夢からさめても呼吸はつづく



「それでね、上鳴がその時ね────」

楽しそうに話す声のトーンが、より一層高くなる。昂る気持ちを閉じ込めるようにぎゅっと握られた拳に、今この瞬間がこの話の一番の聞きどころなのだと理解する。
一体何が起きたのか。上鳴くんはどうなってしまうのか。話の続きが気になって仕方のない私は、ごくりと静かに息を呑む。どきどきと胸を高鳴らせながら、夢中になって彼女の口元へと視線をやる。
すると、柔らかそうな艶っぽい唇は、最後にとんでもないオチを、目一杯に弾みを効かせた声色で紡いだ。

それが面白くて、楽しくて。肩を振るわせながらお腹の底から笑うけれど。口からは、息を吐くだけの空っぽの音しか出て来ない。私の声帯は、今日も相変わらず震えない。

しかし、そんな音のない私に代わり、彼女の話をくすりと笑う低い声が聞こえて来て。
思わず、どくんと心臓が飛び跳ねた。

すぐ右側に座る彼の顔を、ちらりと静かに盗み見る。すると、そこには可笑しそうに口元を緩めて笑う、穏やかな表情の彼がいて。あっ、という声も音にならないまま、ぐらりと視界ごと心が斜めに傾いていく。

楽しそうなその横顔は、向かいに座るお姉ちゃんの笑顔を真っ直ぐに見つめている。
嬉しそうに、愛おしそうに彼女を見つめるその瞳は、とても美しくて、優しくて。視線も言葉も、当たり前のように交わされて、まるで息を合わせたかのように会話が弾ける。そんな二人の様子に、胸にちくりと何かが刺さる痛みがした。

分かっている。
私では、どうしたって彼を笑顔にすることなどできないから。
そこに居るべきなのは彼女であって、私はその辺に転がっている石のように、せいぜい二人の邪魔をしないようにと息を殺すだけ。

二人に疎まれてしまえば、もう私には誰もいなくなってしまう。
声もない、個性もない、何もない私のことを唯一大事にしてくれる、そんな二人に愛想を尽かされることが、私には何よりも怖いことで。
だから、どんなに胸が傷もうとも、彼女を羨ましく思おうとも、邪魔者だけにはならないように。
ただ口を噤んで、目を細めて楽しいふりをし続ける。

この気鬱が吐息に乗って溢れ出ないように、とにかく必死に息を飲み込んだ。





唇で言葉を紡ぐ感覚を、私はあまり覚えていない。
誰もが当たり前に思うその感覚を、私は遠い昔、まだ小学校に上がりたての頃に失ったからだ。

別に、何かきっかけになる出来事があった訳ではない。
もちろん、敵の個性に掛かった訳でもない。
本当にある日突然、まるで何かの小説の冒頭のように、目が覚めたら声が出なくなっていたのだ。

いつものように起き上がり、隣で眠そうに目を擦るお姉ちゃんに「おはよう」と声を掛ける。しかし、私の口から出てきたのは、喉の奥で空気が擦れるような音だけで。
その日から、私の人生は少しずつ歪なものへと変わっていった。

酷く困惑した様子の両親に手を引かれ、朝から晩まで何件もの病院を巡ってみた。しかし、どの医者も困ったように首を傾げるだけで、私の声が出なくなった原因も治療法も、何一つとして答えてはくれなかった。
そんな、突然のことに何も分からず戸惑う私を、両親はとても心配してくれた。

しかし、それ以上に、彼らはルビルビルビルビルビルビのことを気に掛けた。

大事な彼女を守るために、彼らが次にとったのは、至って単純な選択で。
この病気なのかも分からない気味の悪い症状が、彼女に移ってしまわないように、と。症状が治るまで、私とお姉ちゃんを隔離することを決めたのだ。

その日のうちに、それまで使われていなかった2階の物置部屋へとベッドが一つ運ばれた。お姉ちゃんのと並んでいた勉強机も、私のものだけが運び出された。そして、あっという間にそこに私の部屋ができた訳だが、憧れの一人部屋は不思議なほどに寂しさ以外の何も心に感じなかった。

それから一人、誰もいない部屋で過ごす日々が始まった。
食事も母が運んでくるのを一人で食べる。その時に、決まって母は声が戻ったかを尋ねてくるけれど、私は首を横に振ることしかできなくて。残念そうに食器を下げるその後ろ姿を見る度に、焦りや戸惑いに見舞われる。そんな私の心は、日を追うごとに殻に閉じ籠もっていく一方だった。

世界が、じわりじわりとモノクロに染まる。

そもそも私は、声を失うよりももっとずっと前から、既に出来損ないの欠陥品だった。
見た目も彼女のように華やかではなくて、皆んなが当たり前のように持っている個性もこれっぽっちも持ってなくて。だからだろうか、いつからか両親の視線は彼女ばかりを追うようになった。私のことも、もちろん家族として大事にしてくれる。でも、彼女のように特別では無いことは、幼い私の頭でも理解できてしまっていた。
彼女の話をすると、両親はとても喜ぶ。優しい笑みを向けてくれるのを、子供ながらに知っていて。だから両親と過ごす時間は彼女のことばかりを話した。そんな連絡係のような役も、肝心の声を失ってしまっては大詰めだ。
自分の体調のこと以外に、両親と話す話題が見つからない。
私の世界は、何から何まで彼女で出来ていたのだと、痛いほどに理解する。

隣に彼女が居ない寂しさに、空っぽな自分の虚しさに、一人で膝を抱いて途方に暮れる。

そんな時に、私は彼と知り合った。



それは、あまりにも退屈で窓の外を眺めていたある日のことだった。
私の家のちょうど裏には、誰の家かは知らないけれど立派な豪邸が建っていて。その家の敷地にある池の鯉を眺めるのが、私の日課になりつつあった。
そんなある日、池のすぐそばにある縁側に少年が一人座っているのが目に留まった。
いつもとは違うその光景に、不思議と興味を惹かれた私は、じっとその少年を見つめた。白と赤の髪を半分半分に持った、綺麗な顔の男の子だった。しかし、よく見るとその手や足には、たくさんのガーゼや絆創膏が貼られていて。何だか分からないけど、とても痛そうだった。
もっとちゃんと、彼のことを見てみたい。そう思って、少しだけ窓枠へと身を乗り出してみる。
ここ最近は何にも気持ちが揺れなくて、ずっと心が虚ろだった。だけど、どうしてか目の前にいる彼のことが、無性に気になって仕方なかった。

多分それは、浮かない顔をした一人きりの彼を、自分と重ねていたからだと思う。

その後、すぐに大きな男の人がやって来て、何だかとても酷い顔をした彼は、やがて家の中へと消えていった。


しかし、偶然なのか必然なのか。
翌る日も、同じ時間に彼はそこに座っていた。
ぼろぼろに剥がれた絆創膏を貼り替える彼の手は、赤く爛れていて、胸がずきりと痛くなった。
昨日はよく見えなかったけれど、彼の左目元には痛々しい火傷があって。鬱々とした表情なのに、色の違うその瞳には情炎が垣間見える。その表現し難い不安定さに、心がどうにも落ち着かない気持ちになった。

すると、途端に少年の視線がちらりとこちらを向いた。
パチリと、目があったのだ。
まさか、気付かれるなんて思ってもいなかった私は、不躾な自分の視線に慌て慄いた。この部屋に一人きりで閉じ籠り、親以外の誰とも話さない日が続いた私の心は、すっかり人見知りになっていたのだ。

ひたすらにドクドクと鳴り響く心臓の前でぎゅっと拳を握り締める。いくら相手が同じ年頃の少年とは言え、挨拶をする勇気なんてどこにも無くて。
瞬きをするみたいに目を伏せて、色の違う綺麗なその瞳からそっと視線を逸らした。
そして、窓辺から部屋の方へと身を引っ込ませる。
それは彼を拒むような態度であることは、分かっていた。分かっていても、今の私にはそれしかできなかった。



それなのに、その翌日には性懲りも無くまた窓の外を見つめていた。
あれからずっと、何だか彼に悪いことをした気がして、とにかく胸の中がむずむずとして仕方がなかったのだ。

彼は、今日もまた変わらずそこに腰を下ろし、ガーゼを貼り替えていた。しかし、何故か今日はすぐに私の視線に気付いたみたいに、すっと顔を上げてこちらを見た。

声の出ない喉の奥から、ひゅっと空気が溢れでた。
心臓がドクドクと大きな鼓動を打ちつけて、無意識のうちに身体が強張っていく。

また昨日のように目を逸らして立ち去ることは、とても簡単なことだった。
だけど私は、別に彼のことを拒みたいと思っている訳では無くて。
ただ、もっと彼のことが知りたいと、そう心の中でひっそりと望んでいるだけなのだ。

大きく、深く、ゆっくりと息をする。
そして、恐る恐る持ち上げてきた片手を、ほんの少しだけ彼の方へと振ってみせた。

そう、たったそれだけのことなのに。
緊張で上がりきった胸は、呼吸を止めてしまいそうになる。

そんな私の行動は、きっと彼の意表を突いたのだろう。
いつもの虚気なその瞳が、まるで溢れ落ちた水滴が弾けるように見開かれる。
そして、少しだけ間をおいて、彼はその手を小さく私に振り返してくれた。

じわりじわりと、胸が焦がれていくのを感じた。
ただそれだけの何でもないやり取りなのに。それでも、私の心は嬉しさで張り裂けそうになってしまう。

その時、私は小さく閉ざされたこの世界で、唯一の希望を見たような、そんな気持ちになった。



それから私と彼は、一日にたった一度のあの時間だけ目を合わせ、手を振り合うだけの仲になった。
それはとても嬉しいことで、すっかり色を無くしてしまった毎日に、再び色彩が戻ってくるような感じがした。

最初は、それだけでも十分過ぎるぐらいだと思っていた。
しかし、次第にそれだけではどうにも物足りなく思えて来て。

私は彼の名前すらも知らないのだ。
こんなにも近くにいる筈なのに、まだまだ遠く手の届かない距離にいる。
それが、なんだかもどかしく思えてしまった。

私は、彼の名前が知りたい。
しかし、それを聞こうにもこの喉は一つも音を紡がない。そんな私が、一体どうすれば彼と話ができるというのか。
必死になって考えた。
そして、ある時ふと思いついたのだ。

机の引き出しに入れてある折り紙を取り出す。
そして、鉛筆を握って文字を綴った。これなら、声が無くても彼に言葉を伝えられると思ったのだ。書き終われば、今度はその折り紙を丁寧に、慎重に折っていく。ここから彼のいるあの縁側までは、少し距離がある。その距離を、ちゃんと飛び切るものを作らなければならなくて。紙飛行機を作るのは、別に得意ではなかった。でも、その時は何だか無性に心がわくわくとして仕方がなかった。

窓の外には、いつものように縁側に座る彼がいる。
そこを目掛けて、手に持った紙飛行機を目一杯に投げ付けた。

風は、向かい風だった。
ひゅるひゅると途中で落ちていく紙飛行機に気付いた彼は、縁側から立ち上がって、それを片手で捕まえた。

不思議そうに首を傾げて手元のそれを見つめる彼は、次の瞬間には、きょとんとした顔を私の方へと向けた。
ああ、そうか。きっと、中に文字が書いてあるのに気づいてないのだ。それを今更になって理解した私は、慌てて手でぱかりと何かを開くジェスチャーをした。それに何となく意味を悟った彼は、紙飛行機をその手の中でゆっくりと開いた。

どくん、と心臓が大きな鼓動を打つ。
彼と交わす初めての言葉に、緊張せずにはいられなかった。

彼はそれを眺めたまま暫くその場に佇んで、そしてどういうことかそれを持って家の中へと消えていってしまった。

突然居なくなった彼の影に、嫌な不安が胸の中を騒つかせた。
やっぱり、いきなりこんなことをされるのは迷惑だったのだろうか。
もっと仲良くなりたいと、そう思っていたのは私だけだったのだろうか。

暫く経っても出てこない彼の姿に、今日は諦めて窓を閉じようとした丁度その時だった。
襖の向こうから、再び彼がその姿を覗かせたのだ。
ハッとなって彼を見ると、包帯だらけのその手の中には、ペンと綺麗に折り直された紙飛行機があって。

こちらを真っ直ぐに見上げた彼は、紙飛行機を片手に掴み直す。そして、春の温かい風に預けるように、2階にいる私の元へそれを勢いよく投げた。

柔らかく吹き上がる風に乗って、それは吸い込まれるように私のいる窓へとやってきた。
ふわりと手元に舞う飛行機を、潰してしまわないようにと、両手でそっと優しく掴んだ。

嬉しかった。
嬉しくて、仕方がなかった。
気がつけば、口元がだらしなく緩んでいたけど、そんなことは一つも気にはならなかった。

私の元へと返ってきた紙飛行機を、ゆっくりと開いていく。
中央には、私の書いた字があって。そのすぐ横には、見慣れない筆跡の新しい文字が加わっていた。

『わたしは名前です。あなたのなまえは?』
『とどろきしょうと』

この時、私は初めて彼の名前を知った。






それから何年もの間、彼と紙飛行機を飛ばし合って会話をした。
同い年であることや、彼が毎日怪我をしている理由、私の声が出ないこと。その他にも様々なことを文字に綴って伝え合った。時偶に風に煽られた紙飛行機が鯉の池に落ちることもあったけれど、それを笑い合えるぐらい、気付けば彼との距離は縮まっていた。

そして、私達が中学生に上がる頃のこと。
私は、両親の計らいで途中からお姉ちゃんとは別の小学校に通っていた。そんな私と中学校は同じところに通いたいのだと、お姉ちゃんが盛大に駄々を捏ねたそうだ。家出をするとまで言い出した彼女に、どうにもならなくなった両親は結局、私とお姉ちゃんを隔離することを諦めた。

晴れて、以前のようにお姉ちゃんや両親と同じ環境で生活できるようになった私だが、全てが元通りに戻る訳ではなかった。
私は声を失ったままなのだから、そんなことは当たり前だった。それでも必死になって手話を覚えて、私の話し相手になってくれたお姉ちゃんに、言葉にできないほど温かい気持ちが胸の中から溢れ出た。

嬉しいことは、それだけでは無かった。
中学校の入学式、人が混み合う体育館で私は紅白の髪の男子生徒の姿を見つけたのだ。確かにそれは、彼の姿をしていた。
ずっと何年もの間、2階の窓から眺め続けた彼の姿を、私が間違える訳などなかった。
漸く彼と、直接会うことができるのだ。そう思うと、胸が高鳴って仕方がなかった。
人の波を擦り抜けながら、その後ろ姿に近付こうとするけれど。一斉に流れる人混みに憚られ、思うようには動けなくて。
気が付けば私は彼を見失ってしまっていた。

しかし、幸いにも機会はまたすぐに私の元に訪れた。

それから数日後のとある放課後に、教室の前の廊下を歩く彼の後ろ姿を見つけたのだ。
その刹那、頭で考えるよりもずっと先に、足は彼の方へと向かっていた。

今は手元に紙飛行機なんてものは無い。無いけれど、でもきっと、それが無くてもいい気がした。
同じ高さで側に立って、目を合わせて少しだけ微笑み合う。彼となら、そこに会話なんて必要ない。
言葉を交わさなくても良いのだと、私は既に知っていた。


「   」

背後から、呼び止めるように彼の名前を口にした。
それが音にならなくたって、別に構わなかった。
ただ呼びたかっただけなのだ。大好きな彼のその名前を、彼のすぐ側で。

あと少し、もう少し。
胸が、どうしようもなく焦がれて仕方がない。
手を伸ばし、彼に触れようとしたその時、不意に彼の隣を歩く人影に気付く。

彼の背中を見つめていた視線を、ほんの少しだけ隣にずらす。
視界に映り込んだのは、私と同じ髪色をした、私と同じ背丈の、私のよく知る姿だった。
ぐらりと、視界が傾いていく。暗澹とする視界が、眩暈のように襲い掛かった。

当たり前のように彼の隣を歩く彼女は、私ではない。
私に似ているようで、似ていない、私の大切な片割れで。
まるで、そこに私の居場所など端から存在しないのだと、思い知らされたようだった。

心が何一つとしてついて来なくて。
震える息を細く長く吐き出した。

あれだけ軽かった両足は、いつの間にか鉛のように重たくなっていて。
その場に縫い付けられたように、びくともしなくなっていた。



後で聞いた話だが、お姉ちゃんは焦凍くんと同じ小学校だったそうで、私が彼と知り合うずっと前から彼と仲が良かったらしい。
大好きな二人が顔見知りで、しかも仲が良いというのはとても嬉しいことなのに。
どうしてか、急に彼が遠い存在のように思えてしまい、胸が苦しくて堪らなかった。


彼が辛くて苦しい時、側に寄り添い励まし続けていたのは、他の誰でもないお姉ちゃんで。
私は、彼に何もしてあげられなかった。
それどころか、自分の寂しい気持ちを紛らわせるために、彼に相手をさせていた。

どうして彼が、お姉ちゃんのことを好きなのか。
どうして彼は、私ではなかったのか。

それはつまり、そういうことで。
誰よりも大らかで優しくて、人の痛みや苦しみごと包み込んでしまうお姉ちゃんには、到底敵う筈もなかった。






そして、話は冒頭に戻る。
お姉ちゃんのお喋りも程々に、机の上に並べた教科書に視線を戻す。来週に控えた期末テストの勉強をしようと誘ってくれたのは、お姉ちゃんだった。その時は二言返事で頷いたけれど、それがまさか焦凍くんの部屋で、三人ですることになるなんて誰が想像できただろうか。

ヒーロー科で同じクラスである二人は、テスト科目もその範囲も全てが一緒だけれども。一方で、普通科に在籍する私は少しだけ違っていて。テーブルを挟んで教え合ったり、一緒に考えたりする二人を見ると、どうしてか一人で居る時よりもずっと心が窮屈さを覚えてしまう。

お姉ちゃんは、どうして態々私を誘ったりしたのだろうか。
私がいても、二人にとって何の役にも立たなくて。焦凍くんと二人きりでも、彼女は別に良かった筈だ。

それに焦凍くんは、きっとお姉ちゃんと二人で過ごしたかったに違いない。
でも多分、それは彼女にはこれっぽっちも伝わっていなさそうだけど。

そんなことを一人で悶々と考えていると、どうしてかお姉ちゃんは急にその場から立ち上がり、そして参考書を取りに行くとだけ言い残して部屋を後にしてしまった。

そうして訪れた突然の、予期せぬ彼と二人きりの空間に、私の心は盛大に慄いた。
隣に座る彼は、何事もなかったかのようにペンを走らせているけれど。
私の心臓は、ひたすらに煩い鼓動を打ち続ける。

ああ、ダメだ。意識するな。
期待も、するな。

そう自分に訴えかけて、とにかく問題を解く手を動かしてみるけれど。気を逸そうとすればするほど、右隣に座る彼のことが気になって仕方がなくなる。ああ、もう。私は一体どうすればいいのだと、一人途方に暮れてしまう。

ペンがノートの上を滑る音。腕が紙に擦れる音。そんな些細な音だけが、この静かな部屋に響いている。
そんな中、ちらりと彼の手元を盗み見た。小傷のある大きな手は、まるでお手本のような綺麗な形でペンを握っていて。その手が綴る、少しだけ荒っぽくて、でも綺麗に並べられた形のいい字は、ずっと昔から知っている彼の字そのものだった。

紙飛行機を開けば、いつもこの字がそこにあった。
それは、いつだって何でもない日常を、ぽつりぽつりと並べただけのものだった。
それなのに、私の胸はいつもどうしようもない程にいっぱいになった。

私は一人ではないのだと、そう伝えてくれるこの文字が、とても好きだった。


「名前」

その刹那、不意に私を呼ぶ声が聞こえてきて。
はっとなって視線を上げる。すると、彼の綺麗な青灰色の瞳が、すぐ側からこちらを見つめていた。
全部、見られていたのだろうか。
熱心に彼の手元を見つめていたのも、物思いに耽っていたのも。そう思うと、さっきまでの自分に僅かな羞恥心が湧き上がる。
するりと視線を彼から逸らし、波立つ心を宥めていると、ふっと穏やかに笑う声が聞こえてきて。余計に、頬に熱が籠る。

「少し休憩にしよう。」

あいつが戻ってくるまでな。
何かの秘密を持ちかけるみたいに、小首を傾げて楽し気に微笑む焦凍くん。それは、お姉ちゃんには内緒だということだろうか。そう考えると、胸が一層煩く騒ぐ。
ついさっき休憩をとったばかりだけど。それには気付いていないふりをして、私は彼に向かって首を縦に振った。

ふう、と一息つきながら、利き手に持ったペンを置く。すると、彼は何かに気が付いたみたいに「お、」と小さな声を溢す。
一体どうしたのだろうか。不思議に思い、彼の視線を追ってみると、そこにはさっきまで私の使っていた計算用紙があって。「これ、もういいか?」と尋ねる彼に、訳が分からないまま頷いた。

「……名前の字を見ると、これを作りたくなる。」

そう言って、彼はぐちゃぐちゃに殴り書きされた文字を内側にして、手際よくその紙を折り始めた。
目印をつけるように縦半分に折られたその瞬間に、彼が何を作ろうとしているのかをすぐに私は理解した。

その瞬間に、彼と私だけしか知らないあの時間が、不意に脳裏に過ぎっていく。
じわりと、胸の中が熱くなった。

「あの頃は紙飛行機なんて作ったこと無かったから、最初は名前の折った折り目に沿って何となく組み立ててたんだ。」

懐かしそうに目を細めながら、指先でどんどん形になっていく紙を彼はじっと見つめていて。
その、どこか特別な思い出を語るような穏やかな口調に、心がゆるりと解かれそうになってしまう。

なんで、どうして。
それを特別に思っているのは、私だけの筈なのに。
それなのに、どうして彼はそんな顔で、そんな口調で、あの日の思いを語るのか。

揺れる思考に、言葉が何も浮かんでこなくて。
そんな私に、彼は出来上がった飛行機を片手に、少しだけ口角を上げて言った。

「でも多分、今なら名前のよりよく飛ぶヤツ、作れる自信があるぞ。」

ふっと笑う楽しそうな表情が、あの頃の小さな彼と重なって。
どくんどくんと、無意識のうちに心臓が大きな音を立てる。

これ以上、近付いてはいけないのに。
想い慕って焦がれても、その先には何もないと分かっているのに。
それなのに、どうしようもなく込み上げてくるこの気持ちを、否定することなんてできなくて。

『……勝負、してみる?』

手で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
あの頃していたみたいに少しだけ悪戯っぽい視線を送れば、彼はその目を細めて笑って見せた。

「ああ、いいな。どっちの方が遠く飛ぶか、競争だ。」

嬉々とした表情を浮かべる彼は、今度は自分の計算用紙を私の前へと差し出した。
無造作に書かれた彼の字は、まるであの日の手紙の中身みたいで。何だか心が燻られる。

慎重に、丁寧に、あの頃何度も折った紙飛行機を作っていく。
紙飛行機を折った数も、それを飛ばした数だって、私は彼に引けを取ってはいないのだ。上手くいけば、自信満々な彼の意表をつく結果を残せる筈だ。
そんなことを考えながら夢中で紙を折っていると、不意に手元をじっと見つめる視線に気付く。

『?』

一旦手を止めて、どうしたのだと首を傾げる。
すると、私の視線に気づいた彼は、少しだけ躊躇いながらその熱心な視線の理由を口にした。

「悪りぃ……その、そういえば名前が目の前で紙飛行機折ってるの、初めて見るなと思ったから。」

すげぇ見ちまった。
そんな申し訳無さそうな言葉を紡いでいる筈なのに、彼の視線は一向に私の手に留まったまで。
手が、ほんのりと熱を持ち始める。

「なんかいいな、名前の手。いつも何をするときも丁寧で綺麗で……俺は好きだ。」

他に音のない静かな部屋で、ただひたすらに真っ直ぐな言葉が私の鼓膜を打ちつける。
隣には、とびきり柔らかい微笑みを浮かべる彼がいて。胸がきゅっ、と縮むような感覚に襲われる。

好きだ、なんて。

ああ、どうして、彼はそういうことを平気で言ってしまうのだろう。
私がどんな想いでここにいて、さっきからどれほど鼓動を速めているのか。
何も知らない呑気な彼に、全てを打ち明けてしまいたくなる。

『恥ずかしいから、見ないで……っ、』

思わず机の上から引っ込めた手で、ついでに彼に言葉を紡ぐ。
すると、その手の動きをすぐに理解した彼は、可笑しそうに笑いながら言った。

「無理だ、見なきゃ名前と話できねぇだろ。」

いや、そうだけど。そういうことじゃない。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼の視線は私が紙飛行機を折りきるまで、ずっと手を眺めていた。



そんなこんなで出来上がった紙飛行機を、廊下で一緒に飛ばし合う。「せーの、」の声に、指先から離れて空気を切るそれが、丁度ドアを開けた瀬呂くんの扉に撃沈されることになるのは、また別の話だ。


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