告げられたその言葉に、顔を歪めずにはいられなかった。

「チッ……幕府の奴らか。」

遅かれ早かれ、こうなることは端から予想がついていた。
だから、早くアイツの元に行かなければと、ちゃんと考えていた筈なのに。
不覚だった。完全に読みが甘かった。例え幕府の奴らが強行手段に出たとしても、護身の術を心得ているあの女なら大丈夫だと心のどこかで思っていた。だから、せめて今晩だけは手前の覚悟を決めるための時間に充てがおうと決めていたのに。
彼女を攫うような手練れが送り込まれるなんて、一体誰が予測すると言うのだろう。こんなことになるのなら、嫌われようが何だろうが真っ先に彼女の元へと向かうべきだった。
膝の上で力任せに握りしめた拳が、微かに震える。それを見つめるガキどもは、困惑した表情のまま恐る恐る口を開いた。

「銀さん……やっぱり昨日のアレは名前さんのことだったんですよね…?」
「名前、将ちゃんの所に連れ戻されたアルか?」
「……幕府?将ちゃん?とは一体何のことだ。」

お主ら、もしかして犯人に何か心当たりがあるのか…?
驚いたように目を見開くヅラはきっと、あの噂のことを知らないのだろう。そして多分、彼女の出自に関しても何も知らずにいる。本当なら、それを明かすのは俺たちではなく、彼女の口からの方が良いだろう。しかし、この状況でそうは言っていられない。
言い辛そうにこちらを見る新八に首を縦に振ってやれば、それを合図に新八はヅラに言葉を返した。

「その……近頃、将軍様が江戸で名字 名前さんっていう女性を探しているみたいなんです。その人は将軍様の遠い親戚で、伴侶にされるとか何とかで………もしその人が僕らの知っている名前さんなら、銀さんの言うとおり犯人は幕府に雇われた人だと考えた方が良さそうです。」

そこまで的が絞れたとなれば、この江戸で彼女を探すのはそう難しいことでは無いだろう。
そう楽観的に考える俺たちとは裏腹に、ヅラは眉間に皺を寄せたまま考え込む。
そして、首を静かに横に振った。

「いや、残念だがそれは無いだろう。」

はっきりとした口調の奥には、固い確信が垣間見える。
その不透明な結論に、思わず眉を顰めた。

「無いって、それは一体どういう……」
「昨晩名前を襲った連中は構わず彼女に刀や矢を向けてきた。奴らは明らかに重傷を負わせてでも名前を捕えるよう命令されていた……将軍と懇意にする女性に、果たして幕府がそんな手荒な真似をするだろうか。」
「た、確かに……でも、それじゃあ名前さんは怪我を……」
「案ずるな、名前は腕と肩をやられただけで、命に別状はない。偶々その場に居合わせた俺とエリザベスが名前を助け、近くの隠れ家で匿っていたからな。」

───いや、命に別状が無かったと言うのが正しいか。
不穏な言葉を付け足すヅラに、ぞくりと何かが背筋を走った。

それが事実であるのなら、ヅラの言う通り幕府の奴らが犯人である線は薄い。だったら一体どこのどいつがこんな真似をするというのか。あの噂が、彼女の出自に関する噂が広まっている今、幕府に仇なす奴らはこぞって彼女を狙おうとするだろう。だが、そんな奴らを大から小までしらみ潰しに探すわけにもいかない。

微かに見えていた勝ち筋が徐々に消えていく気がして、嫌な汗が首筋を伝う。胸に漂う不安の種が、今にも弾け飛んでしまいそうだった。

「先ほど名前の家にも寄ったのだが、既にもぬけの殻だった。玄関や庭は荒れていて、争った痕跡があった。」
「……ワタシと新八が夕方に行った時は、そんなの全然無かったアル。」

恐らく名前は明け方頃、一人で家に戻ったときに襲撃され、連れ去られたのだろう。
俺が目を離さなければ───そう悔恨の念を吐き捨てるヅラは、酷く己を責めている。コイツは多分、彼女が一人で出て行くことを予め分かっていたのだろう。

きっと名前は、自分が狙われる理由を知っている。
知っていたからヅラの元から一人で去り、こんな真似をしたのだろう。

いつもいつも、そうだ。あの女は肝心なことは何も言わずに、一人で全部背負い込もうとする。だから、決して目を離してはいけなかった。どんなに楽しげな笑顔だって、言葉だって、その一つ一つに隠れた僅かな綻びを注意深く探らなければならなかったのに。
昨日の夜の、彼女の表情を思い出せない。
あいつは一体、どんな顔をしていたのだろうか。

どっどっと激しく鳴る心臓の音がやたらと煩い。
熱い血が次々と送り込まれているはずなのに、足元からは凍てつくような冷たさがじわじわと身体を侵食する。

「聞くところによると、名前はここ一週間ずっとその間者に狙われていたらしい。」

ヅラの翳った瞳がこちらを向く。
それは、この一週間の俺達の状況をまるで知っているような表情だった。

「銀時、お主名前と喧嘩したそうだな……名前はお主に嫌われていて、二度と口を聞いてもらえない筈だと言っていたぞ。」

全く、名前にそんな事を言わせるなんて、一体どんな喧嘩をしたんだ。そう呆れたように呟く声に、思わず耳を疑った。

───おい、ちょっと待て。
コイツ、いま一体なんて言った…?
名前が俺に嫌われてる?二度と口を聞いてもらえない?
名前が俺のこと嫌っていて、怒髪天だっていう話じゃなくて、か…?

頭の中で何度巻き戻して再生しても、ヅラの言葉は変わらない。思考が全く追いつかなくて、ただ唖然と口を開く。

「おいヅラ……本当にアイツが、名前がそう言ったのか……?」

何とか声を絞り出し、そう尋ねた。
ほんの僅かに細められるその瞳には、微かに俺への殺意が込められている。奴のその反応が、その問いかけが愚問だと言っているようなものだった。
コイツは、昔から俺が彼女を蔑ろにすると決まってその目を向けてきた。
そう、きっとその言葉は嘘偽りのない事実なのだ。
しかし、だとしたら彼女は一体何を思ってそんなことを口にしたのか。誰よりも近くで彼女のことを見てきた。一番の理解者であると思っていたのに、今は彼女が分からない。伸ばした手は、虚しく空ばかりを掴んでいる。
そんな俺に降ってきたのは、呆れたような溜息だった。

「……ふん、名前の他に一体誰がいるというのだ。お主に嫌われただけでこんなに落ち込む奴なんて、この世の中どこを探したって彼奴しかおらんだろう。」

当然のように吐き捨てられたその言葉に、ぴたりと身体が硬直した。
流石にその言葉の意図が分からないほど、察しが悪い訳ではない。ただ、あまりの衝撃に、思わず言葉を失った。

そんなことはあり得ないと、何度も何度も切り捨ててきた。無駄な期待だと言い聞かせては、溢れる感情を抑え込んだ。
それがどうだろうか。今さらそんなことを、どうしたら信じられるというのだろう。

───名前は、俺をのこと特別に想っている。

なんて都合のいい解釈なんだ。そう自嘲しようにも、頬が一つも動かない。
不意に頭の片隅に、無垢で幼気な彼女の姿が浮かび上がる。

どんなに一人置き去りにしたって、酷い言葉を吐いたって、彼女はいつも真っ直ぐに俺のことを見つめていた。
───ああ、そうだ。アイツは俺を嫌わない。
そうやって生きるよう、真っ白な彼女に刷り込んだのは、他の誰でもない俺自身だというのに。
何が、嫌われるのが恐ろしいだ。何が、謝る言葉を探しているだ。
甚だ可笑しい話である。

彼女は俺を嫌っていない。それどころか、恐らく自分を責めている。きっと俺に避けられているのを自分の非だと思い込んでいるのだろう。あの夜、俺に迫られ酷く恐ろしかっただろうに、それを一つも咎めることはなく、ただ俺に嫌われるのを恐れている。何とも彼女らしいその思考が、愚かで、でも愛おしくて堪らない。

そう、いくら人前で笑うようになったって、人付き合いがうまくなったって、彼女の本質は変わらない。あの頃の色を無くした表情で俺の帰りを待っている、一人が苦手な名前のままなのだ。

途端に力のない笑みが溢れた。
何故そんな簡単なことに、もっと早くに気づかなかったのだろう。
いつだって彼女の幸せを願う振りをして、御託を並べて逃げていた。傷付きたくない。呆れて、嫌われて、見捨てられたくない。そうやって手前で勝手に線を引き、気付けば臆病者になっていた。
そして、いざこうして素直に彼女と向き合いたいと思った時には、もうその姿は何処にもない。本当に救いようのない愚かな自分に、腑が煮え繰り返る。

そんな俺に、漸く気づいたかとでも言うようにヅラは大きく息を吐き出した。
そして、静かに言葉付け加えた。


「────それと銀時、名前からの言伝だ。」

『ごめんなさい、今までありがとう』と。

全身がぶるりと震えた。身体中の毛が逆立つような感覚に襲われて、堪らずソファから立ち上がった。

やっと、お前のことが少しずつ解ってきたというのに。
やっと、お前にかける言葉が見つかったっていうのに。
そんな、まるで最期の別れみたいな言葉を、一体誰が素直に受け取ってやるものか。

全身の血が沸々と激しく沸き立っている。表現しようのない感情が次から次へと溢れ出し、徐々に正気を蝕んでいく。
まともじゃないと頭では分かっていても、理屈や理性ではどうにもできない。そんな感情がまだ自分の中にも潜んでいたのだと知った。

気が付けば、背後から新八と神楽の声が響いていた。必死になって俺を呼び止めるその声は、まるで空耳のようにどこか遠い。
例え何が聞こえてこようとも、走り出した足はもうどうしたって止めることはできなかった。




万事屋の前の通りを、真っ直ぐ右へと進む。橋を越えて、数分歩いたところが彼女の診療所だ。大通りではないけれど、それなりに人通りの多いそこは、彼女が歌舞伎町で不便なく過ごせるように、必死に探し回って漸く手に入れた場所だった。……まぁそんなこと、彼女は知る由もないだろうけど。
雨が止んで間もない。その湿気に満ちた空気を吸い込んでは、前へ前へと足を動かす。水溜まりを派手に踏もうが、泥濘んだ地面に足を取られようが、どうだって良かった。
暑い雲が覆う空は未だに暗く、明るくなる気配なんて一つもない。それどころか、もうひと雨降ったっておかしくないその不安定さは、気持ちを益々重くする。


漸く辿り着いた診療所の前には、雨に滲んだ血痕がそこら中に散らばっていた。その足で庭へと回ると、そこには見慣れた短刀が転がっていた。それが名前がいつも懐に潜めていた護身用の短刀だということはすぐに分かった。
泥濘の中に幾つもある、彼女のではない大きい草履の跡。やたらと深く掘れた地面に残る足跡だけが小さい。それは庭の奥へと続いていて、間者と応戦する彼女が徐々に追い込まれていく様子を静かに物語っていた。

その場にしゃがみ、置き去りにされた彼女の短刀を拾い上げた。廃刀令のご時世だというのに、それは隅々まで手入れが行き届いている。実にあの女らしい丁寧さに、思わず乾いた笑みが溢れた。

誰よりも護りたかった尊い人が、手の届かないところへと消えていく───それも、自らが犯した過ちにより失ってしまうその感覚は、嫌でも忘れられないものだ。
また、同じことを繰り返すのか。
大切な人を護るために闘って、未熟な己に敗れた過去。
もう何も失わないように、今度こそは大切に懐にしまい込んでいた筈なのに。
それすらも、指の間から擦り抜けて失ってしまうのなら、俺はもう──────


「きっと名前はまだどこかで生きてるアル。」

底無しに溢れてくる負の思考を、その声は遮った。
いつの間にか見えなくなっていた辺りの景色が、やがて色を取り戻す。

振り返ったその先には、神楽と新八が息を切らして立っていた。全く気付かなかった2人の気配に、自分の動揺具合を思い知る。

「ワタシ知ってるヨ、銀ちゃん達の幼馴染やれるほど図太くて逞しい名前が、そう易々とやられる訳無いネ。」
「そうですよ、銀さん。あの名前さんに限ってそんなのあり得ません。きっと今ごろ何処かで助けが来るのを待ってる筈ですよ。」

だから、そんな世界滅亡みたいや顔はやめて下さい。
また名前に間抜けな面だって笑われるのがオチネ。

そう平然を装い無理に笑っているけれど、各々の握った拳は震えている。あちこちに散らばる血痕を見ないようにしているのが、視線でわかる。
────ああ、そうだ。きっとコイツらも、同じなのだ。堪らなく不安で、張り裂けてしまいそうな胸をぐっと押し留めている。脳裏にチラつく最悪な結末を考えないように、必死に冷静さを保とうとしているのだ。

「お前ら………」

ああ、なんて俺は情けのない大人なのだろう。
こんな守ってやらなきゃいけねぇようなガキ共に、手を差し伸べられるなんて。頼りなく響くその声に、どっちが向かうべき先であるかを教えられるなんて。

そう、コイツらの言うとおり、このまま終わって良いはずがない。どんなに不安や絶望が付き纏っていても、決してその足を自ら止めてはならないのだ。

「───そうだな。まぁアイツがいねぇと、怪我した時に困るのは明確だしな。」
「そうネ、名前がいないと、お腹空いた時に寄り道する場所が無くなるアル。」
「そうですね………って、いやちょっと待って。神楽ちゃん、最近あんまりお腹空かして帰ってこないなと思ったら、名前さん家でご飯食べてきてたの?!」
「私だけじゃ無いネ。銀ちゃんも団子とかイチゴ牛乳とかめっさ貰ってるアル。」
「何それ、完全に餌付けされてるヤツだよね??ていうか2人とも、診療所を一体何に使ってんだ!!」

戻ってきたいつもの万事屋の雰囲気に、もう迷いは一つもない。
顔を見合わせて、今度はしっかりと意思のある瞳で頷く。

「ったく、しゃあねぇから、ちょっくら助けにでも行ってくるか。」

前を向いたその先には、未だ光も何もないけれど。それでも、立ち上がり走り出さなければ、何も変えることはできない。
このまま、こんな形で終わらせて堪るものか。

いつの間にか雲の切れ間からは眩しい朝陽が差し込んでいて、そこら中に溜まった水をきらきらと輝かせていた。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -