沈黙の結び



ごぽごぽ…と籠った音が脳に響く。
優しく身体を揺する浮遊感に、肌を包むよう圧迫する冷たい何か。

音はあるけど、匂いはない。
私はここを、知っている。

ゆっくりと瞼を開ければ、目の前には紺碧の闇が深く深く広がっていて。
どこまでも続くその先には、深潭すら存在しないように思えてしまう。

手も足も、普通に動く。身体はどこもかしこも自由なのに、どうしてか何かをする気にはなれなくて。漂うように浮かぶ身体はただ、どこでもない場所を求めて流れていく。

不意に、指先から抜けるように小さな泡が、緩やかにある方向へと昇っていく。何の迷いもなく真っ直ぐに水面へと向かうその様に、自然と心が惹かれてしまう。
だからだろうか、無意識に泡を追うように、何となく指先を伸ばしてみた。

すると、先ほどまで薄暗かったその場所には、仄かに柔い光が差し込んでくる。
ゆらゆらと凪いだ水面に揺れて、穏やかな光は静かに私の指先を照らした。

それはとても温かくて、優しくて、そして美しくて。
焦がれるように手を伸ばすけど、触れるのは冷たい水の感覚だけで、その先にある光には届かない。

ああ、そうか。
ここからでは、きっと遠過ぎるのだ。
そう思い至ると、ゆっくりと脚を動かして水面の方へと身体を浮上させていく。キラキラとした眩しい光がその透明度を増す度に、胸の中が静かに熱く燃えていく。

明るくて、なんて心地が良いのだろうか。
眩しさに目を細めながら、揺れる水面のあと少しのところまで目一杯に手を伸ばすけど。

急ぐ脚に、不意に何かが絡まり付くような感覚を覚え、胸が飛び跳ねた。
ひんやりと冷たいそれは、まるで私の脚を掴むみたいにぎゅっと幾重にも絡まってくる。
これは、一体何なのだ。
何が、私の邪魔をしているのか。

見下げると、そこには暗い闇が私の下半身を覆っていて。
ぞっとするほど悍ましい力で、私を底へと引き戻していく。

助けて。
口を開けて大声で叫んでも、一つも音にはならなくて。
代わりに小さな気泡が、幾つも水面の方へと向かっていく。

闇へと引き摺り下ろされる恐ろしさに、両手で必死にもがきながら抗うけれど。
刹那、その感覚は不思議と何度も味わってきた感覚のように思えてくる。

ああ、そうだ。全て思い出した。
こうなることを私は既に知っていて、だから私はあそこで何もせずにただ浮いているだけだったのだ。

それに気づいた時には、もう水面はだいぶ遠いところにあって。
柔い光は、ゆっくりと闇に消えていく。
それを、ただ私は虚ろな心で見つめることしか出来なかった。






緘黙の水魚────





ああ、またいつものあの夢だ。
そう気付くのは、大抵起きた直後だった。
陰鬱としたあの深海がまだ肌に纏わりついているみたいで、心地が悪い。深く息を吸い込んで、そして胸の中に浮遊する嫌なもの全てを押し出すみたいにそっと息を吐き出した。

ベッドのすぐ横にあるカーテンからは、漏れ出した朝の光が差し込んでいて。きっと、もうすぐ起きる時間になる。
すっかり冴えてしまった頭はアラームが鳴るまでの間、再び眠りにつくことは出来そうになくて。
ベッドから起き上がった私は、嫌なあの夢を忘れたくて、お気に入りの本を手に取りしおりのページを静かに開いた。











「なあ、あれって2年の名字さんじゃね?」

昼休み、学生でごった返す食堂前を歩いていると、不意にそんな声が聞こえてきた。いつものように黙って足元を見つめていた私は、その突然の声にびくりと心臓を震わせた。

聞いたことのない声だった。
多分、相手は私の知らない人だろう。
その事実だけで、何だか変に身体に力が入ってしまう。

ほんの少しだけ顔を上げて辺りを見ると、そこにはこちらをじっと見つめるような視線が幾つもあって。恐ろしさに似た感覚が胸の中を支配して、背筋にぞわぞわとした何かが走った。

言い表せない落ち着かない気持ちに、再び視線を下に向けてぎゅっと拳を握りしめる。
すると、また別の知らない誰かの声が、同じ方から聞こえてきた。

「ちげーって、よく見ろよ。あれは普通科の妹の方だって。」
「え………うわ、本当だっ。危ねぇ、声掛けなくて良かった〜。」

ふぅ、とまるで安心したような溜息が、不意に耳に入ってきて。感じていた緊張は、次第にちくりと刺すような胸の痛みに変わっていく。

ああ、今日は少し早めに食堂に来てしまったのが、どうやら失敗だったようだ。
こんなに人がいる場所で、こういうことになるのは十分予想がついていた。だから、いつもは人の多い時間を避けて昼食を食べるようにしていたけれど。今日は昼からの授業が別棟で、だからほんの少しだけ早めに昼食を食べようとこの時間に足運んでみた。でもやっぱり、いつもの時間に来れば良かったと心の中で後悔した。

ひそひそと噂話をされるのは、昔からずっとだった。
でも人見知りで臆病な私は、それがとても苦手で慣れなくて。だからいつも下を向いて、人の目に極力触れないように過ごしてきた。

そうして身を縮めて過ごしていても、誰かに呼び止められたり話し掛けられたりすることはよくあって。
そんな時、相手は目には決まって何かを期待するような気持ちが見えた。
それが一体何であるかを、私はよく知っていて。
同時に、私では到底応えられるものではないことも、理解する。

私はルビルビではないのだと。
それを相手に伝えなければならないのに。
私には、それを伝えるルビルビルビルビルビ
そんな心の焦りと、誰か知らない人を目の前にしている緊張で、身体はみるみるうちに硬く強張っていく。

首を振って否定したり、笑顔を向けることすらできない私に、初めのうちは誰もが不思議そうな目で私の様子を伺うけれど。
次第に私が誰であるかを理解すると、きらきらとした期待の眼差しを翳らせて、顔を歪めて去っていく。
それを、私はただ黙って見つめることしかできなくて。
緊張はゆっくりと和らいでいくのに、胸の中が苦しくなるような、どうしようもない気持ちを一人で持て余す。

ぎゅっと唇を結んで、詰まった息をゆっくりと吐き出しながら再び足元を見つめる。
すると、やっと食堂の入り口だというところで、すぐ背後から優しい声が聞こえてきた。

「名前」

それは、他の誰でもない私のことを呼ぶ声で。
聞き慣れた低くて穏やかなその音に、耳の奥を甘く擽ぐられるような感覚を覚える。
ふわりと軽くなる心のままに、顔を上げる。
すると、すぐ側には背の高い彼が、青灰色の綺麗な瞳で私をことを見つめていて。目が合えば、緩やかにその目が細められる。それが、何だか嬉しいと言われているみたいで、どくん、と心臓が波打った。

「珍しいな、名前がこの時間に食堂に来るの。」

その言葉に、小さな苦笑を浮かべながら頷いた。
そんな私の反応に彼は何かあるのだと悟ったみたいで、「午後から移動教室なのか?」と、全くの正解を言い当ててしまう。
それに、今度はしっかりと首を縦に振れば、「そうか、大変だな。」と優しい声で返してくれた。

人混みの中、押し寄せてくる人の波から私を庇うように立ってくれる彼のおかげで、身体が少しだけ楽になる。
さっきから右肩に触れたり離れたりするのは、間違えなく彼の左腕で。右肩から、じわりと熱が込み上げる。

「……名前、」

彼の形の良い唇が、不意に私の名前を口にする。
家族以外に誰も呼ばないその名前で呼びかけられると、心臓がきゅっと締まるみたいな甘い痛みを覚える。

「良かったら昼飯、一緒にどうだ?」

そう言って、優しい眼差しの彼は私に問いかける。

彼は、いつだってそうだ。
優しくて、温かくて、当たり前のように私を隣に置いてくれる。
彼女とは違う私を、何も残念がらずに受け入れてくれる。

こんな、個性も声も何も持たない私のことを一つも疎むことなく居てくれる。
だから私は、いつも彼に甘えてばかりいるのだ。

『ごめんなさい、今日は購買に行こうと思うの。』

ゆっくりと、手で言葉を紡いでいく。
騒がしい辺りの音にも掻き消されない、誰にも分からないその静かな言葉を、彼に向かって届ける。
その手の動きを最後まで見届けた焦凍くんは、少しだけ残念そうな笑顔をみせた。

「そうか。折角だから一緒に食いたかったけど、また今度だな。」

それはまるで、次は一緒に食べれたらいい、なんて意味に聞こえてしまう私は、どこか可笑しいのだろうか。
そんなのは自分に都合の良いな解釈だと分かっていても、一度弾んでしまった胸は中々抑えられなくて。優しく微笑む彼の瞳につられて、引き締めていた口元がゆるく緩んでしまう。

少し手を伸ばせば、簡単に触れてしまえる距離にいる。
声を持たない私の言葉を取り溢さぬようにと、真っ直ぐに私の瞳を見つめてくれる、優しい人。
だから、この気持ちがほんのりと色付いていくのは、ある意味当然のことで。膨らんでいくばかりの感情が、日に日に胸を焦がしていく。

音の出ない唇で、幾度となくその言葉をつぶやいた。
誰にも聞こえない、掠れた息を吐くだけの音は、いつだって何にもならなかった。

しかし、もし音になるのならば、私はそれを口にはしない。
その気持ちは、持ってはいけない感情で。いつも見ないふりをしていなければならなかったから。


「焦凍〜!やっと追いついた…!」

食堂に入ってすぐにある食券機の列の直前で、随分と聞き慣れた声が耳を掠めた。
それはまるで鈴が鳴るような、耳触りの良い声だった。

私を見つめていた彼の視線が、ゆっくりと声の方へと逸れていく。
そして、きっとその姿を見つけたのだろう。彼はその美しい目を少しだけ細めて、微笑んでみせた。

その横顔が、あまりに綺麗で温かいものだから。
嫌でも気付くその事実に、胸が張り裂けそうになってしまう。

突然隔たった大きな溝に、まるで一瞬にして居場所を失ったような気持ちになる。たじろぐ心のままに、彼から一歩後ろへと後退った。
そして、彼の視線の先を辿るように後ろを振り返る。
するとそこには私と同じ背丈の、同じ髪色の、でも堂々と背筋を伸ばした人懐っこい表情の女子生徒───私の姉が立っていた。

「もう!本当に相澤先生ってば、私ばっかりこき使ってくれるんだから───って、あれ?ちょっと待って、名前も一緒だったの…!?」

焦凍くんの横に立つ私に気付いたお姉ちゃんは、大きく目を見開きながらこちらを見た。
私と同じ色の筈なのに、私よりもキラキラとして美しいお姉ちゃんの瞳は、とても魅力的で。いつも、吸い込まれそうになってしまう。

見た目は、もちろん美しい。
しかし、それだけではない。明るくて人懐っこいその性格は愛らしく、いつだって意思を持った瞳はとても凛々しい。
両親から譲り受けた珍しい個性を持った、強くて逞しい、完璧な人。

私とはまるで違う、私の片割れ。
同じ年の同じ日に一緒に生まれた、私とは掛け離れた憧れの存在。

「嬉しい…!今日はなんて良い日なの…!」

でかした、焦凍!と声を昂らせながら、お姉ちゃんは私の身体を包み込むようにぎゅっと抱き締める。ふわりと良い匂いのするその腕は、昔からとても心地が良くて大好きだった。
でも、ここは人目があって、今は少しばかり恥ずかしくて。やめてと声を出す代わりに彼女の背中を叩くと、その腕はゆっくりと力を緩めていく。

「ね、名前も今日は一緒にご飯食べるよね?」

ね?と嬉しそうに綻びながら、お姉ちゃんは首を傾げる。するりと肩から滑り落ちる艶やかな髪が、無意識のうちに目に留まった。
お姉ちゃんと焦凍くんは、きっといつも一緒にご飯を食べているのだろう。二人にとってはそれが当たり前で、必然で、何の変わり映えもない日常なのだ。そんな二人の中に私が入れる隙間なんて、一体どこにあると言うのか。面白い話どころか会話の一つもまともにできない私は、邪魔者以外の何者でもない。

そう分かっているのに、お姉ちゃんの嬉しそうな視線を見ると、自分が悪いことをしているみたいで首を横に振れなくて。そんな私を見兼ねたのか、隣にいた焦凍くんが代わりに言葉を紡いでくれた。

「名前は今日は購買に行くらしいぞ。」
「そうなの…?んもう!名前と焦凍と一緒にご飯食べるの、久々だからすっごい期待したのに〜!」

むっと剥れた顔を作って、それでも私を離すまいと手をぎゅっと握るお姉ちゃんは、昔から誰よりも往生際の悪かった。特に、私が一人になるような時には、誰のどの意見にも頑なに聞く耳を持とうとしなかった。
そう、彼女は、誰よりも私を大切に想ってくれているのを、私はずっと前から知っていて。だから、私は私の片割れである彼女のことが、とてもとても大好きだった。

「ね、名前、本当に一緒に食べるのダメ?」

今日だけだから、と甘えるようにダメ押しをするお姉ちゃんに、心はぐらぐらと揺らいでしまう。
本当は、目立たない静かな場所で食事をしたい。誰かの視線も噂話も、本当に逃げ出したくなるぐらい嫌いだから。それに、仲の良い二人の邪魔をするみたいで、何だかとてもいただけない気持ちになってしまうのは目に見えていて。

だけど、こうなったお姉ちゃんは、もう誰にも止められない。私が否定をすれば、きっとその理由を全て潰してでも一緒に居ようとするだろう。
この世でたった一人、私のことを心底大切に想ってくれるお姉ちゃんを、私もがっかりさせたくなどはなくて。

彼女の傷だらけの手を、ぎゅっと握り返す。そして、小さくその場で頷けば、お姉ちゃんは感極まった顔を浮かべて再び私に抱きついた。



そうして、食券を買うために長蛇の列へと並ぶけれど、いつにも増して視線が身体中へと突き刺さる。その理由は、明白だった。焦凍くんもお姉ちゃんも、この学校では有名人だ。ヒーロー科の中でも特に華やかな個性を持った二人は、誰もが憧れる存在で。その上、容貌も優れているとなれば、周りの視線を集めるのは当然のことだった。そんな二人と一緒にいる、取るに足らない私の存在は異様で、何だかとても自分が恥ずかしく思えてくる。
二人のように堂々とできない私は、視線を足元へと落とす一方で。そんなつまらない私に当たり前のように話しかけてくれる二人は、本当に優しくてよくできた人だった。

「ご飯は、少なめで頼むか?」

受け取り口の目の前で、別の列に並んでいたはずの焦凍くんが不意に私の隣に立った。ちらりと彼のトレイを見ると、そこにはまだ何も乗ってなくて。きっと私を手助けするために、自分のご飯を受け取る前に、ここに来てくれたのだろうと察する。
声の出ない私の代わりに、ランチラッシュに少なめのご飯と、私の好きなドレッシングをサラダに掛けてくれるように頼んでくれる。
どうして何も言ってないのに、彼はここまでしてくれるのか。
どうして私の好きなものを、彼は覚えてくれているのか。
焦凍くんは、いつでも優しい。
だから、単純な私はあり得もしない勘違いをしてしまいそうになる。



混み合う時間帯の食堂では座る席を探すも一苦労で、だから空いていた他のA組の人達の座るテーブルにお邪魔させて頂くことになった。お姉ちゃんを通じて何度か顔を合わせたことのある人達と、一緒に食べる。私の隣にはお姉ちゃんが、私の向かいには焦凍くんが座っていて、その隣には緑谷くんや麗日さん、元々同じクラスだった心操くんが座っている。A組の皆んながとても優しいことを既に私は知っていて、だから人見知りも緊張もせずに落ち着いた時間を過ごすことができた。
しかし、やはり会話はお姉ちゃんか焦凍くんの通訳無しでは成り立たなくて。いつだって自分が輪を乱す要因であることを分かっているから、だからあまり積極的にその輪の中には入らなかった。

それでも、お姉ちゃんや焦凍くんは私にたくさん話し掛けてくれる。しかし、ご飯を食べている間は手を使えなくて、会話は途切れ途切れになる。それでも焦らずに自分のペースでいられるのは、二人がそういう空気を作ってくれているからで。
ヒーロー科の授業の話だったり、インターン先の話だったり。本当は、二人で話したい話題が沢山あるはずなのに、決して私を置いてけぼりにはしない。私が付いていけない話には、私の表情を窺って沢山補足をしてくれる。
そんな二人の優しさに、嬉しさよりも何だか胸が詰まるような苦しさを感じるのは、最低なことだろうか。

こうして一緒に居てくれるのは、とても幸せなことなのに。
それに見合ったものを、私は二人に返せない。

それどころか、こんなにも素敵な二人の邪魔ばかりをしている。


「名前が良ければ、また一緒に食べような。」

食事のトレイを返却して、歩き出す私の隣に立った焦凍くんがそう穏やかに口にする。
まるで今日のあの時間がとても嬉しかったとでも言うように、口元を少しだけ緩めた彼が柔らかく微笑んでいて。
痛いぐらいに波打つ心臓は、押し殺したはずの気持ちをいとも簡単に蘇らせる。


私は、焦凍くんのことが好きだ。
姉のことを特別に想う、彼のことが好きなのだ。


そんな想いを胸のうちに秘めながら、彼の言葉に頷いた。



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -