#13 悠遠



彼は覚えているだろうか?
まだ幼かったあの頃、壊れた心を抱えて生きていた私を、彼は不器用で優しい言葉で救ってくれた。

大人しい私が彼と交わした幾つもの言葉。
それは、掛け替えの無い日々の中で少しずつ拾い集めた大切な宝物。

溢れる落ちてしまうほどの言葉の数々は、今も色褪せる事なく私の胸の中に美しく強く輝いている。

きっと、こんなにも過去に縋って生きているのは、私だけ。
彼にとっては、私に掛ける言葉など消耗品の様なものなのだろう。
優しい言葉も、つまらない冗談も、私を守るために吐く毒も、その全部が私にとっては大切であると言うのに。
彼は何気なく、息をする様に言葉を吐いて、そして何食わぬ顔で私の言葉を受け流す。



「おまえ、髪切ったの?」

眩い日差しの中、後ろから聞き慣れた声がきこえてくる。
すぐに振り返れば、そこにはぶっきら棒な声からは想像もできないほど、優しい顔をした若い少年が立っていて。縁側に座るわたしの横に、さも当たり前かの様に腰を下ろす。
それを黙って見届けた後、私は彼の質問に対して首を縦に振った。

「そっか。…まあ、なんだ。髪短いのもいいんじゃね?」

目の前にある大きな木を見つめながら後頭部をぼそぼそと掻き、そんな柄にも無い褒め言葉を吐き出した彼。
いつも心なしか皮肉な言葉が多い彼。
そんな彼から出たその言葉が、何だかもの凄く嬉しくて。

私も声に出して何か気持ちを伝えたい。
そう思い、この場面に相応しい言葉を探す。
でも、上手く言葉が出てこない。

つい数ヶ月前まで言葉を発すことを許されない環境で生活していた私は、未だに何かを言葉にすることが出来ずにいた。
こんな黙ったままのつまらない自分など、髪と一緒に切り捨ててしまえばいい。そして、できることなら、彼ともっと上手くやって行きたい。彼と声を出し笑い合って過ごしたい。
そう意気込んでいた今朝、切り捨てることができたのは髪だけだったのだろうか。

思わず握った拳に力が入る。

いつまでもこのままの自分が嫌だ。
変わりたい、彼ともっと、話がしたい。

思った気持ちを、精一杯に絞り出す。

「…う、嬉しい。」

漸く出てきたその一言は、今にも消えてしまいそうな小さな声。それは、今朝意気込んで想像していた結果とは程遠いもの。
それなのに、未だにドクドクと跳ね上がる心臓の音やじわりと汗ばむ拳が、まるで自らを小心者だと蔑んでいる様で、もう何もかもが嫌になってしまう。

それでも、小さなその一言は辛うじて彼へ届いた様で。
驚いた様に目を見開き、こちらを凝視する。
きっと私から言葉が返ってくるとは思っていなかったのだろう。

そして間もなくして、ふっ!ふははは!っと大きな笑い声を上げながら彼はお腹を抱える。一瞬、何が起こったのかが分からない私は、ぽかんと口を開けて彼を見続ける。

「…おまえ、そんな力んだ顔で言われたって、全然嬉しそうに見えねーし…っ。」

そう言いながら、まだ笑い足りないのか、再びふははと笑い始める彼。
何だか分からないが、私は思わぬ形で彼をこんなにも喜ばせることが出来たようだ。

こんなことが、ここ数ヶ月であっただろうか。
こんなにも笑っている彼は、松陽先生と一緒にいる時ですら見たことがない。

さっきまでドキドキと波打っていた心臓には、じわじわと温かいものが溢れる。

「…嬉しい。」

次は、しっかりと言葉が口から出て行く。
自分でも驚くほどはっきりした声が響いて、何だかとても不思議な感じに陥る。
これが、自由に思いを伝えること。難しくてとても大変なことだが、彼が喜んでくれるなら何だって頑張りたい。
そう更なる進歩を目指す私の顔はどうやらまた力んでいた様で、「だーかーらー!」と彼はまた笑いながら私に嬉しいという感情が何たるものかを教えてくれた。


この頃、彼は人を寄せ付けない一匹狼の様な少年、と陰で言われていたそうだが、私が感じる限り、彼は昔からずっと温かく優しい人だった。
人として大切なものを無くしてしまっていた私を、見捨てることなく側に置いてくれた。
何も喋らずにこりともしないわたしに、いつも話しかけてくれた。

彼と過ごすうちに色々な事と向き合えるようになった私は、時間をかけて少しずつ心の傷を癒やすことが出来た。
そして気がつけば、いつもどんな時も私の世界は彼を中心に回っていた。

ずっと一緒に、なんて愚かなことを何度も何度も切望した。
しかし、そう望めば望むほど、彼は私からどんどんと遠ざかってしまうのだ。


懐かしい昔の夢が暗転し、徐々に目が覚めて行く。目を開けば、いつもと変わらない寝室に、いつもより疲労した私が横になっていて。
ぎゅっと瞳を瞑れば、ぽろぽろと涙が頬を伝う。

昨日のあれは、本当に最低だった。
酔ってしまい何も考えることができず、ただ望んだことばかりが口から零れ出ていった。彼に触れられているという幸福に浸され、幼馴染から持ちたくも無い関係を強いられる彼の気持ちなど一つも考えなかった。

きっと彼に、嫌われてしまった。
今度は本当に、捨てられてしまうのだろう。
せっかく幼馴染として上手くやっていけていたのに。暫くの間は、前みたいに彼の側で生きていけるのだと嬉しく思っていたのに。
幸福な日々の何もかもが、これで終わってしまうのだ。
なんて呆気ない最後なのだろう。

二日酔いで痛む頭を枕から離し、気だるい身体に鞭を打ち立ち上がる。
ふらふらと覚束ない足取りで窓辺まで歩き、カーテンを一気に開けば、もう日の光は随分と高い位置まで来ていて。いくら休日とはいえ、こんな時間まで寝ていたのは何年振りだろうか。
目に刺さる眩しい日差しから目を背けるようにリビングへ逃げ込めば、テーブルの上にグラスが一つ置かれているのに目が止まる。
じわじわと思い浮かんでくる昨晩の甘い口付けに、思わず自分の唇を手で覆った。

あの蕩けるような官能的な口付けは、間違えなく本物だった。
あんな風に誰かと唇を重ねることなど、今までしたことが無かった。だからなのか、まるで自分ではない他の誰かの事のように思えた。
やけに慣れたような銀時のその行為に何も考えられなくなり、ただただ溺れる事しか出来なかった。
あの熱を持った眼差しに射抜かれてしまえば、もう彼からは逃げられなくて。大きな腕に力強く抱かれてしまえば、息もできないほど胸が苦しくなっていく。
良い歳してこんなにも経験値が低いなんて、銀時は相当呆れてしまったに違いない。いつもスキンシップを軽くあしらっているくせに、実は一つも遊び方を知らない女であったのかと、さぞ残念に思ったのだろう。

そして、いつの間にか彼の瞳からは熱が消えていて。
静かに私から身体を離した彼は、最後に私へ謝罪した。

こうなる事なんて、今まで何度も想像をしていたのに。いざ拒まれてしまえば、頭が真っ白になり何も言葉が浮かばなくなる。
私に魅力がなかったが故に、彼は私を抱けなかったのだ。彼が謝る必要などどこにも無い。なのに、どうしてあんなにも悪い事をした様な声色で謝るのか。
悪いのは全て私だと言うのに。

私は、本当に救いようもない愚かな女だ。


シャワーを浴び、袴に身を包む。
相変わらずじんじんと頭痛がするが、ここに居ては気が病む一方だという考えに至った私は、一先ず出かけることにした。




◇◆◇





私の淀んだ心境とは裏腹に、澄み切った青空に明るい太陽が輝いている。
簡単に身支度を整えれば、明るい路地を歩いて近所のスーパーへと向かう。シャワーを浴びたおかげで二日酔いも大体覚め、身体の怠さも半分は無くなっていた。
いつもと同じ道を歩いていると、そう言えばこの道は昨日、銀時に運んでもらった道だ…と、一人不安な気持ちに駆られる。銀時はまだ寝ているだろうか、でも昨日の夜にはもう酔いは覚めていたのだから、今朝は起きているはず…。

もし出会してしまったら、どうしよう。
一瞬でも嫌な顔をされてしまえば、もう何も考えられなくなりそうだ。きっと、逃げ去ってしまいたくなるだろう。
ぐるぐると渦巻く混沌とした感情。それは一度始まってしまえば、中々止める事はできない。
この悪循環を打破すべく早々にこの場を去ろうと考えていれば、後ろから知っている声が呼び止める。

「名前さん、こんにちは。」
「新八くん…?」

振り返れば、そこには銀時のところの従業員である新八くんが立っていた。
いつも通りの新八くんの姿を見て、渦巻いていた余計な感情が一瞬にしてどこかへ飛び散って行く。
歩くの意外と速いんですね、なんて少し息を切らしながら口にする新八くん。きっと少し走って私の事を追いかけてくれたのだと思い、申し訳ない気持ちになる。

「そう言えば、昨日はあの後、大丈夫でしたか?」
「えっ……な、なにが?」
「あ、いえ、お登勢さんから、名前さんが珍しく潰れてたって聞いたので。」

って言っても、僕も途中で寝てしまっていたので全然知らなかったんですけどね。
今一番触れてほしくないその話題をまるで狙ったかの様に挙げられ、柄にもなく盛大に躊躇ってしまう。確かに新八くんは、私の意識がはっきりしている時には既にテーブルに突っ伏していた。もちろん、お酒を飲んだわけではなく、ハードなアイドル追っかけ生活とツッコミの忙しさに疲れが溜まってしまっていたのが原因だ。
何も悪気なく話題を振ってくる新八くんに何も悟られないように、それっぽく笑顔を作る。

「う、うん、この通り平気だよ。」
「それは良かったです。昨晩は銀さんが家まで送ったって聞いたので……名前さんが珍しく酔ってたってことは、どさくさに紛れてあの人何か変なことしてなかったか、ちょっと心配だったんです。」

意外と鋭い新八くんの言葉が、グサグサと胸に刺さって行く。
銀時が私に何か変なことをしたわけではなく、私が銀時にしたのだ。そんな事は、純粋ピュアな新八くんには想像もつかない事だろう。

「変な事、なんて………こんな色気のない女に銀時がする訳がないよ。」
「そんな!名前さんは十分魅力的ですよ!あんな万年金欠野郎なんかには勿体無いぐらい素敵な女性で…って、あっ!い、今のは僕が名前さんに変な事をしたいとか、そう言う意味ではなくて…!!」

慌ててしまいそうになる心を押さえ込み、平常心を無理矢理に作りながら穏やかに返事をする。
新八くんはどこまでも良い子で、こんな私を素敵だと褒めてくれる。でも、実際に私は魅力がない故に彼に拒まれてしまっているのだ。女とも思ってもらえないほどに、私は残念な奴のだ。

一人であたふたする新八くんに、今できる限りの笑顔をつくる。

「ふふ、ありがとう。新八くんぐらいだよ、そんなこと言ってくれるのは。」
「本当に、今のはお世辞じゃなくて…」

どこか不満げな表情でそういう新八くん。
若い彼にこんなに気を遣ってもらって、私は本当に情けない大人だ。

「でも本当に僕から見ても、銀さんは名前さんのこと特別大事に思っているような…何というか、そういう風に感じられます。」

銀時にとって私は特別なのだと、そう真っ直ぐに訴えられかけているみたいで、胸がズキリと痛む。
きっと昨日までの私であれば、こんなに虚しく泣きたくなる様な気持ちにはならなかっただろう。でも、今は違う。
私は新八くんの想像に応えられる様な人間ではなかったのだ。銀時にとって私は特別などではなく、良くて大切な人のうちの一人に過ぎなかった。
私にとっては、昔からずっとかけがえの無い唯一無二の存在であるというのに。

「銀時とは、本当にただの幼馴染なだけ。きっとあの人、私のことは女っ気の無い袴の幼馴染としか思ってないよ。」

私も彼のこと、どうしようもない人だと思ってるんだけどね。
精一杯の笑みでそんな冗談を口にする。
昨日のことを思い出せば「そうだったらいいな」なんて軽く笑いかけることなど出来ず、どうしても否定の言葉が浮かび上がる。落ち着かない心のままに優しい新八くんを否定して、我ながら本当に嫌なやつだと思う。
でも実は、息を上手に吸えないぐらい胸が痛くて、笑っているフリをして歯を食いしばっていなければ涙が溢れてきそうで。
本当に情けない大人だ。

何かを感じ取ったのか、新八くんはそれ以上に何かを言ってくる事はなくて。いつも通りのたわいも無い世間話をしながらスーパーまでの道のりを一緒に歩いた。




◇◆◇





スーパーからの帰り道、新八くんと別れて自宅までの帰路を歩く。新八くんとの何気ない会話で少しずつ自分を落ち着かせていった私に、神様は非情にも試練を与える。

「…おう、」
「…なにその顔。人をお化けみたいに見て、失礼ね。」

曲がり角を曲がったところで丁度出くわしたのは、昨夜ぶりの今最も会いたく無い男だった。
先程までの落ち着いた心は完全に無くなってしまい、どうしよう、まさかこんなに早く顔を合わせてしまうなんて、昨日の今日で会うなんて嘘でしょ、世間はどれだけ狭いの、と表情には出さずに慌てふためく。
昨日と何も変わらない銀時の姿に、昨日の出来事がフラッシュバックしてしまいそうで、何も考えずにいつもの通りの口調で話す。

銀時もまさか私と会うなんて思っても見なかったのであろう。ボソボソと頭をかきながら、言葉を探す様に一瞬目を逸らす。
いつもはそんなことしない銀時のその一瞬の仕草に、やっぱり今まで通りには戻れないのだと痛感する。
一瞬でも気を緩めれば逃げ出してしまいそうになる弱った心を押さえ込みながら、彼の心情を探る。

「あー、なに?お前もう出歩いても平気なの?絶対に二日酔いで今日一日動けなくなると思ってたんだけど。」

そんなことを言いながら、自棄になっていつもよりたくさん買い物をしてしまった私の両手にある買い物袋の、その両方をさらりと奪い取る銀時。
それは、昨日より前の銀時がしてくれていた行動と同じで。慣れている筈の彼のこの行動が、今の私にとっては信じ難い行為で、唖然となってしまう。
このまま家まで荷物を持ってくれるということなのか?その思惑を肯定するように、銀時はUターンして私の家の方向を向いて歩き出す。それに不自然にならないように、私もいつも通り並んで歩く。

「そんなことになるのは銀時ぐらいよ。お酒が身体に合わないのに、沢山飲んじゃうんだから。」
「いんや、俺の場合は酒を飲む事によって身体を強くする治療の一環でなんですうー。」
「それで毎回二日酔いなら、その治療は銀時に合ってないと思うけど。お医者さんとしては。」
「何事も継続することが大事だって前に名字先生が言ってましたけどぉ。」
「それはこの間の回覧板の届け先がいつも留守っていう話でしょ?もう。」

自然な流れで、いつも通りに何でもない会話をする。
なのに、いつ銀時が私に嫌な顔を見せるのか、どんな言葉で距離を置かれるのか、心の中では不安と悲しみでいっぱいで仕方がない。
余計な事は何も考えないように気を張っていれば、気づけば私の家の目の前まで来ていて。足を止めた銀時の横に、私も佇む。そして、ゆっくりとこちらを向いた銀時は、見事なまでに微妙な表情を浮かべていて。

「あのさ、お前、昨日のこと…」

「…ん?何のこと?」

言いづらそうに絞り出そうとする銀時の言葉を遮るようにそう言った。
あたかも何も見覚えがないかのように、声のトーンは冗談の時と同じに、バクバクと今にも潰れてしまいそうな心臓の鼓動を隠すように、平然と涼しい顔を作る。

「ごめん、実は私、昨日どうやって帰ってきたかよく覚えてなくて…気づいたら自分の布団で寝てたの。」

本当にダメな大人よね、と冗談げに笑ってみせる。
咄嗟に出たこの単純な嘘を、こんな状態で隠し通せるのだろうか。鋭く敏感な彼を本当に欺くことが出来るだろうか。
大きく見開かれた銀時の瞳を見つめていると、一瞬だけこちらを探るような鋭い目付きが向けられ、焦ってしまいそうになる。ダメだ、ここで耐えなければ、きっと一生後悔する事になる。ここでバレてしまえば、きっとこれから徐々に距離を置かれてしまうのだろう。そんなの、耐えられない。

限界まで騒いでいる心臓を無視しながら、平然を装って首を傾げてやる。
すると、小さく息を吐いた銀時は、一瞬のうちにいつもの冗談げな顔になる。

「そっか、そーだよな。お前、いつにもなく酔っ払ってたしな。覚えてねーかもしんねーけど、お前暴れ回って家まで運ぶの大変だったわー。」

そんな有る事無い事を口にする銀時。実は私は全て覚えているんだけど、なんて言えず、まるでその冗談を鵜呑みにしたかの様に一先ず謝罪する。

上手く行ったのだろうか。本当に、誤魔化すことができたのだろうか。
銀時の表情からは何も読み取れず、焦りが頭を支配する。

「んじゃ、また。」
「うん、ありがとう。」

ここまで持って歩いてくれた買い物袋を差し出され、それを自然な流れで受け取る。
だけど、このやり取り自体は実は全く自然ではなくて。いつもなら、何も言わずに一緒に家に上がって甘味を食べる。でも今日は玄関の前で立ち止まり、家に上がろうとはせず別れを告げる。
そんな銀時に、きっといつもの私なら「どうしたの?上がっていかないの?」なんて呑気に尋ねるのであろうが、今日はどうしてもそれを聞くことが出来ない。
このぎこちない不自然なやり取りに、きっと「あの夜のことは何一つ覚えていない」なんて嘘は、銀時に直ぐにバレてしまうはずなのに。
何もなかった頃の様には振る舞えなくて。

結局、ひらりと手を振り去って行くその後ろ姿を見つめることしかできなかった。





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