#14 蹉跌

しとしとと降り続く雨の音が、辺り一体に響いている。片手には傘を、もう片手には医療道具の入った鞄を持って、街灯の灯りを頼りに夜道を歩く。
ふと、それは湿気とともに私の肌へと伝わってくる。どこか刺すような視線を感じて振り返ると、そこには雨に濡れた街並みがあるだけで、誰一人として居なかった。
ああ、またか。そんな台詞を吐く代わりに、深い溜息を吐き出した。

ここ一週間、誰かが私の周りをコソコソと嗅ぎ回っているようだ。最初はストーカーの仕業かと思い、ストーカーに詳しい真選組に一度相談してみようと思った。しかし、よく考えると、足音だけではなくて気配も消すこの所業がどうにも素人技とは思えない。それに、今も感じるこの血生臭い殺気のような気配が、明らかに只者ではないことを謳っている。
攘夷戦争絡みか、それとも、もっと以前から因縁のある者の仕業か……何れにせよ素人以外の仕業となると、曰く付きの私は真選組を頼ることはできない。命を狙われる覚えは沢山あるけれど、そのどれもが真選組に素直に明かせるような話ではなかった。

傘をぎゅっと握り締め、神経を周囲に張り巡らせながら一歩一歩と歩いていく。この一週間、私を泳がせているのには何か理由があるのだろうか。それとも、私の警戒に気付いていて、隙を狙っているのだろうか。
目的も意図も何も分からないまま、ただ神経だけが擦り減らされる。家に帰れば、きっとまた誰かが侵入した痕跡があって、今夜も碌に眠れないのだろう。目の下の隈を隠すのも、もういい加減限界だった。

早くこの状態から解放されたい。
そう願えば願うほど、脳裏にはあの銀髪の男が浮かんでくる。
それは絶対にダメなのに、睡眠不足で弱った心は驚くほどに情けなくて、とにかく彼に全てを話したくて堪らなかった。

銀時とは、あれから一週間は会っていない。
どこか私を避けるようなよそよそしい態度を最後に、ぱたりと見かけなくなってしまった。以前はどんなに小さな傷であろうと、無料だからと言って診療所に来てくれていたのに。今では歌舞伎町の皆んなと話す噂話の中でしか、彼の姿を捉えることができなくて。

私があんなことをしたからだ。
だからきっと顔も見たくない程に、嫌われてしまったのだ。

分かっている、頭ではそれを理解している筈なのに、心は何一つ追いつかない。この一週間、彼がどこかで怪我をしていて、でも私の元に来るのを拒んでいたとしたならば。そう思うと、無性にやるせ無い気持ちでいっぱいになった。

そんな私が、誰の差金かも分からないプロの始末屋に狙われているのだと言ったとして、優しい彼がどうするのかなんて目に見えている。
きっと、別に守りたくも無い私のために血を流して戦うのだ。そんな最低なことを、これ以上彼にさせられる訳がなかった。

それなら銀時以外と誰かに、なんてことを思ったけれど、この街で銀時と繋がっていない人など居ない。ホームレスから将軍まで、みんな彼と繋がっていて、回り回って全て彼に伝わるだろう。

一人で何とかするしかない。そう覚悟を決めて、再び背後を振り返る。すると、先ほどまであった筈の血生臭い気配は、いつの間にか消えていた。




◇◆◇





『突然すまん。時間があるときで構わんのじゃが、今日吉原に来てくれんか。』

吉原唯一の医者である婆が、どうやら階段から落ちて足をやったらしいんじゃ。そんな電話が入ったのは、日の落ちかけた夕方だった。診療所にサボりに……休憩に来ていた総悟くんに視線を向けると、彼は最後の団子を口に含みながら頷き、待合室の椅子から立ち上がった。
月詠さんには準備ができたら直ぐに行くことを伝えて、電話を切った。

「姐さん、団子ごちそうさんでした。お陰で土方さんに負わされた心の傷も、すっかり健康になりやした。」
「いいえ、お団子で治せる傷があるならいくらでもどうぞ。」
「流石姐さん、気前がいいこったァ。」

そう言って、普段はあまり動かない表情を柔らかく緩める総悟くん。こういうところが、何というか年上お姉さんキラーなのだと思う。そこに掛けてある重い制服の上着を手渡そうとすると、「ん、」と背後を向いて片手をこちらに向けてくる。言葉は何も無いけれど、明らかに着せてと強請っているその行動に、つい頬が緩んでしまう。本当に、猫みたいで彼は可愛い。

「それより姐さんの方こそ、最近酷ぇ顔してるじゃねーですか。寝不足ですかィ?」
「あはは、バレちゃった?……実はね、最近よく深夜アニメを見てて、それが凄く面白くて……」
「あー、最近はアニメもグロいって理由で結構深夜にやってますしねェ。でも気をつけてくだせぇよ、土方さん以外のオペミスったら笑い話じゃ済まねェんで。」
「土方さんのオペも笑い話じゃ済まないよね?」
「大丈夫でさァ、土方さんは腹にマヨネーズ入れてりゃ勝手に臓器が復活するんで。」
「すごい、天人みたいな身体だね。」
「みたいじゃなくて、マヨネーズ星からやって来た正真正銘の天人でさァ。」
「え、そうなの…!?」

彼の冗談に乗っかって、あえて話を濁してやる。やはり、寝不足の顔はコンシーラーで誤魔化してもダメみたいだ。総悟くんが機敏なだけだという可能性はあるけれど、念のため吉原にはちゃんと血色の良い化粧をしていった方が良いかもしれない。

きっと総悟くんは話を誤魔化されたことに気付いている。気付いているけど深くは踏み込まず、ただ私の顔を覗き込んで「アニメも録画にするなりBUTAYAで借りるなりしてた方がイイですぜィ。」と言うだけで。片手を上げて、彼はそのまま診療所から去っていった。

その後ろ姿を見えなくなるまで見送ったあと、急いで化粧を施して、外回りの準備をした。吉原にはある程度の医療設備があるらしく、最低限必要の荷物を選び、護身用の短剣を袖に仕込むだけで準備はすぐに整った。

いつも感じるあの気配は、今日は分かる範囲で三人にまで増えていて。何かあるかもしれないと、嫌な予感が胸を過ぎる。地下に入る前に奴らをどこかで撒いて来ても良いが、先ほどの電話の内容を聞かれていたなら目的地は割れている。下手に行動を起こさない方が、吉原のためにも良いだろう。
疲れの取れない身体を引き摺り、何にも気付いていない振りをしながら、いつも通り吉原の街を歩く。途中で百華の人に迎えられ、場所を案内して貰った。

「ごめんなさいね、月詠は今晩座敷の予約が入っていて。」

そう言って月詠さんの代わりに屋敷の中を案内してくれたのは、日輪さんだった。彼女の車椅子を押しながら「月詠さんも座敷を取られるのですね。」と尋ねれば、振り返り様に彼女は片目を閉じながら「ええ、特別なお客さんなの。」と上機嫌に言ってのけた。
月詠さんは綺麗な人だ。彼女も私と同じ武人である筈なのに、私とはまるで違う、夜の輝きに満ちた素敵な女性で。それでいて、大所帯である百華を一人で纏め上げるリーダー性も兼ね備える、いわばカリスマと呼ばれる人だ。
そんな彼女を座敷に呼んでしまうなんて、きっと相当すごい人なのだろう。そんなことを思いながら、例の怪我をしたお医者様のところへ真っ直ぐに向かった。


怪我の治療は、そんなに長くは掛からなかった。幸いなことに骨は綺麗に折れており、難しい処置の必要は無かったのだ。ほっと一息付いたところで、時刻は19時を回っていて。そろそろ夜の街が忙しくなる頃だろうと考え、速やかにお暇することを告げるけれど、日輪さんは私の手を取り笑顔で言った。

「何言ってんだい、名前ちゃんったら水臭いねぇ。晩御飯でも食べて行きなよ。」
「いえ、そんな悪いです……!」
「いいから、いいから!いつも月詠と仲良くしてくれてる御礼もあるし。」
「御礼なんてそんな、私が良くしてもらってるのだけなので…!」
「もう、つべこべ言わずに従いなさい」
「はい、すみませんでした。」

彼女の声のトーンが一つ下がったところで、これは断れない誘いなのだと気づき、口を噤む。きっと月詠さんが居ない分、彼女も忙しい筈なのに。ただ診療に来ただけの医者をこんなに手厚くもてなしてくれるなんて、なんて良い人なのだろう。月詠さんが彼女のことを情に熱い芯のある強い女だと言っていたが、まさにそんな感じだとしみじみ思った。

彼女の車椅子を引きながら、煌びやかな遊郭の廊下を進んでいく。島原ではあまり良い思い出が無かった遊郭だが、ここでは良い思い出ができそうだ。
そんなことを考えていた矢先だった。

不意に彼女の視線が何処かに止まると、「ごめんなさい、少し止めてくれてもいい…?」と背後の私に声をかけた。言われるがままに車椅子を止め、どうしたのかと彼女の視線の先を見る。
するとそこには、あろうことか白色の着流しを気怠げに羽織った、銀髪の男が立っていた。

「あら、銀さん。」

日輪さんの綺麗な声に名を呼ばれ、男はゆっくりと振り返る。一週間ぶりの、たった一週間しか経っていない彼の姿が、やけに懐かしく目に映った。心臓が、酷く大きな音を立てていて。車椅子の持ち手を握る手には、無意識に力が籠ってしまう。
ああ、どうしよう。今にも目が合いそうなこの状態に、慌てて彼に掛ける言葉を探すけれど。
それが見つかるよりも前に、予期せぬ言葉が鼓膜を揺らした。

「月詠の座敷はそこの角の一番奥だよ。」

月詠さんの、お座敷……。
何気なく聞こえてきたその言葉に、先ほど日輪さんと交わした会話の内容が不意に頭を過っていく。

『ごめんなさいね、月詠は今晩座敷の予約が入っていて。』
『ええ、特別なお客さんなの。』

それはつまり、そういうことで。状況の全てを理解してしまった私の頭は、みるみるうちに真っ白に染まっていく。
月詠さんは、とても強くて優しくて美しくて……非の打ち所がない完璧な女性だ。誰だってあんな女性を抱けるのならば、抱いてみたいと思うだろう。
それに日輪さんは銀時のことを『特別なお客さん』だと言っていた。普段は客を取らない月詠さんの『特別なお客さん』だなんて、その意味を理解できないほど私は能天気な女ではない。

心臓が痛いぐらいに鼓動を打つ。
息はちゃんとできている筈なのに、まるで溺れた人のように胸が苦しくなっていく。

「へ、ヘェ〜、ソウナンダ……」
「なに、銀さんったら可笑しな口調。もしかして月詠と座敷に入るのに緊張してるの?」
「イヤ、別ニソンナンジャネーシ、、、」

くすくすと笑う日輪さんからは、背後に立つ私の顔は見えていない。それが今はとてもありがたく思えてならなかった。

銀時は、視線を泳がせるばかりで私を見ない。
当たり前だ、愛する人の座敷の手前に、もう二度と見たくもない顔がそこにあるのだから。

「日輪さん、ごめんなさい。私、今晩診察の予定が入っていたのを忘れてました。」

「では、これで失礼します。」と頭を下げて、半ば強引に身を翻した。彼女の好意を無碍にする、とても最低なことをしているのは分かっていた。分かっていても、その場に立っていられるほど、私の心は強くはなかった。
背後からは私を引き止めようとする日輪さんの声がしたけれど、何も聞こえないふりをした。逃げるように飛び出した吉原の街は、何処もかしこも煌びやかで落ち着かなくて。唇を強く噛み締めて、熱くなった目頭から涙が落ちてしまいそうになるのを必死に堪えた。

ああ、本当に最悪だ。
一体どうしてこんなことになったのだ。なんで、よりによってこのタイミングだったのだろう。そんな事をいくら考えたって、現実は変わりはしないのに。哀しみに押し潰されそうな心は、そんな意味の無いことを考えずにはいられなかった。

ずっと、心のどこかで期待していた。これだけ長く彼と一緒に居るのだから、私は他より彼と近い存在なのだと思っていた。だけど、違った。あの夜を境に、今まで築き上げてきた大切なものは、呆気なく崩れ去っていった。
彼にとって私は、なにも特別などでは無くて。
本当は、どうでも良い幼馴染に過ぎなかったのだ。

地上に上がるエレベーターに駆け込んで、溢れる涙を一人荒々しく袖で拭う。

彼に恋人がいたなんて、そんなの何も知らなかった。
だって、つい先日まではあんなにも側にいられたのだ。触れた肌の温もりだって、キスの感覚だってまだ鮮明に思い出せてしまうのに。最初から、私はただの邪魔者でしか無かったのだ。
あんなに素敵な人が側にいるのに、こんな古傷だらけの見窄らしい女なんて抱ける訳がない。そんなことにも気付かずに、私は彼に迫って……嫌われて当然のことをした。

エレベーターが地上に着く。いつの間にか降り出した雨は、瞬く間に地面の色を塗り替えていく。傘なんて持っていない。持っていたとしてもきっと今日は差さなかっただろう。涙でぐちゃぐちゃになった頬を、雨のせいだと言えなくなってしまうから。
梅雨はあまり好きではない。それでも今日だけは、この雨の日にほんの僅かに救われたような気がした。

ああ、何だかとても疲れてしまった。
眠たくて、怠くて、仕方がない。頭が一つも働かなくて、歩いているのがやっとだった。早く帰って眠りたい。ここ数日、ろくに眠れていなかったのは、別に家に残る誰かの気配の所為ではない。ただ、銀時になんて謝ろうかと考えていたからだった。
しかし、それも今となっては必要のないこと。家に間者が潜んでいようといまいと、そんな事はもうどうだって良かった。

人気のない路地には、いつの間にか前後に二つずつの殺気があって。どうやら私は囲まれてしまったらしい。
吉原にいる時には感じなかったその感覚に、彼らがずっとここで吉原から上がってくる私を待ち伏せしていたのだと気付く。

街灯に鋭く光る刃物が見える。それに本能的に死を悟った私は、袴に隠した短剣を鞘から抜いた。

「っ、!」

キン…ッ!と刃がぶつかる音がする。黒い衣に身を包んだ怪しげな男は、その目元を細めて鼻で笑った。

「流石は元影武者にして、元攘夷浪士。ただの腑抜けた女医では無さそうだな。」
「!……誰の差金だ…ッ、貴方達の目的はなに…ッ」
「ふん、そんなことは直きに分かることだ。」

この者達は、どうやら私の素性を知っているらしい。元攘夷浪士であることはともかく、私を『元影武者』だと知る人間は極めて少ないはずなのに。
男が私の剣を弾いて退くと、両側面から他の男が刃物を振るう。泥濘んだ地面に足を取られながら、何とか攻撃を交わし、反撃の姿勢を取ったその時だった。

「い…ッ!」

何処からか飛んできた弓矢が、私の肩を射抜いたのだ。まさか矢が飛んでくるなんて。完全に意表を付かれて体勢を崩した私に、容赦なく刃物が向けられる。一つ、また一つと受け流して防いでみるが、現役の始末屋の手腕に敵うわけがない。避け損ねた刃が腕を切り裂いて、そこからじわりと赤が滲む。

「殺すなよ」
「分かっている」

耐え切れずに膝をついた私の首元には、殺すなという会話とは裏腹に冷たい刃が当てられる。ぞくり、と全身の血が沸き立つような感覚に、遠い昔の記憶が脳裏を過っていく。
……ああ、懐かしい。攘夷戦争中、私はこうして何度も何度も死にかけて、その度にあの人が私のことを助けてくれた。
相手が誰で、そこがどんな場所であったとしても、あの勇ましい背中はいつも私を見つけ出し、『側にいろ』と力強く掻き抱いてくれたのだ。
その度に私は、彼への想いを募らせた。叶わなくても、ただ側にいるだけで良いと思えるほど、真っ直ぐに彼を想い慕っていた。

あの頃とはもう何もかもが変わってしまった。
だからきっと、多分もう……

カチャ…と柄を握り直す音が聞こえてくる。負傷した腕の傷を手で押さえながら、そっと静かに息を呑んだ。
どうやらこれで、何もかもが終わりのようだ。
振り上げられる刃が空気を斬る。
しかし、それはキンッと甲高い音となって途中で止まった。

ぐっと腕を誰かに力強く引き上げられる。地面に着く膝が宙に浮き上がり、バランスを取ろうとつま先に力を入れて立ち上がった。

「無事か、名前…ッ!」

私を庇うようにして立ったその背中に、目を見開いて驚いた。
さらりと靡く綺麗な黒髪に、深く沈んだ私の心に優しい光が差し込んだ。

「……桂くん、」
「お主、足はやられてないな?」
「え、ええ…!大丈夫、走れる…っ、」
「よし、ではズラかるぞ………いやズラじゃない桂だァ…!!」

それ一人でもするの…!?
なんて言葉は声にならないまま、気付けば民家の屋根に乗っていたエリザベスが発煙筒を幾つも地面に投げつける。
それを合図に桂くんは私の手を引き、民家の間を素早く駆け抜けていく。何処を走っているのかなんて、分からない。とにかく必死に、ただ彼に置いていかれないようにと死ぬ物狂いで走り抜けた。

その甲斐あってか、追っ手は無事に撒けたようだった。
殺気も監視の目もない静かな場所は、随分と久し振りのような気がして。疲労と流血が相まってか、目の前がくらくらと歪んで見えた。
それに気付いたのか、桂くんは慌てて近くの民家の裏口を開け、私の手を引き中へと連れ入れた。ふわりと、桂くんの匂いがする。どうやらここは彼の隠れ家らしい。「待ってろ、今手当てをしてやるからな。」と言って慣れた手つきで戸棚から救急箱を取り出した。

「いつぞやの京都の時とは立場が逆だな。」

そう言って穏やかに笑いながら、彼は傷の手当てをしてくれる。この程度の傷なら自分で何とかできるからと、本当はそう言いたかったのに。こんなに血を流したのは久しぶりで、身体があまりいうことをきかなくて。彼にされるがままに、黙って治療を受け入れた。

「して、あの者たちは一体何者なのだ?」
「……分からない、でもここ一週間ずっと私を付けてたみたい。」
「なんと、お主一週間も間者に狙われておったのか。もちろん、そのことは銀時達は既に知っておるのだろう?」

さも当たり前かのように出たその名に、思わず肩が震えた。
静かに首を横に振ると、彼は包帯を巻く手を止めて、眉を顰めて私を見た。

「なぜ言わんのだ。奴なら必ず名前の助けになってくれる筈だろう。」
「それはそうだと思う、けど……言えない……」
「なぜだ?」

ぎゅっと唇を噛み締める。
脳裏には先ほど目の当たりにした光景が、月詠さんの座敷に向かう彼の姿が浮かんできて、思わず唇が震えてしまう。

「銀時、最近私のことを避けてるの……その、私が嫌なこと、したから……多分もう二度と、口も聞いてくれないと思う。」

気を緩めればまた涙が溢れてしまいそうで、無理やり笑ってみせる。それに大きく目を丸めた桂くんは、驚いたような表情のまま呟いた。

「お主らが喧嘩をするとは、珍しいな。」

喧嘩、と言って良いのだろうか。当人だからか、この状況がそんなに可愛いもののようには思えない。だからと言って桂くんに全てを説明できる訳ではないので、ただ曖昧に笑うことしかできなかった。

「だが、いくら喧嘩中だとはいえ、彼奴は命を狙われている幼馴染を放っておくような薄情な男ではなかろう。」

だから大丈夫だと言うように、桂くんは私の手にその大きくて温かい手を重ねて頷いた。
そんなことは、知っている。銀時が誰よりも他人想いで優しいことは、きっと他の誰でもない私が一番よく分かっている。
分かっているからこそ、頼れない。
ずっと昔から、幾度となく私を救ってくれたあの人に、もうこれ以上命を削って欲しくはない。愛する人よりも自分を優先してくれなんて、そんな最低なことをいう資格は今の私には何処にもないのだ。

私が狙われている理由は、分からない。
でも奴らは私が『元影武者』であることを知っていた。先生や銀時と出会う前の、誰も知り得ない筈の私の素性を知っているという事は、つまり相手は私の出自を知る人間ということ。きっと私を使って誰かを揺するつもりではなくて、私個人を狙っている可能性が高いだろう。

そうなれば、自ずとやるべき事は決まってくる。

「……桂くん、私は暫く江戸を出て何処かに身を隠そうと思う。」
「!」
「だから、次に銀時に会うことがあれば、代わりに伝えてほしいの……ごめんなさい、今までありがとうって。」

揺れる蝋燭の灯火を前に、ぎゅっと拳を握り締める。
私が頼もうが頼むまいが、きっとこのことを知った銀時は黙っていない。否、もし彼が黙っていたとしても、きっと神楽ちゃんや新八くんが彼を焚き付けてしまうだろう。そうなっては、結局一緒だ。どうでもいい幼馴染一人のために、彼は動かざるをえなくなる。血を流して戦って、もう顔も見たくない私のことを救わなければならないのだ。

そんなのは、あんまりだ。
それなら一層、そうなる前に私が彼らの手の届かない所に消えてしまえばいい。
そう考えた私の意図を汲み取ったのか、桂くんはその端正な顔を歪めて叱咤する。

「名前、お主まさか…!やめておけ、よもや手負のお主一人で何とかできるような連中ではない。そんなことはお主も十分分かっているだろう…!」

私の考えを否定する彼のその言葉は、尤もだ。
しかし、そうではない。私には、桂くんには言っていない過去がある。そして多分私はこれから、自らの過去を清算しに行くだけなのだ。

そこに転がる、先ほど肩から抜いてもらった血のついた矢を見つめる。この矢を受けたのが銀時ではなく、桂くんでもない、私であったことに酷く安堵を覚える。

「大丈夫だよ、ほんの少し江戸を離れるだけだから。」
「ダメだ、行かせんぞ。……銀時が頼りにならぬと言うのなら、俺が必ず名前のことを守り通すと約束する。だから、事が終わるまでお主はここにいればいい。」

まるで何処にも逃さないと言うように、私の手のひらをぎゅっと握り締める桂くん。その手は、どうしてか心なしか震えていた。

「ありがとう、桂くん。」

了承や否定の言葉の代わりに、ただ感謝の意だけを彼に伝えた。
その後のことは、曖昧にしか覚えていない。既に身体が限界を迎えていた私は、そのまま彼の側で眠りについた。久しぶりに、何も煩わしい考えに取り憑かれることなく眠りに落ちることができた。きっとそれは、桂くんの手が温かくて心地が良かったからだろう。






夜明け前、何かを感じた私はふと目を覚ました。真っ暗な部屋、すぐ隣には桂くんが眠っている。私の手を未だに握り締める彼に、何だか少し笑みが溢れた。

もう行かなくてはならない。

気合いを入れるように息を吐き出し、そして手に絡んでいた彼の指をそっと優しく解いた。

『何処に行く?』

玄関には白い姿が一つのプラカードを掲げてる。彼は、昨日私を窮地から救ってくれた恩人だった。

「エリザベス……昨日は助けてくれてありがとう。」

質問には敢えて答えず、その大きな被り物の頭を優しく撫でた。彼はきっと、桂くんに頼まれここを見張っていたのだろう。エリザベスには申し訳ないけれど、それでも私はここに居座るわけにはいかない。
玄関の扉を開く私の手首を、エリザベスが掴んで首を振った。

『あなたが行けば、桂さんが悲しむ』
「大丈夫。どうせ直ぐに忘れるよ、私のことなんて。」

私は最初からこの歌舞伎町に居た訳ではない。皆んな、私が来る前の元の生活に戻るだけなのだ。にこりと笑顔を一つ作り、ゆっくりとエリザベスの手を解いていく。

この街に私はちゃんと馴染めていただろうか。今となっては、それすらよく分からない。
ただ、この短い時間の中、銀時の周りにいる皆んなだけは、私のことをとても大切に想ってくれていたと思う。




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